2020年2月27日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (13)

Salvador Dali (1904-1989), Ballerine - Tête de mort (1939)

Salvador Dali (1904-1989), In Voluptate Mors[悦のなかには 死が](1951)
photographie par Philippe Halsman


Mike Mekash, Kissing Skull

L'érotique est la défense contre le thanatique
性的なものは 死的なものに対する防御である


2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (13)


2020年02月21日の講義:
欲望のグラフ と 幻想の彼方 (1)
 



存在 の歴史の 源初論的位相
[ la phase archéologique ] において,穴が口を開いていました.それは,そこから「無からの創造」[ creatio ex nihilo ] が成起するところの源初論的な「深淵」(תְּהוֹם [ tehom ], ἄβυσσος) の穴です.

穴が開いているというからには,それは,存在事象の空間に口を開いた穴であるのか?そうではありません.そこから「無からの創造」が成起するところの穴ですから,その穴は存在事象が存在し始める以前に 開いていました.その穴を そのものとして表象することは,今 我々がそのなかに存在しているところの spacetime に条件づけられている我々の想像力には,不可能です.

次いで,その穴が 形而上学的な「存在」— その最初のものは,Platon の ἰδέα — によって塞がれることを以て,存在 の歴史の 形而上学的位相 [ la phase métaphysique ] が始まります.そのとき,初めて,存在との差異における存在事象も可能になります.

我々が源初論的孔穴を「抹消された存在」Sein や「抹消された主体」$ によって指し標すのは,その穴は 形而上学的位相においては 形而上学的な(存在論的な)存在 や 形而上学的な(実体としての)主体 によって塞がれているがゆえに,その穴を穴として再び見出すためには,穴塞ぎとなっているものを抹消する必要があるからです.

穴塞ぎとなっているものを抹消すれば,それが塞いできた穴を再び見出すことができるだろう  そのことに Heidegger が気づき得たのは,形而上学は Nietzsche において「満了」[ Vollendung ] を迎えたからです.

「形而上学の満了」と Heidegger が呼ぶものは,このことに存しています:すなわち,イデア的なものによる穴塞ぎが 18 世紀の終りから 19 世紀の始めにかけてのころ(すなわち,フランス革命の前後の時期)に無効になったことによって,形而上学の本質は 源初論的な穴(否定存在論的孔穴)を イデア的なものによって 閉塞することに 存する ということが明らかとなる.

であればこそ,Heidegger は,穴塞ぎとして機能してきた 形而上学的(存在論的)存在 [ Sein ] を抹消することによって 源初論的孔穴を指し標すことを 思いつくことができたのです.Lacan は,Heidegger の Sein にならって,「抹消された主体」[ le sujet barré ] の学素 $ を考案しました.


形而上学の満了を以て 存在 の歴史の形而上学的位相は終り,我々は 今,存在 の歴史の終末論的位相 [ la phase eschatologique ] を生きています.そこにおいては,否定存在論的孔穴のイデア的な閉塞は無効になり,否定存在論的孔穴は穴として現れ出でてこようとしますが,しかし,それにともなう不安(無の不安,死の不安,罪の不安)を防御するために,新たに穴を塞ぎ得ると信ぜられる 支配者徴示素 S1 が措定され(すなわち Paranoia),あるいは,穴を隠し得る 剰余悦 a が増殖します(すなわち Perversion[性倒錯]).そのような paranoisch な「穴塞ぎ」と pervers な「穴隠し」に存する抵抗が,我々の時代の精神病理を条件づけています.

では,その「治療」は何に存するのか?それは,穴塞ぎと穴隠しをやめて,現れ出でてこようとする否定存在論的孔穴を そのものとして認め,引き受け,迎え入れること — 穴を前にしての不安(無の不安,死の不安,罪の不安)に耐えつつ — に存します.精神分析は,その試みにほかなりません.

そして,不安を耐えぬいたとき,逆転が成起します — キリスト教において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている逆転が.

