le graphe du désir[欲望のグラフ]
2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール
フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (10)
2020年01月31日の講義:
幻想の学素 ( $ ◊ a ) と 欲望のグラフ について (1)
先週の講義 において,幻想 ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]に関する Freud の論文を解説したので,今日から 2, 3 週間かけて,Lacan の幻想の学素 ( $ ◊ a ) について,やや詳しく説明して行きましょう.
Lacan が 幻想の学素 ( $ ◊ a ) を 我々に初めて提示したのは,1957-1958年の Séminaire V Les formations de l'inconscient[無意識の成形]においてです —「欲望のグラフ」(le graphe du désir) と名づけられた図とともに.
とても複雑そうに見えるこの図は,きわめて単純化すれば,主体 $ が S(Ⱥ) の座へ到達する dialektisch な過程 — つまり,精神分析の経験を通じて,最終的に,欲望の昇華 (la sublimation du désir) が達成される過程 — を形式化する試みのひとつです.赤く色づけされた $ から S(Ⱥ) へ至る曲線が,その過程を表しています.実際,Lacan は,S(Ⱥ) は精神分析の終結を形式化する学素である,と言っています (cf. la séance du 16 juin 1965 du Séminaire XII).
四つの言説の図で言えば,「主体 $ が S(Ⱥ) の座へ到達する」過程は,大学の言説から分析家の言説への構造転換において,主体 $ が 生産の座(赤)から 他者の座(緑)へ 現れ出でてくることに存します.なぜなら,「他のなかの欠如の徴示素」(le signifiant du manque dans l'Autre : cf. Ecrits, p.818) としての S(Ⱥ) は,他の場所に口を開いた穴(否定存在論的孔穴)のエッジ — すなわち,他者の座(緑)— に相当するからです.
ところで,なぜ この図「欲望のグラフ」は「欲望のグラフ」と呼ばれるのでしょうか?確かに,図において,A から ( $ ◊ D ) へ至る線分の途中に位置づけられた d は désir[欲望]のことなのですが,その d が この図 全体を「欲望のグラフ」と呼ぶことを動機づけている,と見なしてよいのでしょうか?そうは思えません.では,なぜ この図は「欲望のグラフ」と呼ばれるのでしょうか?
さらに,改めて問うなら,そもそも,Lacan の教えにおいてかかわる「欲望」とは 何でしょうか?精神分析においてかかわる「無意識的な欲望」とは何でしょうか?
その答えの手掛かりは,Lacan が我々に注目するよう促した Freud の表現 — Freud が Traumdeutung[夢解釈]のなかで 特に理論的な考察を展開している その第 VII 章 — に見出されます.そこにおいて,Freud は こう言っています:我々の本有の核 [ der Kern unseres Wesens ] は,無意識的な欲望 [ der unbewußte Wunsch ] から成っており,その欲望は 破壊不可能である [ der unzerstörbare Wunsch ].
ドイツ語において,この zerstören[破壊する]という動詞の構成要素である Präfix[前つづり]zer- は,非常に暴力的な,破壊的な動きの表象を喚起します.そして,その動きの対象となるものは,それなりに堅固であり,破壊に対して抵抗し得る固体である,という表象をも,同時に喚起します.
もし仮に 問題となっている「欲望」を「心理学的」なものとして捉えるなら,この「破壊不可能な欲望」という表現は,非常に奇妙なものとなります.というのも,心理学的に考えるなら,「欲望」は,固体的なものではあり得ず,「無意識的な欲望」は「抑えつける」(いわゆる「抑圧」する)べきものではあっても — すなわち,verdrängen を「抑圧する」と訳すことは 欲望の心理学化を前提していることが,示唆されます —,破壊の対象となるようなものではないからです.
ですから,「破壊不可能な欲望」という表現は,問題となっている「欲望」は,心理学的なものではない,ということを示唆しています.では,心理学的なものでなければ,如何なるものなのか?構造論的 [ structural ] なものです.
Freud の「破壊不可能な欲望」という表現は,Freud が「欲望」を,心理学的なものではなく,而して,構造論的なもの — しかも,源初から終末に至るまで 破壊されることのない構造 — と捉えていたことを,示唆しています.
そして,Freud はこう言っています:そのような「破壊不可能な無意識的欲望」こそが,「我々の本有の核」(der Kern unseres Wesens) を成している.
Wesen という語は,日常的な文脈においては,普通,「本質」と訳されますが,存在論的文脈においては「存在」と同義と取ってかまいません.実際,Lacan は,der Kern unseres Wesens を le noyau de notre etre[我々の存在の核]と訳しています.我々としては,Sein と訳し分けるために,仏教用語を借用して,Wesen を「本有」と訳しておけばよいでしょう.
かくして,我々は,Freud の言う「破壊不可能な欲望」とは 還元不可能な否定存在論的孔穴のことである,と見定めることができます.源初論的孔穴かつ終末論的孔穴としての
以上から,我々は,この等価性を得ます:
穴 º 欲望
この公式は,精神分析における存在論(否定存在論)と倫理学との繋ぎ目を成す公式です.
精神分析的存在論としての否定存在論は,精神分析的倫理学を包含しています.なぜなら,精神分析的存在論は,単に 認識の客体の存在について問うのではなく,而して,我々自身の存在 — すなわち,我々自身の生,我々自身の生き方,我々自身の在り方 — について問うからです.
Lacan は,1959-1960年に,特に L'éthique de la psychanalyse[精神分析の倫理 ないし 精神分析の倫理学]と題した Séminaire を行ったのに対して,とりたてて「精神分析の存在論」と題した Séminaire は行いませんでした.しかし,我々は,Lacan の教え全体を「精神分析の存在論」と見なすことができます — 勿論,その場合の「存在論」は「否定存在論」(l'ontologie apophatique) のことです.
Heidegger にとっても,「存在論」—『存在と時間』においては Fundamentalongologie[基礎的存在論]と呼ばれていたもの — は,倫理学を包含しています.だからこそ,『存在と時間』の § 54 - § 60 においては「良心」(Gewissen) について論ぜられています.そこにおいて Heidegger が「良心」と呼んでいるものは,Verfallen[頽落]から脱して,最も本来的な存在様態 — すなわち,
また,ついでに指摘すれば,Heidegger が Husserl の現象学から離れた理由のひとつも,後者においては倫理的な問いが問われることはない,ということにある,と思われます.Husserl の現象学は,結局,認識論的なものでしかありませんでした.Husserl の問いは,如何に 客体が 超越論的主体(主観)に対して現れ出でてき得るか?を問うことに存しており,Heidegger が問おうとしていたように,如何に 我々は 我々自身の存在の真理を生きることができるようになるか?という倫理的な問いを問うことはありませんでした.
ともあれ,「欲望のグラフ」が「欲望のグラフ」と呼ばれるのは,右下に位置する 主体 $ が,源初論的孔穴として,欲望であるからです.
如何に 源初論的孔穴としての主体 $ が,異状の構造へ 源初排斥され,そして,精神分析の終結において,終末論的孔穴として 現れ出でてき得るか?— そのように「欲望の昇華」へ至る「欲望の弁証法」(la dialectique du désir) の過程について,Lacan は,欲望のグラフにおいても,彼の教え全体においても,問い続けています.
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