2017年9月4日

Radiophonie 読解 (7) 無意識と認識論と存在論

無意識と認識論と存在論


問い IV において,質問者は「何において無意識はあらゆる認識論をくつがえす鍵概念なのでしょうか?」と問うています.それに対して Lacan は,問い V への答えのなかで明瞭に断言しています:「無意識は認識論とは何のかかわりもないだけに,なおさら,無意識が認識論をくつがえすこともない」(p.432).

認識論 [ théorie de la connaissance ] は,認識する意識主体を前提します.同様に,今の脳科学においても,認知 [ cognition ] 機能の備わった大脳が前提されています.そのような前提は,科学においても哲学においても,大概,暗黙のうちに共有されています.そのような前提に立つ者は,無意識を,認識主体の主権をおびやかすものと見なしたり,あるいは,認知機能のなかに解消しようとしたりします.しかし,精神分析においてかかわる無意識は,そのようなものでは全然ありません.では?

Séminaire XI 1964122日の講義の最後に Jacques-Alain Miller が発した問い:「あなたの存在論は如何なるものか?」に対して,Lacan は,翌週の講義において,敢えて「存在論」という語を真正面から取り上げることを避けつつ,無意識は存在事象的 [ ontique, ontisch ] なものではなく,倫理的なものだ,と答えています.

そのときのことに言及しつつ,Radiophonie (p.426) では,「わたしは,[精神分析を基礎づける]わたしの狙いを何らかの存在論を以て支えねばならないということを否んだ」とすら言っています.

しかし,だから Lacan の教えに存在論は無関係だ,と結論づけることはできません.Lacan は,Heidegger にならって存在について問い続け,思考し続けた哲人のひとりです.おそらく,存在について最も根本的に思考した哲人のひとりだ,と言っても過言ではないでしょう.しかも,単なる思弁のためではなく,精神分析というひとつの実践を基礎づけるためにそうしたのは,Lacan ひとりだけです.

Lacan が「存在論」という語の使用を避けたのは,Heidegger の存在論以外の形而上学的な存在論においては存在は実体化されるからです.ですから我々も,単純に「存在論」とは言わずに,「否定存在論」と言います.

トポロジーとして展開される否定存在論の要は,切れ目 [ coupure ] と,それによって開けられる穴 [ trou ] です.

特に Radiophonie pp.426-428 では,coupure trou とともに,faille[断層,裂け目,割れ目]と défaut[欠陥,欠如]という語も用いられています.同じ箇所で Lacan は,faille défaut の両語の語源である動詞 faillir, ならびに,それと同じくラテン語の動詞 fallere に由来する falloir に,注目しています.

fallere は「...を欺く」,「...の目を逃れる,...に気がつかれない,...の記憶から逃れる」(この意味はギリシャ語動詞 λανθάνειν と共通 ; λανθάνειν は,Heidegger Verborgenheit[秘匿性]と翻訳する λήθη[忘却]と語源的に関連).faillir は「怠る,もとる」,「欠ける」,不定詞とともに用いられて「もう少しで...するところである」.falloir は,il faut ... の形で用いられて,「...が必要である」「...せねばならない」.

さらに Lacan は,動詞 fallere に由来するラテン語形容詞 falsus[偽である]にも注目しています.後者は,フランス語形容詞 faux の語源です.

Lacan にとって,Radiophonie pp.426-428 で展開されている fallere に関連する議論の暗黙の前提は,Heidegger の言う Not[欠乏,必要]であろうと思われます.

Heidegger Not と言うとき,それは Sein のことです.それは,存在事象の側から見れば欠如です.しかし,単なる欠如ではありません.その欠如の穴は,構造の可能性の条件である源初的な存在論的切れ目によって開かれた穴です.

源初的な存在論的切れ目の作用を,Lacan は,Radiophonie p.428 で示唆しているように,Freud 1925年の小論文 Verneinung[否定]のなかに読み取ります.そこにおいて Freud は,源初的な Entscheiden[決定]ないし Urteilen[判断]を論じています.動詞 scheiden teilen も「分ける」であり,つまり,源初的な差異がかかわっています.その差異によって,Einbeziehung ins Ich[自我の中への取り込み]と Ausstoßung aus dem Ich[自我の外への排出]が分けられます.


源初的な存在論的切れ目によって,自我の中への取り込みは存在事象の場処(水色)として,自我の外への排出は解脱実存的在処(赤)として,構造化されます.

