14 August 2014
予定どおり8月11日に開業場所に引っ越しました.しかし,やっとすべてのダンボール箱を開けることができたところです.本をだいぶ棄てたり,PDF にしたりして冊数を減らしたつもりだったのですが,それでもまだ多すぎます.今までは Jacques-Alain Miller の講義録を古いものから新しいものまで紙媒体の形で保存してあったのですが,全部廃棄しました.さまざまな Lacan 解説書や研究書も廃棄しました.結局それらは肝腎なことを的確には言っていないということが今や明らかだからです.つまり,存在のトポロジーそのものは Jacques-Alain Miller も明確に捉えてはいません.Alain Badiou もどうなのかなと疑問に感じています.
というのも,この数日,Alain Badiou と Barbara Cassin 共著 Il n'y a pas de rapport sexuel, Deux leçons sur L'Etourdit de Lacan をちらちら読んでいたのですが,どうもまどろっこしい.
Barbara Cassin (1947- ) の文章は初めて読みました.経歴はなかなかすごい人です.Heidegger が戦後フランスでやったセミナーに参加していましたし,古代ギリシャ哲学をしっかりやり,ドイツ語にも堪能です.Lacan も勿論読んでいます.おそらく Lacan の
Séminaire を直接聴講していたでしょう.Cassin の言っていることの方が Badiou よりもおもしろそうです.もう少し Cassin をきちんと読んでみなくてはいけません.
ほかにもうひとつ,Alenka Zupancic の論文 Sexual Difference and Ontology もこの数日間ちらほらと読んでいました.彼女は1966年生まれで Slovenia 出身です.何らかの意味で Zizek の弟子でしょう.彼女の論文は zizekien の FB グループで紹介されていました.
性別の公式と四つの言説の関連についてより詳しく論じてみようと思って,Badiou & Cassin の本と Zupancic の論文を一応ふまえておこうと思ったのです.Cassin はおもしろそうです.ところが,Zupancic は,ontology という語を出しながら Heidegger にまともに準拠していない.これにはびっくりしました.英語圏ではこういうことがまかり通るということなのでしょう.
なにしろ英語では Sein と Seiendes, 存在と存在事象という用語をきちんと訳しわけることができません.Sein を Being
と訳しますから,Seiendes を訳しようがありません.Heidegger の言う存在論的差異を英語圏の論者は理解できないかもしれません.
15 August 2014
Lacan の L'Etourdit は非常に難解なテクストです.しかし,それを読む者は,そこには何か新しいものがあると予感しないではいられません.
Barbara Cassin は,Aristoteles を基準にして L'Etourdit の含む新たなものを形容します.彼女は,L'Etourdit は反アリストテレス的ではなく — なぜなら「反アリストテレス」は結局「アリストテレス」を超えてはいないので —,反アリストテレス的ではなく,而して,無アリストテレス的,ポスト・アリストテレス的,さらには ab-aristotélicien である,と言います.ab- は「...から離れて,離脱して」ですから,「脱アリストテレス的」と訳せば良いでしょう.
Aristoteles とは何者か,と言えば,Platon と共に,西洋の形而上学の祖です.
つまり,「L'Etourdit は無アリストテレス的,脱アリストテレス的である」ということとは,「Lacan は形而上学を超克している」ということです.これは最大級の讃辞です.
勿論,Lacan
に先だって Heidegger こそが形而上学の超克を実行している,ということを Cassin は暗に前提しているはずですが.
彼女は,形而上学を特徴づけるもの,Aristoteles の根本的公理を,同一律(無矛盾律)に見ます.つまり,「P であり,かつ,P ではない」ということはあり得ない,ということです.
これを無矛盾律と呼ぶならば,Lacan が原理に据えたものは何か?それは il n'y a
pas de rapport sexuel, つまり,無「性関係」律とでも呼べるものです.
存在の現象学的構造を踏まえるなら,存在 φ は無矛盾律に対して解脱的である,と言えます.
存在の真理の現象学的構造においては,存在は「存在事象そのもの全体」としての存在によって共時的に代理されています.そこにおいては,つまり,「P でなく,かつ,P である」.
存在の真理の現象学的構造は,形而上学の超克のための根本的な足がかりを我々に与えてくれます.
