2014年10月10日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 09 October 2014



09 October 2014 : 村上春樹氏の作品は悦ばしき悲劇である; 芸術は死からの創造である; 無意識における文字 a という機関.

ノーベル文学賞は今回も村上春樹氏に授与されず,残念なことです.しかし,嬉しいことに,Patrick Modiano はフランスの作家です.どういうわけかまだ一度も読んでいないので,さっそく何か注文して,読んでみましょう.

村上春樹氏の作品は,好き嫌いが分かれるようです.わたしは彼の作品が大好きです.もっとも,最初に読んだのは『1Q84』で,そこからさかのぼって,彼の長編はすべて読みました.

基本的に彼は悲劇作家です.三島由紀夫がそうであったように.

随筆集『遠い太鼓』に収録されている『午前三時五十分の小さな死』において村上春樹氏は言っています:

長い小説を書いているとき,僕はいつも頭のどこかで死について考えている.(…)いったん長い小説にとりかかると,僕の頭の中にはいやおうなく死のイメージが形成されてしまう.(…)僕は小説を書くことによって,少しずつ生の深みへと降りていく.小さな梯子をつたって,僕は一歩,また一歩と下降していく.でもそのようにして生の中心に近づけば近づくほど,僕ははっきりと感じることになる.そのほんのわずか先の暗闇の中で,死もまた同時に激しいたかまりを見せていることを.

『午前三時五十分の小さな死』のなかの村上春樹氏のこのような言葉は,彼れの芸術的創造が無からの創造であり,かつ,死からの復活であることを証言しています.それらふたつを縮合して,死からの創造と言うこともできるでしょう.

芸術作品の構造は,Lacan の言語の構造,症状の構造,存在の真理の現象学的構造 a / φ です.文学作品においては,a は文字です.

朗読や演劇において,文字は俳優の声において受肉し,よりいっそう現在的となります.Paris 滞在の楽しみは,演劇です.Comédie Française をはじめとするさまざまな劇団が常にさまざまな戯曲を上演しています.前回の Paris 滞在で新たに出会ったのは,Vincennes にある劇場を本拠地にする Théâtre de l'Épée de Bois 「木の剣の劇場」という劇団です.「木の剣」は「竹光」と訳せば良いかもしれません.Molière 17世紀のフランス語の発音で演じてみせ,現代フランス語とは違う発音はそれだけでおもしろいのですが,ドタバタ劇風の滑稽な演出で,大いに楽しめました.機会があれば,是非また見たいものです.

声において受肉する文字.客体 a としての文字.

Lacan の書のうちで最も有名なもののひとつは『無意識における文字の機関,または,フロイト以来の理性』と題されています.1957年の書です.

「理性」は単に「理」,つまり「ことわり」と言ってもよいでしょう.「理性」の「理」は「真理」の「理」でもあります.そして,「ことわり」という表現は,真理の深淵の場処を示す裂けめ,裂口,亀裂,穴を示唆しています.

L'instance de la lettre instance は従来「審級」と誤訳されてきました.この誤訳は,Freud における Instanz を「審級」と誤訳したことに由来しています.Instanz, instance は,司法制度に言う審級ではありません.Freud は『夢解釈』において Instanz Apparat に属するものと提示しています.Apparat は確かに「装置」ですが,この場合,organisation と同義であり,「機構」です.Instanz は,機構に属するひとつの機関です.

Freud Lacan の邦訳テクストにおいて誤訳は枚挙に暇がありません.

文字は,無意識という機関の代表です.Lacan が文字と呼んでいるのは,勿論,signifiant 徴示素のことです.しかし,文字と signifiant とでは,それらの概念において力点の置き方が異なります.

signifiant symbolique の位に属しています.それに対して,文字は,勿論,signifiant ですが,しかるに,Freud が「夢は絵文字 Bildschrift で書かれている」と言ったように,Bild でもあります.ドイツ語の Bild は,フランス語では image です.文字は imaginaire の位のものでもあります.

そして,文字は,Lacan が何千年もの間砂に埋もれたまま残る hiéroglyphe 古代エジプトの神聖文字の例を出しているように,その物質性において,réel の位のものでもあります.

1957年に用いられた「文字」という用語は,かくして,1974-75年の Séminaire RSI において Réel, Symbolique, Imaginaire の三つ輪の交わりに位置づけられた a の地位を既に示唆している,ということがわかります.