Lacan は,「自我の外への排出」を,しばしば「落ちる,脱落する」(tomber, choir) という動詞を用いて表現してもいます.

もし ἀλήθειαUnverborgenheit, 非秘匿性)としての Lichtung[朗場]の側の存在事象を「真」と言うなら,解脱実存の側へ落ちたものは「偽」(falsus) です.しかし,Verborgenheit[秘匿性]としての 存在 の真理は,解脱実存的在処そのものです.

さらに,Not は,単純に欠如ではなく,必要でもあります.存在 は,解脱実存的在処から我々に何かを強制してきます.強いてきます.その強制は,我々にとって,「...が必要だ,...せねばならない,...せざるを得ない」という必然の形のもとに作用してきます.

存在Not を代理するのが,超自我の命令:「悦せよ!」です.


超自我は,大学の言説における客 a 相当します.反復強迫的に止むことのない「悦せよ!」の命令の声が,超自我の正体です.

四つの言説においては,右上の座は奴隷の座であり,左上の座こそ命令する支配者の座ではないのか?確かにそうです.しかし,左上の座に君臨する支配者は仮象にすぎません.実際には,右上の S(Ⱥ) の座において強迫的に反復される症状 a にこそ,我々は支配されています.


Radiophonie 読解 (6) : métaphore et métonymie

Métaphore et métonymie


問い III の主題を成す métaphore[隠喩] métonymie[換喩]は,周知のように,伝統的には修辞学に属する概念ですが,それらに Lacan が注目したのは,言語学者 Roman Jakobson の著作 Fundamentals of Language (1956) の第二部 Two Aspects of Language and Two Types of Aphasic Disturbances[言語のふたつの側面と失語障害のふたつの型]を読んだことによってです.

そこにおいて Jakobson は,失語症の基本的な二類型 Wernicke 失語(典型的には左側頭葉の損傷と関連しており,患者の語りは,流暢だが,了解可能な意味に乏しい)と Broca 失語(典型的には左前頭葉の損傷と関連しており,患者の語りは,流暢ではないが,了解可能な意味を有し得る)と における語りの障害を言語学的観点から分析し,次のように論じています : Wernicke 失語の患者の語りにおいては métonymie が優位(つまり,語りはひとつの単語からほかの単語へ流暢に横滑りして行くかもしれないが,主題的に重要な語は欠けている)であり,Broca 失語の患者の語りにおいては métaphore が優位(つまり,発せられる単語の数は少ないかもしれないが,主題的に重要な語,ないしそれを代理する語は出現し得る)である.それは,前者においては単語の selection[選択]ないし substitution[代理]を可能にする機能が障害されており,後者においては単語の combination[結合]ないし contexture[文脈づけ]を可能にする機能が障害されている,ということである.

かくして,Jakobson は,語の選択ないし代理に存する métaphore と,語の結合ないし文脈づけに存する métonymie とを,言説の構造の両極を成すものとして一般化し,それらを言語芸術や表象芸術の作品分析のために応用し得ることを示唆しています.Jakobson 自身が,一例として Freud の『夢解釈』に言及し,夢の顕在的なテクストにおける Verschiebung[ずらし]を métonymie, Verdichtung[縮合]を synecdoque[提喩:部分で全体を または,逆に,全体で部分を 表す換喩の一種],identification symbolisation métaphore として分析しています(Verdichtung に関しては,Lacan はそれをむしろ métaphore として捉えています).また,文学作品に関しては,詩や romantisme および symbolisme の作品においては métaphore が優位であり,réalisme[写実主義]の作品においては métonymie synecdoque が優位である,と指摘しています.

以上のような Jakobson の議論にもとづいて,Lacan は,1957年の書 L’instance de la lettre dans l’inconscient ou la raison depuis Freud において,症状を métaphore, 欲望を métonymie と規定しています:

métaphore のメカニズムは,其こにおいて分析的意味における症状が規定されるところのメカニズムである.性的外傷の謎めいた徴示素と,それが現事的な徴示素連鎖において代理する項[すなわち,性関係は無い : φ]との間に,火花が通る.そして,それは,症状のなかに,意識主体には接近不可能な意義を固定する.また,欲望があらゆる「自然哲学」に対して提起する謎は,ほかのものの欲望 [ le désir d’autre chose ] へと無限に伸びる métonymie のレール[軌条,線路]に欲望が捕えられていることに由来する (Écrits, p.518).