16 August 2014
Total depravity 「全的堕落」という神学概念について宿題をいただきました.ありがとうございます.カトリックのわたしにとっては初めて接する概念ですので,十分なお答えはできないと思いますが.
とりあえず先に Cassin の議論を追ってみましょう.彼女は Lacan における équivocité 「曖昧語法」に注目します.曖昧語法は,ひとつの語の意味が一義的に定められないことを指します.そもそも L'Etourdit という表題がその一例です.
フランス語には étourdi という形容詞・名詞はありますが,étourdit という語はありません.L'Etourdi は Molière の戯曲の表題です.本来の意味は「軽率な,そそっかしい」です.
それに対して
étourdit は,このような場合フランス語では語末の t は発音されないので,étourdi と同音になりますが,t が付加されたことによって dit 「所言,言われたこと」が見えてきます.
しかし,そもそも何故 étourdi ないし étourdit を Lacan は持ち出すのか?
Hegel は「精神現象学」のなかで
Leichtsinnigkeit に言及しています.この語の意味も「そそっかしさ,軽率さ」です.leichtsinnig と étourdi は同義です.
Hegel は,Leichtsinnigkeit を戒めているのではありません.Leichtsinnigkeit は,Geist 「精神」の現象を可能にするひとつの条件です.Geist には軽やかさが必要です.このことは,Lacan が「解釈はすばやくなければならない」と言っていることと関連があると思われます.
Leichtsinnig の leicht は「軽い」,Sinn は英語の sense, フランス語の sens と同義で,「意味」「感覚」です.
Leichtsinnigkeit
は,aliénation における悦の固着の重たさとは逆の事態です.a は軽やかに分離し,φ が己れを示すことを可能にします.étourdit は,そのような意味での leichtsinnig な dire です.そして,それこそが équivocité です.
équivoque な dire においては,同一律を特徴づける意味の一義性の重たさとは異なり,leichtsinnig に軽やかな dit — つまり a — はφ の顕現に席をゆずります.
équivoquer 「曖昧語法を用いる」とは,軽やかな非一義性において,a が其れであるところの dit とは異なる意義 φ をévoquer
[喚起]し,その顕現を invoquer する[祈り求める]ことです.
それが,精神分析における解釈を特徴づけます.
L'Etourdit という書は,終始,曖昧語法に満ちていますが,それは,φ を呼び出すためなのです.
さて,「全的堕落」についてですが,この概念は,プロテスタントの人間中心主義の産物にほかなりません.つまり,人間の意志を,人間中心的に,あくまで人間のものとしか考えず,神とのその関連をまったく考慮しないのです.
ここで
Lacan の「人間の欲望は他 A の欲望である」を想起しても良いでしょう.
原罪とは存在論的な有罪性であり,生まれたばかりの赤ん坊も原罪を免れてはいませんが,しかるに,人間のなかには始めから神の欲望が働いています.人間は,存在論的に原罪を負っており,かつ,同時に,存在論的に神性に与っています.
人間は,存在論的・構造論的に神性に与っている限りにおいて,全的に堕落してはいません.
人間と神とは相互に全く切り離された別々の存在事象ではありません.神は人間に存在を与え,人間は神を ex-sister させます.神と人間は,ひとつの intersection を分かち合っています.分離における φ がそれです.そして,それこそが救済の可能性の条件です.
17 August 2014
今日は,東京ラカン塾の実動開始のために web site を作りかえる作業が終わらないので,Tweeting
Seminar そのものはお休みです.
Lacan が用いた la psychanalyse en
intension と la psychanalyse en
extension という表現をどう訳すか,この数時間考えています.
extension は,ある概念の外延,intension は内包ですが,「外延における精神分析」と「内包における精神分析」では,今ひとつピンときません.
内包における精神分析は,要するに,精神分析の経験そのもの,いわゆる個人分析のことです.それに対して,外延における精神分析は,Ecole が世間に対して精神分析を現在化する限りでの Ecole の機能を表します.
用語のうえでは,in- と ex- の対置は,内と外,私と公の対置に相当しますが,どうもぴったり来る訳語を見いだせません.もう少し頭をひねってみましょう.
18 August 2014
東京ラカン塾のホームページを更新しました.そこにおいて,「精神分析は,言語に住まう存在としての人間主体存在の実践的現象学である」と公式化しました.
