2019年12月2日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (5)

René Magritte (1898-1967), La lunette d'approche (1963), the Menil Collection, Houston

« Le fantasme est la fenêtre sur le réel » (Lacan, Autres écrits, p.254)

 

2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (5)


日時 : 2019年12月06日(金)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室
参加費無料,事前申込不要

前回は,Irma の注射の夢 の再解釈について 若干の補足を行い,そして,夢に関する Freud の基本命題 :「夢は 願望成就である」について,ラカン的な観点から説明を行いました.

今回は,『夢解釈』第 IV 章で取り上げられている「機知に富んだ肉屋夫人」の「smoked salmon の夢」の ラカン的な再解釈を試みます.その際,Lacan が La direction de la cure et les principes de son pouvoir[治療の指針 と 治療の可能の原理]のなかで この夢について行っている再解釈 (Ecrits, pp.620-642) も紹介します.

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「夢は 願望成就である」とは 如何なることか?


『夢解釈』の第 II 章で Irma の注射の夢を解釈し終えた Freud は,「夢は 願望成就である」(der Traum ist eine Wunscherfüllung) という命題 — 精神分析の基本的な諸命題のうちで,おそらく最も有名な命題 — を措定します.ただし,第 IV 章の最後において,その命題を より正確な形において 提示します :「夢は,排斥された願望の 偽装された成就である」(der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches).

Freud は,Wunsch[願望]という語を用い,Begierde[欲望]という語は用いません — Hegel は,自己意識 [ das Selbstbewußtsein ] を定義するために,何のためらいも無く,Begierde[欲望]という語を用いていますが.

Wunsch[願望]と Begierde[欲望]との違いは,日本語の「願望」と「欲望」との違いと ほぼ重なり合います — Begierde[欲望]は 公然と表明することがためらわれる(羞恥を惹起するがゆえに)内容のものであるのに対して,Wunsch[願望]には そのような羞恥心は伴いません.

Freud が Begierde[欲望]という語を用いるのを控えたとすれば,それは,多分,Queen Victoria (1819-1901, 在位 1837-1901) の時代にヨーロッパ全体で支配的であった保守的な(しかして 偽善的な)道徳が 彼に染みついていたせいでしょう.Lacan は,そのような偽善性から自由でしたから,Wunsch に相当するような souhait や voeu は用いず,平然と désir[欲望]と言います.

また,Lacan は,désir[欲望]という語によって,単純に Freud の Wunsch を翻訳するだけでなく,Freud の言う Trieb[本能]を捉え直そうとします — Trieb[本能]という語は,Freud 自身,「Trieb は,心理学的なものと生物学的なものとの境界概念である」と言っているように,どうしても生物学的な意味合いを伴います.それは,勿論,Lacan にとっては望ましくないことです — Lacan は,精神分析を,心理学にも生物学にもよらずに,純粋に基礎づけようとしますから.

ついでながら,なぜ Hegel は自己意識 (das Selbstbewußtsein) を Begierde[欲望]と規定するのか?それは,精神の現象学の過程においては,自己意識は,知と真理との分裂 (die Trennung des Wissens und der Wahrheit) を包含しているからです.知と物との等合 (adaequatio rei et intellectus) はスコラ的な「真理」の定義ですが,自己意識においては,この adaequatio がまだ達成されておらず,分裂の裂け目が口を開いています.この裂け目(差異)こそ,Hegel が Begierde[欲望]と呼んだものです.この欲望は,裂け目を埋め塞ぎ得るだろう絶対知(真理と等合的となった知)を達成することを目標とする「精神の現象学」の弁証法的過程の 原動力となります.

そのような Hegel の téléologique[目的論的]な想定を,Lacan は退けます.知と真理との分裂の克服としての絶対知は 不可能である(書かれないことをやめない)— なぜなら,「性関係は無い」から;つまり,源初論的な裂け目を埋め塞ぐもの(それを 絶対知 と呼ぼうと phallus と呼ぼうと)は 不可能である(書かれないことをやめない)から.

それゆえ,「欲望の弁証法」(la dialectique du désir) は,téléologique[目的論的]な完成(欲望の満足)を以て終結するのではなく,而して,eschatologique[終末論的]な「欲望の穴の成起」に存する終結へ至ります — それが,欲望の昇華です.

夢は,排斥された願望の 偽装された成就である [ der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches ]. つまり,我々が夢で経験するイメージや光景は,何らかの〈排斥された〉欲望の「成就」を表しているが,ただし,それは,「偽装」された形においてである.

