2019年12月9日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (6)

La belle bouchère


2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (6)


日時 : 2019年12月13日(金曜日)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室
参加費無料,事前申込不要

12月06日は,Lacan の triade — le réel, le symbolique, l'imaginaire — に関する質問に答えるために全時間を使いました.13日は,若干の補足を行ったあと,『夢解釈』第 IV 章で取り上げられている「機知に富んだ肉屋夫人」の「smoked salmon の夢」の ラカン的な再解釈に入りたいと思います.また,Lacan が La direction de la cure et les principes de son pouvoir[治療の指針 と 治療の可能の原理]のなかで この夢について行っている再解釈 (Ecrits, pp.620-642) も紹介します.

2019-2020 年度 第一学期 は,12月13日で終了します.第二学期は,2020年01月10日に開始します.日程は,こちら を参照してください.

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Lacan の triade — le réel, le symbolique, l'imaginaire — について



Lacan を読もうとする者は,誰しも(原文を読む者も,翻訳を読む者も),彼の教えの土台を成しているように見える この triade — le réel, le symbolique, l'imaginaire — の不可解さに,つまづきます.Lacan を既成の日本語訳で読もうとする者にとっては,それら三つの用語が,1972 年以来,「現実界」,「象徴界」,「想像界」と誤訳され続けてきているがゆえに,なおさら,Lacan を読むことは 絶望的に(ほぼ不可能と言ってよいほどに)困難になります.どれほど それらの訳語が Lacan を読むことを妨げているかは,たとえば,le réel は「現実的なもの」ではない という わたしの ひとこと が,「目からウロコが落ちた」という聴衆の反応を しばしば 引き起す ことからも,察せられるでしょう — le réel は,「現実的」なものではなく,而して,「実在的」なものです(もっとも,この説明も,「現実的」と「実在的」とを同一のものと思い込んでいる人々には,無効でしょうが).

Lacan を読む際に — Lacan だけでなく,Heidegger を読む際にも — 留意してほしいことのひとつは,「用語の定義にこだわるな」です.Lacan も Heidegger も,たとえばドイツ観念論の哲学者たちが志向したように,確固たる理論体系のようなものを作ろうとは,まったくしませんでした.そのような「確固たる理論体系」の構築は,形而上学の次元のなかの試みです.それに対して,Heidegger も Lacan も,形而上学の彼方に位置する哲人です.形而上学的な「確固たる理論体系」のなかでは,ひとつひとつの用語が可能な限り明確に一義的に定義され,terminologie 全体も整合的であろうとするでしょう.しかし,形而上学の超克を目指した Heidegger や Lacan は,確固たる体系への志向を有しておらず,その結果,我々が事後的に彼らの terminologie を体系的な「用語辞典」のようなものにまとめあげようとしても,さまざまな齟齬(形而上学的観点からは)が見えてくるだけです.

我々にとって Heidegger と Lacan を読む際に手掛かりとなるのは,彼らが思考の途上で その都度 必要に応じて用いた個々の用語ではなく,而して,彼らの思考の基礎を成す 否定存在論 (l'ontologie apophatique, die apophatische Ontologie) — Heidegger が用いた表現によれば,das Denken des Seyns存在 の思考]— と その topologie であり,そして,さらに,そこに包含される 存在 の歴史 (die Geschichte des Seins) と 終末論的現象学 (la phénoménologie eschatologique) です.
 

終末論的現象学は,存在 の歴史の終結において,それまで埋め塞がれていた 存在 の穴が,穴として立ち現れてくることに存します.

存在 の歴史の源初において (ἐν ἀρχῇ), ひとつの穴が口を開いていました — 我々は,その穴を le trou archéologique[源初論的孔穴]と名づけます.源初論的孔穴は,Platon における形而上学の成立とともに,τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]としての ἰδέα によって塞がれました.形而上学の歴史は,源初論的孔穴が如何に塞がれ続けてきたか,の歴史である,と言うことができます.そして,形而上学の歴史は,Nietzsche による Umdrehung des Platonismus[プラトニズムの反転]と,それに伴う Wille zur Macht[力への意志]の措定 — Nietzsche は,恒常的ないし定常的な ἰδέα の代わりに,常により強い力 (Mehr-Macht) を欲し続けることによってのみ自身を支えることができる Wille zur Macht[力への意志]を措定する — を以て,「満了」(Vollendung) を迎えました.つまり,形而上学の機能は源初論的孔穴を「本当に存在するもの」によって塞ぐことに存してきた,ということが,Nietzsche の思考において,明らかになりました — 形而上学の穴塞ぎの機能がもはや無効となったことによって.

