2020年2月11日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (11)

L'illustration de la scène de « Che vuoi ? » dans l'édition de 1871 du Diable amoureux de Jacques Cazotte (1719-1792), le texte de laquelle a été établi par Gérard de Nerval

Jacques Cazotte の『愛する悪魔』[わたしを愛した悪魔](Gérard de Nerval により編纂された 1871 年版)の « Che vuoi ? »[何を おまえは 欲するか?]の場面の挿絵


« Je prononce l’évocation d’une voix claire et soutenue et, en grossissant le son, j’appelle, à trois reprises et à très-courts intervalles, Béelzébuth.

« Un frisson courait dans toutes mes veines, et mes cheveux se hérissaient sur ma tête.

« À peine avais-je fini, une fenêtre s’ouvre à deux battants vis-à-vis de moi, au haut de la voûte : un torrent de lumière plus éblouissante que celle du jour fond par cette ouverture ; une tête de chameau horrible, autant par sa grosseur que par sa forme, se présente à la fenêtre ; surtout elle avait des oreilles démesurées. L’odieux fantôme ouvre la gueule, et, d’un ton assorti au reste de l’apparition, me répond : Che vuoi ? »

「わたしは,悪魔を呼び出す語を発する — よくとおる おごそかな 声で.そして,次第に声を大きくしながら,わたしは,三度,とても短い間をおいて,呼ぶ : Béelzébuth.

「わたしの血管すべてのなかに戦慄が走り,わたしの頭髪は逆立った.

「わたしがそう言い終わるやいなや,わたしの向かいの壁の 高い天井近くにある 両開きの窓が開く:その開口をとおって,太陽光よりまぶしい光の奔流が,流れ込んでくる;恐ろしいラクダの頭 — その大きさによっても その形によっても 恐ろしい ラクダの頭 — が窓に現れる;特に,それは,並外れて大きな耳を有している.醜悪な幻は,口を開き,その姿に似合った調子で,わたしに応える : Che vuoi ?[何を おまえは 欲するか?]」.


L'illustration par Michel Jamar (1911-1997) pour l'édition de 1968 du Diable amoureux. La scène de culmination où Biondetta révèle au héros sa nature de diable.

『愛する悪魔』の 1968 年版のために Michel Jamar により制作された版画挿絵.主人公に対して Biondetta が悪魔の素性を明かす場面


— Ô ma chère Biondetta ! lui dis-je, quoiqu’en faisant un peu d’efforts sur moi-même, tu me suffis : tu remplis tous les voeux de mon coeur...

— Non, non, répliqua-t-elle vivement, Biondetta ne doit pas te suffire : ce n’est pas là mon nom : tu me l’avais donné : il me flattait ; je le portais avec plaisir : mais il faut que tu saches qui je suis... Je suis le diable, mon cher Alvare, je suis le diable...

En prononçant ce mot avec une douceur enchanteresse, elle fermait, plus qu’exactement, le passage aux réponses que j’aurais voulu lui faire. Dès que je pus rompre le silence : 

— Cesse, lui dis-je, ma chère Biondetta, ou qui que tu sois, de prononcer ce nom fatal et de me rappeler une erreur abjurée depuis longtemps.

— Non, mon cher Alvare, non, ce n’était point une erreur ; j’ai dû te le faire croire, cher petit homme. Il fallait bien te tromper pour te rendre enfin raisonnable. Votre espèce échappe à la vérité : ce n’est qu’en vous aveuglant qu’on peut vous rendre heureux. Ah ! tu le seras beaucoup si tu veux l’être ! je prétends te combler. Tu conviens déjà que je ne suis pas aussi dégoûtant que l’on me fait voir. 

Ce badinage achevait de me déconcerter. Je m’y refusais, et l’ivresse de mes sens aidait à ma distraction volontaire.


— Mais, réponds-moi donc, me disait-elle.

— Eh ! que voulez-vous que je réponde ?...

— Ingrat, place la main sur ce coeur qui t’adore ; que le tien s’anime, s’il est possible, de la plus légère des émotions qui sont si sensibles dans le mien. Laisse couler dans tes veines un peu de cette flamme délicieuse par qui les miennes sont embrasées ; adoucis si tu le peux le son de cette voix si propre à inspirer l’amour, et dont tu ne te sers que trop pour effrayer mon âme timide ; dis-moi, enfin, s’il t’est possible, mais aussi tendrement que je l’éprouve pour toi : Mon cher Béelzébuth, je t’adore...

