ラカンによる フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方
2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール の まとめ
2019年09月23日,我々は,Sigmund Freud (1856-1939) の死去 80 周年を迎えた.それを記念して,我々は,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール において,Lacan が 1953年09月26日に Roma で行った講演 :「精神分析における ことばの機能 と 言語の場」(通称 ローマ講演)で提起した le retour à Freud[フロィトへの回帰]の意義について,改めて問うた(2019年08月05日付のセミネールの告知).
1950年代,精神分析は,特に 英語圏において 全盛期にあった.第二次世界大戦中に Mitteleuropa から脱出した多数の精神分析家たちは,英国と USA において,精神分析の臨床の裾野を広げた.当時,精神薬理学はやっと誕生したばかりであり,精神医学における治療法の中心を成していたのは,psychotherapy であった.精神分析は,最も本格的な psychotherapy と見なされていた.特に USA では,当時,精神科医のみが精神分析家の資格を取得することができ(USA において 精神分析家の資格認定をする institutes が 医師でない者たちに門戸を開いたのは,やっと 1988 年になってのことである),かつ,精神科医が精神医学界のなかで「出世」するためには,精神分析家の資格を有していることが必須であった.したがって,USA においては,学界のなかで「名誉」ある地位を欲する若い精神科医たちは,皆,教育分析を受け,精神分析家の資格を取った.
しかし,そのような状況は,精神分析を大きく変質させてしまった :「無意識」と「無意識的な思考」の代わりに,「自我」と「感情」が重視され,ユダヤ教の解釈学 Midrash の伝統に根ざした Freud の巧みな「解釈」の代わりに,所与の「意味」の「了解」と 心理学的「共感」に 力点が置かれ,科学的におよそ不可解な「死の本能」は無視され,「自我」の強化 と「性本能」の成熟による「現実適応」が 精神分析の治療目標とされるに至った.要するに,Freud の発見の真の意義は忘れ去られ,精神分析の本来的な可能性について問われることもなかった.
Lacan が「フロィトへの回帰」を彼の教えの標語として掲げたのは,そのような状況においてである.
彼の「フロィトへの回帰」は,単純に Freud のテクストをドイツ語において読み直すことに存するのではなく,しかして,フロィト的な精神分析に内在的な行き詰まりを超克し,「フロィトの彼方」へ —「オィディプス複合の彼方」へ — 歩みを進めることに存する.
重要なのは,Freud による「無意識の発見」の真の意義を捉え直し,かつ,精神分析にその本来的な可能性を与え直すことである.そのために,Lacan は,精神分析を 純粋に — すなわち,非経験論的 かつ 非形而上学的に — 基礎づける作業に取り組む.その際,Lacan にとって本質的に重要な準拠となったのは,Heidegger の Denken des Seyns[存在 の 思考]である.
それによれば,最も源初的であり,最も本来的,本源的であるものを,我々は,Heidegger にならって あるいは Lacan にならって,こう呼ぶことができる:抹消された存在(das durchgekreuzte Sein : Sein, 存在)の穴,あるいは,抹消された主体 (le sujet barré : $) の穴.
「抹消された存在」や「抹消された主体」という表現は,「存在」や「主体」が穴に先立つことを含意してしまうが,それは,その穴が穴として見出されたのが 19 世紀における「形而上学の満了」(die Vollendung der Metaphysik) — そこにおいて,形而上学的な「存在」や「主体」の穴塞ぎの効果はもはや有効ではないことが 露呈される — によってであるからにすぎない.実際には,穴は 穴塞ぎに 先立つ.
その最も源初的であり,最も本来的である穴を,我々は,「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と名づけた.より簡潔には,Lacan の「抹消された主体」の学素 $ を以て,「$ の穴」(le trou du $) と呼ぶのがよいだろう.
我々は,Heidegger が「存在 の歴史」(die Geschichte des Seyns) と呼ぶ現象学的な過程を,次のように要約することができる:
0) la phase archéologique[源初論的位相]: 存在 の歴史の純粋な出発点を成すのは,源初論的孔穴 (le trou archéologique), すなわち,$ の穴 (le trou du $) である.源初において,$ の穴が 開いていた.あるいは,「穴」の代わりに,我々は,創世記 1,02 に見出される「深淵」(ἄβυσσος) という語を用いてもよかろう — それは,「そこから『無からの創造』(creatio ex nihilo) が発するところ」と見なされ得る.すなわち,ἐν ἀρχῇ ἦν ἡ ἄβυσσος[源初に 深淵があった].
最も源初的であり,最も本来的,本源的であるのは,何らかの「実体」ではなく,仏教好きが愛する「無」や「空[くう]」でもなく,而して,穴である.それが,否定存在論の肝要である.