かくして,我々は,19世紀以来,存在 の歴史の「終末論的位相」(la phase eschatologique) にいます — それは,一般的には「ニヒリズム」(Nihilismus) と呼ばれています.そこにおいては,形而上学の歴史をとおして「存在」によって塞がれ続けてきた源初論的孔穴は,否定存在論的孔穴として自身を示現しようとします.しかし,我々は,まだ,その穴を それとして受入れることはできず,さまざまなしかたで その穴を 塞ぎ,あるいは,隠そうとする抵抗によって,その穴を否認しようとし続けています — なぜなら,否定存在論的孔穴は,恐ろしい 無の穴,罪の穴,死の穴 として,強い不安を惹起しつつ,現れてくるからです.我々が,穴の立ち現れに対する抵抗を放棄し,否認をやめ,そして,穴を穴として認め,受入れるとき,やっと,「終末論的瞬間」(le moment eschatologique) が訪れます.そのとき,存在 は,我々の現場存在 (Dasein) において,自身を保匿 (bergen) しつつ,自身を穴そのものとして示現することになります.その事態を,Heidegger は Ereignis[自有]と呼んでいます.また,我々 精神分析家 にとっては,それは,精神分析の経験の終結を特徴づける成起です.
 

存在 の終末論 (die Eschatologie des Seyns) と,その終末論的瞬間に成起する 存在 の穴の現出の現象学 — Lacan が「精神分析の終結」について問い,Heidegger が Ereignis[自有]という語を以て思考しているのは,そのような変化です.我々は,それを,大学の言説から分析家の言説への構造転換として,形式的に捉えることができます.しかも,その変化は,我々自身の実存において成起することです.

そのような 我々自身の実存において成起する 終末論的な変化 に関する問題意識をまったく持たない 哲学や社会学などの研究者たちが Heidegger や Lacan を読み解くことができないのは,彼れら研究者たちが,Heidegger や Lacan の教えに 何か静的 (statique) な構造を見て取ろうとするからです.彼れら研究者たちは,何らかの哲学思想や社会学的現象を分析するための手掛かりとなるものを Heidegger や Lacan に探し求めるのでしょう.しかし,Heidegger や Lacan が取り組んだのは,我々自身の実存の終末論的な変化について思考し,問うことです.そのような問題意識を持たない研究者たちが Heidegger や Lacan を読もうとしても,多分,時間の無駄になるだけでしょう.

穴のトポロジーに話を戻すと,穴について思考するためには,その穴が口を開いている surface[曲面]と 穴のエッジ とを考慮に入れる必要があります.さらに,上に述べたように,我々は,その穴を塞ぐものと,その穴を隠すものと,それによって穴の彼方へ源初的に排斥されてしまうもの をも考慮に入れる必要があります.



この図は,我々の日常的な存在構造であり,かつ,形而上学の構造である「大学の言説」の構造の成立を 説明するためのものです.

源初論的孔穴は,le savoir[知]S2 が位置づけられる曲面(穴開き球面:青)に 口を開いています.その穴は,ἰδέα に始まる一連の形而上学的形象を形式化する le signifiant maître[支配者徴示素]S1(黄)によって塞がれます.また,穴のエッジ(緑)に位置する l'objet[客体]a は,穴を隠します.それによって,主体 $ は,穴に対して ex-sistent[解脱実存的]である 存在 の在所 [ die Ortschaft des Seins ](メビウス曲面:赤)へ源初排斥 [ urverdrängen ] され,その在所に秘匿 [ verbergen ] されます.


