03 October 2014 : 転移について;父の名の閉出について;存在の場処が中心を成す.
神の名としての父の名のことを論じているところですから,聖書に興味のある方々にお知らせします.今月11-13日,二泊三日,静岡県裾野市にある不二聖心女学院の敷地内にある「山の家」で「聖書の旅」と題する黙想会が開かれます.主催者は,Misson ouvrière Saints Pierre et Paul 「聖ペトロ・パウロ労働者宣教会」の Rémi Aude 神父様と Fratello Giuliano Delpero です.彼らは長年日本で宣教しており,この「聖書の旅」も長らく続けられています.
黙想会といっても,座禅のようなことをするのではありません.ミサと祈りの時間は勿論ありますが,聖書のなかのあちらこちらの言葉について参加者が考え,議論し,理解を深めて行くことが目的です.
聖ペトロ・パウロ労働者宣教会は,小規模なものですが,カトリックの正式な宣教会のひとつです.名前から察せられるように,どちらかというと左翼的な考え方をしています.つまり,第二 Vatican 公会議で採択された基本方針,開かれたカトリック教会の考えに忠実です.
それと反対に,右翼的カトリックグループもあります.都営三田線の白山駅のすぐ近くでグレゴリオ聖歌を教えてくれる教室があると聞いて,調べてみたら,それをやっているのは「聖ピオ10世司祭兄弟会」というカトリック聖職者グループだとわかりました.
聖ピオ10世司祭兄弟会のメンバーは,第二 Vatican 公会議で定められた方針に公然と反旗を翻しています.彼らの web site には「教会の外に救済は無い」という古いスローガンが掲げられています.この「教会」はカトリック教会のことです.時代錯誤もはなはだしい!
また,この聖ピオ10世司祭兄弟会に属する或る日本人司祭の blog は,同性愛者に対する差別的な発言に満ちており,読むに耐えないものでした.まるで「ネット右翼」のようです.
グレゴリオ聖歌はそれはそれですばらしいキリスト教の遺産ですが,それにつられて聖ピオ10世司祭兄弟会の会合に来て,あのような差別的な思考の司祭がカトリックだ,と思い込む人がいるなら,何とも不幸なことです.
聖ペトロ・パウロ労働者宣教会は,聖ピオ10世司祭兄弟会とは正反対です.聖書に興味のある方は,安心して参加してください.より詳しい情報を知りたいかたは,わたしに問い合わせてください.参加費用はひとり一万円と若干高額であることを予めお知らせしておきます.
父の名に戻る前に,転移に関する補足的御質問にお答えしておきます.
「精神分析の始まりに転移がある」と Lacan が公式化する限りにおいて,転移は分析家の言説の構造のなかに位置づけられます.ですから,御質問者がおっしゃるとおり,転移は aliénation と同じ構造です.
ただし,転移においては分析家を徴示素 a として症状が再形成されます.それが,Freud が転移神経症と呼んだものです.
Lacan が予備面接と呼ぶもの,即ち,精神分析治療の導入期は,転移神経症の形成の時間であり,そこにおいて症状がそれとして立ち現れてきます.
立ち現れてくる症状,それは,何らかの身体症状であったり,しそこない行為であったり,夢であったり,さまざまですが,それらが分析的読解の対象となります.
さて,父の名に戻ると,ローマ講演において Lacan は父の名を「徴象の機能の支え」と規定しました.そして,1958年の精神病に関する書で,精神病発症の必要条件として父の名の閉出の概念を提起しました.
それにもとづいて,わたしは,父の名の閉出は,精神病症状に限らず,症状一般の形成の必要条件である,と一般化します.つまり,症状の言説である分析家の言説の構造においては,父の名は既に閉出されているのです.
精神病に関して注記を付け加えるなら,父の名の閉出は,精神病発症の必要条件ではあるが,十分条件ではないのです.
不可能な
signifiant としての YHWH について考えるうちに,Heidegger の時間性の概念に行き着きました.
『存在と時間』における過去・未来・将来の解脱的統一としての時間性の概念は,超越の概念と相関的です.つまり,現場存在 Dasein から出発して,Dasein の地平を限る地平線の彼方に位置づけられるものとして,時間性は捉えられています.
『存在と時間』におけるこの考え方は,1936年の『哲学への寄与』で逆転させられます.Heidegger
は「転回」Kehre と言っています.つまり,Dasein から出発して
Sein へ向かうのではなく,言い換えると,人間から出発して神へ向かうのではなく,神そのものを中心に置き,神から出発して,人間の Dasein を考える,というふうに,思考の方向性が逆転するのです.
Heidegger は敬虔なカトリックの家族のなかで育ち,カトリック聖職者になることを当初は目ざしていましたが,しかし,プロテスタント神学に惹かれました.『存在と時間』にはプロテスタント神学の影響がうかがわれます.しかし,プロテスタント神学を経由して,Heidegger は再びカトリック的な観点に戻ってきたわけです.
中心に見さだめられるべき神の座が,存在の場処,φ の場処です.そこに神の名が位置づけられるのは,或る意味で当然です.
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