「偽装された」と訳されているドイツ語 verkleidet は,動詞 verkleiden[偽装する,扮装する,仮装する]の過去分詞です.どのように「偽装」するのか?このような場合,ドイツ語は とても雄弁です.verkleiden の語根 Kleid は「衣服,衣類」です.その動詞 kleiden は「服を着せる」です.つまり,裸体を布で覆う ことです.接頭辞 ver- は,この場合,「偽る,ごまかす」を表します.したがって,「偽装する」とは,本来的な「むき出し」の状態を 覆い(ヴェール,voile)で 覆い隠し (voiler), 偽ることです.しかし,覆い隠しつつも,何らかの痕跡によって表します — 隠しつつ表し,表しつつ隠しています.しかも,覆い隠された真理は,必ず,暴露 (dévoiler) されます —「隠されているものは,必ず,顕わになる」(Mt 10,26 ; Mc 4,22 ; Lc 8,17) と Jesus が言っているように.

他方,欲望の Erfüllung[成就]とは 如何なることか ? erfüllen という語は füllen[満たす]に由来しており,füllen は voll[英語の full に相当]と語源的に関連しています.erfüllen も「満たす,いっぱいにする」です.では,「欲望を erfüllen する」とは,欲望の穴ないし裂け目を埋め満たすことなのか?



確かに,欲望の弁証法は,hysterica の欲望不満足から出発して,欲望を満たす(満足させる)方向へ動いて行きます.しかし,大学の言説の構造において,欲望は「性関係は無い」を経験します — つまり,欲望の穴を phallus Φ で満たすことは不可能であることを,欲望は経験します.そして,そこから,欲望の Erfüllung の動きは,最終的に,分析家の言説の構造における「欲望の昇華」へ至ります.



その「欲望の昇華」は,欲望の穴を何らかの存在事象を以て埋め満たすことを放棄し,欲望の穴を 穴そのものとして 支え,そして,その穴の開口を前にして,無と死と罪の不安に耐え得るようになることに存します.

改めて Irma の注射の夢を振り返ってみるなら,そこにおいて,如何に,排斥された欲望の成就は 偽装された形において 描き出されているか?

排斥されていた欲望の穴は,無の穴,死の穴,罪の穴 としての 否定存在論的孔穴です.排斥されたものは,回帰してきます.否定存在論的孔穴は,大きく開かれた Irma の口 として回帰し,現れてきています.

如何に偽装されているか?源初論的な深淵そのものではなく,ひとりの人間の口という形に偽装されています.

後から気づいたことを補足すると,この「偽装」(Verkleidung) に関しては,我々は,Irma の注射の夢のもうひとつの場面に注目することができます — すなわち,若い同僚医師 Leopold が Irma の胸部を打診する場面です.その際,Leopold は,通常 そうするように Irma の衣服を脱がすことなく,彼女が着衣であるままで,打診します.そして,Freud は,打診によって感知されるはずの感覚(耳で感じ取られる反響音と,患者の身体に接触させている指に伝わってくる振動と)を「着衣にもかかわらず (trotz des Kleides), Leopold と同様に感じ取っている」ということになっています.ところが,この「着衣にもかかわらず」(trotz des Kleides) という要素に関して連想しようとするとき,Freud は,大きく開いた Irma の口の image に関してと同様に,強い抵抗を覚えます.つまり,entkleiden[衣服を脱がせる]も entdecken[覆いを取り去る]もしたくない 何か,verkleiden[偽装する]のままにしておきたい 何か が そこにおいてかかわっていることが,示唆されています.



夢は,排斥された欲望の 偽装された成就である [ der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches ]. 排斥された欲望は,回帰してきます — 否定存在論的孔穴の開口 S(Ⱥ) として.しかし,夢においては — のみならず,幻想においても,症状においても — その裂口は,imaginaire なものというヴェールによって覆われることによって,偽装されます.その imaginaire なものは,夢や幻想におけるように,image としての事象性であることもあれば,hysterica の身体症状におけるように,身体的な事象性であることもあります.

Lacan は,幻想 ( $aは「実在性へ面する窓」[ la fenêtre sur le réel ] (Autres écrits, p.254) である,と言っています.現れ出てこようとする 主体 $ の穴(欲望の穴)が窓の開口であるとすれば,その窓には,いわば,カーテンがかかっています.薄いヴェールのようなカーテンです.室内にいる我々は,窓の外の光景(解脱実存性としての実在性)を,それがカーテンによって さえぎられ,偽装される限りにおいて,見ることができます.