さらに,その書の最後 (Écrits, p.528) Lacan は問うています : métaphore を存在の問いへ結びつけ,métonymie を存在欠如へ結びつけるものは,何か?その答えは「父の名」ですが,それはひとまず置いておきます.

ともあれ,métaphore métonymie の問題を否定存在論のトポロジーのなかに位置づけてみましょう.


科学と資本主義の時代としての近現代における基本的な否定存在論的構造は,Lacan が大学の言説として形式化する構造です.Saussure の学素は,大学の言説へと展開されことになる元基と見なすことができます.1964年に aliénation[異状]と名づけられた構造も,大学の言説の構造へ還元されます.

異状の構造を,Lacan は「知と真理との間の分裂」の構造と規定します.

知は,大学の言説において左上の座に位置する S2 です.それは,図では水色に色づけられた「徴示素の宝庫」としての「他の場処」に位置しています.

他方,真理は,この場合,四つの言説における左下の「真理の座」のことではなく,而して,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処(赤)としての主体 $ のことです.

Lacan が「真理」と言うとき,それが四つの言説の左下の「真理の座」のことなのか,あるいは,抹消された存在 Sein としての主体 $ のことなのか,識別しながら読む必要があります.

また,Lacan が欲望と呼ぶものは,抹消された存在 Sein の解脱実存的な在処に位置する主体 $ のことです.Lacan が「人間の欲望は,他の欲望である」と言うとき,それは,大学の言説の構造において,主体 $ である欲望が,自である S2 の側にではなく,他である a の側に位置していることを指しています.

しかし,当然ながら,Sein の在処こそが本自的なものです.にもかかわらず左上の座が自の座と見なされるのは,その構造がまさに aliénation[異状]の構造であるからであり,それを形成するのは他者 autre との同一化であるからです.

大学の言説においては,「父の名」である S1 は,単なる穴へ還元されてしまっています.それは,言うなれば,父殺しの神話において息子たち S2 によって殺された Urvater の不在の穴です.

さて,否定存在論的構造の要を成すものは,切れ目の縁(ふち,エッジ:緑色)です.その切れ目こそ,構造の可能性の条件であるからです.

Lacan が学素 S(Ⱥ) を以て形式化するこのエッジの座に,大学の言説においては,客体 a が位置づけられます.

ところで,Radiophonie (Autres écrits, p.416) において Lacan はこう言っています:

métaphore métonymie は,其れによってわたしが無意識の力動を生み出したところの原理をもたらしていた.その条件は,Saussure の[学素の]棒線についてわたしが言ったことである.(...) それは,浮かぶ徴示素から流れる被徴示へと跳び越されるべき実在的なエッジの役を果たしている.

それに続いて Lacan はこう言っています:

[被徴示に対する徴示素の実在的なエッジの役を果たすことは],métaphore が為すことである.それは,被徴示の池のなかで[その上を歩くための]敷石の役を果たす徴示素の意味効果を得る.(...) [詩において]作り出された意味効果は,意味のなかで無意味から作られていたことに,我々は気づく:「彼の麦穂は,惜しみもせず,憎みもせず」.

「浮かぶ」,「流れる」,「池」などと Lacan が言っているのは,Saussure が『一般言語学講義』のなかで提示したこの図が念頭にあるからです:


signifiant / signifié として構造化されることになるそれらふたつの「無定型な塊」と Saussure が呼ぶもののうち,下のもの(signifié となるもの)を Lacan は水の流れに見立て,上のもの(signifiant となるもの)をそれに浮かんで,流されて行くものに見立てます.両者を相互に繋ぎ合わせる何かが無ければ,言語の構造 signifiant / signifié は成り立ちません.それが,Lacan が「敷石」と呼んでいるものです.この敷石は,流水のなかの固定点となり,それによって,さもなくば流れ去ってしまうだろうものを繋ぎとめる機能を果たします.問い III に対する答えの冒頭で言及されている point de capiton[留め縫いの目]も,同じ機能を考えるために Lacan がかつて考案した用語です.

この「敷石」ないし「留め縫いの目」の機能を果たすのが,大学の言説の構造において他 A の場処と主体 $ の在処との間の「実在的なエッジ」を成す客体 a です.


「実在的」は,この場合,必然在としての実在のことです.意味に関しては,不可能在としての実在と同様,「意味外」です.


