2020年1月25日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (9)

William Bouguereau (1825-1905), Flagellation de Notre Seigneur Jésus Christ[わたしたちの主 イェス キリスト の 鞭打ち](1880), au Musée des Beaux-Arts de La Rochelle



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール (24 I 2020)


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (9)



如何に Freud が ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]の幻想を分析しているかを,見て行きましょう.

精神分析治療中の患者 幾人かが,その幻想を,Freud に語ります.それは,非常に漠然とした「誰か不特定な子ども[いずれにせよ,患者自身ではない]が,誰か不特定な者によって,どのようにか不特定なしかたで,叩かれる」という光景から成っています.ただ,それは,悦に満ちており,かつ,羞恥や罪意識を伴います(つまり,かかわっているのは,単純な快ではありません).その幻想が思い出されると,性的興奮が惹起され,オナニー行為が誘発されます.それは,いわゆる masturbation fantasy[オナニーの際,性的興奮を維持し,高めるために思い浮かべられる幻想]として意図的に利用されることもありますが,患者本人の意志に反して,一種の強迫観念として頭に浮かんでくることもあります.

その幻想が始まったのは 患者たちが まだ幼いときで,満 4 - 5 歳のころには それは既に成立していました.「子どもが叩かれる」光景は,幻想としては 悦に満ちていますが,しかし,患者たちにとって,子ども時代,学校でほかの子どもたちが教師から折檻を受ける光景を見ることは,快と不快の入り混じった一種独特の興奮感覚 — まさに「快の彼方」としての「悦」(jouissance) — を惹起し,そこにおいては,不快のゆえの拒絶感が大きな部分を占めていました.そのような光景を耐えがたいものと感ずる患者もいました.

「子どもが叩かれる」の幻想に関する証言を Freud が得たのは,6 人の患者からです.彼れらのうち,2 人が男性,4 人が女性です.年齢は不明ですが,Freud は 原則的に言って 小児を診療することはないので,いずれも成人例(若くても高校生相当の年齢)であると思ってよいでしょう.診断は,強迫神経症が 3 例(日常生活に支障が出るほど非常に重篤な例がひとり,重症度が中等度である例がひとり,強迫神経症の特徴を幾つか呈する程度の例がひとり),明白なヒステリー症例がひとり,診断学的に明確には分類できない(主訴は,「人生において決断することができない」)例がひとりです(もう 1 例に関しては,Freud は言及し忘れているようです).いずれにせよ,臨床的に性倒錯 (Sadomasochismus) と診断されるような例は ありません.また,どの例が男性であり,どの例が女性であるのかは,不明です.

Freud は,とりあえず,女性患者 4 例のみにもとづいて,如何に「叩かれ幻想」が成立したのかについて,分析を進めます.

「子どもが叩かれる」光景は,非常に漠然としていますが,女性例に限ってみると,叩かれる子どもは男の子であることが多い,と わかります.「叩かれる」は,「処罰される」や「屈辱的な経験を強いられる」によって代理されることもあります.また,4 例のうち,2 例は,単純に「子どもが叩かれる」光景を思い浮かべるだけでなく,より芸術的に展開された物語から成る白昼夢を作り上げます.その物語の主人公は,必ず,若い男であり,彼は,彼の父親から,叩かれ,あるいは 処罰され,あるいは 屈辱的なしうちを受けます.そのような白昼夢は,それだけで十分な満足を患者に与えるので,患者は,オナニー行為をしないでおくことが可能になります(単純な「叩かれ幻想」が,オナニー行為を誘発するのに対して).

Freud は,「オィディプス複合は,神経症の本来的な核である」(der Ödipuskomplex ist der eigentliche Kern der Neurose) という原理にもとづいて,患者が 4 - 5 歳のときには既に成立していたであろう「叩かれ幻想」の成立過程を,次のように再構築します:

1) 患者は,既に,オィディプス複合の段階に達していた;そこにおいては,性器体制 (Genitalorganisation) が成立しており,患者は,父に対して,近親相姦的な愛 (inzestuöse Liebe) の関係にあった — 勿論,実際に近親相姦的な性行為をしたわけではなく,近親相姦的な愛の幻想を有していただけである.が,その近親相姦的な愛の幻想には,性器的な悦が伴っていた(Freud は 明確にそうは言っていませんが,我々は そう想定し得ます).

2) そのようなオィディプス複合は,しかし,近親相姦の禁止によって,排斥 (verdrängen) される.そして,排斥によって,患者のリビード発達(性本能の発達)は,性器体制から 肛門の段階へ 退行する.その際,性器体制における近親相姦的な幻想 :「父は わたしを 愛する」(der Vater liebt mich) は,肛門の段階における sadomasochistisch な処罰幻想 :「わたしは 父により 叩かれる」へ変形される.しかし,その幻想は,「父は わたしを 愛する」の erotisch な悦を,引き継ぐ.また,近親相姦の禁止を侵し,それがゆえに処罰されていることにともなう罪意識が,新たに付け加わる.

3)「わたしは 父により 叩かれる」という幻想は,さらに排斥を被って,「誰か不特定の子ども — いずれにせよ,わたし[女の子]ではなく,多分,男の子 — が,誰か不特定の者によって,叩かれる」という幻想へ変形される.が,「わたしは 父により 叩かれる」の幻想に付着した悦と罪意識は,そのまま,「誰か不特定の子どもが 誰か不特定の者によって 叩かれる」の幻想へ 引き継がれる.

以上のような Freud の理論的な構築に対して,我々は,Lacan の「性関係は無い」の公理にもとづいて,こう批判を加えることができます:性関係は無い,つまり,性器体制は不可能である.言い換えれば,Freud がオィディプス複合と名づけたものは,本質的には,去勢複合に存する.そこにおいては,性器的関係が成り立つと想定されていたところに,その代わりに,「性関係は無い」の穴 — つまり,書かれないことをやめない 不可能な phallus の穴,つまり,否定存在論的孔穴 — が,現れ出でてくる.

そのことを示唆するのが,Freud が「陰性治療反応」(die negative therapeutische Reaktion) と呼んだものです.陰性治療反応とは,適切な精神分析的解釈が行われ,前性器的なリビード固着が解消され,性器体制への前進が起こるはずだ と期待されていたのに,それに反して,実際に生ずるのは,前性器的なリビード固着の強化による症状の悪化である,という事態です.前性器的な固着が解消されたときに,患者は,「性関係は無い」の穴に直面させられ,その不安を回避するために,再び前性器的な剰余悦に よりいっそう強く固着しなおしたのだ — 我々は,そう分析することができます.

また,Freud が「精神分析の行き詰まり」の地点に改めて見出した究極的な去勢不安も,精神分析治療の行き着くところが「性関係は無い」の穴であることを,示唆しています.

したがって,我々は,如何にして「わたしは 父により 叩かれる」の幻想が構築されるのかを,オィディプス複合無しに,問わねばならないことになります.鍵は,Freud が das kritische Gewissen[批判的な良心]という語によって ちらりと示唆しているもの — つまり,Ein Kind wird geschlagen の論文 (1919) の翌年,1920 年以降に展開される 第 2 トピックにおいて Über-Ich[超自我]と呼ばれることになるもの — と,その「卑猥にして 容赦なき 形象」(la figure obscène et féroce) が発する命令「悦せよ!」(Jouis !) に求められます.

1 月 31 日の講義においては,欲望のグラフのなかに位置づけられている幻想の学素 ( $a ) にもとづいて,幻想の成立過程を見て行きましょう.


0 件のコメント:

コメントを投稿