2020年7月19日

木村佳代子氏の芸術

  Tulip

Tulip (detail)

Bud of Morning Glory
 
 Datura

Datura (detail)
 
 Peony

Peony (detail)
 
Peony
 
 Peony (detail)

 Peony (detail)

Medinilla Magnifica
 
 Medinilla Magnifica (detail)



木村佳代子氏の芸術



2020年07月06日から18日まで Gallery Gyokuei[玉英]で催された彼女の個展 Parallel で 木村佳代子氏の作品を 初めて見た.

Instagram に提示されている彼女の作品の写真に添えられている いくつかの hashtag 付きの単語のなかに見出される 物理学用語 event horizon と ergosphere は,彼女の描く 花 ないし 蕾 は それらの surréalité において black hole を保匿するものである,ということを 示唆している.そして,彼女の作品を実際に見ると感ぜられるが,まさに そのように みごとに描かれている.

我々は,black hole の代わりに,trou apophatico-ontologique[否定存在論的孔穴]と言う.その穴は,彼女の作品において,書かれないこと(描かれないこと)をやめない「死」から,書かれること(描かれること)をやめない「永遠の命」へと 昇華される.そのとき,否定存在論的孔穴は 終末論的にして源初論的な主体 $ の穴として 成起し,そして,そこから出発する「無からの創造」(creatio ex nihilo) として 芸術的創造は 成起する.

Heidegger は 芸術作品について こう言っている : im Werk ist das Geschehnis der Wahrheit des Seins am Werk[芸術作品において,存在の真理の成起が 現動的となっている].書かれないこと(描かれないこと)をやめなかった 存在の真理(主体 $ の真理)は,芸術作品という Dichtung[詩,虚構]において — その fictivité surréelle において — 書かれること(描かれること)をやめないものとして,現動的となる.

木村佳代子氏の作品は,そのことを 我々に 確かに証言している.そこにおいて,花弁たちは,ひとつの あるいは 無数の 裂け目を 美しく 形成する  その(それらの)裂け目こそ,否定存在論的孔穴の現在化である.

木村佳代子氏は,1971 年に 生まれ,1994 年に 東京芸大を卒業し,1999 年に 東京芸大博士課程を満期退学し,その後も,いたって順調に 画家としての芸術人生を歩んできているように見える.しかるに,彼女は,芸大に入る前に,尋常ならざる試練を受けていた:受験を控えた 高校 3 年生の冬,激しい腹痛と不正性器出血が 彼女を襲った.卵巣癌によるものと診断された.17 歳の 少女は,外科手術と 想像を絶する苦しさを伴う化学療法(抗癌剤治療)を 受けた.予後は 決して楽観できるものではなかった.しかし,奇跡的にも,癌の転移や再発は防がれ,完全治癒が得られた.

彼女の描く花の静謐さは,死と無の穴に直面しつつ 不安を耐え抜いた者による 神秘的な昇華の証言である.

2020年7月9日

フロィトの症例の再検討 東京ラカン塾 精神分析 ウェビナー 2020年04-06月

Jean-Auguste-Dominique INGRES (1780-1867)
Oedipe explique l'énigme du sphinx (1808)


この絵の小さな複製が,Berggasse 19 の Freud の診察室の壁に 掛けられていた:

1938年,London への亡命の直前に 撮影された Freud の診察室の様子.寝椅子の向こう側の壁に掛けられたタペストリーの右上の隅のところに Ingres の Oedipus の小さな複製が掛けられているのが見える.


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方

フロィトの症例の再検討




2020年の04月から06月の三ヶ月間,我々は,Zoom Webinar として行われた 東京ラカン塾 精神分析セミネールにおいて,Freud の五大症例 (Dora, Hans, Rattenmann, Wolfsmann, Schreber) のうち,恐怖症の Hans と Hysterie の Dora と 強迫神経症の Rattenmann とを取り上げた.