文学という芸術作品は,文字 a により死 φ ek-sistieren 解脱実存させます.かつ同時に,それは,死からの創造として,復活の悦でもあります.

村上春樹氏の作品は,基本的に悲劇作品です.そこには,取り返しのつかない喪失や死が描かれています.しかし同時に,全く absurde な喜劇的要素も織り交ぜられています.悦ばしい悲劇,それが村上春樹氏の作品の魅力を成しています.

既にお知らせしたように,1010日から12日まではこの精神分析 Tweeting Seminar はお休みします.月曜日13日の夜に再開します.

御質問,御意見,メッセージ等は御遠慮無く随時お送りください.

Allez, bon weekend !

2014年10月9日

精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 04 October 2014

04 October 2014 : 「読む」は「意味を了解する」ではなく「真理を解釈する」である;転移において存在の言葉を読む;ことばの機能は主体の存在の真理を解脱実存させることである;父の名と point de capiton ; 父の名はそもそも閉出されている.

Mission ouvrière Saints Pierre et Paul 聖ペトロ・パウロ労働者宣教会 (MOPP) の黙想会のお知らせをしました.しかし,今さら聖書を読むことに何の意義があるのか?

聖書を読んでも,景気が良くなるわけではないし,世の中が平和になるわけでもないし,そもそも聖書はわけがわからないし,全然おもしろくもない.D'accord ! いかにもそうでしょう,もし聖書のテクストの文面を了解しようとするなら.しかし,「読む」とは「了解する」ではありません.

「読む」は「了解する」ではなく「解釈する」です.何を?テクストの真理を.

皆さんは,聖書などより,ほかにもっと読むべきものはたくさんある,と言うでしょう.仕事にかかわる書類,勉強にかかわる教科書,時事にかかわる解説書,等々.たしかに,日常生活を大過なく送るためには,そのようなものを読む必要があるかもしれません.しかし,それらは本当に読むに値するものか?言い換えると,それらのテクストは真理を言わんとしているか?たいていの場合,答えは否でしょう.日常生活において読むべきものの多くは,技術的な内容のものです.さもなくば,誰かの政治的オピニオンに関するもの,要するに,真理のかけらも含まれていない単なるたわごとです.

Heidegger は,多くの先達のテクストの解釈をしています.古くは pré-socratique, ソクラテス以前の哲人たち,Sophokles, Platon, Aristoteles, 近くは Kant, Hegel, Schelling, Nietzsche. それから,詩人 Hölderlin の名も欠かせません.

Heidegger がそれらの哲人たち,詩人たちのテクストを解釈したのは,単に哲学教授の仕事のためではありません.

Heidegger の解釈のしかたは,独創的でした.反常識的,反通念的でした.しかし,はっとさせるものでした.つまり,真理のきらめきを感じさせるものでした.

もしまだ Heidegger を直接読んだことがなければ,まず彼の『形而上学入門』 Einführung in die Metaphysik を読むのも悪くないですが,むしろ,彼の Nietzsche 講義を読んでみてください.故木田元氏も推薦していました.講義にもとづいていますから,彼の論文よりは読みやすいです.Lacan Séminaire よりも読めます.勿論,ドイツ語原文で読むにこしたことはありませんが,最初の Heidegger なら邦訳でも良いでしょう.少なくとも『存在と時間』よりおもしろいです.

ともあれ,Heidegger は先達たちのテクストを如何に読んだか?存在の言葉 das Wort des Seins として読んだのです.

それらのテクストをとおして存在が語っている.Lacan の表現で言えば,ça parle, 何かが語っている.そして,その「何か」とは真理です.存在の真理です.

Heidegger は,いにしえの哲人や詩人を解釈しながら,過去の事象を過去のものとして扱う哲学史や文学史をしていたわけでは全然ありません.そうではなく,存在の言葉を聴き取ろうとしたのです.しかも,己れ自身の存在にかかわるものとしての存在の真理の言葉を.

精神分析用語で言えば,Heidegger の読みは,転移のもとにおける読みです.彼が或る哲人,或る詩人を読むとき,彼はそれら哲人,詩人たちに対する転移の関係にあります.であるからこそ,凡庸な教科書的読みではなかったのです.

たとえば Heidegger Herakleitos の断片的テクストを読むとき,Heidegger は,Herakleitos において,Herakleitos をとおして,存在の真理が語っている,と仮定します.それによって,知の仮定的主体が定立されます.

