2020年3月6日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (14)



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (14)


2020年02月28日の講義:
欲望のグラフ と 幻想の彼方 (2)




欲望のグラフは,言語存在(parlêtre : 言語という家に住まう存在としての人間)において,欲望としての主体 $ の穴が,徴示性 (le symbolique) および 事象性 (l'imaginaire) と 如何に関わり合い得るか を示しています.

欲望のグラフの下段においては,欲望としての主体 $ の穴は,徴示性との関わり合いにおいて,l'idéal du moi[自我理想]I(A) としての支配者徴示素 S1 によって塞がれ,また,事象性との関わり合いにおいて,鏡像的な自我によって覆い隠されます.主体 $ の穴は,支配者徴示素 S1 によって塞がれることにおいて,S1 の「背後」へ — つまり,書かれないことをやめない「不可能」としての実在性 (le réel) の在所へ — 源初排斥されます.



欲望のグラフの最下部には $I(A) が並置されていますが,それらは,むしろ,上の図に示されているように,上下の関係に置き直すことができるでしょう.すなわち,否定存在論的孔穴を塞ぐ 自我理想 I(A) としての支配者徴示素 S1 と,それによって 不可能の在所へ源初排斥された 欲望としての主体 $ と.

徴示素連鎖 [ signifiant → voix ] を表わす曲線を構成する任意の点 — すなわち,任意の徴示素 — の意義 s(A) は,徴示素の宝庫としての他 A によって,一義的に定められています.そこにおける s(A) は,支配者意義 [ la signifiance maîtresse ] としての支配者徴示素 S1 — つまり,大学の言説の構造において「真理の座」に措定された S1 — です.

支配者意義が如何なるものであるかを説明するために 日本語という言語を例に取るなら,日本語は,支配者意義の支配が非常に強固な言語です.支配者意義とは,あらかじめ与えられた意義です.

日本社会における教育の paradigm を成す「論語の素読」を思い起こしてください.我々は,漢文(要するに 古代中国語)で書かれたテクストを,わけもわからず,無理やり読まされます.その際,主要な単語は「音読み」します.つまり,それらの単語の〈古代中国語における〉発音を,中国語ができない日本人に可能な限りで 日本語のなかで 擬似的に再現します.「音読み」とは,そういうものです.今,我々が,英語の単語 — たとえば,今,新聞記事のなかで たまたま目にとまった単語を挙げるなら,service という単語 — を,その単語の〈英語における〉発音を,英語ができない日本人に可能な限りで 日本語のなかで 擬似的に再現して「サービス」と読んでいるのと同じです.そして,適宜 助辞を補って,音読みされた単語を 日本語の統辞論的構造のなかに配置します.

しかし,音読みされた単語は,擬似中国語音において読まれただけであって,日本語に翻訳されたわけではありません.つまり,音読みされた漢語は,本来,日本語のなかでは意義を有していません.当然ながら,論語 全体を素読しても,テクストが何を言わんとしているのかは不明なままです.そこで,教師 — maître : 支配者 — は,生徒に,その言わんとするところはしかじかである,と教える.つまり,あらかじめ与えられている意義を,生徒に押しつけます — それが,la signifiance maîtresse[支配者意義]です.生徒の方は,押しつけられた意義を,みづから 問うことも 思考することも なく,鵜呑みにします.

日本社会における教育の paradigm は いまだに そのような「論語の素読」です.そもそも,日本語という言語全体が「論語の素読」と同じしかたによってできあがっています.日本語のなかには あまりに多くの漢語と外来語があふれかえっているので,あらかじめ与えられた支配者意義なしには,発話を了解することはできません.逆にいえば,日本語においては,何を言っても,そこにおいて了解されるのは,あらかじめ与えられている支配者意義だけです — 日本の国会における議員どうしの言葉のやりとりには,そのような日本語の本性が如実に現れています.

日本語を母国語とする者(日本語に住まう者)は,日本的な支配者意義 S1 を共有するよう強制されます.その共有がなければ,言葉の意義を了解することはできないからです.そして,支配者意義 S1 の共有は,日本社会の全体主義化を条件づけます.日本社会の全体主義化は,日本社会の公用語が日本語であるかぎり,必然的です.ですから,日本社会の全体主義化を防ぐための根本的な対処法は,公用語を日本語以外の言語(現実的には 英語)にすることです.公用語を英語にすれば,訓読みと音読みを使い分けて,「募ったが,募集はしていない」という ふざけた言い逃れをすることは,できなくなります.そのようなバカげた言い逃れを可能にしてしまうのが,日本語という言語です.我々は,日本社会をまともなものにしようと思うなら,そろそろ 日本語を見限る必要があります.