それらの症例をラカン的観点から再検討するとき,我々は,如何に Ödipuskomplex の概念が Freud の形而上学的な先入観を成しており,そして,如何に それが 精神分析治療を妨げてしまっているかを 見ることができる.

我々は,ラカン的観点から,以下のように要約することができる:

恐怖症においてかかわっているのは,恐ろしい深淵として現れ出てこようとする否定存在論的孔穴を前にしての不安と,それに対する回避と防御の試みである.

Hysterie においてかかわっているのは,「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) の穴としての否定存在論的孔穴を前にして措定される 答え無き 問い :「女性悦 (la jouissance féminine) とは何か?」に対する回答の試みである.

強迫神経症においてかかわっているのは,否定存在論的孔穴が 終末論的な死の穴として現れ出てこようとする運命的瞬間を控えての 際限無き 先のばし (procrastination) の試みである.


Hans I (03/04/2020)


Hans II (17/04/2020)


Hans III (24/04/2020)


Hans IV (15/05/2020)


Dora I (22/05/2020)


Dora II (29/05/2020)


Dora III (05/06/2020)


Dora IV (12/06/2020)


Rattenmann I (19/06/2020)


Rattenmann II (26/06/2020)

2020年7月6日

ラカンによる フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 — 2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネールのまとめ


ラカンによる フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方

2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール の まとめ

 


20190923日,我々は,Sigmund Freud (1856-1939) の死去 80 周年を迎えた.それを記念して,我々は,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール において,Lacan 19530926日に Roma で行った講演 :「精神分析における ことばの機能 と 言語の場」(通称 ローマ講演)で提起した le retour à Freud[フロィトへの回帰]の意義について,改めて問うた(2019年08月05日付のセミネールの告知).

1950年代,精神分析は,特に 英語圏において 全盛期にあった.第二次世界大戦中に Mitteleuropa から脱出した多数の精神分析家たちは,英国と USA において,精神分析の臨床の裾野を広げた.当時,精神薬理学はやっと誕生したばかりであり,精神医学における治療法の中心を成していたのは,psychotherapy であった.精神分析は,最も本格的な psychotherapy と見なされていた.特に USA では,当時,精神科医のみが精神分析家の資格を取得することができ(USA において 精神分析家の資格認定をする institutes が 医師でない者たちに門戸を開いたのは,やっと 1988 年になってのことである),かつ,精神科医が精神医学界のなかで「出世」するためには,精神分析家の資格を有していることが必須であった.したがって,USA においては,学界のなかで「名誉」ある地位を欲する若い精神科医たちは,皆,教育分析を受け,精神分析家の資格を取った.

しかし,そのような状況は,精神分析を大きく変質させてしまった :「無意識」と「無意識的な思考」の代わりに,「自我」と「感情」が重視され,ユダヤ教の解釈学 Midrash の伝統に根ざした Freud の巧みな「解釈」の代わりに,所与の「意味」の「了解」と 心理学的「共感」に 力点が置かれ,科学的におよそ不可解な「死の本能」は無視され,「自我」の強化 と「性本能」の成熟による「現実適応」が 精神分析の治療目標とされるに至った.要するに,Freud の発見の真の意義は忘れ去られ,精神分析の本来的な可能性について問われることもなかった.  

Lacan が「フロィトへの回帰」を彼の教えの標語として掲げたのは,そのような状況においてである.

彼の「フロィトへの回帰」は,単純に Freud のテクストをドイツ語において読み直すことに存するのではなく,しかして,フロィト的な精神分析に内在的な行き詰まりを超克し,「フロィトの彼方」へ 「オィディプス複合の彼方」へ — 歩みを進めることに存する. 

重要なのは,Freud による「無意識の発見」の真の意義を捉え直し,かつ,精神分析にその本来的な可能性を与え直すことである.そのために,Lacan は,精神分析を 純粋に すなわち,非経験論的 かつ 非形而上学的に 基礎づける作業に取り組む.その際,Lacan にとって本質的に重要な準拠となったのは,Heidegger Denken des Seyns存在 思考]である.