Heidegger の読みは,精神分析における解釈と同じ構造において為されています.精神分析的解釈と言っても,Lacan 的な解釈ですが.つまり,imaginaire な意味を了解するのではなく,存在の真理 φ を解釈することです.

我々が聖書を読む際にも同様にすべきです.聖書を単に宗教的,教義的,歴史的,文学的,等々のしかたで読むのではなく,神の言葉として,つまり,存在の言葉として読むべきです.しかも,他人事ではなく,我々自身の存在の真理の言葉として.

聖書に限らず,読むに値するテクストを読むときには,そこにおいて我々自身の存在の真理が語っている,との仮定のもとに,つまり,転移のもとに,読むべきです.そうでなければ,テクストの本当の真理を読み取ることはできません.

そこにおいて存在の真理が語っていないようなテクストは,技術的なものか,単なるたわごとです.そのようなテクストと,たとえば Heidegger Nietzsche 講義と,どちらがおもしろいかは,言うまでもありません.

さて,父の名にもどると,父の名の概念の最も基本的な定義は「徴象の機能の支え」 « support de la fonction symbolique » です.1953年のローマ講演におけるこの fonction symbolique という表現は,fonction de la parole の言い換えです.fonction de la parole はローマ講演のタイトルの含まれている表現です.

fonction de la parole, ことばの機能とは何か?それは,主体の存在の真理を ex-sister, ek-sistieren させることです.つまり,存在論的構造である言語の構造 a / φ を定立することが,ことばの機能です.

父の名は徴象の機能の支えであるとすれば,父の名は構造 a / φ の可能性の条件である,と言えます.

そのような父の名は,signifiant signifié とを相互につなぎとめておく point de capiton と同じです.

point de capiton とは,マットレスやクッションのなかの詰め物がずれて,かたよってしまわないように,表面の布地と詰め物とをつなぎとめておく縫い目です.表面の布地は signifiant, 中の詰め物は signifié に相当します.

精神病の発症においては,第一段階として,構造 a / φ の解体が起こります.つまり,それまでまがりなりにも相互につなぎとめられていた signifiant signifié とが互いに解離します.

1958年の Lacan は,そのような構造解体が起こるからには,構造を成り立たせるべき父の名が不在なのだ,と考えます.そして,その不在を「父の名の閉出」と名づけます.

ところが,1963年の時点で Lacan は,父の名は閉出された父の名しか無い,と既に気づいています.

父の名は,YHWH の名と同じく,不可能な signifiant であり,抹消されてしか書かれ得ない不可能な文字である.そのことを展開しようとしたのが,196311月に一回だけ行われた Séminaire, Les Noms du Père です.

1972年のテクスト Etourdit においては,父の名は réel なもの,つまり,不可能なもの,書かれぬことをやめないものとして言及されています.

しかし,1973-74年の Séminaire, Les non-dupes errent において,新たな展開が為されます.


精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 08 October 2014

08 October 2014 : métaphore métonymie ; 徴示素と主体との関係;言語の機能は communication ではない;日本人は精神分析を必要としないか?;解離と離人症.

Lacan métaphore métonymie の用語を言語学者の Roman Jakobson から借りてきました.Jakobson は失語症のふたつの基本型,Broca 失語と Wernicke 失語とを取り上げました.そして,Broca 失語,いわゆる運動性失語,発話量が低下する失語においては,signifiant signifiant との連結が障害されるのに対して,Wernicke 失語,いわゆる感覚性失語,発話量は低下しないが,言い間違いが起こり,重症例では jargon になってしまう,そのような Wernicke 失語においては,signifiant signifiant との代理が障害される,と分析しました.そして,Broca 失語は métonymie の障害,Wernicke 失語は métaphore の障害である,と論じました.

Lacan は,友人 Jakobson 1956年に発表したこの議論を,1955-56年の精神病についての Séminaire を行っていた最中に知りました.そして,1957年の書『無意識における文字の機関』において,精神分析における métaphore métonymie の概念を展開しました.Lacan にとっては,当然ながら,言語学としての言語学における métaphore métonymie の概念が重要なのではなく,あくまでも,精神分析における signifiant と主体との関係が問題なのです.

signification という用語においてかかわっているのも,言語学的な「意味」や「意義」ではなく,あくまでも主体,Bedeutung φ としての主体です.

aliénation は,主体 φ が徴示素 a により代表されるという構造に存します.それによって,主体は,主体そのものとしてではなく,客体として現象することになります.

aliénation métaphore の構造を有すると言えるのは,主体と signifiant との関係の観点においてです.Lacan Jakobson に「aliénation métaphore だ」と言っても,Jakobson には通じなかったでしょう.

