2017年9月4日

Radiophonie 読解 (9) 異状の構造における科学と資本主義

異状の構造における科学と資本主義


問い V に対する答えのなかで,Lacan は科学と資本主義について語っています.基本的に言って,両者は,Lacan が問い VI に対する答えのなかで論じている「知と真理との間の主体分裂」の構造,すなわち,主体の分裂としての aliénation[異状,疎外]の構造のなかに 言い換えれば,Hegel の『精神の現象学』のなかに 位置づけられます.

既に指摘したように,異状の構造は,四つの言説において大学の言説と呼ばれることになる構造に相当します.


ただし,Lacan が問い VI への答えのなかで « la topologie qui met frontière entre vérité et savoir »真理と知との間に境界を置くトポロジー](Autres écrits, p.441) と言っているように,「主体の分裂は,知と真理との間の分裂である」という公式における「真理」は,四つの言説における「真理の座」(黄色の穴)のことではなく,而して,主体の 存在 の解脱実存的な在処(赤いメビウス曲面)のことを指します.大学の言説においては右下の座(生産の座)に位置する主体 $ が,それです.知は,大学の言説において左上の座(代理者の座)に位置する S2 です.そして,「真理と知との間の境界」は,穴のエッジ(緑色の線;大学の言説では右上の座の客体 a)に相当します.それは « joint au réel »[実在へのジョイント,継ぎ目](ibid., p.443) とも呼ばれています.

ついでながら,Lacan 1971年の書 Lituraterre において用いる語 « littoral »[海と陸とが接する地帯,海岸地域,沿岸海域]は,この « frontière »[境界]の言い換えです.そして,« littoral » と一文字違いの « littéral » を介して,Lacan は, lettre[文字]は「知と真理との間」の境界を成すものであると言い,さらに言い換えて,「知と悦との境界」を成すものである,とも言っています.

大学の言説において右上の座に位置する客体 a は,反復強迫の症状の徴示素として「書かれることをやめない」文字です.その徴示素連鎖に対して,« la lettre en souffrance »[宛先が不明であったり,宛先に宛名人が居住していないなどの理由により配達することのできない手紙](Écrits, p.29) は,métonymie の効果において言い落とされている文字,すなわち,不可能な徴示素 phallus φ です.

また,Lacan « joint au réel » と言うとき,この「ジョイント,継ぎ目」という語に,四つ輪のボロメオ結びにおいて実在と徴在と影在の輪三つをボロメオ的に結ぶ第四の輪 「父の名」ないし「症状」の輪 へ至る Lacan の論理をうかがい見ることができます.


さて,近現代は,科学の時代であり,資本主義の時代です.科学と資本主義が極度に支配的である現代の危機的な存在論的状況を,Heidegger Ge-Stell[総召集体制]と呼んでいます.それは,形而上学の歴史の終着点として,ニヒリズムの究極的な形態です.そこにおいては,科学によって現にないし潜在的に分析可能であり,かつ,資本の増殖のために現にないし潜在的に利用可能であるもののみが,存在事象である,と見なされています.人間も自然も,あらゆる存在事象は存在論的尊厳を完全に失っています.

Lacan « la science est une idéologie de la suppression du sujet »[科学は,主体の抑圧のイデオロギーである](Autres écrits, p.437) と指摘しています.それは,大学の言説としての科学の言説において,主体が右下の解脱実存的在処へ「抑圧」されていることを指しています:


左上の支配者の座に位置する知 S2 は,Hegel das absolute Wissen[絶対知]と呼ぶものです.それは,神学において神の omniscientia[全知]と呼ばれてきたものに相当します.科学にとっては,ひとつの理想にすぎません.実際に科学と呼ばれているものは,経験的ないし理論的に集積されて,多かれ少なかれ体系化された知の総体にすぎません.

Lacan « l’idéal d’univers »[宇宙の理想,ひとつのすべてとしての宇宙という理想](Autres écrits, p.431) と言っていますが,それは,其こにおいて絶対知が存在事象そのもの全体を余すところ無く begreifen[把握する,概念化する]し得たところの宇宙です.同じページで Lacan « l’impossible, c’est le réel »[不可能在こそが実在である]と言っていますが,それは,そのような宇宙はあり得ない,不可能だ,という文脈において言われています.

しかし,諸科学の諸対象を総合して行けば,究極的には,絶対知が完全に概念化し得た宇宙を科学は手に入れ得るはずだ,という思念から,科学はいまだに自由ではないようです.

大学の言説における右上の座(緑色)の客体 a は,科学が扱う諸対象です.科学は,対象の存在そのものの存在論的「意味」について問うことは決してありません.つまり,主体 $ が位置する解脱実存的な 存在 の在処(赤色)そのものにはまったく気づきません.

ところで,近現代的な意味における科学の出発点を画したのは Galilei であると見なされていますが,Lacan は,むしろ,科学の出発点を Descartes cogito に見出します.ただし,認識論において超越論的自我の「我れは存在する」を基礎づけるものとしての cogito ではなく,方法的懐疑 dubito としての cogito です.

方法的懐疑は,従来「真なり」と思い込まれていた知を臆見として拒否することに存します.その構造は,大学の言説の「裏」を成す hysterica の言説の構造です:


そこにおいては,知 S2 は臆見として右下の解脱実存の座へ棄却され,飽くなき真理の欲望としての主体 $ が左上の支配者の座へ出てきます.

hysterica の言説が科学の出発点としての方法的懐疑の言説である限りにおいて,「科学はその躍動を hysterica の言説から得る」(Autres écrits, p.436) Lacan は言っています.

