秋から行う予定の東京ラカン塾の séminaire に関して幾つか御意見,御要望をいただきました.ありがとうございます.引き続き御提案,御要望,等をお寄せください.曜日や時間帯の都合,具体的にどのテクストを読解したいか等,どんなことでも結構です.
さて,復活のことを話題にしたら或るイギリス人が反発した,ということを先日言いました.キリスト教圏でも復活や永遠の命といったキリスト教の本質的概念,教義が的確に理解されているわけではありません.それは,日本において我々が仏教の教義を必ずしも正確に理解していないのと同じです.
例えば,輪廻転生について誤解している人は少なくないでしょう.お坊さんのなかにも誤解している人がいるようです.つまり,輪廻転生は望ましいことだ,という誤解です.現世で不幸でも来世では幸せになれるという「希望」について語っているお坊さんをテレビで見かけたことがあります.
ちょっと仏教の教義について本を読めば,それは全くの誤解であることがわかります.本当は,輪廻から脱出しなくてはならないのです.輪廻に捕らわれているうちは解脱できません.善行と禁欲に励み,良い業(カルマ)を積むことによって,幾つかの転生を経た後,やっと輪廻から脱出することができます.
解脱は輪廻からの脱出であり,そうなるともう転生することはありません.この世に再び生まれて苦労する必要はもうないのです.
このような解脱と涅槃の境地は,ですから,キリスト教に言う「永遠の命」と等価です.
キリスト教では,そこに至るために幾度か転生する必要はありません.神の恵みにより,苦労の多い現世の人生を送るのは一回きりで良いのです.
基本的に,仏教は「自助努力」,キリスト教は「神頼み」です.勿論,どちらが良いかは問題ではありません.根本的には同じことを目ざしているのですから.
復活と永遠の命のみならず,キリスト教圏で最も誤解されやすく,反発を買いやすい教義は,原罪の観念です.人間は,まだ生まれたばかりで何も悪いことはしていない新生児でも,原罪を背負っています.何もしていないのに何故罪があるのか,と誰もが反発します.
イェスは神ですから原罪はありません.人間で唯一の例外は,乙女マリアです.彼女は,神の母として,原罪を負っていない,という教義がカトリックでは公式に認められています.このように神の母マリアの清純さを強調することは,彼女とマグダラのマリアが同一の人物であったことを強く示唆しています.
それはさておき,原罪は,したがって,何らかの行為の結果ではないのです.神話上は,アダムとエヴァが禁止を侵したからとされていますが,生まれたばかりの乳飲み子にまで原罪があるということは,それが行為によるものではなく,而して,存在論的なものである,ということを意義しています.
原罪の観念は,Freud が「無意識的な罪意識」[ unbewußtes Schuldbewußtsein ] と呼んだものと関連があります.
「無意識的な罪意識」はあからさまに矛盾した表現ですから,「無意識的有罪感」とか「無意識的有罪性」と言い換えたりもします.
ともあれ,「無意識的」ということは,「何もしたおぼえは無い」ということです.何もしたおぼえが無くても,あなたには罪があるのです.何かしたけれど忘れてしまったというわけではありません.違法行為無しの有罪性です.
無意識的罪意識によって,Freud は原罪の観念を再発見したのです.この有罪性は,存在論的なものなのです.
人間として存在するだけで有罪である,とはどういうことでしょうか?
Lacan は「徴象的負債」[ la
dette symbolique ] という用語を以て存在論的有罪性の問題を思考しました.
罪と負債は一見関係なさそうに見えますが,Schuld というドイツ語は両方の意味を持っています.罪とは「負いめ」なのです.何らかの負債を抱えていて,それをまだ返済していない状態,それが「負いめ」がある,ということであり,罪がある,ということなのです.
そして la dette symbolique の symbolique という語は,言語との関連を示唆しています.
人間は,言語に住まう存在である限りにおいて,言語存在である限りにおいて,返済していない何かを負っているのです.
それは何か?実存の構造 a / φ barré における
a です.他化的同一化の徴示素
a を清算しろ,と他 A は請求しています.
『ハイデガーとラカン』の注に書きましたが,村上春樹氏の『1Q84』のあの無気味な場面はまさにそのような請求を描いています.つまり,天吾の父,NHK の集金人を長年勤めていた父は,死のまぎわの深昏睡状態にありつつ,青豆がひそむ部屋の扉を無遠慮に叩き,未払い受信料を請求します.
そのとき天吾の父は,まさに死の代理人です.死ぬ前に,あなたの負債を清算しなさい,あなたの罪を贖いなさい.あの場面の無気味さの意味は,そのようなものです.
Freud は無意識的罪意識を超自我と原初的 Masochismus との関連で思考していますが,臨床においてそれをどう扱うべきかは詳しく論じていません.無意識的罪意識と原罪とを関連づけ,キリスト教における贖罪の観念をも含めて思考したのは Lacan が初めてです.
カトリックの Credo, 具体的には「使徒信条」と「ニケア・コンスタンチノープル信条」がありますが,いずれも,「罪の赦し」と「復活と永遠の命」とを信ずる,と述べています.それらは,キリスト教の救済論の二大要素です.
贖い Redemptio は,それだけで救済の意味にもなります.イェス・キリストにおいて如何に贖いが完成されているかについては,明日以降説明します.
聖書に関しては,ローマ書簡を翻訳でお読みになったなら,今度は是非ギリシャ語原文をお読みなさい,とお勧めしたいところですが,それがちょっと大変なら,他のパウロ書簡を引き続き読んでみてください.パウロ自身が書いたものと,パウロの弟子が書いたのだろうと推測されているものがありますが,そのような違いを始めから気にする必要はありません.とりあえず,順番どおりに第一・第二コリント書簡をお読みください.
そう言えば,田川健三氏による翻訳が最新のもののはずですが,どのような訳になっているかをわたしは自分では確認していません.学生時代,田川健三氏の著作は幾つか読み,ためになったと思っていますが,今,カトリックの観点から見て,プロテスタントである田川氏の聖書解釈がどのように見えるか,現時点では何とも言えません.
Alain Badiou の Saint
Paul. La fondation de l’universalisme はわたしも読みました.結構おもしろい本です.
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