2017年9月26日

Lacan の教えにおける la jouissance phallique について

哲学を専攻する或る人が la jouissance phallique[ファロス悦]の概念に関して問うていると,Facebook で話題になっていました.10月01日の東京ラカン塾の特別集中講義でも触れる論題ですから,予備的に論じておきましょう.

以前から再三強調しているように,Lacan の教えは精神分析を純粋に – すなわち,非経験論的に – 基礎づけることに存します.したがって,その文脈を無視して,哲学,社会学,文学,精神病理学,心理学などを専攻する人々が彼れらの専門領域における諸問題を論ずるために Lacan 用語を恣意的にいじくりまわしても,所詮,見当違いに見当違いを重ねて行くだけです.

精神分析の目標は,「精神分析家である」者を養成することです.Lacan は,« le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même »[精神分析家は,己れ自身によってのみ資格認定される](Autres écrits, p.243) と言いました.この「己れ自身」は,精神分析の終結において達成される欲望昇華としての「分析家の欲望」です.


分析家の言説の右上の座  其こにおいて精神分析の終結が形式化されるところの S(Ⱥ) の座(欲望のグラフを参照)– に位置することになる主体 $ が,それです.



では,なぜ欲望昇華が精神分析の終結を成すのか?それは,「性関係は無い」[ il n'y a pas de rapport sexuel ] からです.

「性関係は無い」とは,Freud がリビード発達の最終的な成熟段階において実現するものとして想定した Primat des Phallus は決して達成されることはない;そも,そのような phallus は不可能だ,ということです.

いかにも,Freud は,『トーテムとタブー』において,神話的な Urvater を源初に想定しています.Urvater は,女すべてを独占していた.つまり,女たちは誰も,Urvater 以外の者と性交しようとはしなかった.なぜなら,Urvater は,その全能の phallus [ le phallus tout-puissant ] を以て,女すべての欲望を満足させることができていたからです.

「性関係は無い」とは,そのような phallus tout-puissant は不可能だ,ということです.

家父長主義者であり,それがゆえに「父殺し」のモチーフに執着していた Freud は,Urvater は息子たちによって殺害された,という神話を改めて創作しました.

それに対して Lacan は,Urvater と彼の phallus tout-puissant は不可能であるということを強調するために,「父は,息子たちに殺されたのではなく,源初において既に去勢されており,死んでいたのだ」と述べています(cf. Séminaire XVII, 1970年2月18日の講義).

Freud による「無意識の発見」は,無意識のなかに der unzerstörbare Wunsch[破壊不可能な欲望]を見出した,ということでもあります.破壊不可能であるのは,zielgehemmt である  目標に到達することに関して制止されている ‒ がゆえに,満足不可能であるからです.その目標とは,性関係の実現における jouissance[悦]です.欲望が破壊不可能であり,目標制止されているのも,「性関係は無い」からであり,性関係の実現において得られる悦は不可能であるからです.

また,Todestrieb[死の本能]の観点から言えば,Sexualtrieb[性本能]はその本質において死の本能であり,それゆえ,性関係の実現における究極的な悦は,死の悦にほかなりません.本能ないし欲望にとって究極的な目標への到達が制止されているとすれば,それは,その目標は実は死であるからです.

さて,では,精神分析は,満足不可能な欲望にふりまわされるがままであり,その終結を規定することはできないのか? Freud はそう考えていました.しかし,Lacan は,精神分析家の資格認定の問題との関連において,精神分析の終結について問い続けました.

そして,Freud は昇華の概念を精神分析の終結と関連づけることがなかったのに対して,Lacan は,zielgehemmt であるにもかかわらず達成され得る或る種の悦としての昇華を以て,精神分析の終結を規定しました.

昇華について,Lacan は,Séminaire X の1963年3月13日の講義において,こう言っています:

seul l'amour ‒ l'amour-sublimation ‒ permet à la jouissance de condescendre au désir.
愛 ‒ 欲望の昇華としての愛 ‒ のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする.
そこにおいて Lacan が「愛」と言うとき,それは,Freud が Verliebtheit として論じた narzisstisch な愛ではなく,キリスト教で ἀγάπη と呼ばれる愛です.つまり,「神は愛である」と言われるときの「愛」です.

