2020年1月14日

既成のフロィト邦訳の質を検証する

Die gesammelte Werke von Sigmund Freud


既成のフロィト邦訳の質を検証する



小笠原 晋也

わたしが主宰する 東京ラカン塾 精神分析 セミネール では,今年度 (2019-2020), 2019年09月23日に Freud の没後 80 年を迎えたことを記念して,「フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方」(Le retour à Freud et l'au-delà d'Œdipe) の標題のもとに,如何に Lacan が Freud へ回帰することによって 精神分析の行き詰まりを乗り越え得たか について問うている.  

2019年11月から始めた第一学期で 無意識の成形 (les formations de l'inconscient) の代表例である「夢」— Irma の注射の夢 と smoked salmon の夢 — を取り上げたのに続いて,2020年01月から始めた今学期(第二学期)では,我々は,まず,やはり 無意識の成形 (les formations de l'inconscient) のひとつである「幻想」(fantasme, Phantasie) について論ずるために,Freud の 1919 年の論文 Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]を,改めて読み始めようとしている.そこにおいて,Freud は,幾人かの患者において観察し得た臨床材料 —「子どもが叩かれる」という幻想 — にもとづいて,理論的な考察を展開している.したがって,Ein Kind wird geschlagen の論文を読むことは,Freud の症例論文を読む(今学期,その予定である)ための ちょうどよい準備となるだろう.

ここでは,まず,セミネール参加者の多くが Freud を邦訳で読むだろうことを考慮して,2006 年から 2012 年にかけて岩波書店から出版された フロイト全集(全 22 巻)の邦訳の質を検証してみることにしよう.

ところで,西洋古典の邦訳の「全集」もの というと,Heidegger の Gesamtausgabe の邦訳(未完結)を出版していた 創文社 の 会社解散 のことが連想される.会社解散 — つまり,収支が赤字であるがゆえに経営が成り立たないので,不渡りを出して倒産する前に,計画的に閉業する,ということである.

創文社は,Thomas Aquinas の Summa Theologiae[神学大全]の邦訳の出版でも知られている.先日,たまたま,2012 年に『神学大全』の出版が完結したのを記念して作成された 動画 を見かけた.そのなかでも,『神学大全』出版事業のせいで創文社の経営が苦しくなったことが,示唆されている.

1960 年から 2012 年まで あしかけ 53 年をかけて完成された邦訳『神学大全』を,いったい誰が読むのだろう?専門的研究者は,当然,邦訳ではなく,ラテン語原文 または 英独仏訳 で読むだろう.はっきり言って,『神学大全』の邦訳は,翻訳者に自己満足をもたらすものでしかない.だからこそ,創文社は存続し得なくなったのだ.邦訳『神学大全』だけでなく,邦訳『ハイデガー全集』の出版も,創文社にとって相当な財政的負荷になっていただろう,そして,今回の会社解散の主要な誘因のひとつとなっていただろう,ということは,想像に難くない.

何が何でも西洋古典を邦訳しようという日本のアカデミズムの伝統的な方向性は もはや立ちゆかない,ということは,今や明らかである — なにしろ,今後,日本語を母国語とする者の数は,どんどん減少して行くのだから.

というわけで,あなたが知的関心を有するなら,西洋の偉大な哲人たちを読もうとするとき,あなたは,既成の邦訳に頼ろうとするのではなく,みづから原文に取り組む努力をする必要がある.

原文をそのまま読むのが難しい場合は,せめて,英独仏のいずれか(あなたにとってなじみのある言語)の翻訳で読むのがよかろう.印欧語族に属する言語どうしの間の翻訳なら,それなりに正確な翻訳が可能である.

それに対して,西洋の偉大な哲人たちを邦訳で読むことは,基本的に言って,できない.それは,誤訳が必ずまぎれこむからだけではない.そうではなく,我々は,邦訳においては,訳者が原文をもとにして作り上げた「意味」を「了解」することしかできないからである.というのも,印欧語族の諸言語とは言語学的にまったく無縁の言語である日本語へ 印欧語族の言語から 翻訳する場合,その作業は,たとえばイタリア語やスペイン語からフランス語へ翻訳する場合のように おおむね自動的に行くことは決してなく,しかして,訳者が 彼れなりに 原文において「了解」し得た「意味」を日本語において擬似的に再現することによるからである(その「擬似的な再現」すら おぼつかないことも,しばしばである).

しかるに,偉大な哲人たちのテクストの偉大さは,彼らの思考の歩みが証言する「不可能の穴」によっている.ドイツ人なら Heidegger が読めるわけではなく,フランス人なら Lacan が読めるわけでもないのは,そのせいである.その「不可能の穴」を,邦訳は,訳者が作り上げる「意味」によって,埋め隠してしまう  ゆえに,原文のもっとも肝腎なところを,邦訳は伝達し得ないのだ.