Lacan が「言語の構造」 la structure du langage と言うとき,それは a / φ の構造,つまり,signifiant a が主体 φ を代理するという構造のことです.

精神分析における言語の機能は communication ではありませんし,我れと汝れとの「共同注視」へ客体を提示することでもありません.

精神分析における言語の機能は,signifiant a が主体 φ を代理し,守護し,それによって主体 φ ek-sistieren し得るようにする,ということです.

日本人は精神分析を必要としない,と Lacan は言いました.それは,ひとつの虚構的な「日本人論」にもとづいてです.

構造 a / φ は,仮象が真理を代理するという構造であり,真理は仮象を解釈することによってしか到達され得ません.

ところが日本人は,仮象が仮象であることを心得ている,つまり,建前はあくまで建前であって,本音,真理は他のところにある,ということを a priori に前提しており,かつ,音読みと訓読みを含む日本語の音韻体系のおかげで,仮象から真理への解釈と翻訳は,分析無しに,自動的に達成される.

そのような「日本人論」にもとづいて Lacan は「日本人は精神分析を必要としていない」と言ったのです.勿論,「何という礼儀正しい日本人!」,つまり,「何と日本人は仮象を仮象として尊重するのか!」という皮肉と揶揄であっただろうと思います.

日本において精神分析がフランスにおけるように重要性を持たないままであったとすれば,それは,確かに,日本が伝統的に「仮象の帝国」であったからです.仮象の優位があまりに強かったからです.

しかし,その伝統も,資本の言説と科学の言説のなかで破壊されつつあります.

3.11 は,日本が黙示録的時代に突入したことを象徴する出来事です.それは,近現代の Vollendung, 満了と,それにともなう崩壊の時代です.

伝統的仮象が崩壊しつつある今,時代はまさに精神分析を必要としています.

離人症と解離について補足するなら,確かに,DSM と呼ばれる米国の精神医学の診断基準においては,離人症は dissociative disorder のなかに数え入れられています.ただし,dissociation の概念を定義し得ぬままに.

昨日わたしは,DSM が離人症を解離障害のひとつにしていることを全く忘れていました.解離障害は hystérie において起こるものであり,離人症は,むしろ精神病と関連するからです.

しかし,構造論的には,離人症と解離とにおいては同じ分裂がかかわっている,離人症と解離とは同じ分裂に基づいている,と言うことができます.

米国精神医学において適切に定義されないまま使われている dissociation の用語は,分裂と読み替えることができます.

分裂とは,主体の分裂です.そして,主体の分裂とは,構造 a / φ における a φ との分裂です.

Hysterica においては,a φ との分裂,解離が非常に容易に起こります.両者の結合がもともと非常に緩いのです.そのことが hystérie を特徴づけています.

ですから,hysterica においては容易にひとつの a との同一化が解消され,ほかの新たな a との同一化が成起します.極端な場合,まったく別の人格との同一化が起こり,従来の人格は排斥されてしまいます.しかし,そこにおいては,a / φ の構造そのものは保たれています.

他方,dépersonnalisation においては,構造 a / φ そのものがまさに崩壊しようとしています.その危機的な状態において,あの特有の現実感の喪失や自己感の崩壊が体験されます.

構造 a / φ の解体の予兆として,離人症は,精神病発症の前ぶれであることがありますし,精神病が発症しなければ,文字どおり構造 a / φ が崩壊して,自殺に至ることもあります.

精神分析の経過中にも dépersonnalisation は起こります.それは,従来の同一化の解体の徴候としてです.

明日9日はいつものようにこの精神分析 Tweeting Seminar を行いますが,10日金曜日は東京ラカン塾のセミネールの初回を行うので,twitter はお休みします.また,11-13日は,聖ペトロ・パウロ労働者宣教会の黙想会に参加しますので,その間も twitter はお休みします.したがって,10-12日はこの精神分析 Tweeting Seminar はお休みです.13日の夜に再開できると思います.