緑に色づけられている切れ目のエッジの座における客体 a は,他の場処(水色)と主体の在処(赤)との繋ぎ目でもあります.

「繋ぐ」という機能に関しては,ボロメオ結びで見ると,より明白です:


大学の言説において右上の座に位置する客体 a ,緑色の輪として,imaginaire(影在,青)と réel(実在,赤)とをボロメオ的に(分離しつつ結合する)繋ぎ合わせる symbolique(徴在,黄)の機能を支える第四の輪の機能を果たしています.


症状は métaphore であると言うとき,その症状とは,右上の autre の座 ‒ S(Ⱥ) の座 ‒ に位置する客体 a のことです.それは,存在欠如 Sein としての主体 $ を直接に代補(代理)する文字 (lettre) すなわち存在 (l’être) です ‒ この場合の「存在」(Sein) は,存在欠如としての存在 (Sein, Seyn) とは区別されます.

それに対して,「欲望は,存在欠如の métonymie である」(Écrits, p.623) と言うとき,その欲望は存在欠如としての主体 $ のことです.それは,何らかの存在事象としての客体によって満足することは決してありません.常に「ほかのものの欲望」‒ Radiophonie では « le désir d’Autre-chose » (Autres écrits, p.414) と表記されています ‒ です.欲望 $ の客体としての客体 a は,それ自体が常に「ほかのもの」であることにおいて,« objet métonymique » (Autres écrits, p.171) と呼ばれます.逆に言えば,何かひとつの特定された客体を以てして主体 $ を「しかじかの客体の欲望」と規定することもできません.それは,métonymique な徴示素 a の連鎖のなかにそのようなものとしては決して出現してくることなく,その下を絶えず横滑りして行きます ‒ Lacan が « un glissement incessant du signifié sous le signifiant » (Écrits, p.502) と言っているように.

以上の構造について,Lacan は,1961年の書 La métaphore du sujet において,こう言っています (Écrits, p.892) :

最も重大な実在性 欲望の métonymie を支えるべき人間の役割を考慮するなら,人間にとって唯一の重大な実在性 は,métaphore においてしか保持され得ない.

この「人間にとって最も重大な 唯一の重大な 実在性」とは,存在欠如としての主体 $ の存在 Sein のことにほかなりません.

そして,それは,不可能な性関係の不可能な phallus φ と等価です:


ですから,Radiophonie において,Lacan Sein のことを jouissance de l’Autre[他の悦]と言い換えています.それは,不可能な phallus φ によって媒介される不可能な性関係の不可能な悦です.

問い III に対する答えのなかで,Lacan は経済論的な表現を先取りしていますが,そのことに関しては,後ほど立ち返ります.

Radiophonie 読解 (5) : le signifiant et le signe

Le signifiant et le signe


問い II への答えのなかで,Lacan は自問しています : 

si le signifiant représente un sujet pour un autre signifiant, alors comment peut-il, ce signifiant, tomber au signe ? [如何に徴示素は徴へ堕し得るか?](Autres écrits, p.413).

続けて Lacan はこう言っています:

Psychanalyste, c’est du signe que je suis averti. S’il me signale le quelque chose que j’ai à traiter, je sais d’avoir à la logique du signifiant trouvé à rompre le leurre du signe, que ce quelque chose est la division du sujet.
精神分析家として,わたしの注意が向けられるのは,徴へである.わたしが扱うべき何かを徴がわたしに徴示 [ signaler ] するとすれば,わたしは,徴のまやかしを打破する手段を徴示素の論理学に見出し得たことによって,その「何か」は主体の分裂[裂け目]であることを知っている.

同じページで Lacan は,division の代わりに faille[断層,亀裂]とも言っています.ですから,division は「分裂」のみならず,「裂け目」でもあります.

先ほども示したように,主体の分裂ないし裂け目の構造は,Lacan aliénation[異状]と呼ぶ「知と真理との間の主体の分裂(ないし,裂け目)」の構造です:


「徴示素は主体を他なる徴示素に対して代表する」と言うとき,この「他なる徴示素」は,裂け目ないし切れ目のエッジを成す S(Ⱥ) ‒ または,S(Ⱥ) の座において強迫的に反復される aです.

さきほど「徴」(signe) と呼ばれていたのは,その a のことです.それは,症状の signe[徴,徴候]です.


 aliénation の構造は大学の言説の構造であり,そこにおいて a は,右上の autre の座に位置しています.