ともあれ,Ein Kind wird geschlagen の既成の邦訳の質を検証するために,最初の数ページを見てみよう.以下に,ドイツ語原文 (Gesammelte Werke XII) と 人文書院版『フロイト著作集 第 11 巻』(1984) と 岩波書店版『フロイト全集 第 16 巻』(2010) と 小笠原訳 を 提示する(翻訳上 問題的と思われる語を 青い太字で強調する):


»Ein Kind wird geschlagen« — Beitrag zur Kenntnis der Entstehung sexueller Perversionen

「子供が 叩かれる— 性的倒錯の成立に関する知識への貢献

「子供が ぶたれる— 性的倒錯の発生をめぐる知見への寄与

»子どもが 叩かれる« — 性倒錯の成立に関する知見への寄与


Die Phantasievorstellung : »ein Kind wird geschlagen« wird mit überraschender Häufigkeit von Personen eingestanden, die wegen einer Hysterie oder einer Zwangsneurose die analytische Behandlung aufgesucht haben. Es ist recht wahrscheinlich, daß sie noch öfter bei anderen vorkommt, die nicht durch manifeste Erkrankung zu diesem Entschluß genötigt worden sind.

ヒステリーあるいは強迫神経症のために精神分析的治療を求めてきた人が,「子供が叩かれる」という 空想観念 を告白するケースは驚くべき頻度を示している.明白な発病もないために分析的治療を受ける決心をする必要がなかった他の人々の間では,もっと高い頻度でこの空想観念が現われていることは,大いにありうることである.

ヒステリーや強迫神経症のため精神分析による治療を求めてやってきて,「子供がぶたれる」という イメージ を 空想 したことがあると告白する人びとは,驚くほど多い.精神分析を受けようと決心せざるをえないほどには症状が顕在化していない人びとの場合,こうした空想に耽ることはさらに多いと思われる.

幻想表象 :「子どもが叩かれる」は,ヒステリー または 強迫神経症のゆえに 分析治療に来た人々によって,驚くべき頻度で 告白される.おそらく,それは,明白な発病のゆえに分析治療に来ることを決心せざるを得なかった人々 以外の 人々においても,さらに より頻繁に 見出されるだろう.


An diese Phantasie sind Lustgefühle geknüpft, wegen welcher sie ungezählte Male reproduziert worden ist oder noch immer reproduziert wird. Auf der Höhe der vorgestellten Situation setzt sich fast regelmäßig eine onanistische Befriedigung (an den Genitalien also) durch, anfangs mit Willen der Person, aber ebenso späterhin mit Zwangscharakter gegen ihr Widerstreben.

この空想には 快感 が結びついていて,その快感のゆえに,それは数え切れぬほどたびたび繰り返されたし,今もなお繰り返されるのである.想像の中の情況が頂点に達すると,必ずといってよいほど,自慰的満足が(つまり性器において)得られる.最初は本人の意志であったのだが,後になるとそれは強迫的性格を帯びてきて,本人の抵抗に反してなおも同じことが起るのである.

この空想は 快感情 に結びついているので,これまで幾度となく再生産されてきたし,いまも現に再生産されつつある.空想された状況がピークに達すると,まず例外なしに自慰的な(つまり性器における)満足が達成されることになる.それは,最初のうちは本人の意志によるのだが,のちには本人の意に反し,強迫的な性質のものとして達成される.

この幻想には 快の感覚 が結びつけられており,それがゆえに,それは,[過去において]数えきれぬほどの回数,再現された — または,[分析治療の時点においても]なおも,数えきれぬほどの回数,再現され続けている.表象された状況の頂点においては,ほぼ毎回,オナニー満足(つまり,性器における満足)が,達成される — 始めのうちは[もっぱら]当人の意志によって;だが,のちには,行為は強迫的性質を帯びるようになり,当人の意志に反してオナニー満足が達成されることも[当人の意志による場合と]同じ程度に起こるようになる.


Das Eingeständnis dieser Phantasie erfolgt nur zögernd, die Erinnerung an ihr erstes Auftreten ist unsicher, der analytischen Behandlung des Gegenstandes tritt ein unzweideutiger Widerstand entgegen, Schämen und Schuldbewußtsein regen sich hiebei vielleicht kräftiger als bei ähnlichen Mitteilungen über die erinnerten Anfänge des Sexuallebens.

このような空想はためらいがちにしか告白されない.この空想が初めて浮かんだときの記憶も定かでなく,この空想を対象とする分析的治療は明らかな抵抗に出会う.この場合に呼び起される差恥と罪悪感とは,患者が記憶にある性生活の開始について同様の報告をするときより,恐らくもっと激しいものであろう.

ひとはこうした空想をためらいがちに告白する.はじめて空想したときを想い出そうとしても曖昧だ.これに取り組もうとする分析治療は,正面きった抵抗にあう.おそらくこの場合,恥ずかしい気持や罪の意識が,同じく性生活のはじまりを想い出して語るときにもまして,強く働くのである.

この幻想の告白は,かならず ためらいつつ 為される.それがいつ最初に出現したのかの想起は,不確かである.それを対象とする分析治療に対しては,まぎれもない抵抗が生ずる.その際,羞恥と罪意識が,[子ども時代に]性的活動がどのように始まったかの想起を同様に報告する際よりも,おそらく より強く かきたてられるのだろう.


