大学の言説は,精神分析を「精神分析学」にし,Lacan の教えから lacanisme を作り上げようとします.それによって大学人は,精神分析を諸々の心理学理論のひとつに分類し,Lacan の教えを「精神分析学」のひとつの変種と位置づけ,安心します.精神分析の真理を塞いだつもりになって.
日本の大学人のなかに「ラカン派精神分析学者」や「ラカン解釈学者」を標榜しようとする人が誰かいるでしょうか?
Heidegger をやっている大学の哲学教師たちも,Heidegger と心中する心構えは無いようで,Heidegger は Nazi だと指弾されれば,たちどころに逃げ出します.
フランスの大学人たちにとって Lacan から受けた trauma の後遺症はいまだに残っています.Lacan の弟子であった Laplanche はその代表例でしょう.
先日もちょっと触れたように,頼まれて Derrida の Mal d'Archive を読んでみましたが,根本的に Heidegger と Lacan に準拠していながら,Derrida が Heidegger の名を挙げたのは一回のみ,Lacan への直接の言及は一切ありませんでした.あたかも Lacan の名を出すと哲学者にとって恥であるかのように.
フランスの大学人・哲学者のうちでまともに Lacan と取り組んでいるのは,Alain Badiou くらいでしょう.
付言すれば,フランスでの Lacan アレルギーは,今や,Jacques-Alain Miller に対するアレルギー反応によって強化されています.
わたし自身,Lacan の教えの根本を把握し得たとすれば,それは,神学と『哲学への寄与(自有によって)』以降の Heidegger とを学んだことによってです.しかし,同時に,Heidegger を読解するには Lacan と精神分析と神への関わりが必須だと思います.
Lacan は,精神分析にとっての
Heidegger の思考の根本的な意義を把握していました.Lacan が暗示したことを,わたしは今,明確化しているだけです.Jacques-Alain Miller は Heidegger 嫌いなようで,彼が立ち入って
Heidegger を論ずるのを聞いたことはありません.
ここで,わたしの個人的な予定をお伝えしておくと,新たに開業する部屋へ8月11日に引越ます.最寄り駅は,都営三田線の白山駅です.そこで精神分析治療,いわゆる個人分析,personal analysis を始めます.
精神分析の臨床と並んで,秋からは séminaire を開始します.どのようなプログラムにするかは未定ですが,御要望,御意見があればお寄せください.参考にさせていただきたいと思います.例えば,Lacan や Freud のテクストの解説,より一般的な理論的解説,等々.参加しようと思う方々の都合としては,何曜日の何時ごろがよいか,等々.場所は,ある程度の参加人数が見込まれれば,文京区の貸し会議室を借りることもできます.
そもそも,精神分析を学ぶこと,教えることは可能なのでしょうか?もし可能であるとすれば,精神分析を「学ぶ・教える」とはどういうことでしょうか?学び,教えものは或る種の知ですが,では,精神分析において如何なる知がかかわっているのか?
Freud や Lacan がみづから言ったこと,また,Freud
や Lacan について誰か他の者が言ったことを,我々はテクストとして読むことができます.そこから何事かを学ぶことができます.それはそれで有意義なことです.確かに,そのようにして精神分析の理論,用語,概念を我々は学びます.
しかし,例えば大学の講義において,あるいは個人的な勉強会のような機会において,そのような事柄を学んだとして,それで本当に精神分析を学ぶことになるでしょうか?
確かに,例えば哲学を勉強し,哲学者になろうとしている人,あるいは,既に哲学者として仕事をしている人は,精神分析の臨床とは別に,用語や概念を「机上」で学んで,理論化し,かくして論文や本を書いて発表し,自分の業績のリストを豊かにして行くことができるでしょう.大学人にとっては,それは有意義なことです.
しかし Lacan は,そのような営みを poubellication と呼びました.poubellication は,pubilication(出版,発表)と poubelle(ゴミばけつ)との合成語です.つまり,もし論文や本を書いて出版すること自体が目的となっているなら,そんなことは廃棄物を作り出しているようなものだ,と Lacan は揶揄したのです.