それに対して,大学の言説は教条主義の言説 [ discours du dogmatisme ] である,と言うことができるでしょう.そこにおいては,言うなれば,あらゆる対象を既成の知の枠組みのなかにねじ伏せることだけが,かかわっています.さもなければ,知は,客体 a の裂け目を前にして,不安に襲われてしまうからです.

したがって,本当の意味で「科学的な」と呼べる精神や態度は,絶対知の仮象 S2 が支配する大学の言説にではなく,むしろ,その支配を拒む hysterica の言説に宿ります.その限りで,Lacan も,「科学は,hysterica の言説の次元へ記入される」(Autres écrits, p.431) と言っています.

資本主義に関しては,Marx による資本の分析 資本の本質を剰余価値に見出した彼の分析 は,今もその的確さを失っていません.むしろ,其こに「経済成長」が存するところの資本の増殖を命じ続ける der absolute Bereicherungstrieb[絶対的な富裕化本能](Marx が『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変化」において用いている表現 すなわち,超自我の「もっと悦せよ!」という命令)が惹起するもろもろの害がますます明白になってきた今こそ,資本という病理学的症状から自由になることが全人類の喫緊の課題です.

元来 Hegelianer である Marx の思考は,『精神の現象学』の構造のなかで展開されます.そのことは,例えば彼の『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変化」における議論において,示唆されています:

G-W-G[貨幣-商品-貨幣]循環[流通]においては,両者 商品と貨幣 は,価値そのものの相異なる現存様態 貨幣は価値の普遍的な現存様態,商品は価値の特殊な,いわば単に変装した現存様態 としてのみ機能する.価値は,一方の形態から他方の形態へ恒常的に移行する その運動において失われることなく.そのように,価値は,ひとつの自動的な主体 [ ein automatisches Subjekt ] へ変化する.もし我々が,有効利用される価値がその生の循環において交互に身にまとう特殊な現象形態を固定化するなら,我々は,「資本は貨幣である」,「資本は商品である」という説明を得る.しかし,実際には,価値は,そこにおいて,ひとつの過程の主体と成っている 其の過程においては,価値は,恒常的な形態交替 貨幣から商品へ,商品から貨幣へ のもとで,自身の大きさをみづから変え,当初の価値としての自分自身から剰余価値として身を引き離し,自身をみづから有効利用する.そも,其こにおいて価値が剰余価値を付加する運動は,価値自身の運動であり,価値の有効活用であり,つまり,価値の自己有効活用である.価値は,価値であるがゆえに価値を措定するというオカルト的な質を得たのだ.価値は,生きているヒヨコを生み出す または,少なくとも,金のタマゴを生むのだ.(...) そこにおいて,価値は,ひとつの進行する,みづから動く実体 [ eine prozessierende, sich selbst bewegende Substanz ] 其れにとっては,商品と貨幣はふたつの単なる形態である として,突然,自身を現す.(...) かくして,価値は,進行する価値,進行する貨幣,資本そのものに成る.価値は,流通[循環]から来たり,再び流通[循環]のなかへ入り,そこにおいて自身を維持し,自身を複写し,大きくなってそこから戻って来て,そして,同じ循環を常に改めて再開する.G-G’, 貨幣を生む貨幣 money which begets money , 資本は,その最初の通訳者である重商主義者たちの口において,そのように記述されている.(...) 実際,G-W-G’ は,資本の普遍的な公式である.

自己増殖する価値としての資本を,自動的な主体ないし実体として捉える Marx の思考は,まさに,『精神の現象学』における Hegel の主体 すなわち,自己意識 の思想と同じです.上に引用した一節ではまだ労働のことは論じられていませんが,剰余価値が措定される労働についての論考も,Hegel の「支配者と奴隷の Dialektik」に欠けてはいません.

資本は主体である,と言うと,あまりピンと来ないかもしれません.「主体」の代わりに「存在」と言いましょう ただし,抹消された存在 Sein としての存在ではなく,存在事象そのもの全体としての存在です.近現代の形而上学において,存在は価値として思考されます.

近現代の形而上学において存在事象そのもの全体としての存在は如何なるものとして思考されているかを,Nietzsche の『力への意志』を分析する Heidegger のテクスト Nietzsches Wort » Gott ist tot «[ニーチェの言葉「神は死んだ」]に準拠して,見てみましょう.

Heidegger によれば,Platon に始まる形而上学は,存在を Sein として思考することはできず,而して,存在事象そのもの全体として思考します.形而上学の完了の時代の哲人である Nietzsche は,存在を,生命,生成,意志,力,価値として思想します (cf. Heidegger, GA 5, p.230). Nietzsche の言う Wille zur Macht[力への意志]は,より強くなろう,より成長しようとする意志です (ibid., p.234). そして,意志とは自分自身への命令です (ibid.). すなわち,力への意志は der Befehl zu Mehr-Macht[より大きな力への命令](ibid., p.236) です.

Mehr-Macht という表記は Heidegger のものであると思われます.Nietzsche 自身は « mehr Macht » と書いています.« Nicht Zufriedenheit, sondern mehr Macht ; nicht Frieden überhaupt, sondern Krieg ; nicht Tugend, sondern Tüchtigkeit »[満足ではなく,而してより大きな力;そもそも平和ではなく,而して戦争;有徳ではなく,而して有能]という断片のなかに見出されます.Marx Mehrwert[剰余価値]との類似は,明白です.両者は,勿論,Lacan plus-de-jouir[剰余悦]と関連しています.

Mehwert Mehr-Macht plus-de-jouir とにおいてかかわっているのは,超自我の悦の命令です:満足にとどまっていてはならない.おまえは,得られた満足に甘んずるのか?見ろ,それはどんどん衰えて行く.なぜなら,それは究極的な本当の満足ではないからだ.だから,もっと悦せよ!Jouis encore plus !