また,Séminaire XX の1973年1月16日の講義において,Lacan はこう言っています: 

c'est bien au regard de ce par-être [ para-être ] que ce qui supplée à ce rapport [ sexuel ] en tant qu'inexistent ... c'est bien dans ce rapport au par-être [ para-être ] que nous devons articuler ce qui y supplée, c'est à savoir précisément l'amour. 
ex-sistence としての存在 (Seyn) の傍らに対して ‒ との関係において ‒,我々は,現存しないものとしての性関係を代補するもの ‒ すなわち,まさしく,愛 ‒ を,構造づけねばならない.

Lacan が Séminaire XX において suppléance[代補]を持ち出したのは欲望の昇華を捉え直すためだった,ということがわかります.

昇華とは,「性関係は無い」の代補としての愛の悦です.ただし,昇華の悦においては,如何なる客体もかかわってきません.なぜなら,Lacan が公式化しているように,「愛とは,持っていないものを与えることである」[ l'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas ] (Ecrits, p.618) からです.

何らかの存在事象としての客体をもってして得られる悦は,代理満足 [ Ersatzbefriedigung ] としての剰余悦 [ plus-de-jouir ] にすぎません.それは,ἀγάπη の悦ではありません.

昇華の悦は,客体 a における剰余悦ではなく,而して,S(Ⱥ) における愛の悦です.精神分析の終結は,そこに存します.

さて,Lacan の教えの以上のような展望において,Lacan が Séminaire XX において論じていた jouissance phallique[ファロス悦]と jouissance féminine[女性悦]は如何なるものか?

1958/60年の書『Daniel Lagache の発表に関する論評』(Ecrits, p.683) において,Lacan は,Freud が精神分析の行き詰まりとして取り出した男における männlicher Protest[男性的抗議]と女における Penisneid[ペニス妬み]の関数として,男の欲望を Φ(a) と形式化し,女の欲望を Ⱥ(φ) と形式化しています.

それらふたつの学素 [ mathème ] と,Séminaire XX の1973年3月13日の講義において提示されている図:


とを見比べてみましょう.

男の欲望の学素 Φ(a) における Φ は,性別の公式 [ formules de sexuation ] におけるのと同様に,phallus の学素です.

ただし,それは,不可能な性関係の不可能な phallus ではありません. その不可能な phallus は,不可能な Urvater の不可能な phallus です.それを Lacan は,性別の公式においては,ØΦ(x) と形式化しています(Lacan は,式 Φ(xの上に線を引いています).一般的な形式論理学においては記号 Ø(ないし,式の上の線分)は否定の記号ですが,性別の公式においては,式 ØΦ(x) は式 Φ(x) の単なる否定ではありません.そうではなく,fonction paternelle[父の機能,関数]としての ØΦ(x) が形式化しているのは,Urvater の不可能な phallus  です.

それに対して,男の欲望の学素 Φ(a) と性別の公式の ("xΦ(x) とにおける Φ は,jouissance phallique においてかかわる phallus です.

1973年3月13日の講義の図の $ a は,男の欲望の学素 Φ(a) に相当します.その場合,$ は欲望の学素です.

同じ事態は,四つの言説のなかの大学の言説の構造において見出されます:


そこにおいて,S2Φ に相当します.後で見るように,hysterica の言説が其こにおいて「女である」が存在論的に規定されるところの言説であるのに対して,大学の言説は,強迫神経症者の言説として,其こにおいて「男である」が存在論的に規定されるところの言説です.

男の欲望の学素 Φ(a) と関連づけられた大学の言説における客体 a は,性欲対象としての身体(ないし,その部分)または fetish であり,あるいは,そこにおいて得られる剰余悦です.

feminism において論ぜられる女の身体の sexual objectification[性欲対象化]の構造は,その本質において,大学の言説によって形式化されます.また,いわゆる heteronormativity も,大学の言説の構造により条件づけられています.

Lacan が jouissance phallique と呼ぶものは,その本質においては,大学の言説の構造のなかに位置づけられる客体 a における剰余悦にほかなりません.

それに対して,Penisneid としての女の欲望の学素 Ⱥ(φ) は,1973年3月13日の講義の図の La → Φ に相当します.さらに,その事態は,hysterica の言説の構造のなかに位置づけられます:


女の欲望の学素 Ⱥ(φ) において Ⱥ により形式化されている欲望は hysterica の言説においては $ であり,phallus は S1 です.

hysterica の言説は Penisneid の構造を形式化しています.そこにおいては,欲望 $ phallus S1 をもってしても決して満足することができません.言い換えれば,hysterica の言説は frigidité[冷感症]の構造の形式化です.

大学の言説においても hysterica の言説においても,精神分析の終結としての欲望の昇華は達せられません.では,如何にして?