症状の signe としての a は,主体 $ を,精神分析家に対して代表します.

精神分析においては,大学の言説から分析家の言説への転回が起こります:


そこにおいては,症状の signe である a は左上の座に位置します.そして,それが主体の存在を代表するのは,右上の座の $ に対してです.この $ は,昇華された欲望としての分析家の欲望を表します.

代理者の座に位置する a は,転移神経症の症状として,精神分析的解釈によって分離され,脱落させることができます.それによって,S(Ⱥ) の座に $ が残ります.


S(Ⱥ) の座における $ は,Sein の解脱実存的な在処を支える純粋定存として,精神分析の終結を成します.

Radiophonie 読解 (4) : la passion du signifiant

La passion du signifiant


問い II と問い III への答えのなかに登場する « la passion du signifiant » (pp.412 et 418) について解説しておきましょう.それは La signification du phallus (Écrits, p.688) で用いられている表現です.そこにおいて Lacan はこう言っています:

徴示素は,其こにおいて徴示され得るものが徴示素のしるしを被り,その passion によって被徴示になるように見えるところの諸効果の決定において,能動的な機能 [ fonction active ] を有している.そのような passion du signifiant[徴示素による passion, 徴示素からの passion]は,爾来,人間の条件のひとつの新次元となる 「人間は言葉を話す」のみならず,「人間において,人間をとおして,何かが語る」のである限りにおいて,また,人間の本性は,其こにおいて言語の構造 人間は,其の質料になる が見出されるところの諸効果によって織り成されるようになる限りにおいて,また,そこから,観念の心理学が思想し得たものすべての彼方において,人間のなかに,ことばの関繋が響く限りにおいて.

passion は,action[作用,能動]に対して,受動です.また,キリスト教の文脈においては,Jesus の受難です.そこにおいて,彼は,十字架につけられて処刑され,三日目に永遠の命へ復活します.

ここで,Heidegger がバツ印で抹消した存在のことを思い出しましょう:


この Sein[存在]という単語のバツ印による抹消について,Heidegger (GA 9, p.411) « die kreuzweise Durchstreichung » または « die Durchkreuzung » と言っています.« Kreuz » は十字のしるしであり,キリスト教の文脈においては十字架のことです.

かくして,我々は,« passion du signifiant » という表現に,Heidegger がバツ印で抹消した Sein を見てとることができます.つまり,言語存在としての主体の存在欠如 Sein です.

Radiophonie において,Lacan passion du signifiant についてこう言っています:

其こにおいて性的なもの[le sexuel  すなわち rapport sexuel, 性関係]が passion du signifiant を被るところの神話的な原点は,phallus に要約される (Autres écrits, p.412) ;

記入されるものの下を passion du signifiant は滑走する passion du signifiant jouissance de l’Autre[他の悦]と言われねばならない,なぜなら,それが身体から奪われることによって,身体から lieu de l’Autre[他の場処]が生成するがゆえに (ibid., p.418).

Lacan は単に « le sexuel » と言っていますが,それは le rapport sexuel[性関係]のことであると理解しておきましょう.「性関係は無い」の学素としての抹消された phallus φ passion du signifiant[徴示素による受難]としての抹消された存在 Sein との等価性 :


が,改めて示唆されています

ふたつの学素 φ および Sein により形式化される否定存在論的抹消は,存在論的切れ目 S(Ⱥ) の効果です.

「滑走する」[ glisser ] は,signifiant に対する signifié ex-sistence を指し示すために Lacan が好んで用いる表現です.例えば : « un glissement incessant du signifié sous le signifiant »[被徴示が徴示素の下を絶えず滑走すること](Écrits, p.502).

signifié の正体は,passion du signifiant としての Sein です.それは,「記入されるもの」 すなわち,signifiant の下を絶えず滑走する.つまり,signifiant に対して ex-sistent です.

さらに Lacan は,passion du signifiant jouissance de l’Autre と言い換えています.この jouissance de l’Autre は,ですから,「性関係は無い」ことによる不可能な悦のことです.言い換えれば:不可能な phallus φ .


不可能な phallus φ と他の場処とは,存在論的切れ目 S(Ⱥ) によって相互に分離されています.不可能な phallus φ は,他の場処に対して ex-sistent です.