— おお,わが愛しい Biondetta ! と わたしは彼女に言った —[まったく自然にというわけではなく]若干の努力を要しつつ ではあるが — あなたは,わたしを満足させてくれている:あなたは,わたしの心の願望を すべて 満たしてくれている...

— いいえ,と 彼女は 勢いよく答えた.Biondetta があなたを満足させているはずはありません:それは,わたしの名ではありません:あなたがくれた名です.それは,わたしを美しく見せてくれた;わたしは,喜んで その名を身にまとった:しかし,今や,あなたは,わたしが誰であるかを 知らねばなりません... わたしは悪魔です,わが愛しい Alvare よ,わたしは悪魔です...

うっとりさせる甘美さを以て その語を発することによって,彼女は,わたしが返答しようとする道を このうえなく完全に塞いでしまった.ようやく 沈黙を破って,わたしは言った:

— わが愛しい Biondetta よ — あるいは,あなたが誰であれ —,その致死的な名を発するのは やめてくれ,そして,かなり前に撤回された誤りを思い出させるのは やめてくれ.

彼女は,すぐさま答えた:

— いいえ,わが愛しい Alvare よ,それは 誤りでは まったくありません;わたしは,あなたに そう信じ込ませねばならなかっただけです,親愛なる かわいい人よ.あなたをだまさねばならなかったのです — あなたに分別を取り戻させるために.あなたたち人間は,真理から逃げてしまう:あなたたちを幸福にし得るためには,あなたたちを盲目にするしかない.ああ,あなたは,幸福になりたいのなら,そうなれるでしょう!わたしは,あなたを満たしてあげましょう.あなたは 既に認めています:わたしは,人々がわたしをそう見せているほどには,嫌悪感をもよおさせるものではない,と.

彼女のおしゃべりは,わたしを完全に動転させた.わたしは,もう聞いていられなかった.わたしの感覚の酩酊は,わたしが意図的に気を逸らすことを助けた.

— さあ,答えなさい,と 彼女は わたしに 言った.

— 何?あなたは わたしに どう答えて欲しいのか?

— つれない人よ,あなたを愛するこの心[心臓]のうえに,手を置きなさい;もしできるなら,わたしの心のなかに かくもはっきりと感じ取られる情動のうち 最も軽いものにさえ あなたの心がときめいて欲しい.わたしの血管を燃えあがらせる この甘美な炎を ほんの少しでも あなたの血管のなかに流れさせなさい;もしできるなら,愛を吹き込むのにかくも適したあなたの声 — それを,あなたは,わたしの臆病な魂を怯えさせるために あまりに使いすぎる — の音を 優しいものにしなさい;もしできるなら,いよいよ,わたしにこう言いなさい — わたしがあなたを優しく愛しているのと同じくらいに優しく:わが愛しい Béelzébuth, わたしは あなたを 愛している,と...


2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (11)


2020年02月07日の講義:
幻想の学素
( $a ) と 欲望のグラフ について (2)



Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudien[フロィト的無意識における 主体のくつがえし と 欲望の弁証法](1960) において提示されている図  如何に「欲望のグラフ」が構築されて行くかを示している

le graphe du désir[欲望のグラフ]


精神分析においてかかわる主体 $ は,否定存在論的孔穴そのものです.


Freud は無意識を発見した,と言われますが,より正確に言えば,彼は,我々の本有の核 [ der Kern unseres Wesens ] に 無意識的な欲望 [ der unbewußte Wunsch ] を発見しました.しかも,その欲望は,単に「無意識的」(意識され得ない)であるだけではなく,「破壊不可能な欲望」[ der unzerstörbare Wunsch ] と特徴づけられています.

Freud が「破壊不可能な 無意識的 欲望」として 我々の本有の核に発見したもの,それは,否定存在論的孔穴  存在 の穴;源初論的には 主体 $ の穴 — にほかなりません.

Lacan は,Hegel が『精神の現象学』において展開した弁証法的過程にならって,精神分析の経験を「欲望の弁証法」[ la dialectique du désir ] の過程として形式化します.その弁証法的な過程において問われるのは,この動きです:欲望としての主体 $ の源初論的な穴は,書かれないことをやめないもの(不可能)の座(四つの言説における 生産の座)へ 源初排斥 [ Urverdrängung, archi-refoulement ] され,そこから出発して,満足を目ざして進むが,aliénation[異状]と そこにおける欲望満足の不可能に陥り,そこから,最終的に,欲望の昇華 [ sublimation ] に至る — 愛の狡知 [ la ruse de l'amour ] に密かに導かれて.