「言語に住まう存在」は,Lacan の parlêtre 「言語存在」の言い換えです.
英語では,Heidegger
の In-der-Welt-Sein をもじって,parlêtre を In-language-Being と訳してもよいかもしれません.
英語で
Sein 「存在」を大文字の Being, Seiendes
「存在事象」を小文字の being と訳すことが通用するかどうかは知りませんが,ほかに何か良い翻訳があるのでしょうか?『存在と時間』の古い英訳では,Seiendes は entity と訳されていましたが,あまり良い訳だとは思えません.
「実践的現象学」 la phénoménologie pratique は,ふと思いついた造語です.
精神分析においては,存在の真理の現象学的構造 a / φ の a は純粋徴示素である切れめ,ないし穴へ還元され,φ の解脱実存の深淵のエッジが現れます.
精神分析的解釈は,解脱実存のそのような現象が成起するように,自有が実現するように,行われます.それが,Lacan が「精神分析的行為」と呼んだものです.精神分析的行為は,自有を成起させるものとしての精神分析的解釈です.
精神分析において,解釈は,影象的な意味 sens imaginaire を空想する単なる「解釈学」「釈義学」ではなく,而して,解脱実存としての実在にかかわる行為です.
Lacan の「外延における精神分析」と「内包における精神分析」について,前者は signifiant, 後者は signifié である,という御指摘をいただきました.ありがとうございます.その見解に全面的に賛同します.
精神分析の内包とは,実存の構造 a / φ における φ, つまり,Sein, 存在であり,精神分析の外延とは,存在事象そのもの全体としての存在 a です.なぜなら,精神分析は,主体の存在の真理について語ることに存するのですから.
神性と仏性との関連についても,全く的確な御指摘をいただきました.ありがとうございます.
存在の真理である解脱実存 φ は,神学においては神性,仏教においては仏性と呼ばれているものにほかなりません.
禅の公案は,仏性についての非常に興味深い言説です.最も良く知られた公案は,趙州無字と呼ばれている公案でしょう.「或る僧が趙州に問う:この犬に仏性はあるか?趙州は答える:無.」
仏教では,あらゆる衆生,つまり,あらゆる生きものに仏性がある,と考えられています.「この犬」は,ひとつの任意の衆生を指しています.どの衆生でもよいのです.問うている僧も,問いを受ける趙州も,「この犬」と呼ばれ得ます.そして,この犬には,仏性はあり,かつ,無いのです.
これはまさに,存在の真理の現象学的構造にもとづいて思考されるべきことです.つまり,Es gibt Sein 「何かが存在を恵与する」に基づいて思考さるべきことです.
仏性は,「何か」である存在 φ としては,存在事象の側から見れば,無にほかなりません.それに対して,何かが恵与する存在としては,仏性は在るのです.
Benoît Beyer de Ryke の Maître Eckhart という表題の本を以前に読んだことがあります.Meister
Eckhart についての研究書です.この本は,数ある
Eckhart の解説書のなかで最良のもののひとつです.
その本で θέωσις
という用語を学びました.通常は「神格化」と訳せる語ですが,Eckhart に関連する文脈においては,それは「人間が神になる」ということです.神道におけるように,人間が死後,神格化されるということではありません.θέωσις, theosis とは,人間はその本有において神性に与っている,ということです.あらゆる衆生に仏性が ex-sistence として備わっているように,あらゆる人間に神性は解脱的本有として宿っています.
問題は,如何にして仏性,神性を我々の実存において目覚めさせるか,ということです.その意味で,禅と精神分析は同じひとつのことを目ざしています.
19 August 2014
東京ラカン塾のセミネールは,10月10日金曜日に開講します.場所は,文京区民センター二階の 2C 会議室です.文京区民センター(〒113-0033 本郷 4-15-14)は,春日通りと白山通りの交差点の北東の角にあります.最寄り駅は三田線または大江戸線の春日駅です.
部屋は
17:30 - 21:30 の間使用できます.セミネールそのものは,一般的な大学の講義の時間に準じて,おおむね90分間行う予定です.多少長引いても良いように,19:30 - 21:00 にしようと思います.原則的に毎週金曜日の晩に行います.年間25-30回程度を予定しています.とりあえず10月は10, 17, 24, 31日の四回です.また,セミネールは原則的に公開ですので,事前の申請や登録のようなものは必要ありません.当日,会場にいらっしゃれば良いだけです.参加費は無料です.