1973年3月13日の講義の図で女の側に置かれた La S(Ⱥ) に注目しましょう.先に見たように,S(Ⱥ) は精神分析の終結としての昇華の学素です. 

つまり,Lacan が Séminaires XIX および XX において 「jouissance phallique とは異なる悦」または「phallus の彼方の悦」として jouissance féminine を論ずるとき Lacan が思考しているのは昇華の悦の可能性である,ということが示唆されています.

特に Séminaire XX において,Lacan は Hadewijch, sainte Thérèse d'Avila, saint Jean de la croix などの mystique[神秘経験者]に言及しています.彼れらの経験する悦は,phallus の彼方における神の愛の悦です.

では,なぜ昇華の悦は女の側に位置づけられているのか?それは,大学の言説の構造における客体 a であることをみづから引き受けることが昇華の出発点を成しているからです.


しかし,女性たちのうち少なからぬ割合は,男性パートナーとの関係において,sexual objectification の構造としての大学の言説における客体 a であることを余儀なくされているだけです.必ずしもみづから引き受けているわけではありません.

それに対して,神秘経験者たちは,神のしもべとして,四つの言説の構造において奴隷の座である右上の座に客体 a として自身を位置づけます.そして,客体 a としての自身を廃棄します.それによって,剰余悦の彼方の悦としての神の愛の悦に到達します.

そのことを,Lacan は,1973年6月に Séminaire XX を終えた後,同年11月に Séminaire XXI を始めるまでの間に書いただろう Télévision のテクストにおいて,神秘経験者の代わりに,聖人に関する命題の形で,こう公式化しています : « le saint est le rebut de la jouissance »[聖人は,悦の屑である](Autres écrits, p.520).

そして,Lacan が神秘経験者や聖人について論ずるのは,単なる神学的な関心のゆえにではありません.あくまで,昇華に存する精神分析の終結と,そこにおいて到達される精神分析家の存在論的様態とについて思考するためです.

以上から察せられるように,Lacan が jouissance phallique と jouissance féminine について論じたとしても,それは,何らかの社会学的ないし倫理的な規範としてではありません.Lacan の関心が向けられているのは,精神分析の終結を成す欲望昇華としての悦へです.

剰余悦の一様態としての jouissance phallique にとどまることは,sexual objectification の構造のなかにとどまることであり,パートナーとの真に人間的な交わりに入らないままでいることです.精神分析を経験しない男性たちの大多数は,そこにとどまっています.ただ,jouissance phallique への固着は,父の名の代用として機能する限りにおいて,精神病の発症を予防し得ます.逆に言えば,jouissance phallique への非常に強固な固着が見出される者においては,それが精神病発症に対する防御として形成された可能性を考慮する必要があります.

他方,Lacan が phallus の彼方における jouissance féminine と呼んだものは,必ずしも女性特有のものではありません.むしろ,そこに達するためには,女性は,単なる剰余悦の一様態にすぎない仮面舞踏会としての女性性 ‒「女らしさ」の規範として女性たちに押しつけられているもの ‒ を捨てねばなりません.結局,Lacan は,女性論を講じているという誤解を避けるために,jouissance féminine に言及することはやめ,先ほども見たように,聖人について論ずることになります.


Lacan の性別の公式は,性別に関して,biological sex と sociological gender 以外に,ontological sexuation をも考慮する必要があることを示唆しています.というより,「transgender である」または「queer である」という実存的事実は,biological sex でも sociological gender でもない観点 ‒ ontological sexuation の観点 ‒ を要請します.さもなければ,彼れらは,biological sex しか知らない者たちからは「あなたは,自身の性別の認知に関して障害があるのだから,認知療法を受けなさい」と強制されることになり,sociological gender しか認めようとしない者たちからは「transgender は性差別の固定化を助長するだけだ」と非難されるだけになってしまうでしょう.

ontological sexuation においては,生物学的な性別にかかわりなく,自我理想としての phallus Φ との同一化が「男である」を規定します.そして,そのことにより公式化される式 ("xΦ(x) によって,男の集合が規定されます.

それに対して,「女である」を規定し得る自我理想はありません.「女である」は,生物学的な性別にかかわりなく,「男である」のではない,男の集合に属していない,ということです.「女である」は,性別の公式においては,Ø("xΦ(x) として apophatique[否定的]にしか表現され得ません.

その意味において,「女である」は「queer である」へ還元されます.「女である」の gender identity は無いのです 「queer である」の gender identity が無いのと同じく.