そして,その逆転は,「罪の赦し」という逆転でもあります.つまり,罪(この場合,特に,原罪:何ら違反行為をしていなくても,我々は有罪である — 原罪は,キリスト教の教義のなかでも最も不条理なもののひとつと見なされています)を認めることができず,自身を正当化している限りは,罪は赦されることはありません.有罪性の不安に耐えて,「わたしは罪人です」と認めるとき,初めて,罪の赦し — 罪からの解放 — が成起します.

また,「無からの創造」としての芸術的創造も,否定存在論的孔穴を前にしての「無の不安」を耐えぬくことによって,初めて可能になります.

幻想は,現れ出でてこようとする否定存在論的孔穴を隠す試みのひとつです.幻想は,Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]において典型的にそうであるように,性的 [ érotique ] なものである(性的な興奮を惹起し,自慰的満足を誘発する).そして,否定存在論的孔穴は,死[ thanatique ] なものである(その穴は,死の不安を惹起する).érotique なものとしての幻想 ( $a ) は,死的なものとしての否定存在論的孔穴を覆い隠す.したがって,我々は,こう公式化することができます : l'érotique est la défense contre le thanatique[性的なものは,死的なものに対する防御である].


先ほども述べたように,幻想 $ ◊ a ) は,Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]において典型的にそうであるように,性的 [ érotique ] な興奮を惹起し,自慰的満足を誘発します.つまり,幻想には,超自我の命令 :「悦せよ!」が包含されています.その命令によって,自慰行為が誘発されます.

しかし,我々は,超自我を「人格化」する必要は,必ずしもありません.幻想を 剰余悦 [ plus-de-jouir ] と捉えるなら,つまり,幻想を,異状の構造としての大学の言説の構造における剰余悦 a — 客体 a — と捉えるなら,超自我の「悦せよ!」という命令の正体は,実は,剰余悦 a の「自己増価」にほかなりません.それは,Marx が「資本家の絶対的な富裕化本能」[ der absolute Bereicherungstrieb des Kapitalisten ] と呼んだものの正体が 剰余価値の生産による 資本の「自己増価」[ Selbstverwertung ] であるのと同様です — そもそも,資本家とは「人格化され,意志と意識を付与された資本」[ personifiziertes, mit Willen und Bewußtsein begabtes Kapital ] のことである,と Marx は言っています.

では,なぜ 剰余価値 と 剰余悦 は,際限無く増殖して行かざるを得ないのか?それは,存在 の歴史の終末論的位相においては,真理の座(四つの言説の構造における左下の座)に位置する支配者徴示素 S1 が,実は,単なる仮象にすぎない  Platon の ἰδέα のように 不生不滅,恒常不変のものではあり得ない — ということを隠蔽し続けるためです.剰余価値も剰余悦も,もし際限無く増殖して行かなければ,消費されることによって,あっという間に なくなってしまいます.

さて,先週,autopunition[自己処罰]に関する質問がありました.

lacanien にとって autopunition と言えば,Lacan の 1932年の学位論文 De la psychose paranoïaque dans ses rapports avec la personnalité[人格との関係におけるパラノイア精神病について]における症例 Aimée です.彼女の精神病理を,Lacan は,paranoïa d'autopunition[自罰パラノイア]と呼びました.なぜなら,彼女が殺害しようとした女優は,彼女の自我理想の投射であったからです.その事態の構造は,やはり,異状の構造としての大学の言説の構造です.攻撃対象となった女優は,他者の座に位置する客体 a です.Aimée の行為は,その客体 a を破壊し,棄却することに存しています.

Ein Kind wird geschlagen[子どもが叩かれる]の幻想に戻ると,そこおいて,叩かれる子どもは,一見,その幻想を Freud に語る患者自身ではないように見えます.しかし,Freud は,実は,子どもが叩かれるのは折檻のためであり,折檻のために叩かれる子どもは患者自身の代理であることを見てとります.なぜなら,叩かれ幻想 [ Schlagephantasie ] は 罪意識を伴っているからです.

その意味において,叩かれ幻想は,一種の自己処罰幻想であり,その幻想にともなう悦は masochistisch な悦です.

