2020年2月18日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (12)

la construction par Lacan du graphe du désir présentée dans Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien (1960)



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (12)


2020年02月14日の講義:
幻想の学素 ( $a ) と 欲望のグラフ (3)

欲望のグラフは 二段構えになっており,その下段は 大学の言説の構造に対応しています.


そこにおいては,源初論的欲望としての主体 $ の穴は,書かれないことをやめないものの座(生産の座)へ源初排斥されており,否定存在論的孔穴は,Ichideal[自我理想]I(A) — 四つの言説における le signifiant maître[支配者徴示素]S1 に相当 — によって,閉塞されています.それは,存在 の歴史における形而上学的位相の構造です.欲望のグラフの下段だけを見るなら,そこにおいては,否定存在論的孔穴がイデア的なものによって塞がれた構造が,安定しています.

我々ひとりひとりの「発達」においても,思春期が始まるより前の時期(Freud のリビード発達論における潜伏期)までは,否定存在論的孔穴が自我理想によって塞がれた構造が ある程度 安定していることが望ましい.さもなくば,小児期においては,いわゆる 発達障害 や 自閉症 の問題が生じてきますし,また,思春期以降,いわゆる人格障害の問題が生じてきます(心理学や精神医学において「人格」と呼ばれているものは,大学の言説の構造における支配者徴示素 S1 に還元されます).ただし,自我理想による否定存在論的孔穴の閉塞の安定性は,完全なものではありえず,あくまで「多かれ少なかれ」です.「正常な人格」は あり得ません.

ともあれ,次いで,存在 の歴史の終末論的位相 — それは,個人の発達の歴史においては,思春期以降の時期に相当します — においては,それまでの イデア的な支配者徴示素 S1 ないし 自我理想 I(A) による否定存在論的孔穴の閉塞は 無効になり(ニヒリズム [ nihilisme, Nihilismus ] は,そのことに存します),否定存在論的孔穴は 穴として 現出してこようとします.そして,そのことは,同時に,それに対する抵抗と防御を惹起します — つまり,paranoisch な支配者徴示素 S1 が改めて穴塞ぎとして措定され(それは「能動的ニヒリズム」[ der aktive Nihilismus ] と呼ばれます),また,性倒錯的な剰余悦 a が 穴を覆い隠すものとして 増殖してくることによって,形而上学的位相の構造としての大学の言説の構造が 異状 (aliénation) の構造として 維持されようとします.

存在 の歴史の 形而上学的位相 と 終末論的位相 との間の切れ目を,Foucault は,la coupure épistémologique[認識論的な切れ目,科学論的な切れ目]と呼びました.Foucault の言う「古典主義時代」[ l'âge classique ] は 形而上学的位相の最後の時期を成し,現代(フランス革命以降,ないし,19世紀以降)は 終末論的位相と重なり合っています.

個人の発達史においては,その切れ目は,思春期の開始を画します.

形而上学的位相から終末論的位相への移行は,否定存在論的孔穴を塞ぐ機能における支配者徴示素 S1 の変質を条件づけます.Freud の用語で言うなら,終末論的位相において,支配者徴示素 S1 は,イデア的(静的)なものであることをやめ,今や,際限の無い「悦せよ!」(Jouis !) の命令を発する超自我 (das Über-Ich) になります.

形而上学的位相においては,支配者徴示素 S1 は,Platon の ἰδέα がそうであるように,不生不滅であり,恒常不変なものと見なされていました.それとともに,世界秩序(宇宙秩序)は,変化することなく,安定的に保たれ得るもの,と見なされていました.自然科学の分野においても,古典物理学(ニュートン物理学)においては,絶対時間と絶対空間における static universe[静的宇宙]が a priori に前提されていました.

それに対して,相対性理論と量子力学から成る現代物理学においては,宇宙は,もはや,不生不滅でも恒常不変でもなく,而して, 13.8 × 109 年[138 億年]前に誕生し,際限無く拡大しつつあり,最後は,物質密度が限り無くゼロに近い終末状態へ行き着く,と考えられています.現代物理学においてS1 に相当する Theory of Everything (TOE) の問題は未解決ですが,我々は,TOE は不可能である と推測してもよいでしょう — 終末論的位相においては,S1 は「書かれないことをやめない」もの(不可能)ですから.

