2017年9月26日

Lacan の教えにおける la jouissance phallique について

哲学を専攻する或る人が la jouissance phallique[ファロス悦]の概念に関して問うていると,Facebook で話題になっていました.10月01日の東京ラカン塾の特別集中講義でも触れる論題ですから,予備的に論じておきましょう.

以前から再三強調しているように,Lacan の教えは精神分析を純粋に – すなわち,非経験論的に – 基礎づけることに存します.したがって,その文脈を無視して,哲学,社会学,文学,精神病理学,心理学などを専攻する人々が彼れらの専門領域における諸問題を論ずるために Lacan 用語を恣意的にいじくりまわしても,所詮,見当違いに見当違いを重ねて行くだけです.

精神分析の目標は,「精神分析家である」者を養成することです.Lacan は,« le psychanalyste ne s'autorise que de lui-même »[精神分析家は,己れ自身によってのみ資格認定される](Autres écrits, p.243) と言いました.この「己れ自身」は,精神分析の終結において達成される欲望昇華としての「分析家の欲望」です.


分析家の言説の右上の座  其こにおいて精神分析の終結が形式化されるところの S(Ⱥ) の座(欲望のグラフを参照)– に位置することになる主体 $ が,それです.



では,なぜ欲望昇華が精神分析の終結を成すのか?それは,「性関係は無い」[ il n'y a pas de rapport sexuel ] からです.

「性関係は無い」とは,Freud がリビード発達の最終的な成熟段階において実現するものとして想定した Primat des Phallus は決して達成されることはない;そも,そのような phallus は不可能だ,ということです.

いかにも,Freud は,『トーテムとタブー』において,神話的な Urvater を源初に想定しています.Urvater は,女すべてを独占していた.つまり,女たちは誰も,Urvater 以外の者と性交しようとはしなかった.なぜなら,Urvater は,その全能の phallus [ le phallus tout-puissant ] を以て,女すべての欲望を満足させることができていたからです.

「性関係は無い」とは,そのような phallus tout-puissant は不可能だ,ということです.

家父長主義者であり,それがゆえに「父殺し」のモチーフに執着していた Freud は,Urvater は息子たちによって殺害された,という神話を改めて創作しました.

それに対して Lacan は,Urvater と彼の phallus tout-puissant は不可能であるということを強調するために,「父は,息子たちに殺されたのではなく,源初において既に去勢されており,死んでいたのだ」と述べています(cf. Séminaire XVII, 1970年2月18日の講義).

Freud による「無意識の発見」は,無意識のなかに der unzerstörbare Wunsch[破壊不可能な欲望]を見出した,ということでもあります.破壊不可能であるのは,zielgehemmt である  目標に到達することに関して制止されている ‒ がゆえに,満足不可能であるからです.その目標とは,性関係の実現における jouissance[悦]です.欲望が破壊不可能であり,目標制止されているのも,「性関係は無い」からであり,性関係の実現において得られる悦は不可能であるからです.

また,Todestrieb[死の本能]の観点から言えば,Sexualtrieb[性本能]はその本質において死の本能であり,それゆえ,性関係の実現における究極的な悦は,死の悦にほかなりません.本能ないし欲望にとって究極的な目標への到達が制止されているとすれば,それは,その目標は実は死であるからです.

さて,では,精神分析は,満足不可能な欲望にふりまわされるがままであり,その終結を規定することはできないのか? Freud はそう考えていました.しかし,Lacan は,精神分析家の資格認定の問題との関連において,精神分析の終結について問い続けました.

そして,Freud は昇華の概念を精神分析の終結と関連づけることがなかったのに対して,Lacan は,zielgehemmt であるにもかかわらず達成され得る或る種の悦としての昇華を以て,精神分析の終結を規定しました.

昇華について,Lacan は,Séminaire X の1963年3月13日の講義において,こう言っています:

seul l'amour ‒ l'amour-sublimation ‒ permet à la jouissance de condescendre au désir.
愛 ‒ 欲望の昇華としての愛 ‒ のみが,悦が欲望に応じてやることを可能にする.
そこにおいて Lacan が「愛」と言うとき,それは,Freud が Verliebtheit として論じた narzisstisch な愛ではなく,キリスト教で ἀγάπη と呼ばれる愛です.つまり,「神は愛である」と言われるときの「愛」です.