Freud は,叩かれ幻想の由来を,Ödipuskomplex に求めます.そこにおいては,父との近親相姦的関係(すなわち,性器体制)が成立していた — 勿論,実際に娘が父と性交を行っていたわけではなく,あくまで性器的な関係の幻想があっただけですが.その性器的な関係から,しかし,子どもは,退行せざるを得ない — 近親相姦の禁止によって(我々は こう言います:性関係は無いがゆえに).それによって,子どもは,性器的な関係から,肛門的な関係へ退行し,性器的な悦は,肛門的な悦へ変形されます.

Freud が肛門的な悦を sadomasochistisch な悦と呼ぶとき,それは,より正確に言うと,何に存するのか?肛門という穴との連関における客体 a は,糞便です.それは,穴を塞ぎます(より正確に言えば,肛門的な客体 a — それは,夢などのなかでは,しばしば,「汚い」もの や「おぞましい」ものの姿を取ります — は,穴を隠します).そして,そのような客体 a は,排出や除去や破壊の対象となります — 穴の開放のために.つまり,sadomasochistisch な悦は,単に,糞便的な客体 a(糞便的な剰余悦)による穴塞ぎ(穴隠し)に存するのではなく,むしろ,そのような客体 a の破壊的な分離に存します.そのような破壊的な分離は,大学の言説(否定存在論的孔穴は 客体 a によって 隠されている)から 分析家の言説(否定存在論的孔穴は,客体 a の分離によって 現出してくる)への構造転換において,成起します.

叩かれ幻想における「叩く」こと (Schlagen) は,叩かれる者の身体としての客体 a を破壊的に分離し,否定存在論的孔穴を現出させます.幻想のなかでは,それは,叩かれる者の「失神」[ évanouissement ] として描かれます.この évanouissement という語を,Lacan は,「主体の消失」[ l'évanouissement du sujet ] という表現において用いています.それは,つまり,抹消された主体 $ が穴として現出してくることです.

Freud は,叩かれ幻想にともなう罪意識の由来について問うています.そして,それを kritisches Gewissen[批判的な良心]に求めています.Ein Kind wird geschlagen の論文は 1919年に書かれていますから,その時点では Freud は Über-Ich[超自我]という用語をまだ発案していませんが,我々としては,この kritisches GewissenÜber-Ich を見て取ることができます.

しかし,より根本的には,罪意識は何に由来しているか — 子どもは,実際には 近親相姦の罪を犯したわけではないのに?子どもは,実際には 近親相姦の罪を犯したわけではない — なぜなら「性関係は無い」から.

欲望の弁証法は,「性関係は無い」の穴 — つまり,否定存在論的孔穴 — に直面するよう,運命づけられています.その穴は,先ほども述べたように,無の穴であり,死の穴であり,罪(特に「原罪」)の穴です.否定存在論的孔穴を前にしての不安は,無の不安であり,死の不安であり,罪の不安です.

無と死と罪と — それら三つを並べるのは,キリスト教神学において「無からの創造」と「死から永遠の命への復活」と「罪の赦し」(特に,原罪の赦し)とが論ぜられるからです.それらは,いづれも,否定存在論的孔穴の否認をやめ,穴をそのものとして引き受けるときに 初めて 成起してくる神秘的な逆転を表わしています.

子どもは近親相姦の罪を犯したわけではないのに,叩かれ幻想は有罪性を伴う — つまり,その有罪性は,原罪の有罪性です.いかなる違反をも犯していないのに,有罪である — それが,極めて不条理な「原罪」[ peccatum originale ] です.そして,原罪は,否定存在論的孔穴に由来します.

欲望の弁証法は,死的な「性関係は無い」の穴に直面するよう,運命づけられています.性的な幻想 $ ◊ a ) は,その穴を覆い隠すために形成されます.

精神分析においては,我々は,幻想の彼方へ向かうことになります.欲望のグラフにおいて 幻想 $ ◊ a ) の彼方に位置づけられているのが,本能 ( $ ◊ D )le signifiant du manque dans l'Autre[他のなかの欠如の徴示素]S(Ⱥ) です.次回は,それらについて論じましょう.

0 件のコメント:

コメントを投稿