Une photo prise par Gérard Miller au moment de la visite de Lacan à Venise au mois de septembre 1974. De gauche à droite : Jacques-Alain Miller, sa fille Ève, son fils Luc, Jacques Lacan, Judith Miller, Jocelyne Livi (historienne des représentations de la femme) et Catherine Millot.
R.I.P. Catherine Millot (1944-09-04 - 2026-08-24) — 彼女を連れて ラカンが ハィデガーを訪問したとき
L'entretien de Catherine Millot just après la parution de son témoignage de ses éxpériences auprès de Lacan « La vie avec Lacan » (2016)
わたしは,わたし自身の分析のため および パリ第VIII大学精神分析学部での DEA の取得のため,1986年夏から 1988年秋まで パリに滞在した.その間,一度だけ Catherine Millot と 直接 会話したことがある.Paris VIII での一年め,Saint-Denis の校舎でおこなわれていた彼女の講義に わたしは出席していた.何が講義のテーマだったのか,わたしは もう憶えていない.あるとき,わたしは 彼女に質問し,彼女は 答えてくれた.わたし自身の問いも 彼女の答えも,わたしは もはや憶えていない. わたしにとっては,彼女は,彼女の La vie avec Lacan の出版のときまで,あまたの psychanalystes lacaniennes のなかで,Colette Soler の影に隠れてしまっていた.ともあれ,主が永遠の安らぎを彼女に与えてくださるように.
彼女の追悼文としては,Le Monde 紙に E. Roudinesco が書いたものがあるが,それは 例によって 虚偽に満ちており,読むに値しない.オンライン誌 ActuaLitté の追悼文の方が よかろう.
わたしとしては,彼女の追悼のために,『ハィデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー』(青土社,2020)からの抜粋を,以下に提示する.
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1975年04月08日の講義 (Séminaire XXII, R.S.I.) で,ラカンは,数日前にハィデガーを訪ねてきたことについて 語っている:「この復活祭休暇の間に,わたしは,ハィデガーにちょっと会ってきた.我々がふたりともこの世からいなくなる前に ちょっと挨拶をしてきた というわけだ.わたしは,彼のことが好きだ.彼は,まだとても元気だ」.
その訪問は,ラカンがハィデガーと会った最後の機会だった.その際にラカンに同行していた Catherine Millot[カトリーヌ ミヨー]—
彼女は当時,ラカンの公然たる愛人であり,彼は 誰はばかることなくどこでも(旅先でも,別荘でも,彼の弟子たちがほとんど皆参加する l’École
freudienne de Paris の学会でも)彼女を連れ回っていた — は,彼女の2016年の著書 La vie avec Lacan[ラカンとともに生きる](pp.87-90) のなかで,興味深い証言を残している.その一節を,若干長いが,ラカンとハィデガーとの個人的な関係性を概観するためにも,引用しておこう:
その後しばらくして,わたしは,ラカンがハィデガーをフライブルクの彼の自宅に訪ねるのに 同行した.ハィデガーが脳卒中にみまわれたのを知って,ラカンは,彼自身の表現によると,「ハィデガーが死ぬ前に もう一度 会っておきたい」と思ったのだ.ラカンは,ハィデガーとは昔から知り合いだった.最初は,1950年代の始めに,Jean Beaufret[ジャン ボフレ]とともに訪問している.ちなみに,Beaufret は ラカンに分析を受けていた.ラカンは,Logos と題されたハィデガーのテクストを フランス語に翻訳している.その翻訳は,1956年に La Psychanalyse[la Société française de psychanalyse の学会誌]に発表された.1955年,ハィデガーは,Cerisy-la-Salle で行われたある学会に,Beaufret と Maurice de Gandillac とによって招かれた.