欲望の弁証法の過程を,Lacan は,1969-1970 年の Séminaire XVII『精神分析の裏』において提示される「四つの言説」の図式を以て形式化することになります — それ以降も,特に彼の一連の Séminaire の最後のふたつ,Séminaire XXIV (1976-1977) と Séminaire XXV (1977-1978) とにおいて,Lacan は,ボロメオ結びを構成する縄輪一本一本をひとつの torus[円環面]に置き換えることによって,三つ以上の torus から成るボロメオ結びを考案し,torus に切れ目を入れて,曲面を反転させることによって,分析の終結に至る構造変化を形式化しようと試みます — が,ともあれ,1957-1958 年の Séminaire V『無意識の成形』において提示される「欲望のグラフ」は,欲望の弁証法の過程の図式化の最初の試みです.


欲望のグラフを構成する基本単位は,この graphe 1 に図示されているものです.この図において,S → S' は 徴示素の連鎖 (la chaîne signifiante) を表わし,他方,Δ $ は,主体 $ の源初論的孔穴の原初排斥を表わしています.ギリシャ文字の Δ (delta) は,源初論的孔穴としての欲望 (désir) を表わしている,と見なすことができます.主体 $ の穴の原初排斥は,主体 $ が言語の構造に住まうことに必然的に伴うものである,と考えることができます.


次の graphe 2 は,完成された「欲望のグラフ」の下段に相当します.そこにおいては,原初排斥された〈欲望としての〉主体 $ と言語の構造との連関 — 主体 $ は 徴示素によって 代理される — が図化されています.

大文字の Ale lieu du trésor du signifiant[徴示素の宝庫の場所](Ecrits, p.806) である,と Lacan は定義しています.

学素 s(A)ssignifié[被徴示]です.s(A) は「他 A のなかで被徴示であるもの」,「他のなかで,徴示素によって 被徴示の価値を得るもの」である,と Lacan は 1958年03月26日の講義のなかで定義しています.ただし,「他 A のなかで」と Lacan は強調しており,他 A は徴示素の宝庫ですから,s(A) も ひとつの徴示素です — つまり,ある徴示素に対して「その被徴示の価値」を取る徴示素,それが s(A) です.

さらに,Lacan は,s(A) のことを insigne[徽章,勲章]とも呼んでいます.それが主体の同一化の徴示素となるとき,それは,Freud が「自我理想」(das Ichideal, l'idéal du moi) と呼んだものになります.欲望のグラフにおいて,左下に位置づけられている I(A) が,自我理想の学素です.


I(A) は,四つの言説のなかで用いられている学素で言うと,大学の言説の構造において「真理の座」に位置づけられている支配者徴示素 S1 です.つまり,否定存在論的孔穴を塞ぐものとして措定された徴示素です.それは,Freud の第 2 トピックにおける Über-Ich[超自我]であり,また,あらかじめ与えられている la signifiance maîtresse[支配者意義]として機能しもします.また,Freud が 超自我 を das Es(すなわち,不可能の座に原初排斥された主体 $)の代理と規定しているように,徴示素 S1 としての I(A) は 主体 $ の ひとつの代理 です. 

ところで,1960年の『主体のくつがえし』において,Lacan は,le graphe 2 を説明しつつ,こう言っています : 大文字の A は「徴示素の宝庫の場所であるが,コード[メッセージを暗号化し,かつ,暗号化されたメッセージを解読することを可能にするものとしてのコード]の場所というわけではない.そも,ひとつの記号と何ものかとの一対一対応が A の場所に保存されているわけではなく,而して,徴示素は,徴示素の共時的かつ可算的[無限ではない]な集合 — そこにおいては,ひとつの徴示素は,ほかの徴示素ひとつひとつに対する対置の原理によってのみ,徴示素として成り立つ — によってのみ,定立される」(Ecrits, p.806).

Staferla 版 の Séminaire V において提示されている図

ところが,完成された欲望のグラフにおいて「徴示素の宝庫としての他 A の場所」と呼ばれている座に関するこの説明は,実は,欲望のグラフが初めて提示された Séminaire V の始めの部分における説明と くいちがっています:そこにおいては,A の場所に相当する座は,まさしく「コード」の場所と規定されています.それに対して,s(A) の座に相当する座は「メッセージ」の場所と規定されています.

