21 August 2014 : Heidegger と Lacan は,終末論を思考することによって形而上学を超克する; 終末と実践.
Alain Badiou は,Lacan を anti-philosophes のひとりに数えています.19-20世紀の「反哲学者」として Badiou は Nietzsche, Wittgenstein
そして Lacan を挙げています.
しかし,20世紀の最大の反哲学者は,実は Heidegger ではないでしょうか?
「反哲学」という表現はあまり適切ではないように思えます.「哲学」ではなく「形而上学」と言うべきではないかと思います.
Heidegger は,Platon に始まり Nietzsche で満了する形而上学の超克を要請しました.
形而上学を特徴づけるものは,『存在と時間』の表現で言えば,「存在忘却」 Seinsvergessenheit です.そこにおける存在は,抹消された存在,Seyn, つまり存在 φ です.1936年以降の表現で言えば,「存在閑却」 Seinsverlassenheit. これは,「人間が存在を忘却した」のではなく,「存在が人間を見離した」ということです.そして,人間は,存在が人間を見離したことに気づいていないのです.人間を見離した存在のことを忘却しているのです.その忘却のなかであれこれ考えているのが形而上学です.
そして,歴史上,形而上学は哲学とほとんど同じものと見なされてきました.
しかし,より正確に言えば,Heidegger と Lacan は,形而上学を超克した哲人(Denker, penseur, 思考者)です.「詩人」との対比において「哲人」という語を用いましょう.
わたしは,Wittgenstein
のことはほとんど知らないので,立ち入りません.
Heidegger によるなら,Nietzsche は anti-platonicien ですが,むしろ,形而上学の満了の哲学者です.
では,如何にして Heidegger と Lacan は形而上学を超克し得たのか?それは,「終わり」を思考することによってです.
Heidegger は,キリスト教における終末論を真剣に思考しました.Lacan は,精神分析は如何に終わり得るかを思考しました.一見相互に無関係に見えるかもしれないふたつの「終わり」は,実は同じものなのです.
キリスト教の終末論を「この世の終わり」という fiction と取ってはいけません.勿論,聖パウロは彼の書簡のなかで黙示録的な「この世の終わり」について語っています.イェスの処刑後20-30年しかたっていなかったパウロの時代には,「この世の終わり」は本当に切迫したものと実感されていました.今にもキリストは再臨し,不正義に満ちたこの世は終わる,と待ち望まれていました.そのことは,パウロのテサロニケ書簡になまなましく証言されています.当時のキリスト教徒にとっては,この世の終わりは,自分自身の地上的生の終わりと重なり合うものして予期されていたのです.この世の終わりの時は,即,自分たちの死と復活の時だったのです.この世の終わりは来るとしても何十億年も後のことだとのんびり構えている現代人とは大違いです.
Heidegger は,聖パウロの時代の終末論を復活させるべきだと考えました.キリスト者は終末論のもとに生きるべきだと考えました.それこそが,本来的な実存の様態である,と考えました.
Heidegger にとって,この世の終わりは,いつまで待っても来ない Godot ではなく,現場存在(Dasein, 現存在)がみずから引き受けるべき己れ自身の死そのものなのです.なぜなら,死こそが,最も本自的な存在可能性であるからです.そして,その場合,死とは,存在 φ のことです.
日常態である「異状」 aliénation の構造を解体し,Ereignis 自有へ至ること,それが Heidegger にとって Denken 「思考する」という行為,実践です.
昔々,マルクス主義が元気だったころ,哲学者たちは多かれ少なかれ実践のことを考えていました.革命を夢見ていました.それに対して,ポストモダンと呼ばれているような哲学者や社会学者は,如何に実践を視野に入れているのでしょうか?評論や批評の次元にとどまっているだけではないでしょうか?そして,そうであるとすれば,それは,彼らが終末論を真剣には考えていないからです.この世の終わりなどいつまで待っても来るはずがない,と前提しているからです.
それに対して,Lacan は,精神分析の終わりを如何に規定するかを考えるうちに,Heidegger における死の概念の重要さに気がつきました.精神分析の終わりは,日常態である aliénation 「異状」の解体としての死であらねばならない,と
Lacan は気がつきました.
22 August 2014 : 終末論と死; 精神分析の究極的な目的.
終末論について幾つか御質問や御意見をいただきました.ありがとうございます.
終末論という表現を聞いて,オウム真理教とハルマゲドンのことを思い出した方がいます.