超自我の悦の命令は,症状の反復強迫を動機づけるものにほかなりません.大学の言説において右上の座に位置する客体 a は,超自我の命令の声であると同時に,反復強迫の症状の徴示素でもあります.経済学においては,それは,際限無く自己増殖しようとする価値としての資本であり,Nietzsche の形而上学においては,自身を超えてさらにより大きな力へ成長しようとする力への意志です.


力への意志と存在との関連については:「力への意志は,『存在の最も内奥の本質』である」(Heidegger, GA 5, p.236). さらに (pp.237-238) :

意志は,己れ自身に力において優らんと欲する限りにおいて,生の如何なる領域においても安心しない.意志が力強いのは,彼方の自分自身の意志へ到達することにおいてである.かくして,意志は,同じ意志として,同じものとしての己れ自身へ常に回帰する.存在事象全体 その essentia は力への意志である が現存する様態 すなわち,その existentia は,「同じものの永遠なる回帰」である.ニーチェの形而上学のふたつの根本用語 「力への意志」と「同じものの永遠なる回帰」 は,古来形而上学にとって主導的であり続けている視点によって,存在事象をその存在において規定している : essentia existentia という意味における ens qua ens[存在事象としての存在事象].

Nietzsche が「同じものの永遠なる回帰」と呼ぶものは,精神分析の観点から言えば,反復強迫の症状にほかなりません.それに対して,力への意志は,その反復強迫を動機づける「もっと悦せよ」の命令です.

つまり,aliénation の構造としての大学の言説において,客体 a(緑色の座に位置する)は,存在事象の場処(水色の座に位置する)を限定するエッジとして,存在事象そのもの全体をひとつの集合として規定します.


その意味において,客体 a は,存在事象そのもの全体としての存在です.そして,それは,その essentia においては,力への意志として,超自我の悦の命令であり,その existentia においては,同じものの永遠なる回帰として,反復強迫の症状である,と言うことができます.

さらに,Nietzsche Übermensch[超人]と呼ぶものは,「其の本有が,力への意志から欲されたものであるところの人間」(Heidegger, GA 5, p.251) です.つまり,超人は,従来の人間たち [ die bisherigen Menschen ] に対して,彼らの超自我を体現して,「もっと悦せよ」と命令する者です.

資本主義の文脈においては,客体 a は,essentia においては,無際限な自己増殖を命ずるものとしての資本ないし剰余価値であり,existentia においては,際限無く再生産され続け,永遠に回帰し続ける商品である,と言うことができます.

超人も永遠回帰も,資本も剰余価値も,右上の奴隷の座に位置する客体 a こそが,実は,左上の支配者の座に位置する S2 に対して命令します,「もっと悦せよ」と.精神分析においてかかわる症状は,そのような剰余悦としての客体 a です.

分析家の言説においては,客体 a は,右上の座から左上の座へ転移されます:


すなわち,「書かれることをやめない」ものとしての実在の座から,仮象の座へ,転移されます.それによって,症状の徴示素 a は,書かれることをやめることができます.

書かれることをやめないものとしての実在の座には,昇華された欲望としての分析家の欲望 $ が位置します.分析の終結は,分析者(精神分析の患者)自身が分析家の欲望を引き受け得ることに存します.


Radiophonie 読解 (8) 論理における「急くこと」の機能と精神分析的行為

論理における「急くこと」の機能と精神分析的行為


問い IV に対する答えと問い V に対する答えのなかで,Lacan は,終戦直後の1946年に書かれた Le temps logique et l’assertion de certitude anticipée[論理の時間と,先取りされた確実さの断定]に言及しています.その書を,彼は,晩年に至るまで,折に触れて取り上げ直します.

そこにおいて Lacan は,彼自身が sophisme と呼ぶひとつの問題とその解答について論じています.sophisme と言うのも,通常の論理学では扱い得ない議論だからです.なぜ通常の論理学では扱い得ないかというと,それは,精神分析の経験そのものにかかわっているからです.「論理の時間」というとき,その「論理」は,精神分析がその終結に至る過程のことです.

Lacan が取り上げている問題は,次のようなものです:

刑務所の所長が,囚人三人を選び出し,彼らに問題を言い渡す:「ここに,黒い円盤がふたつ,白い円盤が三つある.わたしは,君たち各々の背中にそのうちの一枚を貼り,君たち三人すべてを鏡の無い一部屋へ入れる.君たちは,自身の背中の円板を見ることはできないが,ほかのふたりのものは見ることができる.しかし,如何なる会話も交信もしてはならない.ただ論理的な推論のみによって,自身の背中の円板が何色かを結論したまえ.部屋の外で待つわたしに最初に正答を告げに来れた者ひとりだけを,わたしは釈放する」.そう言って,刑務所長は,彼ら三人の背中いづれにも白い円板を貼る.さて,如何に彼らは正しい結論に達し得るか,得ないか?

当然ながら,Lacan はこの問題を単なる「頭の体操」として提示しているのではありません.それは,主体自身には隠された自身の真理に関して問い,かつ,その真理へ到達すること 精神分析の経験は,まさにそのことに存します のひとつの allégorie です.

そこにおいては,自身の真理へ何としてでも到達したいという強い欲望がかかわっています.それが,「急くこと」を動機づけます.

この囚人たちの問題は,永遠の命への復活としての救済の allégorie と解釈することもできます.刑務所長は神であり,囚人たちは地上的な生を生きている我々自身です.白い円盤は「救済される」を表し,黒い円盤は「救済されない」を表します.ところで,三人の囚人のために白い円盤は三つ用意されています.つまり,神は始めから三人とも救済するつもりなのです(人間たちはそのことを知りませんが).しかし,神は,単純に救済するのではなく,人間たちに「救済されたい」という強い欲望を喚起したい,と思います.さらに,人間たちが「わたしは既に救済されている」という真理にみづから気づくことを,神は欲します.