精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 07 October 2014

07 October 2014 : 隣人をあなた自身のように愛せよ;欠如と欠如との分かち合い;男性分析家と女性分析家;逆転移について ; métaphore métonymie ; 解離と分離.

いただいていた幾つかの御質問に答えるよう試みてみましょう.

まず,マタイ福音書 22,39 等に記されているイェスの言葉ですが,それは,正確には,「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」ではありません.正しくは:

ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν. 隣人を,あなた自身のように愛せよ.

この命令は,聖パウロのローマ書簡 13,8 の「他者を愛する者は,律法を満了した」と等価です.

隣人愛とは「隣人である他者を愛する」です.しかしそれは実は,「神である他 A を愛する」です.

そして,他 A は自己自身です.なぜなら,他 A 存在は,自己自身の存在であるからです.

そして,愛とは,存在における communion, Ⱥ φ との一致です.それは,Lacan の言う「分離」における「欠如と欠如との分かち合い」です.

A を自己自身として認め,かつ,他 A により自有されて,存在を分かち合い,存在において一致すること,それが「互いに愛し合え」という律法の満了です.

次に,分析家が男性である場合と女性である場合とで何か根本的な違いがあるのか,という御質問に対しては,否と答えられます.分析家が男であろうと女であろうと,精神分析の本質は「分離」に存します.

しかし,そこに至る前,転移神経症の形成に関しては,a が男性分析家であるか女性分析家であるかにより違いが出てくることもあります.特に,個人史における父や兄弟などとの関係,母や姉妹などとの関係の variation に応じて,転移において a に如何なる意義が付与されるかは違ってきます.

しかし,再度強調するなら,最終的には,分析家が男であろうと女であろうと本質的な相違はありません.

Lacan 派の精神分析が盛んな国々においては,女性の精神分析家はたくさんいます.男性よりも女性の分析家の方が多いだろうという印象を受けます.しかし,日本では女性分析家は非常に少数です.Lacanienne と呼び得る女性分析家が日本にいるかどうか,わたしは知りません.

山上千鶴子氏は,London でトレーニングを受けた kleinienne です.ほとんど完全な独立派で,日本精神分析協会にもほとんどかかわっていないと思います.わたしは彼女と直接の面識はありませんし,日本で彼女がどのような臨床をしているのかも全く聞いたことがありません.

逆転移に関しては,Lacan の教えにおいては,転移は徴象の次元において思考され,取り扱われるのに対して,国際精神分析協会とその系列の日本精神分析協会の分析家たちは,徴象と影象との区別を知らないがゆえに,転移において影象的関繋のなかに巻き込まれてしまいます.

Lacan 派の分析家も,a - a' の影象的関繋から全く無縁になったわけではありませんが,しかし,徴象的関係の観点にもとづいて,影象的関繋がはらむ攻撃性を相対化し,それに対処することができます.

次に métaphore métonymie とについては,Lacan はそれらの用語の伝統的な解釈には全くとらわれず,独自の概念化を行っています.

métonymie は,徴示素 a により代表されていない限りでの φ そのものです.φ は,徴示素 a に拘束されない限りで,際限無く横滑りして行きます.その横滑りが déplacement métonymique metonymia 的変移」です.

それに対して,métaphore a / φ の構造そのものです.signifiant a による Bedeutung φ の代理・代表,それが métaphore です.

métaphore métonymie とについては,伝統的な修辞学の範囲内で考えるのではなく,Lacan の構造論にそって考えねばなりません.

Schizophrenie における néologisme も,Joyce Finnegans Wake も,ともにひとつの métaphore です.それらは,無からの創造であるのと同じく,死からの復活でもあります.

解離と分離とについては,両者は全く別物です.分離においては,症状の構造 a / φ において a φ とが分離し,構造が解体されます.そして,それによって症状が解消されます.

それに対して,解離はひとつの神経症症状です.解離において,症状の構造 a / φ a の座に来るものが何であるかは,非常に多様です.他者 a においてimaginaire に捉えられたひとつの人格であったり,他者 a の欲望であったり,幻想であったり,様々です.いずれにせよ,解離においては,構造 a / φ そのものの解体は成起しません.


精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 06 Oct 2014

06 Oct 2014 : 第二の死;死の本能の殉教者 Sade ; 父の名と nomination ; ニヒリズムについて.

今年は Marquis de Sade (1740-1814) の没後200周年です.Le Nouvel Observateur 誌の写真は,彼が1785年に Bastille 牢獄で書いた『ソドムの120日』の手稿です.