この「メッセージ」は,無意識からのメッセージのことです.精神分析の面接において,分析者(患者)は,自由連想にまかせて 語ります.そこに,何らかの「無意識の成形」[ les formations de l'inconscient ](夢,言い損ない,し損ない,症状,等々)が ふと 姿を現します.そこにおいては,何かが何ごとかを語っています (ça parle et ça dit quelque chose). しかし,そのメッセージは いわば暗号化されており,我々はそれを即座に読み取ることはできません.そして,我々がそれを読み取ることができない限り,そこにおいて 何かは語ることをやめません(すなわち,症状の存続).暗号化されたメッセージの解読のためには,その暗号化を可能にしたコードに準拠する必要があります.メッセージは,したがって,解読されるために,コードの場所へ差し向けられ,そして,我々は,コードの場所からメッセージの場所へ立ち戻って,メッセージを読み直すことになります.

留意すべきことに,Lacan は,A を「徴示素の宝庫」[ le trésor du signifiant ] と定義しています.この 若干 詩的な表現は,Freud が用いた der Schatz der Erinnerungsspuren[記憶痕跡の宝庫]という表現に由来しています(つまり,Lacan は,Freud の言う「記憶痕跡」を「徴示素」と読みかえています).そして,Freud の der Schatz der Erinnerungsspuren という表現は,ドイツ語の Wortschatz という一般名詞に由来しています.それは,字義どおりに訳せば「単語の宝庫」ですが,一般名詞としては「語彙」です.語彙は,辞書として具象化されるような 単語の集合です.しかし,そこには,解読のためのコードは含まれていません.たとえば ある外国語で書かれたテクストを読解するためには,我々は,語彙に相当する辞書だけでなく,その言語の文法や,特有の言いまわしや,その言語が用いられる国や地域の文化,習慣,事物,人間などについても知らねばなりません.それらの総体が,解読のためのコードとなります.コードは,ですから,語彙には還元され得ません.

ということは,Lacan が 徴示素の宝庫としての 他 A の場所に コードをも位置づけるとき,Lacan は ふたつの相異なるものを同じ場所に置いている,ということです.徴示素の宝庫としての 他 A の場所,それは,母としての他 A です.それに対して,コードは,母に対する他である父です — 1960年の『主体のくつがえし』においては,それは,l'Autre de l'Autre[他の他]と呼ばれており,そして,il n'y a pas d'Autre de l'Autre[他の他は 無い](Ecrits, p.813) という命題によって,その現存は否定されています. つまり,母としての他 A の場所には欠如の穴が口を開いており,その穴を閉塞し得る父 — le phallus patriarchal Φ家父長ファロス Φ— は,本当は現存しません.家父長ファロス Φ があたかも現存するかのようにふるまっているとすれば,それは,単なる仮象としてであり,そして,それは 単なるペテンでしかありません (cf. ibid.). 

Lacan が 他 A の場所に関して,それは 徴示素の宝庫の場所であるが,コードの場所ではない,と言うとき,彼は,母としての 他 A の場所における 家父長ファロス Φ欠如 「他の他は 無い」— を強調しています.言い換えると:無意識の成形に担われているメッセージを一義的に解読することを可能にするようなコードは,無い.

では,精神分析においてかかわる「解釈」とは 如何なるものなのか?それは,一義的な意義を読み取ることではありません.あらかじめ一義的に定められた意義は,la signifiance maîtresse[支配者意義]としての 支配者徴示素 S1 にすぎません — 精神分析の経験においては,真理の座に措定された S1 を閉出することによって,初めて,大学の言説から分析家の言説への構造転換が生じ得ます.

無意識の成形において何かが語るとき,そこにおいてかかわっている「意義」は,真理の座に措定された S1 ではなく,而して,不可能の座(生産の座)に閉出された 主体 $ です.


精神分析における解釈は,主体 $ を「書かれないことをやめない」ものの座(右下の生産の座)から「書かれることをやめない」ものの座(右上の他者の座)へ現出させることに存します.その意味において,精神分析的解釈は 現象学的解釈です.

ともあれ,二階建ての「欲望のグラフ」の下段においては,排斥された欲望としての主体 $ は,自我理想 I(A) への同一化に至るだけです.それは,異状 [ aliénation ] の構造としての大学の言説の構造です.欲望 $ にとって,その構造は,満足不可能の構造です.


したがって,欲望 $ にとって,異状の構造の彼方へ向けて,この欲望の問いが措定されます : Che vuoi ?[何を おまえは 欲するのか?]そして,その問いへの答えとして,幻想 ( $a ) が措定されます.

イタリア語で Che vuoi ? と述べられた 欲望の問いを,Lacan は,Jacques Cazotte (1719-1792) の 1772 年の小説 Le diable amoureux[愛する悪魔]から取っています.なぜ Lacan がそうしたのかは不明です.多分,その小説は,幻想小説の古典として 一般的に有名だったのかもしれません.あるいは,特に surréaliste たちの間で評価されていたのかもしれません.

