01 October 2014 : 父の名について;聖霊について;三位一体について;我れらは,イェスにならって死に,イェスにならって復活する;神の名 YHWH ; 心理学的了解は,精神分析的解釈を阻止する;不可能な徴示素 YHWH.
Lacan の「父の名」が Facebook で話題になったので,ここで整理してみましょう.日本ではキリスト教になじみの無い人が圧倒的に多いですから,キリスト教における「父の名」から始めましょう.
カトリックのミサでは,開始時と終了時に,十字の徴を切りながら「父と子と聖霊の御名によって,アーメン」と唱えます.
十字の徴を切るという所作については,ブラジルなどのカトリック国のサッカー選手が得点したとき,神に感謝しながら十字を切っているのを皆さんも見たことがあるでしょう.
Sanctus Spiritus を「聖霊」と翻訳するのはあまり適切ではないと思いますが,日本のカトリック教会の儀式のなかでは慣例になっていますから,しかたありません.
Spiritus は「気」です.自然現象としての空気,大気であり,風でもあります.そしてまた,息吹でもあります.
Sanctus Spiritus は,神の息吹です.
旧約聖書では,天地の創造のとき,できたばかりの海の上に神の息吹が吹いています.神は,アダムを土から創って,仕上げに鼻孔から息を吹き込みます.神の息吹は,創造の息吹であり,命を与える息吹です.
新約聖書では,復活したイェスは使徒たちに息を吹きかけつつ言います:「聖霊をうけなさい」.使徒言行録の始めで,神の息吹は炎の熱気として天から使徒たちの頭上へ下り,使徒たちを聖別し,イェスの教えを全世界に伝える勇気を彼らに与えます.
Sanctus Spiritus は「聖なる気」です.ただ「気」だけでは曖昧なので,「精気」または「霊気」と呼びましょう.「聖霊」は「聖なる霊気」です.
話を元に戻すと,「父と子と聖霊の御名によって」は,三位一体の神秘を思い起こすための表現です.
旧約聖書でユダヤ人たちが YHWH と呼んでいた父なる神と,存在事象の領域で人間たちに対して父なる神を代表する子であるイェスと,そして,イェスが神の子であることを保証する聖なる霊気と,それら三者はひとつの神を成す.それが三位一体の神秘です.
十字の徴は,イェスが処刑された十字架を表します.プロテスタントは十字の徴を切らないと聞いたことがありますが,すべてのプロテスタント会派がそうであるのかは知りません.
ともあれ,カトリック信徒は,手の所作で,自分自身のからだに十字の徴を描きます.それは,十字架上で処刑されたイェスにならうためです.十字の徴は,イェスにならって十字架を背負っていること,そして,十字架上で処刑されて,世に対して既に死んでいることを表します.
イェスの死にならって我々も世に対する死を先取りして引き受け,そして,イェスが復活したように我々も復活と永遠の命に今,この世において,もう既に与ります.
十字架上の死を引き受け,復活の喜びに与ること.それは,父と子と聖霊の御名のもとに,つまり,神の名のもとに,実現されます.神の名は,死からの復活を保証してくれるものです.
Lacan が精神分析へ「父の名」を導入したのは,勿論,父の機能について考えるためです.つまり,Freud がオィディプス複合ならびに去勢複合と名づけたところのものについて思考するためです.
通俗的には,オィディプス複合とは,母親との近親相姦の欲望と,それを妨害する父親に対する憎悪から成り,さらに,父親による去勢を恐れる去勢複合がそこに密接に関連してきます.
しかし,父の機能の本質は,そのような話に尽きているのか?父の機能の本質は何なのか?
Lacan は,父の問いを考えるための手掛かりを,Freud 以後の心理学に汚染された精神分析理論のなかに探すのではなく,心理学的了解を拒否する聖書のなかに求めました.聖書のなかで Lacan が特に注目したのは,「出エジプト記」第三章13-15節です.
モーセは神に言った:では,イスラエルの子らのところへ行き,「あなたたちの先祖の神が,わたしをあなたたちのもとへ遣わした」と言いましょう.彼らが「その名は何か?」と言ったら,彼らに何と言いましょう?
神はモーセに言った:我れは「我れは存在する」である.
神は言った:イスラエルの子らへこう言え:「我れは存在する」が,わたしをあなたたちのもとへ遣わした.
神はモーセにさらに言った:イスラエルの子らへこう言え:あなたたちの先祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である YHWH が,わたしをあなたたちのもとへ遣わした.
それこそ永遠に我が名である.それこそ代々に我が呼び名である.
皆さんは聖書を読みますか?読んだことがありますか?特に旧約聖書を.非常に読みにくいし,わかりにくい,と感ぜられるはずです.なぜか?それは,聖書のテクストは心理学的了解を拒否するからです.そのため,いわゆる感情移入が困難であるからです.
しかし,今までにも幾度か強調してきたように,心理学的な了解と感情移入は,精神分析においては陥ってはならない誤りです.面接において,患者の言葉を心理学的に了解してしまえば,精神分析的解釈の余地はなくなってしまいます.心理学的了解は,精神分析的解釈を阻止してしまいます.
きわめて単純な例を挙げるなら,或る男性患者が夢のなかで或る女性を見た.そして「その女性は母親ではありません」と言った.そこで Freud は「なるほど,母親ではないのですね」と了解はしません.そうではなく,解釈します:「では,それは母親だ」と.
了解は,患者の心理の imaginaire な意味を想定します.解釈は,主体の存在の真理の座に無意識の知を仮定します.
心理と真理と.日本語では同じ音を持つこれら二つの単語を,精神分析では厳重に区別する必要があります.
Freud は了解しなかったからこそ,解釈することができたのです.
話を旧約聖書に戻すと,ユダヤ人たちは YHWH の四文字を以て神の名を書き記しました.勿論,今我々が用いているアルファベットではなく,ヘブライ語の文字です.
ヘブライ語やアラブ語などのセム系言語の文字体系では,母音は書かれません.文字は,子音または半母音(半子音)を表します.それでどうやって単語の発音がわかるのか?それは,日本語における漢字の読みと同じく,言語の歴史と慣習のなかで定着したものによってです.
たとえば,わたしの面接室の所在地の地名:「白山」は「ハクサン」と読むか「しろやま」ないし「しらやま」と読むか?文字だけではわかりません
同様に,神の名 YHWH は,それだけではどう発音するのかわかりません.ユダヤ人とヘブライ語の歴史と伝統のなかで神の名はどう呼ばれてきたのか?それがわからないと,YHWH をどう読むのかはわからないのです.
ところがユダヤ人は,神を畏れるあまり,神の名をそのものとして口にすること控えるようになりました.YHWH の名をそのまま口にして神に呼びかけることは,あまりに畏れ多いからです.代わりに,神を「主」Adonaï と呼ぶようになりました.
そうこうするうちに,とうとう,ユダヤ人の祭司や律法学者たちにも,YHWH をどう読むのかはわからなくなってしまいました.紀元前四世紀ころにはそうなってしまった,と言われています.
Lacan の用語で言えば,こうです: YHWH の名は,不可能な signifiant になった.
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