紙を貼り合わせて作った幅約11cm, 長さ12mの巻物の表裏に細かい字でびっしり書かれています.14 juillet 1789 直前に彼は Bastille から Charenton へ移送され,その際,この手稿を持ち出すことができませんでした.そして,手稿は数奇な運命をたどって,今,こうして展示されています.Sade の肖像は残っていませんが,scripta manent. しかし,それは彼の「第二の死」の願望には適っていないことかもしれません.

Lacan Kant avec Sade 「カントとサド」という書のなかで,Sade の「第二の死」の願望に言及しています.第一の死は,普通の意味での死,つまり,生理学的死です.人間は,生理学的死の後も,さまざまな痕跡を残します.遺体や遺産だけでなく,記録に残る名前,作品,等々.そして,墓.Sade は,そのようなものすべてが消滅することを望みました.それが,第二の死です.

第一の死は,a / φ の構造のものです.たとえば墓碑が signifiant a として,存在 φ を代表します.

それに対して,第二の死は,φ を代表するあらゆる signifiant a が消え去ること,滅却されることです.つまり,a φ からの分離です.そのとき,純粋な喪失,寂滅としての φ がそのものとして実現されます.それは,他 A の欲望の究極的な十全たる満足です.

Sade は,単なる性倒錯者ではなく,他 A の欲望に最も忠実な殉教者であろうとしました.

死後に名 a を残したいという願望は俗人のものです.そのような人は,死後も症状をさらし続けるだけです.

聖人は,逆に,あらゆる a を滅却して,純粋徴示素 S(Ⱥ) の穴になっています.それは,他 A の欲望 Ⱥ に最も忠実な存在様態です.

今,真心ブラザーズの「人間はもう終わりだ」という歌を教えていただいたところです.人間という同類どうしだけの閉ざされた世界における閉塞感は,確かに,一種のニヒリズムです.a - a' imaginaire な次元にだけ捕らわれています.他 A との symbolique な関係は,彼らの視野には全く入ってきていません.

「人間はもう終わりだ」を超人によって超克しよう,ということになると,これはもう完全に nazisme です.彼らがそのような方向へ走らないことを願っています.

父の名に話を戻すと,1973-74年の Séminaire Les non-dupes errent において Lacan は,父の名との関連において nomination の概念を提示します.nomination は「命名」だけでなく「任命」です.

つまり,nomination destitution 「罷免」の逆です.罷免と分離に次いで,φ に新たな名 a を与えること.それは,無からの創造としての sinthome : 症状,聖状,聖人の概念へとつながって行きます.

Nihilisme の概念は非常に重要です.現代という時代を考えるための key word のひとつです.

Heidegger は,第二次大戦中,Nazi 体制下,Nietzsche と取り組みながら nihilisme について考えぬきました.

Nihilisme の定義のしかたは幾つかあります.Nietzsche nihilisme を,あらゆる価値の Umwertung と定義しました.「価値」はドイツ語で Wert であり,Umwertung は価値の基準のくつがえしです.従来,伝統的に崇高とされていた価値が,無価値となってしまうこと.それが Nietzsche 的な nihilisme の定義です.Platon 的な idea, ギリシャ的な humanisme, そのような価値がすべて無効となってしまった現代.それが nihilisme です.

そのような nihilisme Nietzche は,超人 Übermensch の意志である「力への意志」によって超克しようとしました.力への意志は,無効となった価値の代わりに,みづから価値を措定する意志です.

Heidegger は,しかし,力への意志によっては nihilisme を本当に超克することはできない,と喝破しました.なぜなら,nihilisme の本有は,存在が己れを離退し,隠してしまっていること,そして,そのことに誰も気づいていないことに存するからです.

ですから,まずは,存在の深淵をあらわにしなければなりません.その深淵の穴を覆い隠せるようなものは存在事象の次元にな何も無い,力への意志によってもその穴を塞ぐことはできない,ということを明らかにせねばなりません.

それは,ある意味で nihilisme を徹底することです.しかし,そのような nihilisme の徹底は,深淵の底に沈んだままでいるためではなく,その深みから立ち上がるため,死から復活するためです.

復活するためには,まず死なねばなりません.死を引き受けねばなりません.死を主体化せねばなりません.