 

以上のように,否定存在論的トポロジーは,四つの要素 — 穴(黄),穴開き球面(青),穴のエッジ(緑),メビウス曲面(赤)— から成っています (la structure tétradique). それらの要素には,それぞれ,以下のように,否定存在論的機能が割り当てられ,また,Heidegger の概念が対応しています:


穴開き球面 — la consistance[存立性]— 存在事象 (das Seiende) ; 
メビウス曲面 — l'ex-sistence[解脱実存性]— 存在 (das Sein) ; 
穴 — la différence[差異性]— 存在論的差異 (die ontologische Differenz) ; 
エッジ — la nodalité[結合性]— 解和 (der Austrag).


そして,Lacan の le symbolique, l'imaginaire, le réel を,我々は,以下のように対応させることができます — ただし,le réel のふたつの定義を明確に区別しつつ:


la consistance[存立性]— l'imaginaire[事象性]; 
la différence[差異性]— le symbolique[徴示性]; 
la nodalité[結合性]— le réel en tant que ce qui ne cesse pas de s'écrire[書かれることをやめないもの(必然 : le nécessaire)としての 実在性]; 
l'ex-sistence[解脱実存性]— le réel en tant que ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire[書かれないことをやめないもの(不可能 : l'impossible)としての 実在性].


そうです,Jacques-Alain Miller もあまり明確に指摘していませんが,我々は,Lacan の教えのなかに,le réel のふたつの定義を見出すことができます.

ひとつは,1954-1955年の Séminaire II において初めて提示されたものです : le réel est ce qui revient toujours à la même place[実在性は,常に同じ座に回帰するものである].この定義は,1977-1978年の Séminaire XXV において,le réel ne cesse pas de s'écrire[実在性は,書かれることをやめない]という形のもとに再提示されています —「書かれることをやめないもの」(ce qui ne cesse pas de s'écrire) は,le nécessaire[必然]のラカン的定義です.また,この「書かれることをやめない」は,反復強迫 (Wiederholungszwang) を特徴づけるものでもあります.

le réel の第二の定義は,これです : le réel, c'est l'impossible[実在性は 不可能である].この有名な定義は,1964年の Séminaire XI において初めて示唆され,1964-1965年の Séminaire XII において それとして提示されています.また,Lacan は「不可能」を ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire[書かれないことをやめないもの]と定義していますから,我々は,「実在性は,書かれないことをやめないものである」と言うことができます.

これらふたつの定義のうち「実在性は不可能(書かれないことをやめないもの)である」という定義があまりに有名になったため,最初の定義 :「実在性は必然(書かれることをやめないもの)である」は,若干,かすんでしまっていますが,取り消されたわけではありません.両方の定義が,Lacan の教えのなかで併存しています.

こうして,一見 triadique であるかに見える  le symbolique, l'imaginaire, le réel を,我々は,le réel のふたつの定義を思い出すことによって,tétradique なものとして捉え直し,そして,それによって,それらを,否定存在論的トポロジーの tétradique な構造と対応させることができます.

しかし,実を言うと,特に 1950 年代の Lacan のテクストを読むときは,le symbolique, l'imaginaire, le réel の以上のような定義  それは,1970年代の Lacan の かなり洗練された教えに大きく準拠しています — を以てしても,我々は必ずしもすっきりと読解することができるようになるわけではありません.つまり,当初の Lacan の着想は,もっと素朴なものであったと思われます.

改めて強調すると,Lacan の根本的な着想は,穴のトポロジーです.我々の内奥には,埋め塞ぐことも 隠すこともできない 穴が開いている.Freud が「無意識」(das Unbewußte) の名のもとに発見したのは,その穴である.

この根本的な穴のトポロジーの着想とともに,le symbolique, l'imaginaire, le réel のより素朴な着想はこのようなものであっただろう,と 我々は推測することができます:すなわち,le réel は,主体の存在の真理です.その真理は,しかし,隠されています.主体の存在の真理を隠すものが,l'imaginaire です.それに対して,主体の存在の真理は,単純に隠されているだけでなく,何らかの徴(象徴,記号,等々)によって表されてもいます.そのように 主体の存在の真理を表すもの,それが le symbolique です.