Es läßt sich endlich feststellen, daß die ersten Phantasien dieser Art sehr frühzeitig gepflegt worden sind, gewiß vor dem Schulbesuch, schon im fünften und sechsten Jahr. Wenn das Kind in der Schule mitangesehen hat, wie andere Kinder vom Lehrer geschlagen wurden, so hat dies Erleben die Phantasien wieder hervorgerufen, wenn sie eingeschlafen waren, hat sie verstärkt, wenn sie noch bestanden, und ihren Inhalt in merklicher Weise modifiziert. Es wurden von da an »unbestimmt viele« Kinder geschlagen. Der Einfluß der Schule war so deutlich, daß die betreffenden Patienten zunächst versucht waren, ihre Schlagephantasien ausschließlich auf diese Eindrücke der Schulzeit, nach dem sechsten Jahr, zurückzuführen. Allein dies ließ sich niemals halten ; sie waren schon vorher vorhanden gewesen.

この種の空想は非常に幼い時期,確実に学齢期以前,すでに五歳とか六歳の頃には描き始められていたことが,最後には確定されるのである.子供が学校に行くようになり,他の子供たちが教師から叩かれるのを一緒に目撃すると,この体験が以前の空想を,もしそれが眠り込んでいるならば再び呼び覚まし,また,もしまだ持続しているならばそれを強め,その内容をはっきりと目立つ仕方で修正したのである.その時以来「はっきりしないがとにかく多数」の子供が空想の中で叩かれた.学校の影響はきわめて明白であったから,当の患者たちはまず最初は,彼らの 殴打空想 をもっぱら学校時代の,すなわち六歳になってから後のこのような印象のせいであると説明する誘惑にかられた.しかしながらそのように説明し通すことは決して成功しなかった.殴打空想はそれ以前からすでに存在していたからである。

だが最後まで分析してみると,この種の空想はきわめて早い時期,つまり就学前の生後五年目や六年目の頃すでに育まれていたことが確認される.学校へ上がった子供は,ほかの子供たちが教師にぶたれるところを目の当たりにする.あの空想は,それが休眠していた場合には,この体験によってふたたび呼び覚まされる.依然として持続していた場合には,強化される.しかも空想の内容は,奇妙なぐあいに変形される.すなわち,以後ぶたれるのは「不特定多数」の子供なのだ.学校の影響はきわめて明白で,患者たち自身まっさきに,ぶたれるという空想 をもっぱら学校時代のこうした印象に,つまり生後六年目以降の印象に遡らせようとした.しかしこの説明はまったく成り立たない.あの空想は,それ以前からすでに存在していたのである.

最終的に,次のことが確かめられる:すなわち,その種の幻想の最初のものは,非常に早い時期に  確実に 就学前,[生後]第 5 - 6 年[満 4 - 5 歳]には 既に — 育まれていた.子ども[時代の患者]が[就学後]学校で ほかの子どもたちが教師から[処罰や折檻のために 鞭や棒で]叩かれる様子を[ほかの子どもたちと]ともに 見たとき,その[目撃]体験は,[叩かれ]幻想を,再び呼びさまし — それが休眠していた場合 —,あるいは 強化し — それがなおも存続していた場合 —,そして,その内容を 顕著に 変化させた:爾後,叩かれるのは「不特定多数」の子どもたちであることになった.学校の影響は とても明白であったので,当該の患者たちは,まずは,叩かれ幻想[の成因]を,もっぱら 学校時代 —[生後]第 6 年[満 5 歳]以降  の印象へ帰してみたくなるほどであった.しかし,それ[その推論]は,決して維持されなかった;叩かれ幻想は,それ以前に 既に 成立していた.


Hörte das Schlagen der Kinder in höheren Schulklassen auf, so wurde dessen Einfluß durch die Einwirkung der bald zu Bedeutung kommenden Lektüre mehr als nur ersetzt. In dem Milieu meiner Patienten waren es fast immer die nämlichen, der Jugend zugänglichen Bücher, aus deren Inhalt sich die Schlagephantasien neue Anregungen holten : die sogenannte Bibliothèque roseOnkel Toms Hütte und dergleichen. Im Wetteifer mit diesen Dichtungen begann die eigene Phantasietätigkeit des Kindes, einen Reichtum von Situationen und Institutionen zu erfinden, in denen Kinder wegen ihrer Schlimmheit und ihrer Unarten geschlagen oder in anderer Weise bestraft und gezüchtigt werden.

上級クラスになって子供たちが叩かれることがなくなると,その影響は,やがて重大な意味を持つようになる読書からの感化によって取って代られるだけではなくなる.私の患者たちの生活環境の中では,殴打空想が読書内容から新しい刺戟を受ける本といえば,ほとんどいつも同じ,少年たちの手に入りやすい本,いわゆる「ばら文庫」の『アングル・トムの小屋』とかその類の本であった.これらの文学作品と競って,子供独自の空想活動もまた,子供たちが悪さや不行儀のために叩かれたり,その他の仕方で罰を受け,折檻されるいろいろな状況や制度をたっぷり考え出し始めたのである.

子供たちは上級学年になるとぶたれなくなる.それにかわって読書が影響を及ぼすようになり,まもなく重大な意味をおびることになる.私が出会った患者たちの環境では,ぶたれるという空想に新たな刺激を与えることになる内容は,ほとんどいつも同じだった.つまり,青少年の手近にある書物である.たとえば薔薇文庫や『アンクル・トムの小屋』などがそれだ.こうした文学作品と競うようにして子供自身の空想活動がはじまり,ありとあらゆる状況や制度が考え出される.そこでは子供たちは,その悪ふざけや不作法ゆえにぶたれたり,罰を受けたり,懲らしめられたりするのである.

