2020年1月20日

「目的論的」(téléologique) と「終末論的」(eschatologique) — ラカン的な精神分析の倫理は終末論的である

Man Ray (1890-1976), Portrait imaginaire de D.A.F. de Sade (1938), au Menil Collection, Houston


「目的論的」(téléologique) と「終末論的」(eschatologique) — ラカン的な精神分析の倫理は終末論的である


小笠原晋也

2019-2020 年度 の 東京ラカン塾 精神分析セミネール :「フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方」(Le retour à Freud et l'au-delà d'Œdipe) の 2020 年 1 月 10 日 と 17 日 の 講義において論じた「目的論的」(téléologique) と「終末論的」(eschatologique) との対置について,要旨を述べておきます.

Michelangelo Buonarroti (1475-1564), il Giudizio universale (1535-1541), nella Cappella Sistina


広い意味における終末論 — 世界の終わりに関する想像 — は,確かに,さまざまな宗教において語られています.しかし,本当の意味における「終末」— そのとき,存在事象そのもの全体は もはや存在しなくなります — は,源初における「無からの創造」(creatio ex nihilo) との相関においてのみ問われ得ます.したがって,本当の意味における終末論を論ずることができるのは,天地の創造主である唯一の神を信ずるユダヤ教とキリスト教とイスラム教だけです.

ほかの諸宗教(仏教を含む)においては,「無からの創造」を考えることはありません.仏教好きが好んで論ずる「無」は,「無からの創造」がそこから発するところの否定存在論的孔穴そのものではなく,而して,否定存在論的孔穴の「形而上学的」な閉塞の一様態にすぎません.勿論,仏教は,元来,西洋的な形而上学の伝統に属しているわけではありません.しかし,Platon が ἰδέα を措定したのと同様に,仏教は「不生不滅」や「常住不変」を措定し,それによって否定存在論的孔穴を閉塞しています(つまり,「無」や「不生不滅」や「常住不変」は,仏教の S1 です).そして,そのことにおいて,仏教は形而上学と同等です.仏教に「西洋的な行き詰まり」の超克の可能性を見たがる者は,そのことに気づいていませんし,多分,いくら説明されても,気づこうとはしないでしょう.

さて,キリスト教の終末論においては,我々は,世界の終わりにおいて成起するだろう Jesus Christ の παρουσία[再臨],最後の審判,死から永遠の命への復活,神の国の到来 — 要するに,人間すべての救済の究極的な完成  を 待ち望みます.

とはいえ,今,我々が「目的論」(téléologie) との対置において「終末論」(eschatologie) について問うとき,かかわっているのは,勿論,ひとつの宗教的な想像としての「終末論」ではありません. 

我々が「終末論」に注目するのは,1945 年以降の Heidegger の「黒ノート」のなかで die Eschatologie des Seyns存在 の終末論]または die Eschatologie des Seyns[存在の終末論]という表現が多用されているからです.

ただ,Seyn[抹消された存在]という表記が「黒ノート」のなかでは多用されているのに,Heidegger の生前に公表されたテクストのうちで それが見出されるのは,Zur Seinsfrage (1955) だけであるのと同様に,生前既発表のテクストのなかで「存在の終末論」(die Eschatologie des Seins) という表現が見出されるのは,初版が 1950 年に公刊された論文集 Holzwege[木こり道]に収録されている Der Spruch des Anaximander[アナクシマンドロスのことば](1946) の 以下の一節だけです (GA 5, p.327) :


Anaximandros[⽣年 紀元前 610 年ころ,没年 紀元前 546 年ころ]のことばを規定する古代は,⻄洋の初期の早い時代に属している.しかし,[もし仮に以下のようであれば]どうだろうか — もし初期のものが後期のものすべてを追い越しており,さらには,最初期のものが最後期のものを,なおさら,かつ,及びもつかぬほどはるかに,追い越しているなら?もし仮にそうであるなら,[存在の]運命 [ das Geschick ] の初期の「あるとき」は,今まで覆い隠されてきた〈存在の〉運命 [ das Geschick des Seins ] の 極限 [ die Letze ] (ἔσχατον) のときに — 離分 [ der Abschied ] のときに —「あるとき」として到来するだろう.存在事象の存在は,存在の運命 [ das Geschick des Seins ] の極限へ⾃⾝を集結 [ versammeln ] する (λέγεσθαι, λόγος). 従来,存在の本質であったものは,なおも覆い隠されている〈存在の〉真理のなかへ⼊滅 [ untergehen ] する.存在の歴史 [ die Geschichte des Seins ] は,この離分へ⾃⾝を集結する.従来,存在の本質であったものの極限 (ἔσχατον) の集結 (λόγος) としての〈この離分への〉集結 — それは,存在の終末論 [ die Eschatologie des Seins ] である.存在そのものが,[存在 へと]定められた存在 [ das geschickliche Sein ] として,そのものにおいて,終末論的 である.
しかしながら,「存在の終末論」という名における「終末論」という語を,我々は,哲学や神学におけるひとつの学問分野の名称とは理解しない.存在の終末論 を,我々は,そこにおいて [ Hegel の ]『精神の現象学』を存在の歴史の観点から思考すべきところの相応の意味において,思考する.『精神の現象学』そのものが,存在の終末論 におけるひとつの局⾯を成している — 無条件的な〈意志への〉意志の絶対的な主体性としての存在が,従来,形⽽上学によって刻印されてきた〈存在の〉本質の極限へ,⾃⾝を集結する限りにおいて.
我々は,存在の終末論 にもとづいて思考するなら,いつの⽇か,初期の「あるとき」にかかわるものを,到来する「あるとき」のもののなかに期待せねばならず,また,今⽇,そのことにもとづいて「あるとき」を考察することを学ばねばならない.

