06 Oct 2014 : 第二の死;死の本能の殉教者 Sade ; 父の名と nomination ; ニヒリズムについて.
今年は
Marquis de Sade (1740-1814) の没後200周年です.Le
Nouvel Observateur 誌の写真は,彼が1785年に
Bastille 牢獄で書いた『ソドムの120日』の手稿です.
紙を貼り合わせて作った幅約11cm, 長さ12mの巻物の表裏に細かい字でびっしり書かれています.14 juillet 1789 直前に彼は Bastille から Charenton へ移送され,その際,この手稿を持ち出すことができませんでした.そして,手稿は数奇な運命をたどって,今,こうして展示されています.Sade の肖像は残っていませんが,scripta manent. しかし,それは彼の「第二の死」の願望には適っていないことかもしれません.
Lacan は Kant avec Sade 「カントとサド」という書のなかで,Sade の「第二の死」の願望に言及しています.第一の死は,普通の意味での死,つまり,生理学的死です.人間は,生理学的死の後も,さまざまな痕跡を残します.遺体や遺産だけでなく,記録に残る名前,作品,等々.そして,墓.Sade は,そのようなものすべてが消滅することを望みました.それが,第二の死です.
第一の死は,a / φ の構造のものです.たとえば墓碑が signifiant a として,存在 φ を代表します.
それに対して,第二の死は,φ を代表するあらゆる signifiant a が消え去ること,滅却されることです.つまり,a の φ からの分離です.そのとき,純粋な喪失,寂滅としての φ がそのものとして実現されます.それは,他 A の欲望の究極的な十全たる満足です.
Sade は,単なる性倒錯者ではなく,他 A の欲望に最も忠実な殉教者であろうとしました.
死後に名 a を残したいという願望は俗人のものです.そのような人は,死後も症状をさらし続けるだけです.
聖人は,逆に,あらゆる a を滅却して,純粋徴示素 S(Ⱥ) の穴になっています.それは,他 A の欲望 Ⱥ に最も忠実な存在様態です.
今,真心ブラザーズの「人間はもう終わりだ」という歌を教えていただいたところです.人間という同類どうしだけの閉ざされた世界における閉塞感は,確かに,一種のニヒリズムです.a
- a' の imaginaire な次元にだけ捕らわれています.他 A との
symbolique な関係は,彼らの視野には全く入ってきていません.
「人間はもう終わりだ」を超人によって超克しよう,ということになると,これはもう完全に nazisme です.彼らがそのような方向へ走らないことを願っています.
父の名に話を戻すと,1973-74年の Séminaire Les
non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.
つまり,nomination
は destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome : 症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます.
Nihilisme の概念は非常に重要です.現代という時代を考えるための key word のひとつです.
Heidegger は,第二次大戦中,Nazi 体制下,Nietzsche と取り組みながら nihilisme について考えぬきました.
Nihilisme の定義のしかたは幾つかあります.Nietzsche
は nihilisme を,あらゆる価値の Umwertung と定義しました.「価値」はドイツ語で Wert であり,Umwertung は価値の基準のくつがえしです.従来,伝統的に崇高とされていた価値が,無価値となってしまうこと.それが Nietzsche 的な nihilisme の定義です.Platon
的な idea, ギリシャ的な humanisme, そのような価値がすべて無効となってしまった現代.それが nihilisme です.
そのような
nihilisme を Nietzche は,超人 Übermensch の意志である「力への意志」によって超克しようとしました.力への意志は,無効となった価値の代わりに,みづから価値を措定する意志です.
Heidegger は,しかし,力への意志によっては
nihilisme を本当に超克することはできない,と喝破しました.なぜなら,nihilisme の本有は,存在が己れを離退し,隠してしまっていること,そして,そのことに誰も気づいていないことに存するからです.
ですから,まずは,存在の深淵をあらわにしなければなりません.その深淵の穴を覆い隠せるようなものは存在事象の次元にな何も無い,力への意志によってもその穴を塞ぐことはできない,ということを明らかにせねばなりません.
それは,ある意味で nihilisme を徹底することです.しかし,そのような nihilisme の徹底は,深淵の底に沈んだままでいるためではなく,その深みから立ち上がるため,死から復活するためです.
復活するためには,まず死なねばなりません.死を引き受けねばなりません.死を主体化せねばなりません.
そして,復活とは,死ぬ前の状態に単純にもどる「よみがえり」ではなく,そのような存在事象的な次元を超えた新たな命,キリスト教で言う「永遠の命」へ復活することです.
以前,仏教において復活は問題にならないのか,と問うたことがありました.最近,気がつきました.Sujata のエピソードがそれです.ブッダは,禁欲的な修行の果てに,文字どおり死にそうになっていました.そのとき,Sujata という名の女性が彼にミルク粥を差し出しました.Sujata のミルク粥を口にしたブッダは,生き返りました.そして,菩提樹の下で悟りを開いたのです.
この伝説は,ブッダにおける「死からの復活」を物語っている,と見なすことができます.復活のために女性が決定的な役割を果たしている,という点も,イェスの復活において Marie-Madeleine がそうであることと共通しています.
Nietzsche の超人は,存在の深淵を否認するためのものです.神は死んだ,今や超人だ.それが Nietzsche です.Nietzsche
は,神がずっと以前から死んでいたということを十分に考えぬきませんでした.神の名 YHWH は不可能な名である,ということが指し示している深淵を Nietzsche は十分に思考しませんでした.
復活は,積極的ニヒリズムではありません.復活は,死の深淵を覆い隠すものではなく,むしろ,その深淵をそのものとして守護,守保します.それが殉教者であり,聖人です.
超人は力への意志によって他 A の欲望を覆い隠し,否認します.聖人は,他 A の欲望をそのものと認め,それが己れを啓示するようにします.超人は力に酔い,聖人は喪失に醒めています.
もし仮に
Sade が「神は死んだ,今や何をしても許される」と言っていたら,彼は単なる nihiliste だったかもしれません.しかし,そうではありませんでした.彼の欲望は,如何なる存在事象における快をも超えた彼方へ向かっていました.それは,死の本能への忠実でした.Lacan はそのように Sade を解釈しています.
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