「女である」の gender identity は無い ‒ そのことを Lacan は,聴衆を驚かせる形で,« La femme n'existe pas » と公式化しました.「女は現存しない」と邦訳しても,その公式の意義は捉えられません.定冠詞 La が大文字とイタリック体で強調されているのは,否定が,femme[女]という語にではなく,集合名詞を作る定冠詞 la にかかっていることを示すためです.

それに対して,("xΦ(x) によって規定される男の集合は現存します.それは,不可能な Urvater の代理としては patriarchalism[家父長主義]を条件づけ,ひとつの「すべて」としては政治的全体主義を条件づけます.家父長主義と全体主義の本質は,phallofascism に存します.

歴史的には,「男らしさ」は,あらゆる社会において positive な特質として称揚されてきました.しかし,今や,それは,sexism を始めとするあらゆる社会学的差別と政治的全体主義体制の本質的な要因として,批判されることになります.家父長主義者と全体主義者が如何に激しく抵抗しようとも.

男性の精神分析の過程は,自我理想 phallus Φ との同一化を分解し,剰余悦 a への固着を解消することの存します.その際,いわゆる männlicher Protest[男性的抗議]が抵抗として生じますが,それは,それまで覆い隠されてきた去勢不安があらわになってきたことに対する反応です.目標は,去勢不安を緩和ないし除去することではなく,而して,去勢不安に耐えることができるようになることです.そのとき,支えになるのは,ἀγάπη としての愛です.それに支えられて,昇華された欲望としての分析家の欲望にみづから成り得たとき,精神分析の経験は終結します.

また,より根本的には,女性が Penisneid から自由になる必要があります.なぜなら,子において「男である」を規定する自我理想 phallus Φ との同一化を生ぜしめるのは,母の Penisneid であるからです.

では,女性が Penisneid から解放されるためには?精神分析以外に何か有効な方途を我々は有しているでしょうか?

最後に,父性について.父性は,従来,patriarchalism[家父長主義]や paternalism[権威的介入]との関連においてしか論ぜられてきませんでした ‒ 特に,キリスト教神学以外の文脈においては.

しかし,父性は,家父長主義や paternalism とともに批判され,破壊されてしまえばよいものではありません.欲望昇華としての愛は,本質的には,神の愛です.そして,神は父なる神です.ですから,最終的に肝腎なのは,ἀγάπη としての父性です.そのような父性を思い浮かべにくい人は,新約聖書のルカ福音書15章11-32節の「放蕩息子の喩え」を読んでみてください.そこにおいて描かれている父は,愛のゆえに,如何なる罪人をも包容し,その罪を赦し,永遠の命へと復活させてくれる父なる神の喩えです.ἀγάπη とは,そのような愛です.

非キリスト教文化圏の日本社会では,そのような愛は母性愛だろう,と思われるかもしれません.しかし,母親がそのような愛を以て支える機能を果たし得るためには,彼女自身が彼女の父親の愛によってあらかじめ支えられている必要があります.

母の機能は,signifiant の宝庫としての他の場処 [ le lieu de l'Autre ] に帰せられます.そして,その場処には,欠如の穴が開いています.不可能な phallus が欠けていることによる穴です.その穴を,Lacan は学素 Ⱥ によって形式化します.それは,母の欲望の穴です.

その穴をどう埋め合わせるか,それが問題です.そのために,さまざまな様態の剰余悦が動員されます.しかし,本当の解決は,父性的な愛 ἀγάπη によって,その穴を,その口が開いたままの状態で,支えることです.他の場処の側から見ると,欲望の昇華はそのことに存する,とも言えます.

父性と男性性とは,当然ながら,区別する必要があります.男性性に対する批判とともに父性を忘却してしまうことのないよう,留意する必要があります.

小笠原晋也

2017年9月25日

"Comfort women" statues as symptom of Wiederholungszwang of Japanese revisionism



Photo downloaded from the Facebook page of the “Comfort Women” Justice Coalition

Another nightmare for the Japanese government and its supporters : another memorial of "comfort women" was unveiled on the 22nd October 2017 in San Francisco. "This would be the first 'comfort women' statue in a major U.S. city", says the Washington Post.

As a Lacanian psychoanalyst, I would say that this international multiplication of the symbol of Japanese war crime committed in WW II is exactly the symptom of Wiederholungszwang (compulsion of repetition) in function of Verdrängung (repression) of culpability on the part of Japanese people.