[学校で]進級につれて 子どもたちが[処罰や折檻のために 教師から]叩かれることがなくなると,その[目撃体験の]影響は,〈すぐさま意義深いものとなる〉読書の作用によって,代理された — というより,単に代理される以上のことになった.わたしの患者たちの[社会]環境においては,ほぼ常に同じ〈若者たちが手に取りやすい〉本 — いわゆる Bibliothèque rose や『アンクル トム の 小屋』等々 — の内容から,叩かれ幻想は[その発展のために]新たな刺激を得た.それらのフィクションとの競合において,子ども自身の幻想活動 — つまり,〈そこにおいて,子どもたちが,「悪い子」であり「悪いこと」をするがゆえに,[鞭や棒で]叩かれ,あるいは,ほかのしかたで 処罰や折檻を受ける ところの〉さまざまな状況や施設[学校,寄宿舎,児童養護施設,等々]を 豊かに創作する幻想活動 — も始まった.


Da die Phantasievorstellung, ein Kind wird geschlagen, regelmäßig mit höher Lust besetzt war und in einen Akt lustvoller autoerotischer Befriedigung auslief, könnte man erwarten, daß auch das Zuschauen, wie ein anderes Kind in der Schule geschlagen wurde, eine Quelle ähnlichen Genusses gewesen sei. Allein dies war nie der Fall. Das Miterleben realer Schlageszenen in der Schule rief beim zuschauenden Kinde ein eigentümlich aufgeregtes, wahrscheinlich gemischtes Gefühl hervor, an dem die Ablehnung einen großen Anteil hatte. In einigen Fällen wurde das reale Erleben der Schlageszenen als unerträglich empfunden. Übrigens wurde auch in den raffinierten Phantasien späterer Jahre an der Bedingung festgehalten, daß den gezüchtigten Kindern kein ernsthafter Schaden zugefügt werde.

子供が叩かれるという空想観念には必ず高度の 快感 が 充当 されており,最後には快感の多い自体愛的満足の行為で終ったから,学校で他の子供が叩かれる様子を目撃することも同様の 快楽 の源泉であっただろう,と期待することもできよう.しかしながら,それは決してそうではなかった.学校で現実の殴打場面を共に体験することは,それを目撃している子供の中に,拒絶の気持が大きく関与していて,奇妙に興奮した,おそらく復雑に入りまじった感情を呼び覚ましたのである.若干のケースでは,殴打場面を現実に体験することは耐えられないと感じられていた.ついでにつけ加えると,後年になってからの手の込んだ空想の中でも,折檻される子供に重大な危害が加えられることはないという条件は固く守られたのである.

子供がぶたれるという空想イメージはかならず,高度の  を 備給 され,快に満ちた自体性愛的な満足が得られる行為で終わるものだった.だとすると,学校でほかの子供がぶたれるのを目撃するような場合も,同様の 楽しさ の源泉になると推定できるかもしれない.だが実際には,そういうことはない.学校で現実に子供がぶたれる状況を体験することは,それを見ていた子供に奇妙に興奮した感情,おそらく複雑な,つまり受け入れられないという気持が大半を占める感情を呼び起こす.現にいくつかの事例では,そうした場面を実際に体験することはとても耐えきれないと受け取られていた.ちなみに,後年の丹念に練り上げられた空想においても,折檻される子供は深刻な傷を負わないことになっていた.

幻想表象 :「子どもが叩かれる」は,毎次,高度の  で 修飾 されており,かつ,快に満ちた autoerotisch な 満足の行為へ至っていた.それゆえ,ほかの子どもが学校で[処罰や折檻のために 教師から]叩かれるのを傍観することは,同様の  の源であっただろう,と 我々は期待し得るかもしれない.ところが,実際には決してそうではなかった.学校において現実の叩かれ光景を共体験することは,傍観している子ども[フロィトの患者自身]に,一種独特の興奮感覚を喚起した — その一種独特の興奮感覚とは,おそらく[快と不快の]混合感覚であり,そこにおいては[不快のゆえの]拒絶感が大きな部分を占めていた.いくつかの症例においては,叩かれ光景の現実体験は 耐えがたいもの と感ぜられていた.ちなみに,後年の〈より洗練された〉幻想においても,折檻される子どもたちに 深刻な傷害が加えられることはない という条件が,堅持された.


Man mußte die Frage aufwerfen, welche Beziehung zwischen der Bedeutung der Schlagephantasien und der Rolle bestehen möge, die reale körperliche Züchtigungen in der häuslichen Erziehung des Kindes gespielt hätten. Die nächstliegende Vermutung, es werde sich hiebei eine umgekehrte Relation ergeben, ließ sich infolge der Einseitigkeit des Materials nicht erweisen. Die Personen, die den Stoff für diese Analysen hergaben, waren in ihrer Kindheit sehr selten geschlagen, waren jedenfalls nicht mit Hilfe von Prügeln erzogen worden. Jedes dieser Kinder hatte natürlich doch irgend einmal die überlegene Körperkraft seiner Eltern oder Erzieher zu spüren bekommen ; daß es an Schlägereien zwischen den Kindern selbst in keiner Kinderstube gefehlt, bedarf keiner ausdrücklichen Hervorhebung.