その小説の一部は,挿絵とともに 上に紹介しました.話の冒頭で,若い貴族である主人公 Alvare は,興味本位に 悪魔を呼び出します.悪魔は,醜悪なラクダの頭の姿で現れ,彼に Che vuoi ? と問います.悪魔は,若い女性 Biondetta の姿をとって,Alvare に仕え,彼の欲望を満たして行きます.Biondetta は,Alvare を愛している,と言い,Alvare も Biondetta と結婚することにします.そして,彼が彼女に「わが欲望は すべて満たされた」と告げたとき,彼女は悪魔の素性を想起させます.彼は恐怖に襲われ,気を失います.彼が意識を回復したとき,悪魔の姿はなく,すべては悪夢であったかのように,物語は幕切れとなります.

主人公が悪魔と契約し,悪魔は主人公に使えて,彼の欲望を満たし,主人公が満足の意を表明したとき,悪魔は彼の魂を手に入れる — この筋書きを,Goethe (1749-1832) の戯曲 Faust(第 I 部 1808 年,第 II 部 1832年)も共有しています.Goethe は,16 世紀に成立した Faust 伝説にもとづいて 戯曲を作りました.悪魔との契約を motif とする物語は,より古く,中世に既に見出されます.

Goethe の Faust の Mephistopheles との契約の場面を読んでみましょう:

FAUST:
Werd‘ ich beruhigt je mich auf ein Faulbett legen,
So sei es gleich um mich getan!
Kannst du mich schmeichelnd je belügen,
Daß ich mir selbst gefallen mag,
Kannst du mich mit Genuß betrügen-
Das sei für mich der letzte Tag!
Die Wette biet ich!

MEPHISTOPHELES: Topp!

FAUST:                                  Und Schlag auf Schlag!
Werd‘ ich zum Augenblicke sagen:
Verweile doch! du bist so schön!
Dann magst du mich in Fesseln schlagen,
Dann will ich gern zugrunde gehn!
Dann mag die Totenglocke schallen,
Dann bist du deines Dienstes frei,
Die Uhr mag stehn, der Zeiger fallen,
Es sei die Zeit für mich vorbei!


Faust :
いつか わたしが 心やすらかに 安楽椅子に 身を横たえるなら,
そのとき すぐさま わたしは おしまいになるがいい!
いつか おまえが わたしを おもねりと嘘で だますことができるなら,
— わたしが いい気になるように —,
おまえが わたしを 悦で だますことができるなら,
それが わたしにとって 最後の日となるがいい!
わたしは 賭けを申し出よう!

Mephistopheles :                     よし!

Faust :                                                  これで 手を打った!
わたしが 瞬間に向かって こう言うなら:
さあ,とどまれ!おまえ[瞬間]は かくも美しい!
そのとき おまえ [ Mephistopheles ] は,わたしを鎖につなぐがいい,
そのとき わたしは 喜んで 破滅しよう!
そのとき 死者の鐘[弔鐘]は 鳴り響くがいい,
そのとき おまえは[わたしへの]奉仕から解放される,
時計は とまるがいい,針は 落ちるがいい,
わたしにとって 時間は 終り去る.

次いで,最後,Faust が満足を表明して,こと切れる場面:

FAUST:
(...)
Zum Augenblicke dürft‘ ich sagen:
Verweile doch, du bist so schön!
Es kann die Spur von meinen Erdetagen
Nicht in Äonen untergehn. —
Im Vorgefühl von solchem hohen Glück
Genieß‘ ich jetzt den höchsten Augenblick. 

瞬間に向かって わたしは こう言うことができる:
さあ,とどまれ!おまえ[瞬間]は かくも美しい!
わたしの地上の日々の痕跡は
永久に 滅びることはあり得ない.—
かくも高き幸福の予感のうちに
わたしは 今 至高なる瞬間を悦する.

こう言って,Faust は倒れます.Mephistopheles は,彼の魂を手に入れようとします.しかし,das Ewig-Weibliche[永遠なる 女性的なもの]が Faust の魂を天へ救いあげます.

Faust が冒頭で述べているように,欲望の満足は錯覚にすぎません.そして,欲望が完全に満たされたと思う瞬間,我々は,死の穴へ呑み込まれます — 死的 [ thanatique ] なものとしての否定存在論的孔穴の開口へ.

幻想 $ ◊ a ) は,死的な否定存在論的孔穴を覆い隠すヴェールである,ということができます.

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