As far as there are Japanese negationists and revisionists who will not recognize as such atrocities the Japanese Imperial Army committed in Korea, China and Southeast Asia, that nightmarish symptom will not cease to be written (ne pas cesser de s'écrire, as Lacan formulated for definition of "necessary").

There is no help for that, because there are few psychoanalysts in Japan. 

Or if there are few psychoanalysts in Japan, it is because Japanese people prefer sleeping in their dreams idealizing their country. Their favorite proverb says : "Don't wake up a sleeping child".

Luke S. Ogasawara

2017年9月10日

Deux concepts distincts du réel (le réel en tant que ce qui revient toujours à la même place et le réel en tant qu’impossible) et la structure tétradique essentielle dans l’enseignement de Lacan

Deux concepts distincts du réel (le réel en tant que ce qui revient toujours à la même place et le réel en tant qu’impossible) et la structure tétradique essentielle dans l’enseignement de Lacan


Luc S. Ogasawara


Dans la séance du 10 janvier 1978 du Séminaire XXV Le moment de conclure, Lacan dit ceci :

« Nous avons la suggéstion que le réel ne cesse pas de s’écrire. C’est bien par l’écriture que se produit le forçage [ entendons : Wiederholungszwang ]. Ça s’écrit, tout de même, le réel. Car il faut le dire : comment le réel apparaîtrait-il s’il ne s’écrivait pas ? ».

Cette proposition : « le réel ne cesse pas de s’écrire » est apparemment en contradiction avec la définition lacanienne du réel selon laquelle le réel est l’impossible (cf. Séminaire XVI), lequel impossible est ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire (cf. Séminaire XX).

Faut-il conclure de là qu’il y a dans l’enseignement de Lacan deux concepts distincts du réel ? Je crois que oui :

1) le réel en tant que ce qui ne cesse pas de s’écrire ;

2) le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire.

Et ces deux concepts du réel, nous pouvons les retrouver, tous les deux, dans le premier paragraphe du premier écrit des Écrits de Lacan :

« Notre recherche nous a mené à ce point de reconnaître que l’automatisme de répétition (Wiederholungszwang) prend son principe dans ce que nous avons appelé l’insistance de la chaîne signifiante. Cette notion elle-même, nous l’avons dégagée comme corrélative de l’ex-sistence (soit : de la place excentrique) où il nous faut situer le sujet de l’inconscient » (Écrits, p.11).


Le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire


D’abord, l’ex-sistence dans son écrit Réponse au commentaire de Jean Hyppolite sur la « Verneinung » de Freud, Lacan utilise le verbe « ek-sister » (Écrits, p.392) écrit de façon plus fidèle aux termes heideggériens d’« ek-sistieren » et d’« Ek-sistenz » est la localité (Ortschaft) topologique du Sein (être) que Heidegger barre avec une croix (cf. Zur Seinsfrage, Gesamtausgabe 9, p.411) :


Je crois que c’est à partir de ce Sein (Sein barré) que Lacan invente le mathème du sujet barré $ qui formalise le sujet en tant que son être est ontologiquement impossible puisque la localité de l’être et le lieu de l’étant sont séparés l’un de l’autre par la coupure ontologique que Heidegger appelle différence ontologique.

Ainsi, la localité ex-sistente de l’être (l’être barré) dans la terminologie lacanienne : le manque-à-être du sujet constitue le réel en tant qu’impossible, c’est-à-dire le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire.

Ce quelque chose cette lettre qui ne cesse pas de ne pas s’écrire, qu’est-ce que c’est ? C’est le phallus du rapport sexuel qu’il n’y a pas.

Freud suppose qu’au bout du développement libidinal on devrait atteindre à la maturité du stade génital où se réaliserait la jouissance génitale sous le primat du phallus. La formule lacanienne du « il n’y a pas de rapport sexuel » veut dire qu’un tel phallus est impossible.

Quand Lacan écrit dans les formules de sexuation ($x) ØΦ(x[ il ex-siste x tel que non Φ(x) ] ou Ø($xØΦ(x[ il n’ex-siste pas x tel que non Φ(x) ], ce phallus ØΦ n’est pas une simple négation du Φ ‒ le phallus en tant qu’idéal du moi masculin ‒ de la formule ("x) Φ(x), mais le phallus ex-sistent et impossible du Père châtré et mort dès l’origine.

Je préfère formaliser ce phallus impossible par le mathème de φ barré : φ


Le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s’écrire, c’est ce phallus impossible du rapport sexuel impossible.


