以前,聖書を勉強するにはどうすればよいかという御質問をいただきました.当然,聖書を読むのが一番ですが,それだけでなく,司祭による解説を聞くのも参考になります.つまり,御ミサでの説教です.説教というといかにもつまらなさそうな感じですが,そんなことはありません.勿論,説教をする神父様しだいですが.
あとは,神学者が書いたものを読むのも良いことです.膨大な数の神学書のうち,今特にお勧めできるのは,先代の教皇(今は名誉教皇と呼ばれています)Benedikt XVI の『ナザレのイェス』全三巻です.Amazon で見たら,全部翻訳されていますが,ずいぶん値段が高くてびっくりしました.皆さんの身近の図書館にあればよいのですが.
Benedikt XVI は保守的で,今の Francesco 教皇に比べれば人気はありませんでしたが,神学者としては非常に優れています.『ナザレのイェス』は内容も深く,それでいて,キリスト教になじみの薄い人にも読みやすい本です.福音書の物語の展開にそって,イェスの真理をわかりやすく説き明かしてくれます.
今日わたしが行った御ミサの司式をしたのは Mission ouvrière saints Pierre et Paul(聖ペトロ・パウロ労働者宣教会)の Rémi Aude 神父様でした.彼はなかなか参考になることを説教で言っていたので,紹介してみます.
今日の福音朗読は,マタイ福音書14章13-21節でした.イェスが荒れ野で5000人以上の人々にパンを与えたという話です.勿論,現実にそんなことが可能なはずはなく,福音書の話自体がひとつの譬え話です.そこにおいて何が語られているかというと,救済です.
抽象的なことは理解できず,さして spiritual でもない一般の人々に救済のことをわかってもらおうとすれば,救済をどう提示するか?窮極的満足としてです.もっと具体的に言えば,飢えることも渇くことももうない状態です.
福音書の話のなかで,イェスは僅かなパンと魚を分けて数千人の群衆を満腹させました.そのような満足が救済の具体的なイメージです.
同じような救済のイメージは「天の祝宴」です.天国で神がごちそうをふるまってくれるのです.それは旧約聖書において既に語られているイメージです.
ところで,そのような神の宴会(ギリシャ神話におけるような神々が飲み食いする宴ではなく,神が人間たちを招いてごちそうするのです)に参加することができるためには条件があります.ただひとつの条件です.それは何か?飢え渇いていることです.
日本でも「山上の垂訓」として知られているマタイ 5章 3-12節 — カトリックでは「八つの幸い」と呼びますが
—,それは多分,最もよく知られた聖書の一節でしょう.「心の貧しい者は幸い」で始まる一節です.「心」という訳語は既に不適切ですが,ともあれ,マタイ 5,6 の言葉はこうです:「正義に飢え渇く者は幸い」.
単純に言えば,貧しく,飢え渇いていること,それが天の宴に招かれる条件です.
地上的なものに関して豊かであり,この世のもので満腹している者は,主の食卓には招かれないのです.つまり,救済されないのです.
実際に金持ちであるかどうかが問題ではなく,どれだけ神に飢え渇いているかが問題です.地上的なものにあきたらず,どれほど真剣に神を探し求めるか.
言い換えると,存在事象にだけ目を奪われ,存在事象の次元のことだけで満足していてはならないのです.むしろ,存在事象の専制を打倒し,存在論的貧しさを達成しなければなりません.それが救済の条件です.そして,そのような意味で貧しくなることを神は人間に請求しています.
「徴象的な負債を支払う」という Lacan の表現を以て昨日言ったことは,同じことです.他化的同一化の徴示素
a を返上し,存在論的穴,存在論的欠如そのものへと貧しくなること.それが,「徴象的な負債を清算する」ということです.その清算が済んで初めて,天の宴に与ることができます.つまり,救済されます.
今日は,御ミサの説教も教えに富んでいる実例を示してみました.この続きはまた明日.引き続き,御質問,御意見,御要望等をお送りください.
0 件のコメント:
コメントを投稿