さて,論理学的推論の過程は,Lacan の表現 (Écrits, p.202) で言えば「空間化」され得ます.例えば,三段論法:「人間は皆,いつかは死ぬものである.ところで,Socrates は人間である.ゆえに,Socrates はいつかは死ぬものである」は,「いつかは死ぬもの」の集合を M, 人間の集合を H とすれば,次のような Venn 図として空間化され得ます:


そこにおいては,推論の過程は不連続も飛躍も含んでいません.

それに対して,Lacan sophistique と形容するこの囚人の問題においては,そのような空間化は不可能であり,而して,推論の時間的経過のなかで生じてくる論理の切れ目(Lacan scansion と呼ぶもの)と,その不連続を飛び越える行為とが,結論し得るために決定的となります.

不連続を飛び越える際に,その結果がどうであるかに関しては絶対的な保証はありません.しかし,飛び越えることを躊躇しては,結論へ達することはでません.

そのような飛躍を含む推論にとっては,「釈放(救済)されるために,どうしても真理に到達したい」という強固な欲望と,遅れないように「急く(せく)こと」とが決定的です.

三人の囚人を A, B, C と呼びましょう.そして,わたし自身は C である,としましょう.

まず最初は「まなざす瞬間」[ l’instant du regard ] です.わたしは,他者ふたりはともに白であることを見ます.そして,誰も動きません.まなざす瞬間から直ちに結論へ達し得る者は誰もいないからです.

もし仮にそこで「以上の所与からは結論することはできない」とあきらめれば,釈放(救済)の可能性をみづから放棄することになります.しかし,わたしはどうしても解放(釈放,救済)されたい.

そこで,この第一の「動きの宙吊り」から成る論理の切れめにおいて,わたし C はこう推論します(その推論の時間を,Lacan は「了解するための時間」[ le temps pour comprendre ] と呼んでいます):

他者ふたりがともに白であるということは,黒がふたつ,白がひとつという状況を除外する.そもそも,その状況においては,他者ふたりがともに黒であることを見た者は,即座に自身が白であることを結論し,躊躇無く出口へ向かうことになる.
他者ふたりが白であるということは,三人は皆,白である(救済される)か,あるいは,わたし C だけが黒である(救済されない),ということである. 
神はわたしだけを救済しないという可能性!何という不安!しかし,「わたしは白である(救済される)」という信念に根拠無しに執着している限り,わたしは行き詰まってしまう. 
そこで,わたし C は黒である(救済されない)という状況を,神の愛への信頼において不安に耐えつつ,引き受けてみよう.そこにおいては,A B はそれぞれこう推論することになる(以下,B の推論を述べるが,そこにおいて B A とを入れ換えれば,それは A の推論でもある):「もし仮にわたし B は黒であるとすれば,B C がともに黒であることを見る A は,即座に自身の白であることを結論し,躊躇無く出口へ向かうことになる.しかし,彼は動かない.したがって,わたし B は白である」.そう結論し得る A B は,ともに,わたし C に先んじて出口へ向かうことになる.しかし,彼らは動かない.したがって,わたし C は,黒ではなく,白である.

A B も,それぞれ,C と同じ結論に達します.かくして,三人は,ともに,出口へ向かう一歩を同時に踏み出して,第一の「動きの宙吊り」の切れ目を飛び越えようとします.

しかし,そのとき,A B がともに出口へ向かおうとするのを見て,わたし C は,結論の確実さに動揺を感じます:「おや,彼らふたりはともに出口へ向かおうとしている.ということは,わたしは,やはり,白ではなく,黒なのか?」そして,歩みを踏み出すことを躊躇します.

しかし,その動揺と躊躇は,A においても B においても同じです.かくして,第二の「動きの宙吊り」の切れ目が生じます.

そのとき,わたし C はこう推論します:

再び,わたし C は黒である(救済されない)という状況を,神の愛への信頼において不安に耐えつつ,引き受けてみよう.そこにおいては,A B は,ともに,先ほどの推論にもとづいて,躊躇無く出口へ向かうことになる.しかし,彼らは動かない.したがって,わたし C は,やはり,黒ではなく,白である.

A B も,それぞれ,C と同じ結論を得ます.かくして,三人は皆,第二の「動きの宙吊り」の切れ目を踏み越え,結論する瞬間 [ le moment de conclure ] に到達し得る... でしょうか?

実は,形式的には,第二の切れ目は,際限無い躊躇のせいで踏み越え不能な深淵となり得ます.

各人は,他者ふたりが共に出口へ向かおうとするので,「わたしは白ではなく,黒なのか」と疑い,躊躇する.他者も同じく躊躇する.そのことによって,各人は再び「わたしは白である」と結論する.そして皆,出口へ向かおうとする.しかし,そのとき,各人は他者ふたりが共に出口へ向かおうとするのを見て...

以上の悪循環は,形式的には際限無く続き得ます.その悪循環から脱出するためには,神の愛への信頼において救済の確実さを先取りし,「わたしは白である:神はわたしを救済する」と結論する瞬間へ飛躍する必要があります.

Lacan 自身は「神の愛への信頼」という表現は用いていません.そうではなく,la fonction de la hâte en logique[論理における「急くこと」の機能]と言っています.

そのように急くことができるためには,解放されたいという強固な欲望が必要です.もし囚人が一般社会で生きて行くよりは刑務所暮らしの方が気楽だと思うなら,解放の欲望を支えることはできません.救済の譬えで言うなら,この世の生に執着する者は,永遠の命を欲することはできません.