ところで,主体の存在の真理を代理的に表すものは,le signifiant[徴示素]です.ですから,1950年代の Lacan は,signifiant と symbolique を同義的に用いてもいます.つまり,その場合,le symbolique は,1974-1975年の Séminaire XXII R.S.I. において定義されるように「穴」であるのではなく,むしろ,大学の言説の構造において,穴を塞ぐ signifiant(つまり,支配者徴示素 S1)と 穴を隠す signifiant(つまり,客体 a)のことを指しています.穴を塞ぐ signifiant としての S1 も,穴を隠す signifiant としての a も,それぞれ,主体 $ を代理する signifiant です.

また,1950年代の Lacan の教えにおける最も重要な区別のひとつに,l'Autre symbolique[徴示的な他 A]と l'autre imaginaire[事象的な他 a]との区別が挙げられます.
 

むしろ,Lacan について学び始めた初心者が初めて symbolique と imaginaire との区別に出くわすのは,l'Autre symbolique と l'autre imaginaire との区別においてである,と言ってもよいでしょう.

l'autre imaginaire は,「鏡像的な他者」(l'autre spéculaire) です.spéculaire[鏡に映る像を有している]は,「存在事象である」ということです.

では,l'Autre symbolique は?実は,Lacan の教えにおける l'Autre[他 A]という用語の使い方は,1957年12月から1958年01月の間に書き上げられた D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose[精神病のあらゆる治療に対して予備的な ひとつの問いについて]を機に — つまり,「父の名の閉出」(la forclusion du Nom-du-Père) の概念の公式化を機に — 大きく変化しています.

その書の最後のページにおいて,Lacan は,「父の名」をこう説明しています :「徴示素の場所としての 他 A のなかで,律法の場所としての 他 A の徴示素 であるところの 徴示素」[ le signifiant qui dans l'Autre en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi ] (Ecrits, p.583).

そこにおいて,Lacan は,明示的に,他 A の概念を二重化しています:すなわち,「徴示素の場所」としての 他 A と,「律法の場所」としての 他 A と.

「徴示素の場所」としての「他 A の場所」(le lieu de l'Autre) は,1960年の書 Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien[フロィト的無意識における 主体のくつがえし と 欲望の弁証法]においては,「徴示素の宝庫」(le trésor du signifiant), 「徴示素のひとそろい」(la batterie des signifiants), 「徴示素の集合」(l'ensemble des signifiants) とも呼ばれています.

「徴示素の宝庫」という詩的な表現に関して注を差しはさんでおくと,わたしの推測では,それは,Freud が用いた Schatz von Erinnerungsspuren[想起痕跡の宝庫]という表現に由来しているだろう,と思われます.そして,Freud はその表現を Wortschatz というドイツ語単語に準拠して作っただろう,と思われます.Wortschatz は,直訳すれば,「語の宝庫,言葉の宝庫」ですが,一般的なドイツ語の文章のなかでは 単に「語彙」(vocabulaire) です.

話を戻すと,徴示素の場所 としての 他 A の場所 は,ひとつの国語 — あるいは,ひとりの話者 ないし 複数の話者の集団 — において用いられる(または,用いられる可能性のある)徴示素の集合(つまり,語彙)です.その意味における 他 A を,Lacan は「母」と言い換えています (cf. Ecrits, p.813).

では,我々は,「したがって,l'Autre symbolique とは母のことである」と考えてよいのでしょうか?違います.

Lacan が 1950 年代のテクストにおいて l'Autre symbolique と呼ぶところのものは,母のことではなく,而して,父のこと — より正確に言えば,生物学的 または 心理学的 または 社会学的 な「父」のことではなく,神学的な「父の名」(le Nom-du-Père) のこと — です.先ほど引用した Ecrits, p.583 の一節では,父としての 他 A は「律法の場所」と呼ばれています.また,『主体のくつがえし』(ibid., p.813) のなかでは Législateur[立法者]という表現も用いられています.その語の最初の L が大文字で書かれてある,ということは,その語が,「父の名」と同様に,「父なる神」を指していることを示唆しています.