徴示素の宝庫(徴示素の集合)としての他の場処が規定されるのは,存在論的切れ目 S(Ⱥ) によって,それが主体の 存在 の解脱実存的在処から分離されることにおいてである それが,「他の悦が身体から奪われることによって,身体から他の場処が生成する」ということです.

Radiophonie 読解 (3) 主体の分裂

主体の分裂


« Seul le discours qui se définit du tour que lui donne l’analyste, manifeste le sujet comme autre, soit lui remet la clef de sa division »[四つの言説のうちで,分析家が言説に与える回転によって規定される言説のみが,主体を他 a として明示する すなわち,主体にその分裂の鍵を手渡す](Autres écrits, p.411).

「分析家が言説に与える回転によって規定される言説」は,分析家の言説のことです:


分析家の言説において,主体は autre として現れている つまり,左上の代理者の座に位置する a は,主体の否定存在論的構造を代表しています.そして,a は「主体の分裂の鍵」である.どういうことでしょうか?

「主体の分裂」は,Lacan の教えの最重要概念のひとつです.主体は,主体ならざる他と主体自身とへ分裂している.その事態は,aliénation[異状]と呼ばれます.Hegel においては,Entäußerung または Entfremdung. 伝統的には「疎外」と訳されてきました.

« L’aliénation réside dans la division du sujet »[異状は,主体の分裂に存する](Écrits, p.841). そして,主体の分裂は « division entre le savoir et la vérité »[知と真理との間の分裂](ibid., p.856) である.

この「知と真理との間の分裂」という表現は,『精神の現象学』の Vorrede の一節から採られたものです.そこにおいて Hegel は,精神の現象学の過程の終結を「精神が自身の Dasein を自身の Wesen と等しくした」ことを以て規定し,そして,そのとき « die Trennnung des Wissens und der Wahrheit ist überwunden »[知と真理との分離は克服されている]と述べています.

ただし,その場合の「真理」は,解脱実存的な主体の 存在 のことであって,四つの言説の構造における左下の座としての真理のことではありません.

かくして,異状の構造は,このように図示され得ます:


そして,異状の構造は大学の言説の構造であることが,わかります:


Galileo Galilei 以来,我々は「科学の時代」にいます.Lacan の表現で言うなら,我々は科学の言説 [ le discours de la science ] のなかに住んでいます.そして,その意味における科学の言説の構造を特徴づけるのが,「知と真理との間の分裂」ないし「知と真理との分離」です.そのような分裂が最終的に克服されることを神は欲している,という神学的な想定が,『精神の現象学』の dialektisch な動きを支えています.それに対して,Lacan は,知と真理との間の分裂としての主体の分裂が「克服」されることになる,とは想定しません.むしろ,主体の分裂がそのものとして S(Ⱥ) により支えられるようになることに,精神分析の終結は存します.

ともあれ,科学の言説の構造は,近現代の世界の存在論的構造を成しています.精神分析の外において,一般的に世界の存在論的構造が思念されるとき,それは,基本的に言って,科学の言説の構造であり,言い換えると,aliénation の構造としての大学の言説の構造です.

ただし,Foucault l’âge classique と呼ぶ17-18世紀には,Newton 力学(いわゆる古典力学)の支配があまねく行きわたっていました.知 S2 が客体 a の裂け目を塞ぐことができないという事態は,原則的にはあり得ませんでした.それに対して,19-20世紀には,まずは電磁気の理論が Newton 力学の限界を顕わにします.つまり,電磁気が,客体 a の裂け目として立ち現れてきます.そして,それは量子力学と相対性理論の展開を促します.しかし,その裂け目の口は,いまだに開いたままです 量子力学と相対性理論との究極的な統一としての Theory of Everything の公式化の不能性という穴として.

ともあれ,大学の言説としての科学の言説においては,a は,主体の分裂を惹起する切れ目のエッジ S(Ⱥ) に相当しています.a が「主体の分裂の鍵」であるとすれば,それは,a S(Ⱥ) に相当する限りにおいてです.


大学の言説において右上の座に位置する a は,反復強迫の症状の徴示素 書かれることをやめないもの,すなわち,必然的 (nécessaire) なもの です.精神分析において症状と呼ばれるに値するのは,反復強迫的なもの 書かれることをやめないもの です.それは,S(Ⱥ) の座において固執的に反復されます.


Lacan réel[実在]と言うとき,ふたつのものを区別する必要があります.ひとつは,impossible[不可能:書かれないことをやめないもの]としての実在,もうひとつは,nécessaire[必然:書かれることをやめないもの]としての実在です.