急くことを動機づける解放の強固な欲望を,Lacan は「分析家の欲望」と名づけることになります.それは,何らかの存在事象による満足を一切退けた欲望です.そして,そのことにおいて,「昇華」と呼ばれる悦に達した欲望です.つまり,分析家の欲望は,昇華された欲望です.そして,欲望の昇華は愛です.ですから,分析家の欲望は,愛です.キリスト教は,それを「神の愛」と呼びます.

昇華された欲望としての分析家の欲望に支えられてこそ,主体は,分析の経験において,急くことができ,分析の終結において,みづから分析家の欲望を引き受ける「結論する瞬間」へ飛躍することができます.

その飛躍こそ,Lacan l’acte psychanalytique[精神分析的行為,精神分析の行為]と呼ぶところのものです.

Radiophonie 読解 (7) 無意識と認識論と存在論

無意識と認識論と存在論


問い IV において,質問者は「何において無意識はあらゆる認識論をくつがえす鍵概念なのでしょうか?」と問うています.それに対して Lacan は,問い V への答えのなかで明瞭に断言しています:「無意識は認識論とは何のかかわりもないだけに,なおさら,無意識が認識論をくつがえすこともない」(p.432).

認識論 [ théorie de la connaissance ] は,認識する意識主体を前提します.同様に,今の脳科学においても,認知 [ cognition ] 機能の備わった大脳が前提されています.そのような前提は,科学においても哲学においても,大概,暗黙のうちに共有されています.そのような前提に立つ者は,無意識を,認識主体の主権をおびやかすものと見なしたり,あるいは,認知機能のなかに解消しようとしたりします.しかし,精神分析においてかかわる無意識は,そのようなものでは全然ありません.では?

Séminaire XI 1964122日の講義の最後に Jacques-Alain Miller が発した問い:「あなたの存在論は如何なるものか?」に対して,Lacan は,翌週の講義において,敢えて「存在論」という語を真正面から取り上げることを避けつつ,無意識は存在事象的 [ ontique, ontisch ] なものではなく,倫理的なものだ,と答えています.

そのときのことに言及しつつ,Radiophonie (p.426) では,「わたしは,[精神分析を基礎づける]わたしの狙いを何らかの存在論を以て支えねばならないということを否んだ」とすら言っています.

しかし,だから Lacan の教えに存在論は無関係だ,と結論づけることはできません.Lacan は,Heidegger にならって存在について問い続け,思考し続けた哲人のひとりです.おそらく,存在について最も根本的に思考した哲人のひとりだ,と言っても過言ではないでしょう.しかも,単なる思弁のためではなく,精神分析というひとつの実践を基礎づけるためにそうしたのは,Lacan ひとりだけです.

Lacan が「存在論」という語の使用を避けたのは,Heidegger の存在論以外の形而上学的な存在論においては存在は実体化されるからです.ですから我々も,単純に「存在論」とは言わずに,「否定存在論」と言います.

トポロジーとして展開される否定存在論の要は,切れ目 [ coupure ] と,それによって開けられる穴 [ trou ] です.

特に Radiophonie pp.426-428 では,coupure trou とともに,faille[断層,裂け目,割れ目]と défaut[欠陥,欠如]という語も用いられています.同じ箇所で Lacan は,faille défaut の両語の語源である動詞 faillir, ならびに,それと同じくラテン語の動詞 fallere に由来する falloir に,注目しています.

fallere は「...を欺く」,「...の目を逃れる,...に気がつかれない,...の記憶から逃れる」(この意味はギリシャ語動詞 λανθάνειν と共通 ; λανθάνειν は,Heidegger Verborgenheit[秘匿性]と翻訳する λήθη[忘却]と語源的に関連).faillir は「怠る,もとる」,「欠ける」,不定詞とともに用いられて「もう少しで...するところである」.falloir は,il faut ... の形で用いられて,「...が必要である」「...せねばならない」.

さらに Lacan は,動詞 fallere に由来するラテン語形容詞 falsus[偽である]にも注目しています.後者は,フランス語形容詞 faux の語源です.

Lacan にとって,Radiophonie pp.426-428 で展開されている fallere に関連する議論の暗黙の前提は,Heidegger の言う Not[欠乏,必要]であろうと思われます.

Heidegger Not と言うとき,それは Sein のことです.それは,存在事象の側から見れば欠如です.しかし,単なる欠如ではありません.その欠如の穴は,構造の可能性の条件である源初的な存在論的切れ目によって開かれた穴です.

源初的な存在論的切れ目の作用を,Lacan は,Radiophonie p.428 で示唆しているように,Freud 1925年の小論文 Verneinung[否定]のなかに読み取ります.そこにおいて Freud は,源初的な Entscheiden[決定]ないし Urteilen[判断]を論じています.動詞 scheiden teilen も「分ける」であり,つまり,源初的な差異がかかわっています.その差異によって,Einbeziehung ins Ich[自我の中への取り込み]と Ausstoßung aus dem Ich[自我の外への排出]が分けられます.


源初的な存在論的切れ目によって,自我の中への取り込みは存在事象の場処(水色)として,自我の外への排出は解脱実存的在処(赤)として,構造化されます.

Lacan は,「自我の外への排出」を,しばしば「落ちる,脱落する」(tomber, choir) という動詞を用いて表現してもいます.

もし ἀλήθειαUnverborgenheit, 非秘匿性)としての Lichtung[朗場]の側の存在事象を「真」と言うなら,解脱実存の側へ落ちたものは「偽」(falsus) です.しかし,Verborgenheit[秘匿性]としての 存在 の真理は,解脱実存的在処そのものです.

