05 Oct 2014 : lacanien 土居健郎 ;
biopolitique について ; passion du
signifiant としての affect.
御質問をいただいています.「父の名は,主体を排除するか?」御質問の方の言う「排除」は forclusion のことでしょうか?「父の名は主体を排除する」という命題の文脈を御提示いただけるでしょうか?
さて,皆さんは,土居健郎 (1920-2009) を御存じでしょうか?『甘えの構造』で有名になった精神科医です.土居健郎語録のようなものから引用された命題を幾つか,今日,Facebook で目にしました.それらを紹介すると:
君ねえ,精神療法はハラハラドキドキなんだよ.
精神療法はね,出たとこ勝負だよ.
きちんと患者をひと叩きしてから,引き受けなさい.
すべてはアフェクトだよ.
君は患者をわかりすぎだ.
ぼくの患者でよくなったケースは,八割方は怪我の功名だよ.
先ほどの御質問の方は Agamben の名に言及されていますが,Agamben に関してはわたしは全く無知です.「生政治」という語も初めて目にしました.
聖書に語られているようなものとしてのユダヤ人の passion は,イェスの
passion と同じことです.つまり,この世に対して死ぬことです.たとえば,ユダヤ人は,エジプトで奴隷としてではありながらも,食うに困らない生活をしていました.しかし,モーセに導かれて,海の底を歩いて渡り,さらに,荒れ野を40年間さまようことになりました.そこにおいて,海,つまり水も,荒れ野も,死の象徴です.
Wikipedia フランス語版で biopolitique の項をざっと読みました.biopolitique は discours du capital 資本の言説と関連するように思われます.
Foucault は「狂気の歴史」の冒頭においてもレプラ lèpre
を取り上げています.
「癩」という語は political correctness の観点から使用不能となっています.聖書にはレプラ患者が幾度か登場します.レプラも死の象徴です.旧約聖書の預言者やイェスは,レプラを奇跡的に癒やします.それは,死からの復活を表しています.
その限りでレプラは聖書において省略することのできないモチーフなのですが,さりとて近代医学におけるハンセン病という呼称を聖書で使うこともできないので,日本語訳聖書では「重い皮膚病」という表現が使われています.フランス語訳聖書では lèpre という語がそのまま使われています.
ともあれ,「狂気の歴史」や「語と物」において古典主義時代の直前の時代,つまり Renaissance において,レプラ患者はこの世から排除されていました.レプラ患者はこの世に対して既に死んでいたのです.それは,聖書におけるレプラ患者の立場と同じです.狂人もレプラ患者と同じく,この世から排除されていました.そして,そのような排除において,彼らは聖別,神聖化されていました.
それに対して,古典主義時代,すなわち17-18世紀,つまり,資本主義の誕生の時期には,そのような聖別は無効にされてしまいます.代わりに,平板な博物学的分類学が支配的になります.それは結局,資本の言説の支配の開始です.
資本の言説においては,人間はその人間的尊厳においてではなく,労働力としてしか人間ではありません.狂人であろうとレプラ患者であろうと,もはや神聖なもの,他 A に捧げられたものではなく,労働力となり得るか否かだけが問題です.
Foucault の言う biopolitique とは,従来は労働力市場から除外されていた人間を如何に労働力として動員,召集するかという problématique と関連しているのだろうと思われます.
近代・現代の国家 : nation は,基本的には大学の言説の構造のものですが,それは常に資本の言説によってむしばまれてゆきます.
biopolitique は,資本の言説のなかに位置づけられるだろうと思います.
1960年代以降の Lacan の教えにおいては,父の名は,常に既に閉出されています.その限りにおいて,父の名は,主体の存在の真理 φ そのものです.
biopolitique の支配のもとでは,神聖なものは存続し得ません.狂人としてであれ,レプラ患者としてであれ,あるいは,シャーマンとしてであれ.すべては平板化されて行きます.そして,労働力として召集されて行きます.
さて,土居語録からの引用に戻ると,わたしは精神科医としての修行時代,京都で勉強していたので,東大系の土井先生とは全く縁がありませんでした.彼は Fulbrignt 留学生として USA で学んできました.他方,京都では,フランスとドイツの精神病理学が主流でした.ですから,わたしも土居先生には全く関心を持っていませんでした.ベストセラーの『甘えの構造』も読んだことがありません.先ほどの引用は,今日たまたま Facebook で見かけたものです.しかし,土居先生は実はラカン派であることをそこに発見しました.
さきほどの引用のなかの「精神療法」は「精神分析」と読みかえることがでます.勿論,土居先生は Lacan を読んだことはなかったでしょうし,仮に読んだとしても,読解することはできなかったでしょう.にもかかわらず,土井先生は,精神分析について,Lacan 的な観点から言って,まったくうなづけることを言っています.
たとえば,「君は患者をわかりすぎだ」と土井先生は若い精神科医をたしなめています.それは,「了解してはならない」という Lacan の戒めと同じことを言っています.
「きちんと患者をひと叩きしてから引き受けなさい」における「ひと叩き」は,伝統的な physical examination における打診の比喩です.要するに,むやみやたらと精神療法,精神分析をやってみようとするのではなく,あらかじめ患者の精神病理をよく見きわめろ,如何なる構造のものであるか,神経症か,精神病か,性倒錯かを前もってよく鑑別診断しろ,と土居先生は言っています.精神療法をしたがる精神科医がおろそかにしがちなことに注意を促しています.
Lacan もまったく同様に,予備面接における診断学的鑑別の重要性を強調しています.とりわけ,精神分析への導入に先立って,精神病発症の危険性の評価は欠かせません.
「ハラハラドキドキ」,「出たとこ勝負」,「怪我の功名」は,精神分析において実在 le réel が如何に不意打ちしてくるかを言い表している言葉と取ることができます.
「出たとこ勝負」は,言い得て妙なる表現です.実在の深淵の裂口が出来してきた瞬間を捉えて,それを患者に示さなければなりません.それは,40-50分の固定時間面接では困難なことです.もし仮に土居先生が Lacan 的な変動時間面接を実践していたとしても,不思議はありません.
「すべてはアフェクトだ」.そこで土居先生は「感情」とか「情動」という日本語は使わず,敢えて affect, Affekt と言っています.先日引用した Lacan の passion du signifiant と言い換えることができます.
passion du signifiant は,φ としての主体そのものです.実際,精神分析の全体は,φ の深淵をめぐって展開されます.その意味で,「すべては Affekt だ」と言ってもよいでしょう.
もし仮にわたしが土居先生に Lacan の教えを十分に解説することができたなら,彼は彼が経験的に気づいてきたことを Lacan は理論的に基礎づけているのだと納得し得ただろうと思います.
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