以上の一節は,Heidegger の言う「存在の歴史」(die Geschichte des Seins) 
— その過程は 終末論的な「自有」(Ereignis) へ至るよう 差し向け[schicken, destiner : フランス語においても「運命」は「差し向ける」(destiner) と語源的に関連する destin です]られているので,Heidegger は,die Geschichte des Seins を das Geschick des Seins[存在の運命]と言い換えてもいます  を,否定存在論的トポロジーにもとづいて,次のように三つの位相から成る弁証法的過程として捉えるよう,我々を促しています:

0) 源初論的位相 [ la phase archéologique ] : そこにおいては,存在 の穴(否定存在論的孔穴:抹消された主体 $ の穴)は口を開いていた;


1) 形而上学的位相 [ la phase métaphysique ] : 主体 $ の穴を,学素 S1(le signifiant maître : 支配者徴示素)によって形式化される 一連の形而上学的形象(その最初のものは,Platon の ἰδέα)が 塞ぎ,穴としての主体 $ そのものは,支配者徴示素 S1 の背後(解脱実存的な在所 : la localité ex-sistente) へ隠されてしまう(Urverdrängung : 源初排斥); ただし,穴のエッジのところに増殖する客体 a が,隠された主体 $ を代理する痕跡となる(以上によって,異状 [ aliénation ] の構造としての 大学の言説の構造が成立する);


2) 終末論的位相 [ la phase eschatologique ] : Platon (428/427 BCE - 348/347 BCE) において始まった形而上学の歴史は,Heidegger によれば,Nietzsche (1844-1900) において満了 (Vollendung) を迎える(Foucault に準拠するなら,我々は,形而上学的位相の終了を 古典主義時代 [ l'âge classique ] の終了 — すなわち フランス革命 — と重ね合わせることもできるでしょう); 形而上学の歴史における一連の S1 の最後のものである Nietzsche の「力への意志」[ Wille zur Macht ] は,常に より大きな(より多くの)力 [ Mehr-Macht ] を際限無く欲し続けねばならないことにおいて,S1 による否定存在論的孔穴(主体 $ の穴)の閉塞は 結局は 不可能であることを さらけ出してしまい,そして,そのことによって,S1 が閉塞してきた $ の穴 そのものも 形而上学の歴史において初めて あらわとなってくる.それに対して,口を開いてくる穴を 何とかして 再び塞ぎ,あるいは 隠そうとする抵抗が 激化して行く.そのような状況を,我々は,今,生きている.しかし,最終的には,否定存在論的孔穴は,大学の言説から分析家の言説への構造転換において,主体 $ の穴として現出するよう,運命づけられている.それが「存在 の運命」(das Geschick des Seins) である.


存在 の歴史が 以上のような弁証法的過程であることを踏まえるなら,上に引用した一節において Heidegger が何を言おうとしているのかが見えてきます : 存在 の歴史において,源初論的位相において口を開いていた否定存在論的孔穴は,形而上学的位相において S1 により閉塞されてきたが,今や(19 世紀以降),終末論的位相において,S1 の穴塞ぎ効果は無効となり(科学の言説と資本主義の言説の優位のもとで),穴は再び口を開いてくる.ただし,我々は,源初論的位相を 歴史のなかに それとして見出すことはできず(Heidegger は,源初論的孔穴を Vorsokratiker[ソクラテス以前の哲人たち]のテクスト断片のなかに見出す努力をしたが,結局,確実な成果には至り得なかった),而して,終末論的位相から遡って,源初論的位相を,形而上学的位相と終末論的位相との可能性の条件として,再構成することしかできません.

Lacan は「精神分析の倫理は 終末論的である」と明示的に公式化してはいません.が,1959-1960年の Séminaire VII において 精神分析の倫理を論ずるときに,彼は,まず,形而上学的な目的論の最も基本的な一例である Aristoteles の『ニコマコス倫理学』を持ち出してきます — 勿論,精神分析の倫理をアリストテレス的(形而上学的)なものとするためではなく,逆に,非アリストテレス的(非形而上学的)なものにするために:

そも,あの有名な「最少緊張」— 快は 緊張を最少にすることに存する と Freud は述べている — は,Aristoteles の倫理 以外の何であろうか ? (...) ともあれ,わたしは,Aristoteles の「ニコマコス倫理学」と「エウデモス倫理学」に言及するにとどめておいた — 精神分析の倫理 — その道を切り開くために,わたしは まる一年間をかけた[1959-1960年の Séminaire VII『精神分析の倫理』のこと]— を アリストテレス倫理学とは厳密に異なるものとするために (Télévision, in : Autres écrits, pp.523-524).