1) la phase métaphysique[形而上学的位相]: 源初論的な $ の穴は,Lacan が学素 S1(le signifiant maître, 支配者徴示素)を以て形式化するものによって,塞がれる.それによって,穴 $ は,書かれないことをやめないもの (ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire) の在所へ排斥され,そこに秘匿される(それが,Freud が Urverdrängung[源初排斥]と呼ぶ事態である).
ただし,穴 $ は,単純に秘匿されてしまったのではなく,穴のエッジに位置づけられる 客体 a [ l'objet a ] によって 代理される.
S1 は,形而上学の歴史においては,Platon の ἰδέα や 存在論の伝統において τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]と見なされる「存在」— すなわち,イデア的なもの,超越論的なもの — である.キリスト教においては,それは,Pascal が Dieu des philosophes et des savants[哲学者と神学者の神]と呼ぶことになる「神」— 形而上学的偶像 — である.精神分析においては,それは,その閉出が精神病の発症の可能性の条件を成すところのものと Lacan が規定する限りにおける「父の名」(le Nom-du-Père) である.
源初論的な $ の穴が S1 によって塞がれることを以て,形而上学の歴史は始まる.
S1 の領域の外側の領域には,S2 が位置づけられる.それは,イデア的 ないし 超越論的な S1(存在論的な存在,das ontologische Sein)に対して,経験論的な存在事象 [ das empirische Seiende ] である.
以上によって,我々は,Lacan が「大学の言説」(le discours de l'université) と名づけた構造を得る.それは,あらゆる形而上学に共通する構造である.
2) la phase eschatologique[終末論的位相]: 源初論的な $ の穴の〈形而上学的な S1 による〉閉塞は,しかし,Michel Foucault が l'âge classique と呼ぶ時代の終り — つまり,フランス革命の前後 — において,科学の言説と資本主義の言説の優位のもとで,破綻する.それにともなって,S1 によって排斥されていた主体 $ は,穴として 現れ出てこようとする(大学の言説から分析家の言説への「進歩」[ progrès ] ).しかし,それに対する激しい抵抗と防御も やまない(分析家の言説から大学の言説への「退行」[ régression ] ).
大学の言説の構造と分析家の言説の構造との間の行ったり来たり — それが,終末論的位相を特徴づける.そのような終末論的位相 — 哲学史においては Nihilismus によって特徴づけられる時代 — を,我々は 今も なお 生きている.
我々にとってかかわる問いは これである:如何に 我々は 源初論的な穴 $ の現出に対して 従順であり得るか? 如何に 我々は 源初論的な穴 $ が我々の Dasein を自有 (ereignen) するがままにすることができ,そして,それによって,我々自身,自有 (Ereignis) と成ることができるか?
我々のセミネールの第 1 回(2019年11月01日)においては,以上のような〈否定存在論 と そのトポロジー〉の概観を提示した.
次いで,夢分析の第二の例として,Freud が『夢解釈』の第 IV 章で分析している ある hysterica の夢 — smoked salmon の夢 — を取り上げた(2019年12月13日).
2020年01月24日,31日,2月07日,14日,21日,28日は,Freud が「子どもが叩かれる」という幻想を分析した論文 Ein Kind wird geschlagen にもとづき,幻想について論じ,続いて,Lacan の 幻想の学素 ( $ ◊ a ) と 欲望のグラフ (le graphe du désir) について論じた.補足 : Freud の邦訳の質の検証.
3 月一ヶ月間は春休みとした.4 月からは,SARS-CoV-2 感染の危険性を考慮して,Zoom Meeting を媒体として 我々のセミネールを継続した.
Lacan が formations de l'inconscient[無意識の成形]と呼ぶところのもの — 夢,言い損ない,し損ない,度忘れ,機知 (Witz), 幻想,症状 — に関する Freud のテクストに返り,それらを再検討することによって,我々は,以下のことを確認し得た:
1) 無意識の成形において Lustgewinn[悦の利得]— その Freud の表現から,Lacan は plus-de-jouir[剰余悦]という用語を作り出した — があるとすれば,それは,無意識の成形が 主体 $ の穴の現出を imaginaire なしかたにおいて表現する限りにおいてである.
2) Freud が精神分析理論の中心に措定する「オィディプス複合」(Ödipuskomplex) の概念は,アリストテレス的目的論にもとづいて,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとしての phallus — 家父長ファロス [ le phallus patriarcal ] — の可能性を包含している.そして,それがゆえに,Freud は,無意識の成形の分析においても 症例の取り扱いについても 不手際をおかしている.Lacan の「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) は,家父長ファロスの可能性の否定である.それによって Lacan は,精神分析の終結を「オィディプス複合の彼方」へ位置づけることができ,Freud が陥った「去勢不安の行き詰まり」を打開することができた.