哲学の分野においては,Heidegger は,形而上学的位相の終焉の証言を,Nietzsche (1844-1900) において 読み取ります.

Nietzsche は,受動的ニヒリズム(イデア的な最高価値が価値を失った事態)を克服するために,最も極端な能動的ニヒリズムとししての古典的ニヒリズム (der klassische Nihilismus) を企て,そこにおいて,従来 形而上学の本質を成してきた Platonismus を反転させて,« dem Werden den Charakter des Seins aufzuprägen »[生成に存在の性格を刻印すること]を,試みます

Platonismus の反転にともなって,支配者徴示素 S1 は Wille zur Macht[力への意志]となります.力への意志は,常に 際限無く より多い,より大きい,より強い Mehr-Macht[剰余力]を欲してやまないことにおいてのみ,自身を 力への意志として 保持し得ます.つまり,「これでもう十分」と言って満足することは,いくら疲弊しても,滅亡するまで許されません.言い換えれば,力への意志の行き着く先は,決して満足し得ないままに,消耗しきって,滅亡することでしかありません(今,資本主義社会は,まさにその道をたどっています).

力への意志を体現する者を,Nietzsche は「超人」(der Übermensch) と名づけます.Nietzsche の言う「超人」は,Freud の言う「超自我」と まさに同じものであり,前者は後者の先駆けであることを,今,我々は,Heidegger による Nietzsche 読解のおかげで,見て取ることができます(実際,Freud は,そのことを予感し,敢えて Nietzsche を読もうとはしなかったそうです — 自身の着想の「独創性」が損なわれないようにするために).

際限無く 常に より多く,より大きく,より強く「悦せよ!」と命令する超自我(力への意志)は,まさに悪魔的です.我々は,異状 [ aliénation ] の構造としての大学の言説の構造に住まうことにおいて,言うなれば「悪魔との契約」に拘束されており,悪魔的な「他の欲望」に支配されています.

その場合,Lacan の言う「他の欲望」は,「悦せよ」と命令する超自我の欲望のことであり,すなわち,四つの言説の構造の「真理の座」に 否定存在論的孔穴を塞ぐものとして措定されている 支配者徴示素 S1 の欲望のことに ほかなりません.

精神分析の終結は 欲望の昇華 [ la sublimation du désir ] に存する,と 我々は公式化しています.その場合,欲望の昇華とは,このことです:悪魔的な「他の欲望」— すなわち,超自我 S1 の「悦せよ」の命令 — を,成就不可能なものとして閉出し,それによって,悪魔の支配から解放され,そして,源初排斥されていた源初論的な欲望 $ の穴を,満たすことも隠すことも不可能な穴として,現出させ,それを,我々自身の Dasein[現場存在]として,我々自身の Dasein において,生きる,ということです.

ところで,悪魔との契約(le pact avec le diable, deal with the devil) は,中世に成立した伝説です.先週 見たように,Jacques Cazotte の Le diable amoureux[愛する悪魔]と Goethe の Faust は,ともに,悪魔との契約の主題にもとづく物語です.

物語の冒頭において,主人公は,悪魔と契約を結びます:悪魔は,召使い(奉仕者)として,主人公に仕え,主人公の欲望を満たしてやる;そして,十分な満足が達成されたとき,その報酬として,悪魔は,主人公の魂を手に入れ,今度は,主人公が奴隷として悪魔に仕える(あるいは,主人公は地獄で永久に苦しみ続ける).

もっとも,Cazotte の物語においては,主人公が満足を表明して,悪魔が恐ろしい素性を彼に思い出させたとき,主人公は,恐怖のあまり 失神します.そして,彼が意識を回復したとき,彼は地獄にはおらず,彼のまわりの世界は何ごともなかったかのように存続しています.つまり,「はたして,あれは すべて 単なる悪夢だったのか?」という疑問を以て,物語は幕切れになります.他方,Faust においては,彼が満足を表明して死ぬと,彼の魂は Mephistopheles の手中に落ちることなく,das Ewig-Weibliche[永遠なる女性的なもの]によって天上へ救済されます(神に感謝!).いずれの場合も,主人公は地獄に落ちてはいません.