また,Séminaire XX の1973年1月16日の講義において,Lacan はこう言っています: 

c'est bien au regard de ce par-être [ para-être ] que ce qui supplée à ce rapport [ sexuel ] en tant qu'inexistent ... c'est bien dans ce rapport au par-être [ para-être ] que nous devons articuler ce qui y supplée, c'est à savoir précisément l'amour. 
ex-sistence としての存在 (Seyn) の傍らに対して ‒ との関係において ‒,我々は,現存しないものとしての性関係を代補するもの ‒ すなわち,まさしく,愛 ‒ を,構造づけねばならない.

Lacan が Séminaire XX において suppléance[代補]を持ち出したのは欲望の昇華を捉え直すためだった,ということがわかります.

昇華とは,「性関係は無い」の代補としての愛の悦です.ただし,昇華の悦においては,如何なる客体もかかわってきません.なぜなら,Lacan が公式化しているように,「愛とは,持っていないものを与えることである」[ l'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas ] (Ecrits, p.618) からです.

何らかの存在事象としての客体をもってして得られる悦は,代理満足 [ Ersatzbefriedigung ] としての剰余悦 [ plus-de-jouir ] にすぎません.それは,ἀγάπη の悦ではありません.

昇華の悦は,客体 a における剰余悦ではなく,而して,S(Ⱥ) における愛の悦です.精神分析の終結は,そこに存します.

さて,Lacan の教えの以上のような展望において,Lacan が Séminaire XX において論じていた jouissance phallique[ファロス悦]と jouissance féminine[女性悦]は如何なるものか?

1958/60年の書『Daniel Lagache の発表に関する論評』(Ecrits, p.683) において,Lacan は,Freud が精神分析の行き詰まりとして取り出した男における männlicher Protest[男性的抗議]と女における Penisneid[ペニス妬み]の関数として,男の欲望を Φ(a) と形式化し,女の欲望を Ⱥ(φ) と形式化しています.

それらふたつの学素 [ mathème ] と,Séminaire XX の1973年3月13日の講義において提示されている図:


とを見比べてみましょう.

男の欲望の学素 Φ(a) における Φ は,性別の公式 [ formules de sexuation ] におけるのと同様に,phallus の学素です.

ただし,それは,不可能な性関係の不可能な phallus ではありません. その不可能な phallus は,不可能な Urvater の不可能な phallus です.それを Lacan は,性別の公式においては,ØΦ(x) と形式化しています(Lacan は,式 Φ(xの上に線を引いています).一般的な形式論理学においては記号 Ø(ないし,式の上の線分)は否定の記号ですが,性別の公式においては,式 ØΦ(x) は式 Φ(x) の単なる否定ではありません.そうではなく,fonction paternelle[父の機能,関数]としての ØΦ(x) が形式化しているのは,Urvater の不可能な phallus  です.

それに対して,男の欲望の学素 Φ(a) と性別の公式の ("xΦ(x) とにおける Φ は,jouissance phallique においてかかわる phallus です.

1973年3月13日の講義の図の $ a は,男の欲望の学素 Φ(a) に相当します.その場合,$ は欲望の学素です.

同じ事態は,四つの言説のなかの大学の言説の構造において見出されます:


そこにおいて,S2Φ に相当します.後で見るように,hysterica の言説が其こにおいて「女である」が存在論的に規定されるところの言説であるのに対して,大学の言説は,強迫神経症者の言説として,其こにおいて「男である」が存在論的に規定されるところの言説です.

男の欲望の学素 Φ(a) と関連づけられた大学の言説における客体 a は,性欲対象としての身体(ないし,その部分)または fetish であり,あるいは,そこにおいて得られる剰余悦です.

feminism において論ぜられる女の身体の sexual objectification[性欲対象化]の構造は,その本質において,大学の言説によって形式化されます.また,いわゆる heteronormativity も,大学の言説の構造により条件づけられています.

Lacan が jouissance phallique と呼ぶものは,その本質においては,大学の言説の構造のなかに位置づけられる客体 a における剰余悦にほかなりません.

それに対して,Penisneid としての女の欲望の学素 Ⱥ(φ) は,1973年3月13日の講義の図の La → Φ に相当します.さらに,その事態は,hysterica の言説の構造のなかに位置づけられます:


女の欲望の学素 Ⱥ(φ) において Ⱥ により形式化されている欲望は hysterica の言説においては $ であり,phallus は S1 です.

hysterica の言説は Penisneid の構造を形式化しています.そこにおいては,欲望 $ phallus S1 をもってしても決して満足することができません.言い換えれば,hysterica の言説は frigidité[冷感症]の構造の形式化です.