そのような「父」は,「母」としての 他 A に対しては,「他の他」(l'Autre de l'Autre) です.それは,「母」としての 他 A の場所に口を開く穴 —「母の欲望」(le désir de la mère) の穴 — を埋め塞ぎ得る と見なされるものです.去勢複合の文脈において言うなら,母は去勢されており,母の身体には phallus の欠如 ( − φ ) の穴が開いています.その穴を埋め塞ぎ得る と見なされるものが,「父」です.つまり,父の機能は,家父長ファロス (le phallus patriarchal) Φ の機能です.

1957-1958 年のテクスト『予備的な問い』においては,父の機能を形式化するものは「父の名」と呼ばれ,そして,その閉出は精神病の発症の必要条件である,と述べられています.それに対して,1960年の『主体のくつがえし』においては,このことが強調されています :「他の他は無い」(il n'y a pas d'Autre de l'Autre). つまり,母の身体の phallus の欠如 ( − φ ) の穴を 本当に埋め塞ぎ得る 家父長ファロス — すなわち,父の名 — は「無い」のです.この「無い」は,「不可能」,すなわち,「書かれないことをやめない」と言い換えることができます.

では,精神病の発症の必要条件と既定された「父の名の閉出」における「父の名」は,何であるのか?それは,単なる仮象にすぎません — 仮象と言っても,何の作用もないわけではありません.それは,家父長ファロスとして,家父長主義を条件づけ,また,男の自我理想として,「男である」ことを規定します.



大学の言説の構造の図で説明すると,徴示素の集合としての 他 A の場所は,知 S2(青)です.その場所には,穴(黄)が開いていますが,その穴は,支配者徴示素 S1 によって塞がれています.その支配者徴示素 S1 が,「父の名」であり,「家父長ファロス」です.

大学の言説の構造においては,S1 は,否定存在論的孔穴を塞ぐものとして,真理の座(黄)に 措定 ないし 仮定されています.しかし,そのような S1 は,単なる仮象にすぎず,実際には,否定存在論的孔穴を塞ぎ得るような S1 は不可能である — すなわち,「他の他は無い」,かつ,「性関係は無い」.


実際には不可能である S1 を真理の座に何とか維持しようとすることをやめ,S1 の不可能性を認め,受け容れるとき,大学の言説から分析家の言説への構造転換が生じます.分析家の言説の構造においては,S1 は,右下の座 「書かれないことをやめないもの」の座 — へ閉出されています.

神学的に言えば,大学の言説において真理の座に措定されている S1 は,形而上学的な偶像としての「神」であり,Pascal が「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼んだものです.それに対して,分析家の言説において 右下の「生産の座」へ閉出された S1 は,書かれないことをやめない「神の名」です.それを,Pascal は,「アブラハムとイザークとヤーコブの神」(Dieu d'Abraham, Dieu d'Isaac, Dieu de Jacob) と呼んでいます.それは,13世紀に Thomas Aquinas が Aristoteles — ユダヤ教ともキリスト教とも無縁な古代ギリシャの哲学者 — に準拠して作り上げた形而上学的な偶像ではない 本来的な 神 です.

要するに,1950年代に Lacan が l'Autre symbolique と呼んだものは,父の名 のことであり,「他の他は無い」という公式における「他の他」のことです.当初,Lacan は,l'Autre symbolique を,「父の機能」を担う必須の徴示素として,措定していました.しかし,1957-1958年の「父の名の閉出」の概念の公式化を経て,1960年に「他の他は無い」という公式が打ち出された,ということは,このことを示唆しています:すなわち,母の去勢の穴 ( − φ ) を塞ぎ得るような l'Autre symbolique は実は不可能であり,l'Autre symbolique の座は実は空座であり,穴である,ということに,Lacan は 1958-1960 年に 気がついたのだ.そして,そこから,最終的に,「le symbolique は 穴である」という Séminaire XXII (1974-1975) における定義が導き出されることになります.

他方,「徴示素の場所」や「徴示素の宝庫」としての「他 A の場所」は,母の身体として,imaginaire なものであることになります.ですから,Lacan は,1974-1975年の Séminaire XXII において,身体的(物体的)存立性 (la consistance corporelle) として,l'imaginaire を定義することになります.

