2017年9月4日

Radiophonie 読解 (1) 否定存在論とそのトポロジー

Lacan の1970年のテクス Radiophonie 1973年のテクスト Télévision ,一方はラジオ放送のために,他方はテレビ放送のために,執筆されました.ともに問答形式を取っています.Lacan は,質問者の問いに答えます.ただし,即興的にではなく,問いも答えもあらかじめ書として準備されています.

両テクストを見比べると,それぞれの文脈の相違が見て取れます.Radiophonie では,当時 intelligentsia のなかで流行していた「構造主義」の観点から,精神分析と科学ないし学知との連関について問われています.それに対して,19685月から5年半後の時点に位置する Télévision では,jouissance[悦]の不可能性の観点から,精神分析の倫理について問われています.

さて,Radiophonie における七つの問いを列挙しましょう:

問い I : あなたは Écrits のなかでこう断定しています : Freud は,そうとは理解せぬままに,Saussure の研究と Cercle de Prague の研究とを先取りしている.その点について説明していただけますか?

問い II : 言語学と精神分析と民族学は「構造」の概念を共有していますが,その概念から出発して,精神分析と民族学と言語学とをいつの日にか統合するひとつの共通の場の言表を想像し得ないでしょうか?

問い III : 言語学の面においては Jakobson が,精神分析の面においてはあなたが,métaphore métonymie に特権を与えています.それこそが,精神分析と言語学との間の可能な連節のひとつではないでしょうか?

問い IV : あなたは,こう言います – 無意識の発見は第二のコペルニクス的転回へ行き着く,と.何において無意識はあらゆる認識論をくつがえす鍵概念なのでしょうか?

問い V : 無意識の発見による第二のコペルニクス的転回の影響は,如何なるものでしょうか
a) 科学の面において;
b) 哲学の面において;
c) 特に,マルクス主義の面において,さらには,共産主義の面において?

問い VI : 何において知と真理とは相容れないのでしょうか?

問い VII : 統治する,教育する,精神分析する それら三つは,遂行不可能な企てである.しかるに,精神分析家は,あらゆる言説に対して永続的に異議をとなえることにこだわらねばならない 特に,精神分析家の言説に対して.精神分析家は,知 特に,精神分析の知 にこだわるが,定義からして,精神分析家はそれに対して異議をとなえる.この矛盾を,あなたは如何に解決しますか,しませんか?「不可能」の位置づけは?不可能こそが実在なのでしょうか?


概観してみると,最初の問いから第四の問いに至るまで,Lacan はもっぱら,言語存在 [ parlêtre ] としての人間の否定存在論的構造について論じていることに,気づきます.


否定存在論とそのトポロジー


否定存在論 [ l’ontologie apophatique ] は,Heidegger の生前に発表された諸著作から Lacan が抽出してきた Heidegger の思考の粋です.それによって Lacan は,精神分析を純粋に 非経験論的に 基礎づけようと試みます.精神分析の純粋基礎としての否定存在論は,Lacan の教え全体の中心的な主題です.

先に,否定存在論について概説しておきましょう.

哲学史上,伝統的には,存在論は « ἐπιστήμη ἣ θεωρεῖ τὸ ὂν ᾗ ὂν καὶ τὰ τούτῳ ὑπάρχοντα καθ᾽ αὑτό »[存在事象としての存在事象,ならびに,存在事象としての存在事象にそれ自体により備わっているものを,観念する学](Aristoteles, Metaphysica IV) と定義されます.

τὸ ὂν ᾗ ὂν, ens qua ens, 存在事象としての存在事象,あるいは,存在事象そのもの [ dans Seiende als solches ] それが,伝統的な存在論においてかかわる存在です.それは,最も未規定的な ὑποκείμενον であり,あるいは,最も根本的な ὄντως ὄν です.いずれにせよ,そこにおいて,存在は存在事象的な実体 [ substance ] です.

そのような伝統的な存在論は,ですから,métaphysique substantialiste[実体論的形而上学]と呼ばれます.それは,現象の下に存有する物自体を捉えようとします.ついでながら,その対立概念は,批判的形而上学 [ métaphysique critique ] です.それは,認識において経験に先立つものは何かを問います.

哲学史上伝統的な実体論的存在論とは異なり,否定存在論においては,存在はひとつの存在事象的実体ではありません.そのことを端的に表しているのが,Heidegger のこの表記です:


それを Heidegger は,1941-1942年に執筆しながらも生前には発表しなかったテクスト Das Ereignis のなかで既に用いていますが,生前に発表したテクストのなかでは,1955年の Zur Seinsfrage[存在の問いのために]において初めて披露しています.