以上のような日本語の特質のゆえに,Lacan は「日本人は精神分析を必要としていない」と言いました.そのことについては,以前に書いた この論文 Why Lacan says : “no one who dwells in the Japanese language has a need to be psychoanalysed” を参照してください.

話を「欲望のグラフ」に戻すと,mi(a) の矢印は,「鏡の段階」論を形式化しています.つまり,鏡像的な他者 i(a) — すなわち,理想自我 : le moi idéal — との同一化による自我 m の形成です(大学の言説の構造における「自我」の学素は,能動者の座に位置する 知 S2 です).

要するに,欲望のグラフの下段は,形而上学的な「自律的な自我」の形成の図式化です.そこにおいては,主体 $ は 不可能の在所へ排斥されており,否定存在論的孔穴は,支配者徴示素 S1 — 自我理想 I(A) — により塞がれ,さらに,事象的な自我 m — 大学の言説の構造における知 S2 — によって覆い隠されています.

一般的に 或る人の「自我」と見なされるのは 事象的な自我 m ですが,それは,徴示的な自我理想 I(A) としての支配者徴示S1 への同一化によって根本的に規定されており,さらに,事象的な理想自我 i(a) との同一化によっても規定されています.さらに,欲望に関しては,一方では,事象的な自我 m は,他の欲望 [ le désir de l'Autre ] — 超自我の「悦せよ!」という命令 — に支配されて,駆り立てられており,他方では,破壊不可能な欲望としての主体 $ は 不可能の在所へ源初排斥されてしまっています.

ここで,我々は,欲望のグラフの上段へ移りましょう.

以前に指摘したとおり,Freud は 無意識的な欲望 を「我々の本有の核」を成すものと規定し,かつ,「破壊不可能」と形容しています.そこから,我々は,この等価性を取り出します:


欲望 º 存在
le désir º l'être

(smartphone 等では,等価性の記号が表示されないようです.「欲望 と 存在 とは 相互に等価である」[ le désir et l'être sont équivalents l'un à l'autre ] と読んでください.)

つまり,無意識的な欲望は,存在 の穴(否定存在論的孔穴)にほかなりません.Freud が「無意識」の名のもとに発見したのは,否定存在論的孔穴そのものです.そして,この等価性「欲望 º 存在」は,精神分析の倫理と否定存在論との繋ぎ目を成します.

超自我が際限なく「悦せよ,もっと悦せよ!」と命令するのは,欲望の本当の満足は決して得られないからです.つかのま,悦が得られたかに思われても,それは,結局は,最終的な 本当の満足ではない,と 遅かれ早かれ判明します.

欲望の穴(否定存在論的孔穴)は決して満たされ得ない,なぜなら,欲望の穴を完全に満たすはずの phallus — le phallus patriarcal[家父長ファロス]Φ — は,書かれないことをやめないものである — つまり,不可能である — からです.それが,Lacan の公式 :「性関係は無い」の言わんとしていることです.

欲望は決して満たされ得ないがゆえに,超自我は「悦せよ!」と命令してやまない.欲望の問い : "Che vuoi ?"[おまえは 何を欲するのか?]は,超自我の命令と表裏一体です.何を以てしても,満足は得られない — では,おまえは,いったい,何を欲するのか?

Cazotte の小説 :『恋する悪魔』と Goethe の悲劇 Faust においては,"Che vuoi ?" の問いに対して,さまざまな偽りの満足 — plus-de-jouir[剰余悦]— が幻想的に提示されて行きます.が,最後に,剰余悦は幻想にすぎなかったことが明かされ,主人公は,悪魔によって死の深淵へ連れ去られようとします.逆に言えば,幻想 ( $a ) は,死の穴としての否定存在論的孔穴を覆い隠す防御として機能しています.一般的に言って,事象的なもの (l'imaginaire) — 幻想も事象的なものです — は,否定存在論的孔穴を覆い隠すものです.

精神分析は,欲望の昇華に到達するために,幻想の彼方 — 事象性の彼方 — へ進んで行かねばなりません.欲望のグラフにおいて,原初排斥された欲望 $ は,幻想の彼方において,まず,学素 ( $ ◊ D ) の座を通ります.