Le réel en tant que ce qui ne cesse pas de s’écrire


Et puis, l’autre concept du réel, Lacan dit qu’il l’a trouvé dans les symptômes d’« automatisme de répétition » (Wiederholungszwang). C’est de ce réel qu’il s’agit quand Lacan formule que « ce qui n’est pas venu au jour du symbolique [ c’est-à-dire ce qui est forclos ] apparaît dans le réel » (Écrits, p.388) ou que « le réel est ce qui revient toujours à la même place » (cf. Séminaire III) ou, enfin, que « le réel ne cesse pas de s’écrire ». Ce réel qui relève non pas de l’impossible, mais du nécessaire, c’est le réel du symptôme de Wiederholungszwang.

Dans la psychanalyse, tout symptôme digne de ce nom est du réel ou « un bout de réel » comme Lacan le dit dans le Séminaire XXIII en tant que ce qui ne cesse pas de s’écrire dans son Wiederholungszwang.

C’est ainsi que Lacan dit par exemple :

« ce fait que quelque chose ne cesse pas de s’écrire entendez par là que ça se répète, que c’est toujours le même symptôme, que ça tombe toujours dans le même godant » (la séance du 19 février 1974, Séminaire XXI) ;

« De l’inconscient, tout Un en tant qu’il sustente le signifiant en quoi l’inconscient consiste , tout Un est susceptible de s’écrire d’une lettre. (...) c’est cela que le symptôme opère sauvagement. Ce qui ne cesse pas de s’écrire dans le symptôme relève de là. (...) L’important est la référence à l’écriture. La répétition du symptôme (...), c’est écriture » (la séance du 21 janvier 1975, Séminaire XXII) ;

« l’analysant ne connaît pas sa vérité, puisqu’il ne peut la dire. Ce que j’ai défini comme ne cessant pas de s’écrire , à savoir le sinthome, y est un obstacle » (la séance du 19 avril 1977, Séminaire XXIV).


Les deux réels et la structure tétradique du parlêtre


A partir de notre distinction explicite des deux concepts du réel, nous pouvons voir comment dans l’enseignement de Lacan la structure tétradique non pas la triadique du symbolique, de l’imaginaire et du réel est plus essentielle qu’en apparence, et comment surtout le quatrième terme S(Ⱥ) y est le plus fondamental et le plus crucial.

C’est dans le noeud borroméen à quatre que Lacan nous montre le plus clairement la distinction du réel en tant qu’ex-sistence et du réel en tant que symptôme :






Dans la topologie du cross-cap, le réel en tant qu’ex-sistence est représenté par la surface möbiusienne (rouge), tandis que le réel en tant que symptôme est représenté par le bord (vert) du trou du symbolique (jaune). La surface discoïde (bleu) représente l’ordre de l’imaginaire.


Dans le schéma R, ce que Lacan appelle « champ de la réalité » (Écrits, p.552) représente le réel en tant que symptôme, tandis que le réel en tant qu’ex-sistence se situe au point S qui est « le sujet dans sa réalité, comme telle forclose dans le système et n’entrant que sous le mode du mort dans le jeu des signifiants » (ibid., p.551). Ainsi, il s’agit là aussi de la structure tétradique du symbolique, de l’imaginaire, du réel et du symptôme.



Le schéma de l’aliénation représente la structure du discours de l’université. Le savoir S2 fait la surface discoïde (bleu), la vérité de l’être du sujet $ la surface möbiusienne (rouge), tandis que le Père S1 tué par ses fils S2 fait le trou (jaune) de la coupure et l’objet a le bord (vert) de la coupure.

C’est dans cette place du bord du trou que l’objet a est la « cause matérielle » (Écrits, p.875) du désir et qu’il est le « réel qui se présente en ceci qu’il revient toujours à la même place » (la séance du 1er juillet 1959, Séminaire VI).

Et ce que Lacan appelle « littoral » dans son écrit Lituraterre, c’est cette lettre qui ne cesse pas de s’écrire à la place du bord qui à la fois sépare l’un de l’autre et lie l’un à l’autre de façon borroméenne le lieu consistant de l’Autre et la localité ex-sistente de l’être du sujet.

Et enfin, quand Lacan dit dans la séance du 16 novembre 1976 du Séminaire XXIV qu’« un corps du symbolique, c’est lalangue », cette lalangue est ce qui fait le bord (vert) du trou du symbolique (jaune).