幻想だけでなく,夢も 症状も,それらの構造は 学素 ( $ ◊ a ) によって形式化され得ます.その中心(臍)を成すのは,否定存在論的孔穴の開口 — 分析家の言説の構造において,否定存在論的孔穴のエッジとして現出してくる主体 $ — です.如何にその開口は,夢や幻想や症状においては,客体 a によって隠蔽され,偽装されているのか を,我々は分析して行くことになります.

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smoked salmon の夢(『夢解釈』第 IV 章 より)

神経症者を精神分析で治療するとき,夢は,かならず 話題になる.その際,わたし [ Freud ] は,患者に,心理学的な説明 — その助けによって,わたし自身が,患者の症状の理解へ至り得たところの説明 — をすべて与える.だが,そうすると,患者から 容赦のない批判を 浴びせられることになる — そのように辛辣な批判は,同じ専門領域の医師たちからは予期し得ないほどである.まったく例外なく,患者たちの反論は,「夢はすべて願望成就である」という命題に対して 向けられる.わたしに対して反証として提起された夢の材料の例を,いくつか,以下に示す.

あなたは「夢は,成就された願望である」といつも言いますが — と,ある 機知に富む 女性患者
[ eine witzige Patientin ] は切り出す — では,ひとつの夢のことをお話ししましょう.その夢の内容は,まったく逆に,わたしにとって ある願望が成就されない,という方向へ至ります.そのことを,あなたは,あなたの理論と どう一致させるのですか?その夢は,次のとおりです:
わたしは,晩餐会をしようと思うが,手元には 若干の smoked salmon 以外に 何もない.そこで,買い物に行こうと思うが,しかし,今は日曜日の午後 — 店はすべて閉まっている — であることを,思い出す.そこで,配達業者に電話しようと思うが,電話はつながらない.かくして,わたしは,晩餐会をする願望を 断念せねばならない.

自由連想 と 分析

患者の夫は,実直で有能な食肉卸売業者である.

数日前,夫は「太りすぎたから,体脂肪を落とす治療を始めようと思う」と わたし[患者]に 宣言しました.朝 早く起きて,運動をして,厳しいダイエットをして,そして,何よりも,晩餐会への招待をもう受けないでおこう,と言うのです.

彼女は,夫について,さらに,笑いながら 語る:

彼は,[酒場で]常連たちと飲んでいる席で,ひとりの画家と知りあいになりました.その人は,是非,彼の肖像を描きたい,なぜなら,これほど印象的な頭部は今まで見たことがないから,と言うのです.しかし,夫は,ぶしつけに こう答えたそうです:ありがたいことだが,しかし,絶対,あなたも,若くて美しい娘の尻の方が,わたしの顔なんかより,好きでしょう.

[彼女は,さらに語り続ける:]

わたしは,夫のことをとても愛しており,彼とふざけあいます.また,わたしは,彼に請います,わたしに caviar をくれないように,と.

それは,いったい,どういうことなのか?

わたしは,以前から,こう願っていました,毎朝,caviar を載せたパンを食べることができるようになりたい,と.しかし,caviar を載せたパンを与えられることを,自身に許しません.勿論,夫に請えば,わたしは,彼から,すぐに,caviar を得ることができるでしょう.しかし,わたしは,逆に,わたしに caviar をくれないよう,請うています — それによって,今後もずっと 彼をからかうことができるように.

この理由づけは本当のものではないだろう,と わたしには思えた.そのような不十分な回答の背後には,それと認められていない動機が隠れているものである.Hippolyte Bernheim のところで見た催眠術の被験者たちのことが思い出される — 彼れらは,催眠状態の最中に与えられたある課題を 催眠状態から醒めた後に 遂行するのだが,なぜそうしたのか と質問されると,「なぜそうしたのか,自分でもわかりません」とは答えず,しかして,かならず,明らかに不十分な理由づけをでっちあげる.わたしの患者の caviar に関しても,事態は同様だろう.彼女は,実生活において,成就されない願望を自身のために作り上げる必要があるのだ,と わたしは気づく.彼女の夢は,願望拒否
[ Wunschverweigerung ] を,実現されたものとして,彼女に示している.だが,いったい,何のために,彼女は 成就されない願望 を必要としているのか?

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