そこにおいて Heidegger はこう言っています : Sein[存在]という語の「バツ印による抹消は,まずは単純にこのことを防止する すなわち,『存在』は,まずはそれ自体で存立しており,その次にやっとときおり人間のところへやって来る相対事象だ,と表象することを」.つまり,存在を実体化させないためのひとつの工夫です.

我々としては,いちいちバツ印で抹消するのは技術的に面倒ですから,より簡単にこう表記します : Sein, être, 存在

この抹消された存在 Sein の表記から,Lacan は「抹消された主体」の学素 $ を考案したのだろう,とわたしは推定しています.直接的な証拠は何もありませんが,Lacan が学素 $ を初めて用いたのは1958年のことですから,少なくとも時間的順序の上で不可能ではありません.

ついでに言っておくと,Sein としての主体を形式化する学素 $ は,同時に,Hegel が「自己意識は欲望である」と言っているように,欲望の学素でもあります.

否定存在論において問われる存在 Sein は,存在事象的な実体ではありません.しかし,単に「存在は,存在事象ではないとすれば,単なる無である」と思念するだけでは,形而上学的な行き詰まりに陥るだけです.

そうならないために Heidegger はどうしたか?物理学から手がかりを得たのかどうかは不明ですが,彼は,存在を「場」として考えました.「空間」と言ってもよいでしょう.

実際,Heidegger は「時遊空間」[ Zeit-Spiel-Raum ] という表現を使っています.日常のドイツ語で Zeitraum は「ある長さを持つものとして表象される時間」です.物理学で言う「時空」ないし「時空間」は,Raumzeit 英語では spacetime です.Spielraum は,何らかの機械装置のふたつの可動部分の間の隙間としての「遊び」です.この「隙間」が,切れ目ないし穴としての存在の Zeit-Spiel-Raum を示唆しています.

存在を場として考えるとすれば,それはひとつの topologie を要請します.そこで Lacan は,数学的トポロジーで「投射平面」[ projective plane ] と呼ばれる閉曲面を持ち出します.

投射平面は,相互に異質なふたつの曲面から成ります:ひとつの円板(または,それに位相同型的 [ homeomorphic ] な曲面:例えば,穴の開いた球)とひとつの Möbius strip と.両者のエッジを同一化することにより投射平面が得られます.


投射平面は,三次元ユークリッド空間へ埋め込む [ embed ] ことはできません.はめ込み [ immersion ] のしかたは複数あります.そのうちのひとつが cross-cap です.


cross-cap は,部分的に細いペンチでつままれた球またはタマゴのような形をしています.つままれた部分を表す線分のところで面の交叉 (crossing) が起きているように見えますが,それは,はめ込みの artefact にすぎません.言うなれば「偽交線」です.

Möbius strip がそうであるように,投射平面には表裏ないし内外の区別がありません (surface unilatère, one-sided surface). cross-cap の偽交線のところで,曲面の「表」ないし「外側」は「裏」ないし「内側」へ連続的に移行します.つまり,法線ヴェクトルの向きが逆転します (non-orientable).


cross-cap という奇妙な名は,交線を有する帽子のようなその形状に由来します.

我々としては,次のように提示された cross-cap を説明のために利用します:


 球状でありながら球ではないその形のゆえに,Lacan cross-cap asphère とも呼んでいます.« a- » は否定の接頭辞ですが,客 a « a » でもあります.


この図では,投射平面を構成するふたつの曲面は水色(円板状曲面:円板と位相同型的)と赤(メビウス曲面 : Möbius strip と位相同型的)とに色分けして表示されています.両者を分離する切れ目のエッジは,緑色の輪で表されています.切れ目のエッジによって囲まれる穴は,黄色で色づけされています.

直観的に把握することはできませんが,赤色の曲面は,三次元ユークリッド空間内に埋め込まれると,Möbius strip になります.その場合,緑色のエッジは,Lacan huit intérieur[内巻きの8]と呼ぶ曲線を描くことになります:


しかし,より正確に言うと,cross-cap において三次元ユークリッド空間内に描かれているのは,円板に位相同型的な曲面(水色)だけです.


赤いメビウス曲面は,言うなれば,緑色の切れ目の線の「なか」に あるいは,その「背後」に 隠されてしまっており,そのものとして描かれ得ません.つまり,メビウス曲面は,三次元ユークリッド空間に対して 
ek-sistent[解脱実存的]であり,そして,そこにおいてそれとして表象されることが不可能であることにおいて Lacan の定義によれば réel[実在的]です.