Lacan は,la
psychanalyse en intension と la psychanalyse en extension との二本立てを提唱しました.
intension と extension は,通常,ある概念の「内包」と「外延」と訳されます.「内包」は或る概念の意味であり,「外延」はその概念があてはまる存在事象全体を指します.
しかし Lacan は精神分析の intension という表現を以て,各人がみづから経験するものとしての精神分析,つまり,各人の分析経験のことを差し徴します.
それに対して,extension における精神分析という表現においては,精神分析を如何に社会に対して提示・提起するか,ということが問題にされます.
精神分析について何か書いたり発表したりすることは,精神分析の extension に役立つ限りで意義があります.論文や本を発表することが自己目的化してはならないのです.
精神分析の本質・本有は,勿論,intension としての精神分析,各自がみづから精神分析を経験することにこそ存します.
では,その場合,精神分析の知の伝達とは如何なることなのか?
講義や勉強会でテクストを読み,用語や概念を学ぶことは,確かに或る種の知を得ることではありますが,extension の次元のことにすぎません.それは,自分の,わたしの存在の真理を知ることにはなりません.わたしの存在の真理を知るためには,みづから分析を経験する必要があります.
その際,知は如何なるしかたで伝達されるのか?分析の面接の最中に為される解釈によってでしょうか?
Freud はそう考えていたかもしれません.Freud は,分析面接において夢や症状についてできるだけ詳しい解釈を患者に説いて聞かせました.
しかし,それが存在の真理の知の伝達でしょうか?
たとえば『夢解釈』において「夢は願望成就である」という標語のものに為される解釈は,それはそれで興味深いものです.むしろ,大変おもしろい読み物だと言ってもよいでしょう.夢や日常生活の精神病理の解釈は,おもしろく読めます.なぜなら,そこで Freud は意味を開示しているからです.
ただし,そこで言う「意味」は,imaginaire な意味,影象的な意味にすぎません.そのことは,例えば Freud が『夢解釈』の第二章で展開している Irma の注射の夢において解釈される夢の願望は何ら小児的なものでも性的なものでもないことに表されています.そのような「意味」は,分析において本来目ざされるべき実在の次元のものではありません.
それに対して,intension における精神分析において,各自の分析の経験において,伝達されるべき知は,各自の存在の真理の知,実在の知でなければなりません.
分析家の言説の構造において,左下の真理の座に位置づけられている知 S2, それこそが精神分析においてかかわる知です.それこそが,精神分析において伝達されるべき知です.
では,知 S2 は,ひとつの真なる言表として定式化され得るのか?
Lacan は言いました:「我れは常に真理を言う.ただし,すべてではない.真理をすべて言うことは不可能である」.
つまり,存在の真理の座に位置する知 S2 を,仮象的徴示素 a は代表することはできるが,a はあくまで S2 の代理物,代用物にすぎず,S2 そのものではありません.したがって,a を以て真理を言うことはできるが,S2 そのものをすべて言うことはできません.Freud のような解釈では知 S2 をそのものとして伝達することはできません.
では,精神分析における知の伝達はどう為され得るのか?
それは,analysant 「分析者」,つまり,精神分析の患者,分析を経験する我々各自が,analyste 「分析家」に成ることによってです.
転移において,知 S2 は,分析家 a のもとに仮定されています.そして,分析の終わりにおいて分析者がみづから分析家に成るとき,分析者はみづから a / S2 の構造において実存することになります.S2 が位置する場処は,もはや他 A の場処ではなく,Ereignis 自有において,我々各自自身の最も本自的な存在の場処となります.
知 S2 をひとつの言表として言い表したり書き表したりすることが問題ではないのです.ここに我々は,禅で「不立文字」,「以心伝心」と言われていることの本当の構造を見出すことができます.
秋から行う予定の東京ラカン塾の séminaire, 勉強会について,どのようにするのが望ましいか,皆さんの御意見,御要望をお寄せください.そのほかの御質問,メッセージ等も御遠慮なく.
秋から始める séminaire について,御提案,御要望をお聞かせください.内容,テーマだけでなく,曜日,時間帯,等,どのようなことに関するものでも結構です.いろいろな御意見をお待ちしています.御遠慮なくメッセージを送ってください.わたしの e-mail address へ直接御連絡くださっても結構です:
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