« le réel, c’est l’impossible »[実在は,不可能在である]は,1968-69年の Séminaire XVI 以来,Lacan がしばしば我々に示す定義です.それに対して,必然在としての実在の定義は,やっと1977-78年の Séminaire XXV において明示されます : « le réel ne cesse pas de s’écrire »[実在は,書かれることをやめない].

それは,Lacan の教えにおける実在の定義の変更を示唆するものではありません.Lacan は,彼の教えの当初から,不可能在(ないし ex-sistence)としての実在と,必然在としての実在と,ふたつの実在の概念を常に用い続けてきました.

それらを区別しないままに Lacan のテクストを読むと,我々はしばしば混乱に陥ることになります.注意が必要です.

Radiophonie 読解 (2) 言語存在の否定存在論的構造

言語存在の否定存在論的構造


Freud Saussure 言語学を先取りしていた 例えば,1957年のテクスト『精神分析とその教え』のなかで,Lacan はこう言っています (Écrits, pp.446-447) :

無意識の諸法則をそれらの詳細において述べることによって,Freud は,Ferdinand de Saussure が現代言語学の道筋を切り開くべく数年後に明らかにすることになる諸法則を,先立って公式化したのにほかならない .

また,1958年のテクスト『ファロスの意義』においても (ibid., p.688) :

Freud は彼以後に誕生した現代言語学を参照し得なかったが,しかし,我々はこう主張する Freud の発見が鮮やかに浮かび上がってくるのは,まさに,それが,其こにおいて言語学の君臨が認められることになろうとは予期され得なかったところの領域から出発して言語学の諸公式を先取りしたとしか言いようのないものであるがゆえにである.

Lacan がそう主張するのは,単に,当時人文科学(あるいは,人間科学 : les sciences humaines)の最先端と見なされていた言語学の諸概念を精神分析理論へ導入すること,あるいは,言語学への準拠によって精神分析理論を構造主義的に洗練することを正当化するためでしょうか?そう考えるとすれば,それは的はずれです.

なぜ Lacan は,Freud が神経症治療のために創始した精神分析について論ずるために,脳科学や心理学や社会学ではなく,言語学に注目するのか?それだけではありません 曲面や結び目のトポロジー,形式論理学,神学,哲学,文学,そして,より根本的には Heidegger の思考.

それは,Lacan の教えの目的が,精神分析を純粋に すなわち,非経験論的に 基礎づけることに存するからです.

当然,経験科学の分野に属するものは,準拠としては除外されます.確かに言語学はひとつの経験科学ですが,しかし,Lacan が言語学から得たのは,言語学の個々の具体的な成果ではなく,Saussure S/s のように経験的なものを記号的に形式化 (formalisation symbolique) する可能性です.実際,Lacan は,精神分析の経験的な次元の形式化の端緒に,学素 S/s を措定します.

さらに,より本質的なことはこれです : Lacan にとって,signifiant / signifié を以て形式化される構造は,単純に言語学的なものではない なぜなら,その構造における signifié の座は「主体の座」(Écrits, p.516) であり,すなわち,S/s の構造は主体の存在にかかわる存在論的なものであるからです.

しかも,主体が位置づけられるべきその座は,la place excentrique[中心解脱的な座,中心に対して解脱的である座](Écrits, p.11) であり,Heidegger の用語で言うなら,ex-sistence[解脱実存]の座 (ibid.) です.何に対して解脱的であるか?存在事象そのもの全体 [ das Seiende als solches im Ganzen ] に対して.すなわち,主体の座は,Heidegger die ontologische Differenz[存在論的差異]と呼ぶ存在論的切れ目 [ la coupure ontologique ] によって存在事象から分離されていると同時に存在事象と結合されている存在の解脱実存的な在処 [ la localité ex-sistente de l’être ] です.


以上のように,ひとつの経験科学である言語学においては,当然ながら,S/s の構造における signifié の座に位置する référent は,ひとつの存在事象であるのに対して,Lacan の教えにおいては,まったくそうではありません.


1970年ころ,「構造主義」の流行の時代,Saussure Lévi-Strauss Lacan もそのレッテルでひとくくりにされていました.しかし,前二者は経験科学の領域の研究者でした.彼らが問うた構造は,あくまで,存在事象の次元のなかのものでした.それに対して,Lacan が問うた構造は,存在事象的ではなく,存在論的なものです.