Qu’est-ce que le signifiant Un ?


Dans cette perspective, j’esseyerai de déchiffrer ce célèbre passage du Séminaire XX Encore où Lacan parle de l’« essaim de signifiants » (la séance du 26 juin 1973).

En écrivant ceci :

S1 (S1 (S1 (S1 ( S1 S2 ))))

Lacan dit que « vous pouvez en mettre ici autant que vous voudrez. C’est S1 [ essaim ] dont je parle. Le signifiant comme maître, à savoir en tant qu’il assure l’unité de cette copulation du sujet avec le savoir, c’est cela, le signifiant maître. (...) le signifiant Un n’est pas un signifiant quelconque. Il est l’ordre signifiant en tant qu’il s’instaure de l’enveloppement par où toute la chaîne subsiste ».

D’abord, il faut rejeter le préjugé selon lequel Lacan parlerait là du discours du maître :


Non, ce n’est pas du discours du maître, mais plutôt du discours de l’université en tant que structure de l’aliénation, qu’il s’agit là, comme le suggère cette expression : « l’unité de la copulation du sujet avec le savoir ». Cela désigne cette structure de « division entre le savoir et la vérité » (Écrits, p.856), laquelle vérité est la vérité de l’être du sujet $ :


Et cette division-là n’est pas une simple dissociation, mais le savoir S2 et le sujet $ sont aussi liés l’un à l’autre de façon borroméenne par l’intermédiaire du S1 et du petit a :


Ce qui permet le nouage borroméen entre le savoir S2 et le sujet $ est ce quatrième rond de ficelle quatrième après ceux du réel (rouge), du symbolique (jaune) et de l’imaginaire (bleu) qui correspond au bord de la coupure et qui est dans ce cas-là celui de l’objet a (vert).

L’expression : « l’enveloppement par où toute la chaîne subsiste » nous renvoie à ce passage de la Subversion du sujet où Lacan définit la fonction essentielle du S(Ⱥ) comme ceci :

« Pour nous, nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule, d’être d’abord un signifiant. Notre définition du signifiant (il n’y en a pas d’autre) est : un signifiant, c’est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant. Ce signifiant S(Ⱥ) sera donc le signifiant pour quoi tous les autres signifiants représentent le sujet : c’est dire que faute de ce signifiant S(Ⱥ), tous les autres ne représenteraient rien. Puisque rien n’est représenté que pour. Or la batterie des signifiants, en tant qu’elle est, étant par là même complète, ce signifiant S(Ⱥ) ne peut être qu’un trait qui se trace de son cercle sans pouvoir y être compté. Symbolisable par l’inhérence d’un ( − 1 ) à l’ensemble des signifiants. » (Écrits, p.819).


                l’ensemble des signifiants                                 le cross-cap en tant qu’asphère


Ainsi, « l’enveloppement par où toute la chaîne subsiste » désigne cette place du S(Ⱥ) qui est aussi le bord (vert) de la coupure ontologique :


Si Lacan dit dans ce passage de l’Encore que « le signifiant Un n’est pas un signifiant quelconque », ce « signifiant Un » est le S(Ⱥ) : le signifiant exceptionnel et fondamental pour la structure apophatico-ontologique du parlêtre.

Mais quand Lacan écrit un nombre indéfini de S1 qui se répète comme ceci :

S1 (S1 (S1 (S1 ( S1 S2 ))))

cette notion d’« essaim » nous suggère le Wiederholongszwang. La place où a lieu cette « insistance de la chaîne signifiante » (Écrits, p.11), c’est la place du S(Ⱥ), c’est-à-dire le bord (vert) du trou du symbolique (jaune). Et dans notre structure de l’aliénation, ce qui se répète à la place du S(Ⱥ), est l’objet a qui est le signifiant du symptôme.


Savoir faire avec le symptôme


Lacan formule que « savoir faire avec son symptôme, c’est la fin de l’analyse » (la séance du 16 novembre 1976, Séminaire XXIV).

C’est peut-être pour expliquer ce « savoir faire avec », que Lacan dit dans la séance du 10 janvier 1978 ceci :

« la fin de l’analyse, c’est quand on a deux fois tourné en rond [ autour du trou, selon son bord ], c’est-à-dire retrouvé ce dont on est prisonnier. [ Ou ] recommencer deux fois le tournage en rond, c’est pas certain que ce soit nécessaire. Il suffit qu’on voie ce dont on est captif. Et l’inconscient est la face de réel de ce dont on est empêtré. (...) L’analyse ne consiste pas à ce qu’on soit libéré de ses sinthomes (...). L’analyse consiste à ce qu’on sache pourquoi on en est empêtré (...). L’analyse consiste à se rendre compte de pourquoi on a ces sinthomes ».