われわれは,殴打空想の意味と,現実の体罰が子供の家庭における教育の中で果した役割との間にどのような関係が存在するであろうか,という質問を提起せざるをえなかった.この場合には逆の関係が生じるであろうという一番手近な推測は,材料が一面的であったために証明することができなかった。これらの分析のための材料を提供してくれたのは,その幼児期を叩かれるという経験を非常に稀にしか持たずに過した人々であったし,いずれにせよ 殴ることによって 教育された人々ではなかった.しかしもちろん,これらの子供の誰もが,それでもいつかは両親あるいは教育者の体力的優勢に気づかされていた.子供同志の殴り合いそのものはどの子供部屋にも起ることで,特別に強調する必要もないことである.

おのずと出る問いは,現実の体罰が家庭での子供の教育に果たす役割があるのなら,そうした役割とぶたれるという空想とのあいだに,どんな関連があるのか,というものである.これについてはただちに,そこには反比例の関係がありそうだと推測された.だがこの推測は,資料に片寄りがあるため,裏づけられなかった.この問題の分析に材料を提供してくれた患者たちで,子供時代にぶたれたことのあるひとは稀だったのである.少なくとも,で打たれて 教育されたひとは皆無だった.とはいえ,こうした子供たちもむろんなんらかの機会に,両親もしくは教育者が腕力において自分に勝るものであることを感得していた.子供部屋では子供同士の叩き合いがつきものであるのは,わざわざ強調するまでもなかろう.

我々は,次の問いを[患者たちに]投げかずにはいられなかった:叩かれ幻想の意義 と,子ども[子ども時代の患者]の家庭教育において現実の身体的折檻が果たした役割 との間には,如何なる関係が成り立ち得るか?すぐに思いつかれる推測 — そこには,逆相関が見出されるだろう — は,臨床材料の偏りのために,証明されなかった.この分析のために材料を提供してくれた人々は,子ども時代に[処罰や折檻のために]叩かれたことは,ほとんどなかった.いずれにせよ,彼れらは,[つまり 体罰]の助けを借りて 行われるような教育を受けてはいなかった.勿論,それでも,彼れらは皆,子ども時代のあるとき,親や教師の体力的優位を感じ取ってはいた.子どもどうしの[暴力的な]けんかが起きない子ども部屋はない ということは,明示的に強調するまでもない.


Bei jenen frühzeitigen und simplen Phantasien, die nicht offenkundig auf den Einfluß von Schuleindrücken oder Szenen aus der Lektüre hinwiesen, wollte die Forschung gern mehr erfahren. Wer war das geschlagene Kind ? Das phantasierende selbst oder ein fremdes ? War es immer dasselbe Kind oder beliebig oft ein anderes ? Wer war es, der das Kind schlug ? Ein Erwachsener ? Und wer dann ? Oder phantasierte das Kind, daß es selbst ein anderes schlüge ? Auf alle diese Fragen kam keine aufklärende Auskunft, immer nur die eine scheue Antwort : »Ich weiß nichts mehr darüber ; ein Kind wird geschlagen.«

明らかに学校での印象あるいは読書によって知った場面の影響を示唆していない,例の幼い時期の単純な空想を研究し,これについてもっと多くのことを知りたいとわれわれは考えた.叩かれた子供は誰であったか.空想をしている子供自身であるのか,他の子供であるのか.いつも同じ子供が叩かれたのか,他の子供も好きなだけたびたび叩かれたのか.子供を叩いたのは誰か.大人なのか.もしそうであれば,それは誰なのか.それとも,その子供は自分自身が他の子供を叩くところを空想したのであろうか.このような質問のすべてに対し,解明の手掛りとなる情報は何も与えられなかった.いつも,誰か子供が叩かれるのですが,それ以上のことはわかりません,というおずおずとした答が返ってくるだけであった。

学校で受けた印象や本を読んで知った場面からの影響があったことをはっきり示すわけではない,早い段階での単純な空想について,さらに研究をすすめてみようと思った.ぶたれる子供は誰なのか.空想をたくましくしている当人なのか,それとも別人なのか.いつも同じ子供がぶたれるのか,それとも思いのまま頻繁にほかの子供と入れ替わるのか.子供をぶったのは誰か.大人か,そして大人だとするなら誰か.それとも,空想している子供自身が,ほかの子供をぶったのか.これらの質問にたいし納得のいく説明が得られることはなく,ただいつもしどろもどろの返事がかえってくるだけだった.「子供がぶたれる、それ以上のことは分からないのです」.

幼いころの単純な[叩かれ]幻想 — 学校で受けた印象や本で読んだ光景からの影響を明らかに示してはいないもの — に関して,我々の研究は より多くを識りたいと思った.叩かれる子どもは,誰だったのか?幻想する者自身か,あるいは,ほかの者か?叩かれる子どもは,常に同じだったのか,あるいは,任意の頻度で ほかの子どもと入れ替わったのか?子どもを叩くのは,誰だったのか?おとなか?であれば,誰か?あるいは,子ども[子ども時代の患者]は,彼れ自身が ほかの子どもを叩く と 幻想していたのか?それらの問いすべてに対して,返ってくるのは,事態を明らかにしてくれる情報ではなく,常に,ひたすら,同一の〈おずおずとした〉答えだった :「それらのことについては,わたしは もう 何も憶えていません.子どもが ひとり 叩かれるのです」.