大学の言説においても hysterica の言説においても,精神分析の終結としての欲望の昇華は達せられません.では,如何にして?

1973年3月13日の講義の図で女の側に置かれた La S(Ⱥ) に注目しましょう.先に見たように,S(Ⱥ) は精神分析の終結としての昇華の学素です. 

つまり,Lacan が Séminaires XIX および XX において 「jouissance phallique とは異なる悦」または「phallus の彼方の悦」として jouissance féminine を論ずるとき Lacan が思考しているのは昇華の悦の可能性である,ということが示唆されています.

特に Séminaire XX において,Lacan は Hadewijch, sainte Thérèse d'Avila, saint Jean de la croix などの mystique[神秘経験者]に言及しています.彼れらの経験する悦は,phallus の彼方における神の愛の悦です.

では,なぜ昇華の悦は女の側に位置づけられているのか?それは,大学の言説の構造における客体 a であることをみづから引き受けることが昇華の出発点を成しているからです.


しかし,女性たちのうち少なからぬ割合は,男性パートナーとの関係において,sexual objectification の構造としての大学の言説における客体 a であることを余儀なくされているだけです.必ずしもみづから引き受けているわけではありません.

それに対して,神秘経験者たちは,神のしもべとして,四つの言説の構造において奴隷の座である右上の座に客体 a として自身を位置づけます.そして,客体 a としての自身を廃棄します.それによって,剰余悦の彼方の悦としての神の愛の悦に到達します.

そのことを,Lacan は,1973年6月に Séminaire XX を終えた後,同年11月に Séminaire XXI を始めるまでの間に書いただろう Télévision のテクストにおいて,神秘経験者の代わりに,聖人に関する命題の形で,こう公式化しています : « le saint est le rebut de la jouissance »[聖人は,悦の屑である](Autres écrits, p.520).

そして,Lacan が神秘経験者や聖人について論ずるのは,単なる神学的な関心のゆえにではありません.あくまで,昇華に存する精神分析の終結と,そこにおいて到達される精神分析家の存在論的様態とについて思考するためです.

以上から察せられるように,Lacan が jouissance phallique と jouissance féminine について論じたとしても,それは,何らかの社会学的ないし倫理的な規範としてではありません.Lacan の関心が向けられているのは,精神分析の終結を成す欲望昇華としての悦へです.

剰余悦の一様態としての jouissance phallique にとどまることは,sexual objectification の構造のなかにとどまることであり,パートナーとの真に人間的な交わりに入らないままでいることです.精神分析を経験しない男性たちの大多数は,そこにとどまっています.ただ,jouissance phallique への固着は,父の名の代用として機能する限りにおいて,精神病の発症を予防し得ます.逆に言えば,jouissance phallique への非常に強固な固着が見出される者においては,それが精神病発症に対する防御として形成された可能性を考慮する必要があります.

他方,Lacan が phallus の彼方における jouissance féminine と呼んだものは,必ずしも女性特有のものではありません.むしろ,そこに達するためには,女性は,単なる剰余悦の一様態にすぎない仮面舞踏会としての女性性 ‒「女らしさ」の規範として女性たちに押しつけられているもの ‒ を捨てねばなりません.結局,Lacan は,女性論を講じているという誤解を避けるために,jouissance féminine に言及することはやめ,先ほども見たように,聖人について論ずることになります.


Lacan の性別の公式は,性別に関して,biological sex と sociological gender 以外に,ontological sexuation をも考慮する必要があることを示唆しています.というより,「transgender である」または「queer である」という実存的事実は,biological sex でも sociological gender でもない観点 ‒ ontological sexuation の観点 ‒ を要請します.さもなければ,彼れらは,biological sex しか知らない者たちからは「あなたは,自身の性別の認知に関して障害があるのだから,認知療法を受けなさい」と強制されることになり,sociological gender しか認めようとしない者たちからは「transgender は性差別の固定化を助長するだけだ」と非難されるだけになってしまうでしょう.

ontological sexuation においては,生物学的な性別にかかわりなく,自我理想としての phallus Φ との同一化が「男である」を規定します.そして,そのことにより公式化される式 ("xΦ(x) によって,男の集合が規定されます.