そして,復活とは,死ぬ前の状態に単純にもどる「よみがえり」ではなく,そのような存在事象的な次元を超えた新たな命,キリスト教で言う「永遠の命」へ復活することです.

以前,仏教において復活は問題にならないのか,と問うたことがありました.最近,気がつきました.Sujata のエピソードがそれです.ブッダは,禁欲的な修行の果てに,文字どおり死にそうになっていました.そのとき,Sujata という名の女性が彼にミルク粥を差し出しました.Sujata のミルク粥を口にしたブッダは,生き返りました.そして,菩提樹の下で悟りを開いたのです.

この伝説は,ブッダにおける「死からの復活」を物語っている,と見なすことができます.復活のために女性が決定的な役割を果たしている,という点も,イェスの復活において Marie-Madeleine がそうであることと共通しています.

Nietzsche の超人は,存在の深淵を否認するためのものです.神は死んだ,今や超人だ.それが Nietzsche です.Nietzsche は,神がずっと以前から死んでいたということを十分に考えぬきませんでした.神の名 YHWH は不可能な名である,ということが指し示している深淵を Nietzsche は十分に思考しませんでした.

復活は,積極的ニヒリズムではありません.復活は,死の深淵を覆い隠すものではなく,むしろ,その深淵をそのものとして守護,守保します.それが殉教者であり,聖人です.

超人は力への意志によって他 A の欲望を覆い隠し,否認します.聖人は,他 A の欲望をそのものと認め,それが己れを啓示するようにします.超人は力に酔い,聖人は喪失に醒めています.

もし仮に Sade が「神は死んだ,今や何をしても許される」と言っていたら,彼は単なる nihiliste だったかもしれません.しかし,そうではありませんでした.彼の欲望は,如何なる存在事象における快をも超えた彼方へ向かっていました.それは,死の本能への忠実でした.Lacan はそのように Sade を解釈しています.


精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン, 05 Oct 2014

05 Oct 2014 : lacanien 土居健郎 ; biopolitique について ; passion du signifiant としての affect.

御質問をいただいています.「父の名は,主体を排除するか?」御質問の方の言う「排除」は forclusion のことでしょうか?「父の名は主体を排除する」という命題の文脈を御提示いただけるでしょうか?

さて,皆さんは,土居健郎 (1920-2009) を御存じでしょうか?『甘えの構造』で有名になった精神科医です.土居健郎語録のようなものから引用された命題を幾つか,今日,Facebook で目にしました.それらを紹介すると:

君ねえ,精神療法はハラハラドキドキなんだよ.
精神療法はね,出たとこ勝負だよ.
きちんと患者をひと叩きしてから,引き受けなさい.
すべてはアフェクトだよ.
君は患者をわかりすぎだ.
ぼくの患者でよくなったケースは,八割方は怪我の功名だよ.

先ほどの御質問の方は Agamben の名に言及されていますが,Agamben に関してはわたしは全く無知です.「生政治」という語も初めて目にしました.

聖書に語られているようなものとしてのユダヤ人の passion は,イェスの passion と同じことです.つまり,この世に対して死ぬことです.たとえば,ユダヤ人は,エジプトで奴隷としてではありながらも,食うに困らない生活をしていました.しかし,モーセに導かれて,海の底を歩いて渡り,さらに,荒れ野を40年間さまようことになりました.そこにおいて,海,つまり水も,荒れ野も,死の象徴です.

Wikipedia フランス語版で biopolitique の項をざっと読みました.biopolitique discours du capital 資本の言説と関連するように思われます.

Foucault は「狂気の歴史」の冒頭においてもレプラ lèpre を取り上げています.

「癩」という語は political correctness の観点から使用不能となっています.聖書にはレプラ患者が幾度か登場します.レプラも死の象徴です.旧約聖書の預言者やイェスは,レプラを奇跡的に癒やします.それは,死からの復活を表しています.

その限りでレプラは聖書において省略することのできないモチーフなのですが,さりとて近代医学におけるハンセン病という呼称を聖書で使うこともできないので,日本語訳聖書では「重い皮膚病」という表現が使われています.フランス語訳聖書では lèpre という語がそのまま使われています.