Erkundigungen nach dem Geschlecht des geschlagenen Kindes hatten mehr Erfolg, brachten aber auch kein Verständnis. Manchmal wurde geantwortet : »Immer nur Buben«, oder : »Nur Mädel« ; öfter hieß es : »Das weiß ich nicht«, oder : »Das ist gleichgültig.« Das, worauf es dem Fragenden ankam, eine konstante Beziehung zwischen dem Geschlecht des phantasierenden und dem des geschlagenen Kindes, stellte sich niemals heraus. Gelegentlich einmal kam noch ein charakteristisches Detail aus dem Inhalt der Phantasie zum Vorschein : »Das kleine Kind wird auf den nackten Popo geschlagen.«

叩かれた子供が男であったか女であったか,という問いの方がまだしも成果を上げたが,それもまた何の理解をももたらさなかった.いつも男の子たちだけとか,女の子ばかりという答が時には返ってきたが,わかりません,とか,それはどうでもよいことです,という答が返ってくることの方が多かった.質問する者にとって重大であったこと,空想をしている子供の性別と叩かれる子供の性別の聞の一定の関係は,一向に明らかにならなかった.たまたまあるとき,空想の内容の特徴的な細部がもう一つ明らかになった.小さい子供が裸の尻を叩かれる,というのである.

ぶたれる子供の性別について尋ねてみると、こちらはもう少し得るところがあったものの、納得がいくものではなかった。つまり、「ぶたれるのは男児だけです」、あるいは「女児だけです」という場合もあったが、たいていは「分かりません」もしくは「どちらでも同じことです」という返答だったのである。質問者にとっては、空想する子供の性別とぶたれる子供の性別とのあいだに一定の関係があるかどうかが関心事だったのだが、それは分からなかった。ただときどき、空想内容からある特徴的な細部が浮かび上がってきた。すなわち、小さな子供はお尻を裸にしてぶたれるのである。

叩かれる子どもの性別に関する質問は より多くの結果を得たが,しかし,それで 何かがわかったわけではなかった.ときおり,「いつも男の子だけです」とか「女の子だけです」と回答されたが,より多くの場合,「わかりません」とか「性別は どちらでもよいのです」と回答された.質問者 [ Freud ] にとって重要なこと  幻想する子ども[患者]の性別と叩かれる子どもの性別との間に一定の関係があるのか否か — は,決して判明しなかった.たまたま あるとき,幻想の内容から ひとつの特徴的な細部が 現れ出てきたことがあった :「その幼い子どもは,裸のお尻を叩かれるのです」.


Unter diesen Umständen konnte man vorerst nicht einmal entscheiden, ob die an der Schlagephantasie haftende Lust als eine sadistische oder als eine masochistische zu bezeichnen sei.

このような事情のもとでは,殴打空想に固着している 快感 をサディスティクなものと見倣すべきか,あるいはマゾヒスティクなものと見倣すべきかすら,差し当たり決めかねたのであった.

こうした状態だったので最初のうちは,ぶたれるという空想にともなって現れる  をサディズム的なものとみるべきか,それともマゾヒズム的なものとみるべきかさえ,判断することができなかった.

以上のような状況において,さしあたっては,叩かれ幻想に付着している  を sadistisch な快と特徴づけるべきか あるいは masochistisch な快と特徴づけるべきか を決めることは できなかった.


以上が,論文の導入部分である.以下,Freud は,不特定の子どもが不特定の誰かによって叩かれる光景から成る幻想 — その幻想は,比較的 女性に多く見られ,sadomasochistisch な悦に満ちている  が如何に成立したかを,オィディプス複合との関連において,分析して行く.

ともあれ,とりあえずは,翻訳の問題を いくつか 見ておこう.

あらかじめ指摘しておくと,人文書院版でも岩波書店版でも,訳者は,ドイツ文学者であり,明らかに,精神分析の理論に精通していない.そのような者たちに「フロイト全集」の邦訳作業を任せるとは ! — いかに,日本には,Freud をドイツ語で読める精神分析家がほとんどおらず,そもそも,精神分析家そのものがほとんどいない とはいえ.だが,そもそも,いったい,そのような社会において,敢えて Freud の Gesammelte Werke すべてを翻訳する意義があるのか?あるとすれば,如何なる?「フロイト全集」の作成に携わった者たちは,そのことについて 少しでも自問したことがあったのだろうか?

わたしであれば,Freud の著作のうちでも 最も基本的なもののひとつと見なされており,かつ,比較的短いもの を選び出し,そして,単純に邦訳するのではなく,ドイツ語の原文も提示し,かつ,詳しい解説をほどこす — そのような本(値段も 1,000 円前後)を作ろうとするだろう.その方が,各巻 数千円もする「フロイト全集」よりは,よほど有意義なはずである.

ともあれ,人文書院版に誤訳が多いことは,以前から指摘されていた.そしてまた,やはり問題が少なくない岩波書店版が 決定版「フロイト全集」として出版される.所詮,明治時代以降の日本の「文化」は そのようなレベルのものにすぎない.

さて,Freud 自身は「精神分析用語」を作ろうとはしなかったとはいえ,我々が 今 Freud の著作全体を振り返ってみるとき,当然,幾つかの語や表現が keywords として浮上してくる.Ein Kind wird geschlagen の導入部分に登場してきたものに限っても,Phantasie, Vorstellung, Lust, Besetzen などの語が注目される.