かくして,我々は,否定存在論における存在論的構造と投射平面の topologie との間に次のような対応を措定することができます:


否定存在論における存在論的構造は,Heidegger の用語で言うなら,存在事象と,存在と,両者の間の存在論的差異 [ die ontologische Differenz ] とから成っています.それら三項のうち最も重要なもの 文字どおり「要」であるもの は,存在論的差異です.存在論的差異の切れ目が存在事象と存在とを分離しつつ結合していることに,存在論的構造は存します.

Lacan が好んで用いた coupure[切れ目],division[分裂,裂け目],fente[割れ目,裂け目],faille[断層,亀裂]などのにもとづいて,我々は,Heidegger の言う「存在論的差異」を「存在論的切れ目」ないし「存在論的裂け目」と呼ぶこともできるでしょう.

投射平面を構成するふたつの曲面のうち,円板状曲面(水色)は,存在事象そのもの全体に対応します.三次元ユークリッド空間に対して ek-sistent であるメビウス曲面(赤)は,存在の解脱実存的在処に対応します.両者の間の切れ目のエッジ(緑)は,存在事象と存在とを分離しつつ結合する存在論的差異です.そのエッジによって囲まれる穴(黄)は,Heidegger の言う Lichtung[朗場]です.

以上のような存在論的構造を Lacan の教えのなかに導入するために,我々はまず『主体のくつがえし』の次の一節 (Écrits, p.819) を読みましょう:

我々としては,何を記S(Ⱥ) まずは徴示素であることによって 連節するかから出発しよう.我々による徴示素の定義(それ以外の定義は無い)は,こうである:ひとつの徴示素とは,もうひとつのほかの徴示素に対して主体を代表するものである.徴示素 S(Ⱥ) は,したがって,其れに対してそれ以外の徴示素すべてが主体を代表するところの徴示素となる.すなわち,もし仮に徴示素 S(Ⱥ) が無ければ,それ以外の徴示素は何も代表しないだろう ひとつの徴示素が何かを代表するのはもうひとつのほかの徴示素に対してのみであるから.ところで,徴示素の集合は,それがひとつの集合として存在する限りにおいて,そのこと自体によって完全であるから,徴示S(Ⱥ) は,徴示素の集合のなかに算入されることはできず,而して,徴示素の集合の円によって描かれる線であるにほかならない.あるいは,そのことは,徴示素の集合のなかに ( − 1 ) が内在的であることによって記号化可能である.

以上のことは,このように図化され得ます:


上の引用の冒頭で Lacan « nous partirons de ce que le sigle S(Ⱥ) articule » と言っています動詞 articuler を「連節する」と訳しましたがこの articuler 構造の構成要素をひとつの全体としての構造へ繋ぎ合わせることですですからstructurer構造化すると言い換えることもできます

学素 S(Ⱥ) が表しているものは,構造化の可能性の条件であり,構造の要です.S(Ⱥ) の機能が無ければ,構造は成り立ち得ない S(Ⱥ) は,そのような最重要のものです.

S(Ⱥ) は,存在論的差異の切れ目 存在論的切れ目 に相当します.Lacan はそれを le logique pur[純粋ロゴス]とも呼んでいます.

ひとつの徴示素によってもうひとつのほかの徴示素 S(Ⱥ) に対して代表される主体は,存在の解脱実存的な在処を表すメビウス曲面(赤)に対応します.

水色の円板状曲面は,徴示素の集合としての他の場処に対応します.

さらに,Saussure の学素 signifiant / signifié との対応も明らかになります:


Saussure により形式化された signifiant / signifié の構造は,Lacan の教えにおいては単に言語学的なものではありません.1957年の書 L’instance de la lettre dans l’inconscient において既に,Lacan は,signifié の座は「主体の座」(Écrits, p.516) であることを強調しています.

そもそも,Lacan の言語学への関心を動機づけたのは,単純に言語学が人間科学の最先端であったからでも,Lévi-Strauss に発する structuralisme の流行のゆえでもなく,而して,Heidegger 1946年のこの命題にもとづいてです:「言語は,存在の家である」.

言語は,主体の存在が住まう家であり,その家の構造 S/s において,主体の存在 $ の座は signifié の座である.それが Lacan の基本的な着想です.

Radiophonie (Autres écrits, p.426) における命題 : « l’inconscient s’articule de ce qui de l’être vient au dire »[無意識は,存在から(存在のうちで,存在について)言へ来たるものによって構造化される]も,「言語は存在の家である」および「無意識は,ひとつの言語として構造化されている」と等価的です.Lacan の用語 « le dire » は,Heidegger の用語 « das Sagen » に由来しているはずです.そして後者は,否定存在論的構造そのものを指しています.