それによれば,最も源初的であり,最も本来的,本源的であるものを,我々は,Heidegger にならって あるいは Lacan にならって,こう呼ぶことができる:抹消された存在(das durchgekreuzte Sein : Sein, 存在)の穴,あるいは,抹消された主体 (le sujet barré : $) の穴.

「抹消された存在」や「抹消された主体」という表現は,「存在」や「主体」が穴に先立つことを含意してしまうが,それは,その穴が穴として見出されたのが 19 世紀における「形而上学の満了」(die Vollendung der Metaphysik)  そこにおいて,形而上学的な「存在」や「主体」の穴塞ぎの効果はもはや有効ではないことが 露呈される — によってであるからにすぎない.実際には,穴は 穴塞ぎに 先立つ.

その最も源初的であり,最も本来的である穴を,我々は,「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) と名づけた.より簡潔には,Lacan の「抹消された主体」の学素 $ を以て,「$ の穴」(le trou du $) と呼ぶのがよいだろう.


我々は,Heidegger が「存在 の歴史」(die Geschichte des Seyns) と呼ぶ現象学的な過程を,次のように要約することができる:

0) la phase archéologique[源初論的位相]: 存在 の歴史の純粋な出発点を成すのは,源初論的孔穴 (le trou archéologique), すなわち,$(le trou du $) である.源初において,$ の穴が 開いていた.あるいは,「穴」の代わりに,我々は,創世記 1,02 に見出される「深淵」(ἄβυσσος) という語を用いてもよかろう — それは,「そこから『無からの創造』(creatio ex nihilo) が発するところ」と見なされ得る.すなわち,ἐν ἀρχῇ ἦν ἡ ἄβυσσος[源初に 深淵があった].

最も源初的であり,最も本来的,本源的であるのは,何らかの「実体」ではなく,仏教好きが愛する「無」や「空[くう]」でもなく,而して,穴である.それが,否定存在論の肝要である.



1) la phase métaphysique[形而上学的位相]: 源初論的な $ の穴は,Lacan が学素 S1(le signifiant maître, 支配者徴示素)を以て形式化するものによって,塞がれる.それによって,穴 $ は,書かれないことをやめないもの (ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire) の在所へ排斥され,そこに秘匿される(それが,Freud が Urverdrängung[源初排斥]と呼ぶ事態である).

ただし,穴 $ は,単純に秘匿されてしまったのではなく,穴のエッジに位置づけられる 客体 a [ l'objet a ] によって 代理される.

S1 は,形而上学の歴史においては,Platon の ἰδέα や 存在論の伝統において τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]と見なされる「存在」 すなわち,イデア的なもの,超越論的なもの  である.キリスト教においては,それは,Pascal が Dieu des philosophes et des savants[哲学者と神学者の神]と呼ぶことになる「神」 形而上学的偶像  である.精神分析においては,それは,その閉出が精神病の発症の可能性の条件を成すところのものと Lacan が規定する限りにおける「父の名」(le Nom-du-Père) である.

源初論的な $ の穴が S1 によって塞がれることを以て,形而上学の歴史は始まる.

S1 の領域の外側の領域には,S2 が位置づけられる.それは,イデア的 ないし 超越論的な S1(存在論的な存在,das ontologische Sein)に対して,経験論的な存在事象 [ das empirische Seiende ] である.


以上によって,我々は,Lacan が「大学の言説」(le discours de l'université) と名づけた構造を得る.それは,あらゆる形而上学に共通する構造である.