Donc le « savoir faire avec le symptôme » (ou les sinthomes) consiste à se rendre compte de la raison de l’automatisme de répétition (Wiederholungszwang) pour pouvoir se dépêtrer de la contrainte (Zwang) qu’impose l’objet a qui se répète et qui ne cesse pas de s’écrire à la place du S(Ⱥ).

Quand Lacan dit dans la séance du 3 juin 1964 du Séminaire XI que « ce dont le sujet a à se libérer, c’est cet effet aphanisique du signifiant binaire », cela veut dire aussi qu la fin de l’analyse devrait consister à se libérer quand même Lacan dit là « se libérer » du Zwang de l’objet a qui se répète à la place du « signifiant binaire » qui est en fait la place du S(Ⱥ).

Pourquoi ces répétition et multiplication compulsives du petit a à la place du S(Ⱥ) ? C’est pour donner de la consistance au bord du trou du désir de l’Ⱥutre et pour maintenir sa consistance qui permettrait que le trou reste ouvert. Sinon nous ne pourrions pas souffrir l’angoisse devant ce trou béant de la mort qui serait toujours prêt à se fermer sur nous-mêmes en nous engloutissant.

La libération de la contrainte symptomatique se fait bien sûr par le moyen du discours de l’analyste où le petit a à la place du semblant peut être débarrassé par l’interprétation analytique.


A la fin de l’analyse, ce sera le désir de l’analyste $ à la place du S(Ⱥ) qui sait supporter l’angoisse de la mort. C’est bien sûr par notre propre analyse que nous atteignons à ce désir sublimé que Lacan appelle désir de l’analyste. C’est un aspect essentiel du « savoir faire avec le symptôme ».


Le logique pur et le S(Ⱥ)


Nous sommes amenés à reconnaître de plus en plus la place fondamentale et cruciale de ce que Lacan a formalisé avec le mathème S(Ⱥ) dans la structure tétradique du parlêtre.

Je dirai que le S(Ⱥ) le bord de la coupure ontologique, la place de l’autre ou de la jouissance dans les quatre discours et le quatrième rond dans le noeud borroméen à quatre est l’alpha et l’oméga de tout l’enseignement de Lacan : l’alpha puisque la coupure du S(Ⱥ) est « la coupure inaugurale » (Autres écrits, p.404) qui conditionne la possibilité de la structure du langage c’est-à-dire la structure apophatico-ontologique du parlêtre , et l’oméga puisque Lacan inscrit dans le S(Ⱥ) « le terme de l’analyse » (la séance du 16 juin 1966, le Séminaire XII).

Quand Lacan dit dans la quatrième page de la couverture de ses Écrits que « l’inconscient relève du logique pur, autrement dit du signifiant », ce « logique pur » est le S(Ⱥ) tel que nous avons vu sa fonction fondamentale et essentielle dans la structure du parlêtre.

Il est très probable que par ce « logique pur », Lacan pense à l’article de Heidegger Logos (Heraklit, Fragment 50) qu’il a traduit en français par lui-même en 1955.

Heidegger dit là que « Das Wort ὁ Λόγος nennt Jenes, das alles Anwesende ins Anwesen versammelt und darin vorliegen läßt » [ Le mot ὁ Λόγος nomme ce qui rassemble toute étant-présent dans l’être-présent et qui l’y laisse être présent ].

C’est le verbe « versammeln » [ rassembler ] qui attire là notre attention, puisqu’il désigne exactement la fonction du S(Ⱥ) qui forme l’ensemble des signifiants.

Le mathème S(Ⱥ) formalise bien le Λόγος héraclitien qui, en tant que bord de la coupure ontologique entre l’être et l’étant, est la condition de la possibilité de la structure apophatico-ontologique du parlêtre.

Ce qui est remarquable dans l’enseignement de Lacan, c’est qu’il n’a pas cessé de s’interroger sur ce qui donne de la consistance au bord de la coupure ontologique. La lettre en tant que trait unaire entaillé sur quelque chose de solide, ou lalangue en tant que matérialité vocale ex-sistente au sens nous avons de telles réponses que Lacan donne à ses propres interrogation sur la coupure ontologique fondamentale.



A Tokyo, le 18 juillet 2017