ともあれ,Cazotte の物語の冒頭で,主人公に呼び出された悪魔が主人公に措定する問いが,単刀直入な「欲望の問い」です : "Che vuoi ?"[何を おまえは 欲するのか?].



欲望のグラフにおいて,その問いは,欲望 $ のところから発する逆 U 字型の曲線の頂点のところに置かれています.

何を おまえは 欲するのか?より敷衍して言えば:おまえは,源初論な — 破壊不可能な  欲望 $ の穴(否定存在論的孔穴)を満たすものとして,何を欲するのか?おまえにとって,源初論的な欲望 $ の穴を満たし得るものは,何か?

それに対して,我々は 何と答え得るか?とりあえずは,欲しいものを いくらでも列挙することができるかもしれません:ごちそう,うまい酒,権力,名誉,財産,性欲を満たす相手,等々.実際,Le diable amoureux においても Faust においても,主人公たちは,それらの存在事象による悦を 幻想的に 経験して行きます.

しかし,欲望の穴(否定存在論的孔穴)を塞ぎ得るものは,実は,何もありません.如何なる存在事象を以てしても,欲望の穴を塞ぐことはできません.

そのとき,"Che vuoi ?" は,際限なく反復される問いとなります:まだ満たされないのか?では 何なのか?では,さらに,もっと,何を欲するのか?つまり,その際限の無さにおいて,"Che vuoi ?" は,超自我の際限無き「悦せよ」の命令と同じものです.

Alvare(Cazotte の物語の主人公)も,Faust も,際限のない超自我の命令に 消耗しきって,最後に こう答えることになります(実際には そうではないにもかかわらず): 満たされた.

すると,そのとき,thanatique[死的]なものとしての否定存在論的孔穴が口を開き,主人公を呑み込もうとします.

そのような結末から遡って 物語を読み返してみるなら,物語において悦の経験として展開されてきたものは,最終的な死の穴の手前に — その最終的な死の穴を覆い隠すために — 置かれていた imaginaire な何か にほかなりません.そして,それこそが,幻想 $ ◊ a ) "Che vuoi ?" の問いに対して とりあえずの答えとして措定されるものとしての幻想 $ ◊ a )  にほかなりません.

幻想 $ ◊ a ) は,死的 [ thanatique ] なものとしての否定存在論的孔穴を覆い隠すものです.四つの言説においては,その機能を担うのは,大学の言説において「他者の座」に置かれた objet a[客体 a]にほかなりません.

剰余悦 [ plus-de-jouir ] としての objet a は,資本主義経済における剰余価値 [ Mehrwert, plus-value ] と同様,資本家の「絶対的な富裕化本能」[ der absolute Bereicherungstrieb ] にかかわらず,自身を増価してゆく (sich verwerten) することをやめません  資本家とは,擬人化された資本にほかなりませんから.

érotique なものとしての幻想 $ ◊ a ) は,死的なものとしての否定存在論的孔穴を覆い隠すものであれば,我々は,こう公式化することができます : l'érotique est la défense contre le thanatique[性的なものは,死的なものに対する防御である].

「死的」(thanatique) な 否定存在論的孔穴 に「性的」(érotique, sexuel) な意義を与えるのが,la métaphore paternelle[父のメタフォール]です:


家父長ファロス [ le phallus patriarcal ] Φ としての 父の名 S1 は,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るものとして自身を措定することによって,否定存在論的孔穴に「ファロスの欠如の穴」( − φ ) という 性的な意義を与えます.

しかし,その性的な意義は仮象的なものにすぎません.その真理においては,否定存在論的孔穴は あくまで 死的なものです.

精神分析の経験の終結において,否定存在論的孔穴を死的なものとして敢然と引き受けるとき,死から永遠の命への復活へと逆転が成起します.

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