さらに,Not は,単純に欠如ではなく,必要でもあります.存在 は,解脱実存的在処から我々に何かを強制してきます.強いてきます.その強制は,我々にとって,「...が必要だ,...せねばならない,...せざるを得ない」という必然の形のもとに作用してきます.

存在Not を代理するのが,超自我の命令:「悦せよ!」です.


超自我は,大学の言説における客 a 相当します.反復強迫的に止むことのない「悦せよ!」の命令の声が,超自我の正体です.

四つの言説においては,右上の座は奴隷の座であり,左上の座こそ命令する支配者の座ではないのか?確かにそうです.しかし,左上の座に君臨する支配者は仮象にすぎません.実際には,右上の S(Ⱥ) の座において強迫的に反復される症状 a にこそ,我々は支配されています.


Radiophonie 読解 (6) : métaphore et métonymie

Métaphore et métonymie


問い III の主題を成す métaphore[隠喩] métonymie[換喩]は,周知のように,伝統的には修辞学に属する概念ですが,それらに Lacan が注目したのは,言語学者 Roman Jakobson の著作 Fundamentals of Language (1956) の第二部 Two Aspects of Language and Two Types of Aphasic Disturbances[言語のふたつの側面と失語障害のふたつの型]を読んだことによってです.

そこにおいて Jakobson は,失語症の基本的な二類型 Wernicke 失語(典型的には左側頭葉の損傷と関連しており,患者の語りは,流暢だが,了解可能な意味に乏しい)と Broca 失語(典型的には左前頭葉の損傷と関連しており,患者の語りは,流暢ではないが,了解可能な意味を有し得る)と における語りの障害を言語学的観点から分析し,次のように論じています : Wernicke 失語の患者の語りにおいては métonymie が優位(つまり,語りはひとつの単語からほかの単語へ流暢に横滑りして行くかもしれないが,主題的に重要な語は欠けている)であり,Broca 失語の患者の語りにおいては métaphore が優位(つまり,発せられる単語の数は少ないかもしれないが,主題的に重要な語,ないしそれを代理する語は出現し得る)である.それは,前者においては単語の selection[選択]ないし substitution[代理]を可能にする機能が障害されており,後者においては単語の combination[結合]ないし contexture[文脈づけ]を可能にする機能が障害されている,ということである.

かくして,Jakobson は,語の選択ないし代理に存する métaphore と,語の結合ないし文脈づけに存する métonymie とを,言説の構造の両極を成すものとして一般化し,それらを言語芸術や表象芸術の作品分析のために応用し得ることを示唆しています.Jakobson 自身が,一例として Freud の『夢解釈』に言及し,夢の顕在的なテクストにおける Verschiebung[ずらし]を métonymie, Verdichtung[縮合]を synecdoque[提喩:部分で全体を または,逆に,全体で部分を 表す換喩の一種],identification symbolisation métaphore として分析しています(Verdichtung に関しては,Lacan はそれをむしろ métaphore として捉えています).また,文学作品に関しては,詩や romantisme および symbolisme の作品においては métaphore が優位であり,réalisme[写実主義]の作品においては métonymie synecdoque が優位である,と指摘しています.

以上のような Jakobson の議論にもとづいて,Lacan は,1957年の書 L’instance de la lettre dans l’inconscient ou la raison depuis Freud において,症状を métaphore, 欲望を métonymie と規定しています:

métaphore のメカニズムは,其こにおいて分析的意味における症状が規定されるところのメカニズムである.性的外傷の謎めいた徴示素と,それが現事的な徴示素連鎖において代理する項[すなわち,性関係は無い : φ]との間に,火花が通る.そして,それは,症状のなかに,意識主体には接近不可能な意義を固定する.また,欲望があらゆる「自然哲学」に対して提起する謎は,ほかのものの欲望 [ le désir d’autre chose ] へと無限に伸びる métonymie のレール[軌条,線路]に欲望が捕えられていることに由来する (Écrits, p.518).

さらに,その書の最後 (Écrits, p.528) Lacan は問うています : métaphore を存在の問いへ結びつけ,métonymie を存在欠如へ結びつけるものは,何か?その答えは「父の名」ですが,それはひとまず置いておきます.

ともあれ,métaphore métonymie の問題を否定存在論のトポロジーのなかに位置づけてみましょう.


科学と資本主義の時代としての近現代における基本的な否定存在論的構造は,Lacan が大学の言説として形式化する構造です.Saussure の学素は,大学の言説へと展開されことになる元基と見なすことができます.1964年に aliénation[異状]と名づけられた構造も,大学の言説の構造へ還元されます.

異状の構造を,Lacan は「知と真理との間の分裂」の構造と規定します.

知は,大学の言説において左上の座に位置する S2 です.それは,図では水色に色づけられた「徴示素の宝庫」としての「他の場処」に位置しています.

他方,真理は,この場合,四つの言説における左下の「真理の座」のことではなく,而して,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処(赤)としての主体 $ のことです.

Lacan が「真理」と言うとき,それが四つの言説の左下の「真理の座」のことなのか,あるいは,抹消された存在 Sein としての主体 $ のことなのか,識別しながら読む必要があります.

また,Lacan が欲望と呼ぶものは,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処に位置する主体 $ のことです.Lacan が「人間の欲望は,他の欲望である」と言うとき,それは,大学の言説の構造において,主体 $ である欲望が,自である S2 の側にではなく,他である a の側に位置していることを指しています.

しかし,当然ながら,Sein の在処こそが本自的なものです.にもかかわらず左上の座が自の座と見なされるのは,その構造がまさに aliénation[異状]の構造であるからであり,それを形成するのは他者 autre との同一化であるからです.