最後に,ひとつの質問が追加されました :「誰でも,精神分析を終結に至るまで経験すれば,精神分析家に成ることができるのか?精神分析の理論的知識は,精神分析家に成るために必須ではないのか?」

その問いは,精神分析家の資格認定の問題にかかわります.その問題は,Lacan が彼の教えを展開して行くための主要な原動力のひとつでした.精神分析家として臨床を行う(精神分析治療を行う)ことができるようになるためには,教育分析 (l'analyse didactique) を受けねばならない — その要請は,すでに Freud 自身によって措定されています.

当初,Freud は,精神分析を治療者として行おうとする者は,あらかじめ みづから精神分析を患者として受けることによって,確かに自身の内に「無意識」が作動しているということを経験し,それによって,「無意識」が本当に働いているということを確信しておかねばならない,と考えました.そして,そのために,数ヶ月間の教育分析が必要である,と思っていました.Freud は,1937年の論文『終りある分析 と 終りなき分析』において,「分析家は,定期的に — たとえば 5 年毎に — 教育分析を受け直すべきかもしれない」と述べていますが,その際も彼が考えているのは,期間としては数ヶ月間だけ続けられる教育分析(面接の頻度は,おそらく,週に 5 回)のことであり,そのような数ヶ月間の分析の経験を数年に一回,定期的に繰り返して行くのがよかろう,というのが,教育分析に関する Freud の最終的な意見でした.

その後,教育分析の期間は数年間に延長されて行きますが,「何を以て教育分析の終結を規定するか」という問いは,根本的に問われることのないままでした — Lacan がその問いを問うことになるまで.

国際精神分析協会 (International Psychoanalytical Association : IPA) に属する分析家(非ラカン派)の団体においては,まず最初に,候補者の選別が行われます — 教育分析を受けたいと申し出てきた者を,目立った人格障害や精神疾患が無いか,精神分析家になろうとする熱意があるか,などの観点から,ふるいにかけます.候補者として認定された者は,教育分析家のもとで,一回に 45-50 分間の面接を,週に 4, 5 回,数年間にわたって続けます.教育分析家が,その候補者の教育分析は十分だと考えれば(如何なる基準によってそう判断し得るのかは,曖昧),候補者は,論文を提出し,資格認定委員による面接試験を受け,合否の判定を受けます(その合否判定の基準も曖昧).

しかし,そのように経験的に分析家の養成を行ってきた IPA は,如何なる事態に陥ったか?まず,精神分析の目的は単なる「現実適応」である,と考えられるに至りました.そして,精神医学において,比較的迅速に治療効果が得られる薬物療法が発達してきたとき,治療期間が何年にも及ぶ精神分析は非効率的な時代遅れのしろものと見なされ,廃れて行きました — つまり,新たに精神分析家になろうとする者は減少し,精神分析が次世代へ継承されて行くことは困難になっています.

それに対して,Lacan は,精神分析を 否定存在論的に 純粋に基礎づけることによって,精神分析の終結をより明確に規定することを目ざしました.精神分析の終結は,否定存在論的孔穴の終末論的な現出と,その穴の現出を前にしての不安に耐えることができるようになること とによって,規定されます.より簡潔に述べるなら,精神分析の終結は欲望の昇華によって規定されます.


分析家の言説の構造において 右上の座に現れ出でてきた主体 $ は,Lacan が「分析家の欲望」と呼んだもの — つまり,昇華された欲望 — の学素です.それは,否定存在論的孔穴の開口を支えるものとして,精神分析の可能性の条件となります.そのようなものとしての欲望の昇華に至った者は,精神分析家として機能し得ます — つまり,「精神分析家である」者となります(その人が実際に精神分析家として臨床を行うか否かにかかわりなく).その限りにおいて,ある人が精神分析の「理論」に関する知識を有しているか否かは,その人が「精神分析家である」か否かを規定する条件では全然ありません.そして,当然ながら,ある人がいくら精神分析の理論に精通していようとも,みづから精神分析を経験していないなら,その人は精神分析家ではあり得ません.

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