02 October 2014 : YHWH ≡ Sein ; Nom-du-Père ≡ φ ;
過去・現在・未来の解脱的統一としての時間性;存在の処有としての時間性.
四文字から成る YHWH という神聖な語は Tetragrammaton と呼ばれます.
Tetragrammaton を英語に訳せば,four letter word です.通常英語でそう呼ばれている語が何か,皆さんも御存じでしょう.
英語の
four letter word も礼儀をわきまえた文章においてはそのとおりには書かれませんが,他方,Tetragrammaton が不可能な signifiant となったのは,単に神に対する畏れのゆえにというわけではありません.
昨日引用した旧約聖書「出エジプト記」3,13-15 から察せられるように,父なる神の名 YHWH と存在とは本有的に関連しています.
なぜなら,YHWH
はモーセに対してこう名のったからです:我れは「我れは存在する」である.
つまり,父の名 YHWH は,抹消されてしか書かれ得ない「存在」:存在と等価なのです.
ユダヤ教の歴史において YHWH の語が元来どう読まれていたかが忘却されてしまったのは,単なる偶然ではなく,Heidegger の言う「存在の忘却」ないし「存在閑却」と本有的に関連しているのです.
『ハイデガーとラカン』第一章で証明した Heidegger-Lacan 定理により,存在と「性関係は無い」とは等価です.
そして,存在は,不可能な signifiant としての YHWH と等価です.
したがって,YHWH
≡ φ と結論されます.
言い換えると,父の名と φ とは等価である.
Nom-du-Père ≡ φ
出エジプト記
3,14 において YHWH はこう名のりました:我れは「我れは存在する」である.
原文は勿論,ヘブライ語で書かれています.ヘブライ語やアラブ語などが属するセム語族の言語においては,動詞は,インド・ヨーロッパ語族におけるように過去・現在・未来の時制を表しません.
インドのサンスクリット語,英独などのゲルマン系言語,仏伊西などのラテン系言語,ロシア語をはじめとするスラブ系言語,それからペルシャ語などが印欧語族に属します.英語においてはほとんどすたれてしまっていますが,たとえばフランス語などには残っているように,動詞には時制があります.
ところが,セム語族の言語においては,動詞は時制ではなく,aspect を表します.
古代ギリシャ語を学習したりしない限り,動詞の aspect という文法概念はなじみの無いものですが,ひとくちで言えば,動詞の表す動作が完了しているか否かが aspect です.
過去のことでも,ある持続の様相において捉えられるなら,未完了です.フランス語の半過去 imparfait は,文字どおりには「未完了」です.しかし,未完了は,現在持続していることも表しますし,また,完了していないわけですから,未来のことをも表し得ます.
セム系諸言語において未完了が過去・現在・未来のいずれの事態を言い表しているかは,日常的には,文脈によって判断されます.
ところで,YHWH
の名:「我れは存在する」において,動詞「存在する」は未完了になっています.
我れは「我れは存在する」である,と YHWH が名のるとき,それは様々に解釈され得ます.それが単なる tautologie でないとすれば,例えば,「我れは存在する」は未来のことである,つまり,世の終わり,救済が実現する終末において啓示されるだろう神の本有を差し徴している,と解釈されます.ですから,キリスト教の神学者のなかには,YHWH の「我れは存在する」は,父なる神 YHWH が子なる神イェス・キリストとして己れを啓示するという救済の史実を予告しているのだ,と解釈する人すらいます.
しかし,YHWH
の「我れは存在する」を未来のことと限定することはできません.黙示録において述べられているように,神は,今存在し,過去に存在し,かつ,将来においてまさに(将に)来たらんとしているものです.つまり,過去・未来・現在の統一です.
それこそ,Heidegger
が『存在と時間』において Ekstase と呼んだものです.同時期の講義においては,過去・現在・未来の ekstatische Einheit という表現も用いられています.
Ekstase を,Heidegger は後に Ek-sistenz と呼ぶことになります.
Ekstase を「解脱」と訳したいと思います.仏教的な「悟り」ではなく,まずは純粋に topologisch な意味において,つまり,あるものに対して外部を成すものという意味において.
YHWH の名は,過去・現在・未来の「解脱的統一」としての時間性を差し徴しています.それが『存在と時間』における Heidegger の時間論の本質を成しています.ところが,Heidegger は『存在と時間』においては神学への準拠を全く隠していますから,わかりにくいのです.
『存在と時間』における時間性の概念を,Heidegger は後に「存在のトポロジー」へ展開して行きます.つまり,過去・現在・未来の解脱的統一とは,存在の場処です.
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