精神分析においてかかわる Phantasie は「空想」か「幻想」か?「空想」は,「空想科学小説」(science fiction) におけるように,どちらかと言えば,原則的に 性的ではないものである.それに対して,「幻想的な物語」においては,たいてい,性的なものが 妖しげな美の姿のもとに 描き出される.精神分析において扱われる Phantasie は,この「子どもが叩かれる」幻想のように,たいてい,性的な興奮や満足に関連している.したがって,「空想」よりは「幻想」の方が,Phantasie の訳語としては,よりふさわしいだろう.

Vorstellung という語を,Freud は,理論的な議論のなかで しばしば用いている.この語は,特に「精神分析用語」というわけでなく,哲学や美学や心理学などの領域においても用いられており,その訳語としては「表象」が定着している.人文書院版の訳者も 岩波書店版の訳者も — ふたりともドイツ文学者 — そのことを知らないわけだ.

Lust は,Freud の最も重要な keywords のひとつである.さすがに,岩波書店版では「快」と訳されている.人文書院版より若干進歩していることを 評価してもよいだろう.

ところが,Lust の反対概念である Unlust[不快]を,岩波書店版の訳者は,Freud の keyword として捉え得ていない(勿論,人文書院版の訳者も).そして,そのせいで,岩波書店版の訳者は,人文書院版の訳者の誤訳をふまえたとしか思えないような,致命的な誤訳を犯している.その部分を見てみよう (GW XII, p.214) :


... aber die Passivität ist noch nicht das Ganze des Masochismus ; es gehört noch der Unlustcharakter dazu, der bei einer Trieberfüllung so befremdlich ist. 

小笠原訳:しかし,受動性は,まだ,Masochismus のすべてではない;そこには,さらに,不快 という特徴が属している — それは,本能成就においては,はなはだ奇妙なことである.

人文書院版:しかし受動性だけではまだマゾヒズムの全体ではない.そこにはさらに,欲動の満足に際して 非常に やましい気分 にさせる うとましさ が必要である.

岩波書店版:しかしながら,受動性がマゾヒズムのすべてというわけではない.マゾヒズムは 疚しさ という性格をもともなうものであり,これが欲動充足のさいに違和感をもたらす.



この一節を正確に読むためには,Freud の Metapsychologie の基本命題のひとつである これを知っていなければならない:


eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll (GW X, p.248).

本能満足は,常に に満ちている.



その命題を含む一節全体 — それは,1915年に執筆された一連の Metapsychologie の論文のひとつ Die Verdrängung の最初のページに見出される — を見ておこう(わたしは,Verdrängung を「抑圧」ではなく「排斥」と訳す):


Die Möglichkeit einer Verdrängung ist theoretisch nicht leicht abzuleiten. Warum sollte eine Triebregung einem solchen Schicksal verfallen ? Offenbar muß hier die Bedingung erfüllt sein, daß die Erreichung des Triebzieles Unlust an Stelle von Lust bereitet. Aber dieser Fall ist nicht gut denkbar. Solche Triebe gibt es nicht, eine Triebbefriedigung ist immer lustvoll. Es müßten besondere Verhältnisse anzunehmen sein, irgend ein Vorgang, durch den die Befriedigungslust in Unlust verwandelt wird.

排斥の可能性は,理論的には 容易に導き出され得ない.なぜ ひとつの本能活動が そのような運命に陥らねばならないのだろうか?明らかに,そこにおいては,この条件が満たされていなくてはならない:すなわち,本能目標の達成が,の代わりに,不快をもたらす,という条件.しかし,それは なかなか考えにくいことである.「本能目標の達成が不快をもたらす」というような本能は,無い.本能満足は,常に に満ちている.[したがって]特別な事情 — 其れによって本能満足の不快へ変えられるところの何らかの過程 — が,仮定されねばならないだろう.



明らかに,既成のフロィト邦訳を企画した者たちは,Freud の著作のなかでも基本中の基本である Metapsychologie の諸論文をさえ まともに読んでおらず,翻訳作業を行った個々の翻訳者たちの仕事のできばえを検証することができていない.よく それで 邦訳「フロイト著作集」や 邦訳「フロイト全集」を作ろう と思い立てたものだ.あきれかえるしかない(おそらく『エクリ』邦訳者は あきれかえらないだろうが).

精神分析用語に関しては,もうひとつ,動詞 besetzen(それに由来する名詞は Besetzung)を見ておこう.それは,「子どもが叩かれる」の論文の導入部分においては,die Phantasievorstellung ist mit höher Lust besetzt[その幻想表象は,高度の快で besetzen されている]という文のなかで使われている.この Lust は,Libido と言い換えることもできる.実際,besetzen という動詞は,ein Objekt mit Libido besetzen[ある客体(対象)を リビードで besetzen する]という構文において,頻繁に用いられる.