大学の言説においては,「父の名」である S1 は,単なる穴へ還元されてしまっています.それは,言うなれば,父殺しの神話において息子たち S2 によって殺された Urvater の不在の穴です.

さて,否定存在論的構造の要を成すものは,切れ目の縁(ふち,エッジ:緑色)です.その切れ目こそ,構造の可能性の条件であるからです.

Lacan が学素 S(Ⱥ) を以て形式化するこのエッジの座に,大学の言説においては,客体 a が位置づけられます.

ところで,Radiophonie (Autres écrits, p.416) において Lacan はこう言っています:

métaphore métonymie は,其れによってわたしが無意識の力動を生み出したところの原理をもたらしていた.その条件は,Saussure の[学素の]棒線についてわたしが言ったことである.(...) それは,浮かぶ徴示素から流れる被徴示へと跳び越されるべき実在的なエッジの役を果たしている.

それに続いて Lacan はこう言っています:

[被徴示に対する徴示素の実在的なエッジの役を果たすことは],métaphore が為すことである.それは,被徴示の池のなかで[その上を歩くための]敷石の役を果たす徴示素の意味効果を得る.(...) [詩において]作り出された意味効果は,意味のなかで無意味から作られていたことに,我々は気づく:「彼の麦穂は,惜しみもせず,憎みもせず」.

「浮かぶ」,「流れる」,「池」などと Lacan が言っているのは,Saussure が『一般言語学講義』のなかで提示したこの図が念頭にあるからです:


signifiant / signifié として構造化されることになるそれらふたつの「無定型な塊」と Saussure が呼ぶもののうち,下のもの(signifié となるもの)を Lacan は水の流れに見立て,上のもの(signifiant となるもの)をそれに浮かんで,流されて行くものに見立てます.両者を相互に繋ぎ合わせる何かが無ければ,言語の構造 signifiant / signifié は成り立ちません.それが,Lacan が「敷石」と呼んでいるものです.この敷石は,流水のなかの固定点となり,それによって,さもなくば流れ去ってしまうだろうものを繋ぎとめる機能を果たします.問い III に対する答えの冒頭で言及されている point de capiton[留め縫いの目]も,同じ機能を考えるために Lacan がかつて考案した用語です.

この「敷石」ないし「留め縫いの目」の機能を果たすのが,大学の言説の構造において他 A の場処と主体 $ の在処との間の「実在的なエッジ」を成す客体 a です.


「実在的」は,この場合,必然在としての実在のことです.意味に関しては,不可能在としての実在と同様,「意味外」です.


緑に色づけられている切れ目のエッジの座における客体 a は,他の場処(水色)と主体の在処(赤)との繋ぎ目でもあります.

「繋ぐ」という機能に関しては,ボロメオ結びで見ると,より明白です:


大学の言説において右上の座に位置する客体 a ,緑色の輪として,imaginaire(影在,青)と réel(実在,赤)とをボロメオ的に(分離しつつ結合する)繋ぎ合わせる symbolique(徴在,黄)の機能を支える第四の輪の機能を果たしています.


症状は métaphore であると言うとき,その症状とは,右上の autre の座 ‒ S(Ⱥ) の座 ‒ に位置する客体 a のことです.それは,存在欠如 Sein としての主体 $ を直接に代補(代理)する文字 (lettre) すなわち存在 (l’être) です ‒ この場合の「存在」(Sein) は,存在欠如としての存在 (Sein, Seyn) とは区別されます.

それに対して,「欲望は,存在欠如の métonymie である」(Écrits, p.623) と言うとき,その欲望は存在欠如としての主体 $ のことです.それは,何らかの存在事象としての客体によって満足することは決してありません.常に「ほかのものの欲望」‒ Radiophonie では « le désir d’Autre-chose » (Autres écrits, p.414) と表記されています ‒ です.欲望 $ の客体としての客体 a は,それ自体が常に「ほかのもの」であることにおいて,« objet métonymique » (Autres écrits, p.171) と呼ばれます.逆に言えば,何かひとつの特定された客体を以てして主体 $ を「しかじかの客体の欲望」と規定することもできません.それは,métonymique な徴示素 a の連鎖のなかにそのようなものとしては決して出現してくることなく,その下を絶えず横滑りして行きます ‒ Lacan が « un glissement incessant du signifié sous le signifiant » (Écrits, p.502) と言っているように.

以上の構造について,Lacan は,1961年の書 La métaphore du sujet において,こう言っています (Écrits, p.892) :

最も重大な実在性 欲望の métonymie を支えるべき人間の役割を考慮するなら,人間にとって唯一の重大な実在性 は,métaphore においてしか保持され得ない.

この「人間にとって最も重大な 唯一の重大な 実在性」とは,存在欠如としての主体 $ の存在 Sein のことにほかなりません.

そして,それは,不可能な性関係の不可能な phallus φ と等価です:


ですから,Radiophonie において,Lacan Sein のことを jouissance de l’Autre[他の悦]と言い換えています.それは,不可能な phallus φ によって媒介される不可能な性関係の不可能な悦です.

問い III に対する答えのなかで,Lacan は経済論的な表現を先取りしていますが,そのことに関しては,後ほど立ち返ります.

Radiophonie 読解 (5) : le signifiant et le signe

Le signifiant et le signe


問い II への答えのなかで,Lacan は自問しています : 

si le signifiant représente un sujet pour un autre signifiant, alors comment peut-il, ce signifiant, tomber au signe ? [如何に徴示素は徴へ堕し得るか?](Autres écrits, p.413).