2) la phase eschatologique[終末論的位相]: 源初論的な $ の穴の〈形而上学的な S1 による〉閉塞は,しかし,Michel Foucault が l'âge classique と呼ぶ時代の終り  つまり,フランス革命の前後 — において,科学の言説と資本主義の言説の優位のもとで,破綻する.それにともなって,S1 によって排斥されていた主体 $ は,穴として 現れ出てこようとする(大学の言説から分析家の言説への「進歩」[ progrès ] )しかし,それに対する激しい抵抗と防御も やまない(分析家の言説から大学の言説への「退行」[ régression ] )

大学の言説の構造と分析家の言説の構造との間の行ったり来たり — それが,終末論的位相を特徴づける.そのような終末論的位相  哲学史においては Nihilismus によって特徴づけられる時代  を,我々は 今も なお 生きている.

我々にとってかかわる問いは これである:如何に 我々は 源初論的な穴 $ の現出に対して 従順であり得るか? 如何に 我々は 源初論的な穴 $ が我々の Dasein を自有 (ereignen) するがままにすることができ,そして,それによって,我々自身,自有 (Ereignis) と成ることができるか?

我々のセミネールの第 1 回(2019年11月01日)においては,以上のような〈否定存在論 と そのトポロジー〉の概観を提示した.

第一学期は,次いで,我々は,Freud が『夢解釈』において最初に提示し,詳細に分析している夢の例 — Freud 自身が 1895年07月23-24日にかけての夜に見た夢 :「Irma の注射」の夢 — を取り上げ,その構造を検討しなおした(2019年11月08日15日29日,補足:母の欲望についてTrimethylamine の化学式と神の名との関連).


次いで,夢分析の第二の例として,Freud が『夢解釈』の第 IV 章で分析している ある hysterica の夢 — smoked salmon の夢 — を取り上げた(2019年12月13日).

第二学期は,まず,2020年01月10日と17日に,目的論 (téléologie) と 終末論 (eschatologie) との違いを説明した.そして,形而上学的なアリストテレス倫理学が目的論的であるのに対して,精神分析の倫理は終末論的であることを説いた.

2020年01月24日31日2月07日14日21日28日は,Freud が「子どもが叩かれる」という幻想を分析した論文 Ein Kind wird geschlagen にもとづき,幻想について論じ,続いて,Lacan の 幻想の学素 ( $a ) と 欲望のグラフ (le graphe du désir) について論じた.補足 : Freud の邦訳の質の検証

3 月一ヶ月間は春休みとした.4 月からは,SARS-CoV-2 感染の危険性を考慮して,Zoom Meeting を媒体として 我々のセミネールを継続した.

第三学期は,Freud の症例の再検討に当てられた.まず,4月03日17日24日5月15日に,恐怖症を呈した 5 歳児 Hans 少年を,次いで,5月22日29日6月05日12日に,ヒステリー症例 Dora を,最後に,6月19日26日に,強迫神経症の症例 Rattenmann を 取り上げた.

Lacan が formations de l'inconscient[無意識の成形]と呼ぶところのもの — 夢,言い損ない,し損ない,度忘れ,機知 (Witz), 幻想,症状 — に関する Freud のテクストに返り,それらを再検討することによって,我々は,以下のことを確認し得た:

1) 無意識の成形において Lustgewinn[悦の利得]— その Freud の表現から,Lacan は plus-de-jouir[剰余悦]という用語を作り出した — があるとすれば,それは,無意識の成形が 主体 $ の穴の現出を imaginaire なしかたにおいて表現する限りにおいてである.

2) Freud が精神分析理論の中心に措定する「オィディプス複合」(Ödipuskomplex) の概念は,アリストテレス的目的論にもとづいて,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとしての phallus — 家父長ファロス [ le phallus patriarcal ] — の可能性を包含している.そして,それがゆえに,Freud は,無意識の成形の分析においても 症例の取り扱いについても 不手際をおかしている.Lacan の「性関係は無い」(il n'y a pas de rapport sexuel) は,家父長ファロスの可能性の否定である.それによって Lacan は,精神分析の終結を「オィディプス複合の彼方」へ位置づけることができ,Freud が陥った「去勢不安の行き詰まり」を打開することができた.