ともあれ,「狂気の歴史」や「語と物」において古典主義時代の直前の時代,つまり Renaissance において,レプラ患者はこの世から排除されていました.レプラ患者はこの世に対して既に死んでいたのです.それは,聖書におけるレプラ患者の立場と同じです.狂人もレプラ患者と同じく,この世から排除されていました.そして,そのような排除において,彼らは聖別,神聖化されていました.

それに対して,古典主義時代,すなわち17-18世紀,つまり,資本主義の誕生の時期には,そのような聖別は無効にされてしまいます.代わりに,平板な博物学的分類学が支配的になります.それは結局,資本の言説の支配の開始です.

資本の言説においては,人間はその人間的尊厳においてではなく,労働力としてしか人間ではありません.狂人であろうとレプラ患者であろうと,もはや神聖なもの,他 A に捧げられたものではなく,労働力となり得るか否かだけが問題です.

Foucault の言う biopolitique とは,従来は労働力市場から除外されていた人間を如何に労働力として動員,召集するかという problématique と関連しているのだろうと思われます.

近代・現代の国家 : nation は,基本的には大学の言説の構造のものですが,それは常に資本の言説によってむしばまれてゆきます.

biopolitique は,資本の言説のなかに位置づけられるだろうと思います.

1960年代以降の Lacan の教えにおいては,父の名は,常に既に閉出されています.その限りにおいて,父の名は,主体の存在の真理 φ そのものです.

biopolitique の支配のもとでは,神聖なものは存続し得ません.狂人としてであれ,レプラ患者としてであれ,あるいは,シャーマンとしてであれ.すべては平板化されて行きます.そして,労働力として召集されて行きます.

さて,土居語録からの引用に戻ると,わたしは精神科医としての修行時代,京都で勉強していたので,東大系の土井先生とは全く縁がありませんでした.彼は Fulbrignt 留学生として USA で学んできました.他方,京都では,フランスとドイツの精神病理学が主流でした.ですから,わたしも土居先生には全く関心を持っていませんでした.ベストセラーの『甘えの構造』も読んだことがありません.先ほどの引用は,今日たまたま Facebook で見かけたものです.しかし,土居先生は実はラカン派であることをそこに発見しました.

さきほどの引用のなかの「精神療法」は「精神分析」と読みかえることがでます.勿論,土居先生は Lacan を読んだことはなかったでしょうし,仮に読んだとしても,読解することはできなかったでしょう.にもかかわらず,土井先生は,精神分析について,Lacan 的な観点から言って,まったくうなづけることを言っています.

たとえば,「君は患者をわかりすぎだ」と土井先生は若い精神科医をたしなめています.それは,「了解してはならない」という Lacan の戒めと同じことを言っています.

「きちんと患者をひと叩きしてから引き受けなさい」における「ひと叩き」は,伝統的な physical examination における打診の比喩です.要するに,むやみやたらと精神療法,精神分析をやってみようとするのではなく,あらかじめ患者の精神病理をよく見きわめろ,如何なる構造のものであるか,神経症か,精神病か,性倒錯かを前もってよく鑑別診断しろ,と土居先生は言っています.精神療法をしたがる精神科医がおろそかにしがちなことに注意を促しています.

Lacan もまったく同様に,予備面接における診断学的鑑別の重要性を強調しています.とりわけ,精神分析への導入に先立って,精神病発症の危険性の評価は欠かせません.

「ハラハラドキドキ」,「出たとこ勝負」,「怪我の功名」は,精神分析において実在 le réel が如何に不意打ちしてくるかを言い表している言葉と取ることができます.

「出たとこ勝負」は,言い得て妙なる表現です.実在の深淵の裂口が出来してきた瞬間を捉えて,それを患者に示さなければなりません.それは,40-50分の固定時間面接では困難なことです.もし仮に土居先生が Lacan 的な変動時間面接を実践していたとしても,不思議はありません.

「すべてはアフェクトだ」.そこで土居先生は「感情」とか「情動」という日本語は使わず,敢えて affect, Affekt と言っています.先日引用した Lacan passion du signifiant と言い換えることができます.

passion du signifiant は,φ としての主体そのものです.実際,精神分析の全体は,φ の深淵をめぐって展開されます.その意味で,「すべては Affekt だ」と言ってもよいでしょう.

もし仮にわたしが土居先生に Lacan の教えを十分に解説することができたなら,彼は彼が経験的に気づいてきたことを Lacan は理論的に基礎づけているのだと納得し得ただろうと思います.