そして,既に触れたように,Lacan が精神分析の純粋基礎として Heidegger から学び取った存在論は,哲学史上伝統的な実体論的存在論ではなく,我々が否定存在論と呼ぶところのものです.

否定存在論においては,存在は,実体的な ὑποκείμενον でも ὄντως ὄν でもなく,而して,存在事象そのもの全体の場処に対して ek-sistent[解脱実存的]である在処 [ localité, Ortschaft ] として topologique に思考されます.

その際,もっとも根源的であるのは,Heidegger が存在論的差異と呼んだ存在論的切れ目です.Lacan は,問い I に対する答えの最初の部分で,その切れ目のことを強調しています (Autres écrits, p.403) :

言語学は,Saussure および Cercle de Prague とともに,徴示素 [ signifiant ] と被徴示 [ signifié ] との間に措定された棒線である切れ目によって設立される.その切れ目によって,[徴示素と被徴示との間の]差異が生じ,それによって徴示素は絶対的に定立される.

次のページで Lacan は,その切れ目を「創立的な切れ目」(la coupure inaugurale) とも呼んでいます.

そこにおいて inaugural は,「言語学を創立した」切れ目ということですが,しかし,単にそれだけではありません.その切れ目は,単に言語学的切れ目としてでなく,而して,存在論的切れ目として,言語存在の否定存在論的構造そのものにとって創立的であり,創始的であり,最も本源的なものです.

Lacan は,その源初的な差異によって「徴示素は絶対的に定立される」と言っています.この「絶対的」は,強い表現です.それは,S(Ⱥ) の絶対性を示唆しています.

切れ目ないし差異が最も根源的であり,源初的である 言い換えれば,a priori である ことを示唆する表現が,Radiophonie のなかにも幾つか散見されます.例えば:

Que ce sujet soit d’origine marqué de division[主体は,源初的に,分裂のしるしを受けている](p.405) ; 

D’avant toute date, Moins-Un désigne le lieu de l’Autre[あらゆる時代に先立って,( 1 ) が他の場処を差し徴してしる](p.409) ; 

Il doit nous suffire de poser que l’inconscient est[我々としては,無意識は在ると措定すれば十分なはずである](p.432).

主体の分裂は,存在論的切れ目による他の場処と主体の存在の在処との分裂に存します.それが「源初的」(d’origine) であることを Lacan は強調しています.

Moins-Un, すなわち ( 1 ) は,先に引用した Écrits, p.819 の一節で用いられていた表現です.それは,S(Ⱥ) を差し徴しています.« d’avant toute date »[あらゆる時代に先立って]は,S(Ⱥ) の存在論的切れ目が構造論的に a priori なものであることを言っています.

「無意識」のラカン的な定義は,まさに「切れ目」です :

主体 デカルト的主体 は,無意識に先立つと仮定されたものである.他は,ことばが真理において肯われることにより要請される次元である.無意識は,両者の間の現勢的な切れ目である (Écrits, p.839).


Lacan « en acte »[現勢的]と言っています.つまり,« en puissance »[潜勢的]ではない.もう既に,切れ目はつけられており,その口は開いており,その効果はあからさまに発揮されています.そのことを認め,そのことを何よりも先に出発点に措定する それが必要なことであり,それで十分です.

問い II に対する答えの冒頭で,Lacan は構造の概念についてこう言っています (Autres écrits, p.408) :

La structure s’attrape du point où le symbolique prend corps[構造は,其こにおいて徴在が身体を得るところの地点から捉えられる].

le corps du symbolique[徴在の身体](p.409) とは,いったい何でしょうか?それは,徴在の支えとしての S(Ⱥ) のことです.

Lacan Séminaire XIV La logique du fantasme において,他の場処を身体と定義しています.身体は consistance[定存]であり,定存は l’imaginaire[影在]です.他の場処は,命題「ひとつの徴示素は,もうひとつのほかの徴示素に対して,主体を代表する」に言う「ひとつの徴示素」です.言い換えると,「ひとつの定存」です.「もうひとつのほかの徴示素」は,既に見たように,S(Ⱥ) です.それは,「ひとつの定存」に対して「もうひとつのほかの定存」です.それが,徴在の穴を支える定存的身体としての S(Ⱥ) です.それは,既に見たように,存在論的構造の要であり,まさに「そこから構造が捉えられるところの地点」です.