さて,学素 S/s において,signifiant signifié との間の線分は,単純な区分線ではなく,而して,言語の構造の可能性の条件である根本的な切れ目です.その切れ目がつけられてこそ,言語は可能になります.それは,存在論的切れ目としての S(Ⱥ) に対応しています.

四つの言説の構造との対応は,次のようになります:


そこにおいて,抹消された phallus φ は,不可能な phallus, すなわち,書かれぬことをやめぬファロス [ le phallus qui ne cesse pas de ne pas s’écrire ] の学素です.その不可能性において,この抹消された phallus と抹消された存在 Sein とは,トポロジックには,ともに,解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente ] を成しています.あるいは,むしろ,解脱実存的な在処は,否定存在論の観点からは Sein と表記され,不可能な悦の倫理学の観点からは学素 φ を以て形式化される,と言う方がより適切でしょう.この不可能な phallus のゆえに,Lacan は「性関係は無い」と公式化します.

さらに,四つ輪のボロメオ結びとの対応関係も提示しておきましょう:



四つの輪の色は,それぞれ,cross-cap の各要素の色と対応させてあります.

以上の対応を,以下の表にまとめておきましょう:

Les correspondances entre la topologie apophatico-ontologique,
les quatre discours et le noeud borroméen à quatre
否定存在論的トポロジーと四つ言説とボロメオ結びとの間の対応
  

以上のように Lacan が否定存在論的構造をトポロジックにさまざまに展開して見せたのは,我々のためにそれを文字どおり「触知」可能にするためです.

否定存在論は,何か目新しい特別な「世界観」ではありません.人間が言語に住まう限りにおいて,すなわち,人間存在が本有的に言語存在である限りにおいて,否定存在論こそが最も根本的なものです.Heidegger Geschichte des Seyns[存在の史実]と呼ぶ過程は,その全体において,否定存在論的構造のなかで展開されます.

そして,以下にも説明するように,Heidegger Platon ἰδέα にその出発点を見る形而上学は,その全体において,Lacan aliénation[異状]と呼ぶ構造のなかに位置づけられます.確かに,Foucault が「古典主義時代」と呼ぶ17-18世紀においては,否定存在論的構造にとって決定的な存在論的切れ目(裂け目)は,ほぼ完全に覆い隠されていました.しかし,それに続く現代 すなわち,19世紀から現在に至るまで においては,存在論的切れ目(裂け目)はさまざまな形で姿を現しています.Freud による無意識の発見も,Saussure による言語の構造の形式化も,Heidegger による存在の意味の問いも,さらには,我々にとってなじみ深い19世紀以降の芸術諸作品も,存在論的裂け目の現動化の効果であると言えます.

我々は,現に,否定存在論的構造のなかに住まい,そこにおいて生きています.しかし,誰もがそのことにはっきりと気づいているわけではありません.特に,存在論的切れ目 S(Ⱥ) と存在の解脱実存的在処 φ とについて主題的に問おうとする者は,今までのところ,Heidegger または Lacan からそのことを学んだ者に限られています.

Lacan は,精神分析を生物学化することも心理学化することも,精神分析において本当にかかわっていることを覆い隠してしまうことになる,と早くから気づいていました.精神分析の基礎を,生物学(脳科学)にも心理学にも社会学にも求めないとすれば,どこに求めるか?そう問うなかで Lacan は,まず1930年代に Hegel の『精神の現象学』に出会い,次いで1940年代に Heidegger の『存在と時間』に出会います.

そこから Lacan は,精神分析の純粋基礎にかかわる重要なことを学びます 精神分析の経験は,主体に関する知と真理との分離 [ Trennung des Wissens und der Wahrheit ] にもとづく dialektisch な現象学的過程に存する;精神分析においてかかわる真理は,主体の存在の真理であり,無意識的な欲望とは主体の存在の真理にほかならない;精神分析は,主体の存在の真理の実践的な現象学に存する;精神分析の目標は,「主体の存在の真理が自身を示現しようとするがままに自身を示現してくる」ことを引き受け,その真理に従順であるよう実存様態が変化することを受け入れることに存する.

精神分析がそのようなものであり得るための純粋基礎を,Lacan は,我々が否定存在論と名づける存在論的構造に求めました.冒頭にも既に述べたように,彼の教え全体が精神分析の純粋基礎としての否定存在論を主題として展開されています.

以上のことを確認したところでRadiophonie テクストの読解に取りかかりましょう.

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