キリスト教における終末論と,カルト的な新興宗教が説く終末論との違いは,こうです:すなわち,新興宗教は,「この宗教を信ずる者は世の終わりのときも生き残ることができる」と主張し,「死にたくなければ ***教を信じなさい」と主張します.それに対して,キリスト教では,世の終わりは各人の死のときであり,かつ,単純に死を以て終わりとなるのではなく,死からの復活が成起します.新興宗教教団は死を免れることを目ざすのに対して,キリスト教では,死を引き受けたうえで,死から復活することが待ち望まれており,それこそが救済なのです.
原始キリスト教においては,文字どおり,この世の終わりは間近だと信じられていました.しかし,今,終末論においてかかわっているのは,外界としてのこの世が物理学的に存在しなくなるということではなく,我々各自の存在がどうなるか,ということです.この世が消滅するということが問題なのではなく,我々自身の方がこの世に対して死ぬ,この世の次元のものとして存在することをやめる,ということがかかわっているのです.そして,「この世」とは,存在事象そのもの全体のことです.
終末論と死の問題に直面することによって初めて,もはや存在事象ではないものの深淵が口を開いてきます.それこそが,ex-sistence 「解脱実存」としての存在 φ の場処です.
形而上学が論じてきた存在は,存在事象そのもの全体としての存在です.形而上学は,そのような存在を観照することが究極的な真理の把握である,と考えます.そのような真理は ἀλήθεια と呼ばれます.Heidegger はそれを非秘匿性 Unverborgenheit と訳します.すべてがくまなく光に照らされて明らかとなった状態,それが ἀλήθεια としての真理です.
ところが,それで話は終わりません.真理は非秘匿性へと啓かされること,現れ出でることであるとすれば,それは,秘匿性から非秘匿性への出現であるはずです.
非秘匿性というまわりくどい表現は,非秘匿性のなかには秘匿性 Verborgenheit が前提されている,ということを示しています.Heidegger は,この秘匿性こそが,非秘匿性としての真理の本有であり,根拠である,と考えます.
秘匿性は,非秘匿性に対して解脱的 extatique, ekstatisch です.つまり,解脱実存 ex-sistence です.
この非秘匿性と秘匿性との連関の構造が,存在の真理の現象学的構造 a / φ です.
ひとつ大変重要な質問をいただいていました.「異状」 aliénation から脱却することができたとして,その後はどうなるのか,どうするのか?この問いは,精神分析の目的に関する本質的な問いです.いったい,何のために精神分析をするのか?
その答えは,こうです:精神分析の終わりに異状から自有へと脱異状化したなら,あなたは精神分析家に成る.そして,精神分析家として実存する.
教皇
Francesco が今年一月の或る説教のなかで用いた
disciple-missionaire (弟子-宣教者)という表現を,ここで持ち出すのがちょうどよいでしょう.その語をわたしが聞いたのは,今年三月最後の日曜日,Notre Dame de Paris の御ミサでの Paris 大司教Vingt-trois 枢機卿の説教においてです.
その日の福音朗読はヨハネ福音書 4,1-42 の部分でした.井戸ばたでサマリア女がイェスに出会います.彼女は,イェスの言葉に驚いて,イェスこそ預言者だと悟ります.つまり,彼女はそのとき,イェスの弟子 disciple になったのです.次いで彼女は,驚きに打たれたまま,自分の町へ戻り,「救世主が現れた」と告げて回ります.彼女は宣教者 missionnaire となったのです.
キリスト者は誰もが,このサマリア女のように,イェスとの出会いにおいて弟子となり,次いで,今度はみづから,御言葉たるイェスを代理する宣教者となります.
福音書にはほかにもそのような disciple-missionnaire の例があります.Salinger が The Catcher in the Rye のなかで最も好きな福音書の話として挙げていたマルコ福音書 5,1-20 を見てください.そこに登場する男は,文字どおり aliénation 狂気に陥っていましたが,イェスにより癒やされ,弟子としてイェスについて行こうとします.しかし,イェスは彼に家族のもとに帰るよう命じます.そこで彼は,イェスの御業を人々に告げ知らせます.彼も missionnaire です.
精神分析によって自有となったなら,今度は,あなたは精神分析家として,ほかの人々を自有へ導くのです.あなたは,あなたの自有の喜びにおいて,みづから進んでそうしたくなるはずです.
精神分析家がひとり新たに誕生すれば,今度は,その分析家が幾人かの分析家を新たに誕生させます.そのようにして,ついにはあらゆる人間が精神分析家となることが,精神分析の究極的な目標です.なぜなら,精神分析家として実存することは,解脱であり,救済であるからです.
そして,あらゆる人間が解脱し,救済されるとき,差別の言説である大学の言説にほかならない近現代の民主主義社会はくつがえされ,超克されます.
それを「革命」と呼ぶかどうかはさておき,それこそが実践としての精神分析の目ざすところです.あなたには,単なる夢物語に見えるでしょうか?
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