テーマは,les
fondements de la psychanalyse 「精神分析の基礎」とする予定です.Heidegger の用語で言えば,Grund です.Grund は,基礎であり,基本であり,根本であり,根拠,理由でもあります.「... にもとづいて」です.精神分析は何にもとづくのか?何のゆえか?何によるか?何のおかげか?問い方はいろいろありますが,問題は,精神分析の主体とその構造,そして,その構造の可能性の条件です.
さて,実践的現象学という表現についてもう少し考えてみましょう.精神分析においても Heidegger においても,実践がかかわっています.行為 acte という用語を Lacan は使いましたし,Heidegger は遂行 Vollzug という用語を用いました.
実践,行為,遂行がかかわっている,ということは,何事かについて教科書を読んで,あるいは話を聞いて,何らかの知識を得るということがかかわっているのではない,ということです.しかし,だからといって,何らかの訓練,練習によって know how を身につけるということでもありません.
何らかの
know how なり「こつ」なりを習得すればよい,と考えるのは,Anglo-saxon
的な pragmatism です.pragmatism にとっては,基礎や根拠はどうでもよいのです.ただ単に事態が秩序どおりに成り行けばよい.しかし,それでは精神分析ではありません
精神分析においては,法則や規則に当てはまらないこと,従わないことこそが重要です.そこにこそ ex-sistence φ としての主体の存在の真理は己れを顕すからです.
通常の意味において「学び得る」こと,「習得され得る」ことは,すべて,何らかの規則や法則の次元のことです.それは一般的な,一般化され得る何事かです.
それに対して,精神分析の主体はこの上なく「非-規則的」なもの,「非-普遍的」なものです.そのような主体について,精神分析は何かを教え得るのか?そのような主体について,我々は精神分析において何かを学び得るのか?このような問いに関連して,実践,行為,遂行の意義が問われます.
Lacan において,行為は「言う」 dire です.Heidegger においては「思考する」 denken です.「言う」,「思考する」という行為は,存在の真理の座に己れを秘匿する知 S2 を
signifiant a により代表させることに存します.その際,signifiant a は,何か具体的な単語なり文章ではありません.それはむしろ,絶対的な沈黙,無言です.つまり,切れめ,穴そのものとしての a です.
仮象としての a を脱ぎ去り,存在の真理の場処にみづから実存すること,それが精神分析的行為としての「言う」であり,Heidegger 的な意味での「思考する」です.そのような「言う」,「思考する」を遂行することは,みづから存在の真理の知に成ることであり,存在の真理において自有することです.
20 August 2014
東京ラカン塾として精神分析の臨床を開始する準備が整ったことをお知らせしました.それに対して,実践的な御質問を幾つかいただきました.みずから精神分析の経験を始めてみたいと感じている方にとっては本質的な問題ですので,今日はそれにお答えします.
精神分析においては,ひとつの構造,主体の存在論的構造 a / φ は根本的なものとして存有していますが,それに対して,「一般的には,普通は,通例は」というような表現で通常考えられる規則や法則は退けられます.
一番良く知られている例として,Lacan の「短時間面接」を挙げることができるでしょう.より正しくは「変動時間面接」と呼ばれるべきですが.
Lacan 以前には慣習的に,精神分析家は,おおむね一時間にひとりの患者を面接することを前提にして,一回の面接の時間を 40-50 分間に固定していました.
国際精神分析協会 IPA (日本精神分析協会も属しています)では,とりわけ教育分析に関しては,一回の面接の時間は厳密に守られねばならないとされています.それは,不可侵の規則です.Lacan はそれに従いませんでした.それが Lacan が IPA から破門された直接の理由です.
Lacan は精神分析の主体の存在論的構造にもとづいて,精神分析の実践における解釈の問題と時間の問題とを両者の連関において考えました.
精神分析の出発点において,Freud は,症状の意味を患者に説明して聞かせることを解釈だと考えていました.症状の意味がわかれば,つまり,症状が何を言わんとしているかを聞きとどければ,症状はもはや存続する必要がなくなり,消退するはずだ,と Freud は少なくとも始めのうちは考えていました.この想定は,まもなく臨床的反例によって反駁されます.