その帰途,ハィデガー夫妻は,ギトランクールのラカンの別荘に立ち寄り,数日間滞在した[注:正しくは,ラカンがハィデガー夫妻を彼の別荘でもてなしたのは,学会開始まえの数日間である].ラカンは,夫妻のために,その地域を車で案内して回った — いつものように,猛スピードで運転して.ハィデガー夫人が叫び声を上げるのを,彼は無視した.我々は,まず飛行機でバーゼルへ行き,かの地のとても美しい美術館を訪れた.次いで,車を借りて,ハィデガー夫妻が我々を待つフライブルクへおもむいた.ハィデガー夫妻は,住宅街の比較的新しい家に住んでいた.それは,わたしが哲学者ハィデガーに結びつけていた森の山小屋のイメージには似ても似つかなかった.我々が中に入るや,ハィデガー夫人は,訪問者用のスリッパをはくよう我々に権威的に命令した.わたしは,ジュラ県の出身なので,雪の季節,山岳地方ではそのような室内履きがごく普通に用いられていることを知っていた.北欧諸国では家に入るとき靴を脱ぐことも,わたしは知っていた.しかし,そのときはもう4月だった.我々は外界の汚れを持ち込む者と見なされているのだ,とわたしは感じた.フロィトは,無意識にとっては「外」は「異」— すなわち,敵,および,一般的に言って,憎むべきもの — と同義である,と教えている.わたしは,一方では侵入者と見なされた不快感を感ずるとともに,他方では,スリッパと形而上学との思いがけぬコントラストが惹き起こした笑いをこらえていた.我々は,応接間に通された.ハィデガーは,長椅子に横たわっていた.ラカンは,ハィデガーのかたわらに座るや,セミネールで展開中のボロメオ結びを用いた最新の理論的前進を伝えようとした.話を図解するために,ラカンは,四つ折りの紙をポケットから取り出し,そこに一連のボロメオ結びを描いて,ハィデガーに見せた.後者は,その間ずっと一言も発さず,目を閉じたままだった.この態度は,関心の欠如の表現なのか,それとも,認知能力が弱っているせいにすべきなのだろうか,と わたしは自問した.あきらめることを知らないラカンは,頑固に説明し続けた.この事態が永遠に続くのかと思われたとき,幸運にも,ハィデガー夫人が現れて,「面会」を終わらせた.「夫を疲れさせないために」あらかじめ定められていた時間が過ぎたのだ.我々は,スリッパをはいた足で出口に向かった.そのまま厄介払いというわけではなく,後ほど近所のレストランで一緒に食事をするよう招かれた.スリッパのことがひどくしゃくにさわっていたわたしは,外に出るや,ラカンに質問した:ハィデガー夫人はナチスだったのか,と.「勿論さ」とラカンは答えた.当時は,ハィデガーとナチズムとの関係は さして問題にされていなかった.Victor Farias の本 [ Heidegger et le nazisme (1987) ] は,まだ出ていなかった.食事の間,ハィデガーの口数は もう少し多かったが,会話は ほとんどはずまなかった.ラカンは,ドイツ語を読めるものの,話すことはできず,ハィデガー夫妻も フランス語はできなかった.別れ際,ハィデガーは,葉書大の彼の写真をわたしにくれた.その裏面に 彼はこう書いた:「フライブルク訪問の記念に,1975年 4月 2日」.わたしの名前は 書かれなかった.頼まれてもいないのに彼がファンのためにサインすることに,わたしは ちょっとびっくりした.しかし,わたしはその写真をうやうやしく取っておいた.わたしの面接室の本棚にその写真を見かけた[精神分析の]患者のひとりは,それはわたしの祖父なのか,と尋ねた.
以上のミヨーの証言からもうかがえるように,ハィデガーのラカンに対する態度はそっけないものであるのに対して,ラカンのハィデガーに対する「友情」は熱烈である.
ハィデガーにとっては,精神分析は,生物学的な「性本能」を前提するひつとのいかがわしい心理学理論 — しかも「ユダヤ人『フロィト』」[ der Jude »Freud« ] (GA 96, p.218) によって作り出されたもの — にすぎなかった.それに対して,ラカンは,精神分析を形而上学にも生物学や心理学や社会学などの経験科学にもよらずに純粋に基礎づける — ラカンの教え全体はそのことに存している — ための本質的な手がかりを,ハィデガーの教えのなかに見出していた.であれば,相手に対する熱の入れようが両者の間で大きく異なっているのも,当然である.
だが,ラカン派精神分析家として,わたしは断言することができる:ハィデガーの教師としての最大の功績は ラカンを生んだことである,と.今我々が受け継いでいるラカンの遺産はハィデガー無しにはおよそ考えられず,また,ハィデガーの教えの成果を最も有意義に活用したのはラカンである,とわたしは見積もっている.