Aristoteles が「ニコマコス倫理学」において論じているのは,おおむね,次のようなことです:人間が ζῷον λόγον ἔχον[理性を有する動物]である限りにおいて — Aristoteles が人間をそう定義しているのは「政治学」においてですが,そのことは「ニコマコス倫理学」においても 当然 前提されています —,人間の為すことは すべて「善」(ἀγαθόν) を 目ざしている(善が その「目的」[ τέλος ] である). そして,人間が あるひとつの目的を達成するのは,さらに より上位の目的を達成するためであれば,最も上位の究極的な目的 — それそのもののゆえに我々が欲するところの目的 (τι τέλος ὃ δι’ αὑτὸ βουλόμεθα) である「最高善」(τἀγαθὸν τὸ ἄριστον) — が措定される.それは「幸福」(εὐδαιμονία) である.そして,完璧な幸福 (ἡ τελεία εὐδαιμονία) は「観想的活動」(ἡ ἐνέργεια ἡ θεωρητική) すなわち「知性の活動」(ἡ τοῦ νοῦ  ἐνέργεια) に存する — なぜなら,知性 (νοῦς) は「神的なもの」(θεῖον) であり,「知的な生」(ὁ κατὰ τὸν νοῦν βίος) は「神的」(θεῖος) であるから.

以上から,アリストテレス倫理学は,人間の生の究極的な目的 (τέλος) を「イデア的なもの」としている,と言うことができます(Platon の言う ἰδέα は Aristoteles の語彙に属してはいませんが).「アリストテレス倫理学は『目的論的』(téléologique) である」とは,そのことです.



現代において,形而上学的-目的論的な 倫理は,否定存在論的孔穴を再び確実に閉塞するために,穴塞ぎとしての S1 を強化しようとします.その動向は,カトリック神学においては néo-thomiste または néo-scolastique と呼ばれています.世俗的なイデオロギーのなかでは「家父長主義」(patriarchalisme) が その代表例です.精神分析においては,非ラカン派(Freud 自身を含む)は,目的論的です — 性本能の発達の成熟段階としての「性器体制」(Genitalorganisation) を措定していることにおいて.

形而上学的-目的論的な 倫理は,否定存在論的孔穴を完璧に塞ぎ得る S1 を改めて措定しようとします.しかし,それは不可能である,と 我々は知っています — なぜなら,「性関係は無い」からです.つまり,否定存在論的孔穴を完璧に塞ぎ得る S1 は「書かれないことをやめない」ものです.

それでも S1 を措定する試みをやめない 形而上学的-目的論的 倫理は,常に よりいっそう強力な S1 を求め続けざるを得ないことになります.そして,ついには,ひとつの Paranoia となります.実際,「日本会議」のイデオロギーを信奉している者たちは paranoisch です.だからこそ,彼れらには「話せば わかる」は通じないのです.



形而上学的-目的論的な アリストテレス倫理学とは異なり,Lacan の教えにおいては,精神分析の倫理は 非形而上学的-終末論的 です.それは,否定存在論的孔穴を塞ぎ得る S1 は「書かれないことをやめない」ことを認めるがゆえに,S1 を 不可能の座(つまり,右下の「生産の座」)へ 閉出します.この S1 の閉出は,大学の言説から分析家の言説への構造転換を惹起します.そのとき,主体 $ は,否定存在論的孔穴のエッジとして現出 (ἀποκάλυψις) してきます.それによって,源初論的位相における否定存在論的孔穴の開口が 回復されます.そして,そこに,欲望の昇華 (la sublimation du désir) が存します.

我々は,今,存在 の歴史の終末論的位相において,否定存在論的孔穴の開口に対する抵抗をやめることができないままでいます — 否定存在論的孔穴の開口は,強い不安(無の不安,死の不安,罪の不安,そして,去勢不安)を惹起するからです.

その不安に ひとりで耐えることは,まず大概,不可能です.人々は,防御のために,神経症者となるか,性倒錯者となるか,精神病者となるか,あるいは,不安を防御しきれずに,否定存在論的深淵のなかへ呑み込まれてしまいます(つまり,自殺します).

だからこそ,精神分析の経験が必要になってきます.精神分析の経験においては,昇華された欲望としての分析家の欲望が,分析者(精神分析の患者)が否定存在論的孔穴の開口を前にしての不安に耐えることができるようになるよう,分析者に寄り添い,分析者を支えます.

主体 $ が 否定存在論的孔穴のエッジを成すように現出し,それによって,否定存在論的孔穴の源初論的開口を回復すること — Freud が陥った行き詰まりを突き抜けた Lacan が我々に教えている精神分析の終末論的終結は,そこに存します.

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