続けて Lacan はこう言っています:

Psychanalyste, c’est du signe que je suis averti. S’il me signale le quelque chose que j’ai à traiter, je sais d’avoir à la logique du signifiant trouvé à rompre le leurre du signe, que ce quelque chose est la division du sujet.
精神分析家として,わたしの注意が向けられるのは,徴へである.わたしが扱うべき何かを徴がわたしに徴示 [ signaler ] するとすれば,わたしは,徴のまやかしを打破する手段を徴示素の論理学に見出し得たことによって,その「何か」は主体の分裂[裂け目]であることを知っている.

同じページで Lacan は,division の代わりに faille[断層,亀裂]とも言っています.ですから,division は「分裂」のみならず,「裂け目」でもあります.

先ほども示したように,主体の分裂ないし裂け目の構造は,Lacan aliénation[異状]と呼ぶ「知と真理との間の主体の分裂(ないし,裂け目)」の構造です:


「徴示素は主体を他なる徴示素に対して代表する」と言うとき,この「他なる徴示素」は,裂け目ないし切れ目のエッジを成す S(Ⱥ) ‒ または,S(Ⱥ) の座において強迫的に反復される aです.

さきほど「徴」(signe) と呼ばれていたのは,その a のことです.それは,症状の signe[徴,徴候]です.


 aliénation の構造は大学の言説の構造であり,そこにおいて a は,右上の autre の座に位置しています.

症状の signe としての a は,主体 $ を,精神分析家に対して代表します.

精神分析においては,大学の言説から分析家の言説への転回が起こります:


そこにおいては,症状の signe である a は左上の座に位置します.そして,それが主体の存在を代表するのは,右上の座の $ に対してです.この $ は,昇華された欲望としての分析家の欲望を表します.

代理者の座に位置する a は,転移神経症の症状として,精神分析的解釈によって分離され,脱落させることができます.それによって,S(Ⱥ) の座に $ が残ります.


S(Ⱥ) の座における $ は,Sein の解脱実存的な在処を支える純粋定存として,精神分析の終結を成します.

Radiophonie 読解 (4) : la passion du signifiant

La passion du signifiant


問い II と問い III への答えのなかに登場する « la passion du signifiant » (pp.412 et 418) について解説しておきましょう.それは La signification du phallus (Écrits, p.688) で用いられている表現です.そこにおいて Lacan はこう言っています:

徴示素は,其こにおいて徴示され得るものが徴示素のしるしを被り,その passion によって被徴示になるように見えるところの諸効果の決定において,能動的な機能 [ fonction active ] を有している.そのような passion du signifiant[徴示素による passion, 徴示素からの passion]は,爾来,人間の条件のひとつの新次元となる 「人間は言葉を話す」のみならず,「人間において,人間をとおして,何かが語る」のである限りにおいて,また,人間の本性は,其こにおいて言語の構造 人間は,其の質料になる が見出されるところの諸効果によって織り成されるようになる限りにおいて,また,そこから,観念の心理学が思想し得たものすべての彼方において,人間のなかに,ことばの関繋が響く限りにおいて.

passion は,action[作用,能動]に対して,受動です.また,キリスト教の文脈においては,Jesus の受難です.そこにおいて,彼は,十字架につけられて処刑され,三日目に永遠の命へ復活します.

ここで,Heidegger がバツ印で抹消した存在のことを思い出しましょう:


この Sein[存在]という単語のバツ印による抹消について,Heidegger (GA 9, p.411) « die kreuzweise Durchstreichung » または « die Durchkreuzung » と言っています.« Kreuz » は十字のしるしであり,キリスト教の文脈においては十字架のことです.

かくして,我々は,« passion du signifiant » という表現に,Heidegger がバツ印で抹消した Sein を見てとることができます.つまり,言語存在としての主体の存在欠如 Sein です.

Radiophonie において,Lacan passion du signifiant についてこう言っています:

其こにおいて性的なもの[le sexuel  すなわち rapport sexuel, 性関係]が passion du signifiant を被るところの神話的な原点は,phallus に要約される (Autres écrits, p.412) ;

記入されるものの下を passion du signifiant は滑走する passion du signifiant jouissance de l’Autre[他の悦]と言われねばならない,なぜなら,それが身体から奪われることによって,身体から lieu de l’Autre[他の場処]が生成するがゆえに (ibid., p.418).

Lacan は単に « le sexuel » と言っていますが,それは le rapport sexuel[性関係]のことであると理解しておきましょう.「性関係は無い」の学素としての抹消された phallus φ passion du signifiant[徴示素による受難]としての抹消された存在 Sein との等価性 :


が,改めて示唆されています

ふたつの学素 φ および Sein により形式化される否定存在論的抹消は,存在論的切れ目 S(Ⱥ) の効果です.

「滑走する」[ glisser ] は,signifiant に対する signifié ex-sistence を指し示すために Lacan が好んで用いる表現です.例えば : « un glissement incessant du signifié sous le signifiant »[被徴示が徴示素の下を絶えず滑走すること](Écrits, p.502).

signifié の正体は,passion du signifiant としての Sein です.それは,「記入されるもの」 すなわち,signifiant の下を絶えず滑走する.つまり,signifiant に対して ex-sistent です.

さらに Lacan は,passion du signifiant jouissance de l’Autre と言い換えています.この jouissance de l’Autre は,ですから,「性関係は無い」ことによる不可能な悦のことです.言い換えれば:不可能な phallus φ .


不可能な phallus φ と他の場処とは,存在論的切れ目 S(Ⱥ) によって相互に分離されています.不可能な phallus φ は,他の場処に対して ex-sistent です.

徴示素の宝庫(徴示素の集合)としての他の場処が規定されるのは,存在論的切れ目 S(Ⱥ) によって,それが主体の 存在 の解脱実存的在処から分離されることにおいてである それが,「他の悦が身体から奪われることによって,身体から他の場処が生成する」ということです.