この besetzen は,人文書院版では「充当する」と訳され,岩波書店版では「備給する」と訳されている.すると,どうなるか?我々は,「リビードを ある客体に 充当する,備給する」と言うことになってしまう.つまり,動詞の直接目的語が,客体ではなく,リビードになってしまう.これは,避けるべきである.やはり,Freud が用いたドイツ語の統辞構造を,邦訳においても再現すべきである.であれば,「ある客体を リビードで 修飾 する」と言うのがよかろう.実際,besetzen という動詞は,ドイツ語では,たとえば einen Mantel mit Pelz besetzen[外套を毛皮で装飾する — つまり,外套を その襟や裾に毛皮を縫い付けて 飾る]という表現において使われる.同様に,客体は,リビード修飾 (Libidobesetzung) をほどこされることによって,欲望の客体となる.

そのほか,精神分析用語ではない語や表現の邦訳の問題も,指摘しておこう.


小学校における教師による生徒への体罰を描いた 1849 年のドイツの風刺画

このテクストにおいてかかわる schlagen は,「教師や親が 子どもを 処罰や折檻のために 鞭や棒で 叩く」ことである.したがって,schlagen を「殴る」とか「殴打」と訳すことは適当ではない.「ぶつ」という俗語(本来は「打つ」)を使うか否かは,ほとんど「好み」の問題であろう.わたしは,「叩く」を選ぶ.

最後に,次の一節 (GW XII, pp.215-216) の邦訳の質を吟味してみましょう:


Ich habe bereits ausgeführt, welche Bedeutung die dritte, scheinbar sadistische Phase der Schlagephantasie als Träger der zur Onanie drängenden Erregung zu gewinnen und zu welcher teils gleichsinnig fortsetzenden, teils kompensatorisch aufhebenden Phantasietätigkeit sie anzuregen pflegt. 

人文書院版:
私はすでに,自慰へと駆り立てる興奮の担い手としての殴打空想の一見サディスティクな第三段階にはどのような意義が発見できるか,また,一方では同じ意味を持つという点で継続的な,他方では補償的であるという点で相殺的なこの空想活動を,この段階が普通はどのように活気づけるかを詳論した。

岩波書店版:
すでに詳論したとおり,ぶたれるという空想は,第三局面においては一見したところサディズム的となり,自慰へと追い立てる興奮の運搬役として重要な意味を獲得した.またこの局面での空想は,一方では同様の方向で作用しながら,他方ではそれを打ち消して補償的に働く空想活動を発動させるのがつねである.


die dritte, scheinbar sadistische Phase der Schlagephantasie[叩かれ幻想の第三の〈一見 sadistisch なものに見える〉位相]という表現について説明しておくと,Freud は,叩かれ幻想は 女性においては 次の過程を経て成立する,と論じている:

第一位相:父は,わたしにとっていとわしい子どもを,叩く(その含意するところは:父は,わたしにとっていとわしい子どもを 愛してはおらず,わたしだけを 愛している — すなわち,近親相姦的な愛);

第二位相:わたしは,父によって,叩かれる (masochistische Phantasie) ;

第三位相 :(わたし以外の)不特定多数の子ども(性別も不特定だが,男の子である場合が多い)が,誰か(おとな)によって,叩かれる.

この最後の第三位相が,精神分析治療において患者が証言する幻想 »ein Kind wird geschlagen«[子どもが叩かれる]である.Freud は,如何にして この叩かれ幻想が 性的興奮の担体となったのかを問う.そして,それを,こう説明する:第二位相は,排斥を被って,第三位相により代理される;そして,その際,第二位相が包含する masochistisch な悦は,第三位相へそのまま引き継がれる;したがって,第三位相においては,患者自身は 幻想光景のなかに登場しないか,あるいは,せいぜい,傍観者として位置づけられるだけであることにおいて,第三位相が包含する悦は,一見,sadistisch なものに見える — 患者自身が叩かれているわけではないので;しかし,その悦は,実は,masochistisch なものである.

また,叩かれ幻想を有する女性患者 4 人のうちの ふたりが,みごとに芸術的に作り上げられた白昼夢をも証言していることに,Freud は言及している.その物語においては,主人公は若い男であり,彼は,彼の父親によって,叩かれる(あるいは 処罰され,あるいは 屈辱的な扱いを受ける)ことになる.そして,その白昼夢は,それだけで十分な悦を彼女たちに与えるので,彼女たちはオナニー行為をする必要がなくなる(いわゆる「やおい」や BL ものの女性向け漫画を この方向性において読解することは できるだろうか?)

以上のことを踏まえないと,先ほど提示した GW XII, pp.215-216 の一節を正しく読むことはできない.


小笠原訳:
叩かれ幻想の第三の〈一見 sadistisch なものに見える〉位相は,オナニーへ急き立てる興奮の担体として,如何なる意義を得ることになるか,また,それは,如何なる幻想活動 — 片や,同じ方向性で[第二位相の masochistisch な悦を引き継ぐ担体として]進展して行き,片や,[白昼夢の悦がオナニーの悦を代理することにおいて]代償的に止揚する幻想活動  へ[患者を]促すことになるかを,わたし [ Freud ] は,既に[GW XII, pp.210-211 において]説明した.


人文書院版の訳 および 岩波書店版の訳を わたしの訳と比較してみれば,それらの訳が如何に不適切なものであるかが 見て取れるだろう.

岩波書店が「フロイト全集」出版のせいで財政難に陥ることはないだろう.が,いずれにせよ,それが有意義なものであったかどうかは はなはだ疑問である,と言わざるをえない.

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