それに対して,「女である」を規定し得る自我理想はありません.「女である」は,生物学的な性別にかかわりなく,「男である」のではない,男の集合に属していない,ということです.「女である」は,性別の公式においては,Ø("xΦ(x) として apophatique[否定的]にしか表現され得ません.

その意味において,「女である」は「queer である」へ還元されます.「女である」の gender identity は無いのです 「queer である」の gender identity が無いのと同じく.

「女である」の gender identity は無い ‒ そのことを Lacan は,聴衆を驚かせる形で,« La femme n'existe pas » と公式化しました.「女は現存しない」と邦訳しても,その公式の意義は捉えられません.定冠詞 La が大文字とイタリック体で強調されているのは,否定が,femme[女]という語にではなく,集合名詞を作る定冠詞 la にかかっていることを示すためです.

それに対して,("xΦ(x) によって規定される男の集合は現存します.それは,不可能な Urvater の代理としては patriarchalism[家父長主義]を条件づけ,ひとつの「すべて」としては政治的全体主義を条件づけます.家父長主義と全体主義の本質は,phallofascism に存します.

歴史的には,「男らしさ」は,あらゆる社会において positive な特質として称揚されてきました.しかし,今や,それは,sexism を始めとするあらゆる社会学的差別と政治的全体主義体制の本質的な要因として,批判されることになります.家父長主義者と全体主義者が如何に激しく抵抗しようとも.

男性の精神分析の過程は,自我理想 phallus Φ との同一化を分解し,剰余悦 a への固着を解消することの存します.その際,いわゆる männlicher Protest[男性的抗議]が抵抗として生じますが,それは,それまで覆い隠されてきた去勢不安があらわになってきたことに対する反応です.目標は,去勢不安を緩和ないし除去することではなく,而して,去勢不安に耐えることができるようになることです.そのとき,支えになるのは,ἀγάπη としての愛です.それに支えられて,昇華された欲望としての分析家の欲望にみづから成り得たとき,精神分析の経験は終結します.

また,より根本的には,女性が Penisneid から自由になる必要があります.なぜなら,子において「男である」を規定する自我理想 phallus Φ との同一化を生ぜしめるのは,母の Penisneid であるからです.

では,女性が Penisneid から解放されるためには?精神分析以外に何か有効な方途を我々は有しているでしょうか?

最後に,父性について.父性は,従来,patriarchalism[家父長主義]や paternalism[権威的介入]との関連においてしか論ぜられてきませんでした ‒ 特に,キリスト教神学以外の文脈においては.

しかし,父性は,家父長主義や paternalism とともに批判され,破壊されてしまえばよいものではありません.欲望昇華としての愛は,本質的には,神の愛です.そして,神は父なる神です.ですから,最終的に肝腎なのは,ἀγάπη としての父性です.そのような父性を思い浮かべにくい人は,新約聖書のルカ福音書15章11-32節の「放蕩息子の喩え」を読んでみてください.そこにおいて描かれている父は,愛のゆえに,如何なる罪人をも包容し,その罪を赦し,永遠の命へと復活させてくれる父なる神の喩えです.ἀγάπη とは,そのような愛です.

非キリスト教文化圏の日本社会では,そのような愛は母性愛だろう,と思われるかもしれません.しかし,母親がそのような愛を以て支える機能を果たし得るためには,彼女自身が彼女の父親の愛によってあらかじめ支えられている必要があります.

母の機能は,signifiant の宝庫としての他の場処 [ le lieu de l'Autre ] に帰せられます.そして,その場処には,欠如の穴が開いています.不可能な phallus が欠けていることによる穴です.その穴を,Lacan は学素 Ⱥ によって形式化します.それは,母の欲望の穴です.

その穴をどう埋め合わせるか,それが問題です.そのために,さまざまな様態の剰余悦が動員されます.しかし,本当の解決は,父性的な愛 ἀγάπη によって,その穴を,その口が開いたままの状態で,支えることです.他の場処の側から見ると,欲望の昇華はそのことに存する,とも言えます.

父性と男性性とは,当然ながら,区別する必要があります.男性性に対する批判とともに父性を忘却してしまうことのないよう,留意する必要があります.

小笠原晋也

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