学素 $ ◊ D ) を,Lacan は,本能の学素として提示しています.D は,la demande de l'Autre[他の求め]を表わしています (cf. Écrits, p.823). 1958 年の書 La direction de la cure et les principes de son pouvoir[精神分析治療の指針 と 精神分析治療の可能の原理]に付された脚注においては,こう説明されています :「求め D の切れ目[求め D という切れ目]における主体 $(p.634). さらに,『主体のくつがえし』(Écrits, p.823) では こう述べられています:


実際,神経症者 — ヒステリカ,強迫神経症者,あるいは,より根本的に,恐怖症者 — は,他の欠如 Φ を 他の求め D へ 同一化する者である.
そこから,このことが帰結する:他の求め D は,幻想における客体 a の機能を取る — すなわち,幻想 $ ◊ a ) は,本能 $ ◊ D ) へ還元される.それがゆえに,神経症者においては,さまざまな本能[かかわっている客体 a に応じて命名される諸々の部分本能,たとえば:乳房に対する口の本能 (der orale Trieb), 糞便に対する肛門の本能 (der anale Trieb), まなざしに対する視の本能 (der Schautrieb), 等々]のカタログが作成され得たのだ.

そこにおける「他の欠如 Φ」は,「他 A における phallus Φ の欠如」のことです.この場合,他 A は,徴示素の宝庫の場所としての他 A のことであり,そして,それは 母のことです (cf. Écrits, p.813). 母には,当然ながら,le phallus patriarcal[家父長ファロス]Φ は 欠けています.すなわち,「他の欠如」は 否定存在論的孔穴のことです.

上の一節においては,Lacan は,否定存在論的孔穴が 幻想において 事象的な客体 a の穴(ないし 切れ目)として現れてくることを,念頭においています.

それに対して,求め D の切れ目における主体 $ としての 本能 $ ◊ D ) は,事象的なものの彼方における徴示性の穴にかかわります.

ところで,何を他 A は求めるのか — 部分本能の客体である客体 a の彼方において ? 

A を母と取るなら,他 A が求めているものは,家父長ファロス Φ です.つまり,書かれないことをやめない不可能なファロス Φ です.そのとき,否定存在論的孔穴がそのものとして喚起されてきます.

あるいは,他 A を 父なる神と取るなら,如何 ? 何を神は求めているか ? Jesus は こう答えています : ἔλεον θέλω καὶ οὐ θυσίαν[我れ (YHWH) が欲するのは,慈しみであって,いけにえではない](Mt 09,13). この言葉は,旧約聖書の預言者ホセアの書の一節の引用です :「そも,わたし [ YHWH ] が喜ぶのは,慈しみであって,いけにえではない.して,[イスラエルの民が]神を識ることを,わたしは,焼き尽くしたいけにえよりも好む」(Os 06,06). この「慈しみ」は,要するに,愛のことです.ですから,我々は,ユダヤ教の最も根本的な信仰告白の文言を思い起こします :「聴け,イスラエル!我れらの神 YHWH יְהוָה אֶחָֽדYHWH ehad : 一なる主]である.汝が神 YHWH を 愛せ — 心のすべてを以て,身のすべてを以て,力のすべてを以て」(Dt 06,04-05). つまり,神が わたしに 求めているのは,愛です:神を愛すること と 隣人を愛すること です — しかも,神をも 隣人をも わたし自身として 愛すること.

そのとき,他の求めは,thanatique[死的]なものから agapétique[愛的]なものへ転換されます.

欲望の弁証法の終結において 主体 $ が行き着くところ — そこに位置しているのは,学素 S(Ⱥ) です.それを Lacan は le signifiant du manque dans l'AutreA のなかの欠如の徴示素](Écrits, p.818) と定義しています.「他 A のなかの欠如」は,否定存在論的孔穴のことです.その徴示素とは,穴のエッジのことです (cf. ibid., p.819).                 



欲望の弁証法の終結において 主体 $ が S(Ⱥ) の座に行き着く ということは,しがたって,大学の言説から分析家の言説への構造転換において,主体 $ が 右下の「生産の座」(不可能の座)から 右上の「他者の座」(必然の座)へ現れ出でてくることと同じことです  なぜなら,他者の座は 穴のエッジに対応しているからです.

言い換えると,そのとき,主体 $ は 穴のエッジ S(Ⱥ) に成ります.つまり,主体 $ は,存在 の歴史の源初論的位相における穴としての自身を 回復したことになります.

そして,そこにおいて,愛が,欲望の昇華として,達成されます.それが,欲望の弁証法の終結です.

神は愛である — そのことから振り返って見るなら,欲望の弁証法は,始めから,神の愛の狡知によって導かれていたのだ,と言うことができるでしょう.

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