Lacan のおかげで症状の構造が明らかとなった今,症状の本当の「意味」は,Freud が思っていたような意味,たとえば『夢解釈』で夢の意味として説明されているような影象的な意味,sens imaginaire ではないのです.
実は,症状の「意味」は,学素 φ により形式化されるもの,つまり,主体の存在そのものです.そして,それは臨床においては或る種の穴や切れめとして瞬間的に姿を現します.分析家は,そのような一瞬の現象を分析者(患者)に気づかさねばなりません.解釈とは,そのようなものです.
一瞬の切れめを気づかせる最も有効な手段として,Lacan はその瞬間に面接に時間的切れめをつける,つまり,そこで面接を中断します.それは,分析者にとって,文字どおりはっとさせる効果を持ち得ます.
そのような切れめの瞬間は面接のなかでいつ出現するか,予測はつきません.したがって,一回の面接時間を40分なり50分なりに固定することは,分析家の解釈の手足を縛ってしまうことにほかなりません.以上が Lacan の「変動時間面接」の根拠です.
精神分析の主体は,規則や法則によって縛られ得ないものです.そのことは,一回の面接時間のみならず,面接の頻度は週に何回か,どれほどの期間続けるのか,面接一回の料金はいくらか,といった問題にも当てはまります.
分析の料金の問題を考えてみましょう.もし仮に面接を無料にするとどうなるか?分析者は分析家との関繋から離脱することが非常に困難になります.
分析家の言説は症状の言説でもあることを想起してください.精神分析における転移関繋はひとつの症状です.そこには剰余悦があり,分析者はそこに固着してしまう可能性があります.
Freud の症例「オオカミ男」ではそのような事態が生じました.分析料金は勿論,無料ではなかったのですが,当初(つまりロシア革命前)オオカミ男は非常に裕福でした.一回の面接の料金として彼が Freud に支払う金額は,彼にとってはスズメの涙程度のものでした.その結果,何が起きたか?治療が一向に進展しないことに Freud は気づきました.オオカミ男は,Freud との関繋に安住してしまって,そこから抜け出ようとは全く思わなくなってしまったのです.そのような状況を打開するために Freud がとった手段は,治療期間に期限を設定するというものでした.つまり,「病状がどうであろうと,あと x ヶ月で治療を打ち切る」と Freud はオオカミ男に告げたのです.
その妥当性はさておき,分析治療が有料であるべき理由のひとつはそのようなものです.
しかし,そもそもなぜ精神分析に金を支払うのか?それは,あなた自身を贖うためです.あなたの aliéné 「異状化」された存在を,身代金を払って身受けするためです.言い換えると,Lacan が dette symbolique 「徴象的負債」と呼んだものを清算するためです.その意味で,あなたが精神分析のためにいくら支払うかは,あなたがあなた自身を取り戻すためにいくら支払うか,あなた自身の存在の価値はいくらか,を意義すると言えるでしょう.
分析は,面接一回や二回で終わるものではありません.かなり長期間,何年も続きます.それだけの期間,一回の面接にいくら支払い得るかは,分析者各自の経済条件によって異なります.しかし,その金額は,10円や100円ではなく,分析者にとって喪失を感じさせる程度に高額である必要があります.オオカミ男の場合のように取るに足りないと感じさせる金額では,分析に金を支払うことの効果がありません.喪失を感じさせる額の金を支払うということは,構造 a / φ において a の φ からの分離を象徴する喪失なのです.
面接の頻度に関しては,いわゆるカウンセリングなどでは週に一回が日本の慣習になっています.しかし,事情が許すなら,週に複数回行う方が有効です.先日 Paris では,わたしの滞在期間が限られていましたから,週に 5 日,一日に 2
回のペースで面接を持ちました.それだけ高密度の分析経験は,分析者をかなり追い詰めます.非常に疲れさせます.そこまでやるのは通常,無理ですが,週に一回よりは,複数回の方が,分析に必要な緊張を持続させることができます.そのような緊張は,日常態から抜け出るためには必要なものです.
というわけで,面接の回数や料金に関しては,分析者おのおのの個別的な条件を考慮して,個別的に設定することになります.理髪店やマッサージのように,あらかじめ時間や料金を設定することはできません.
ここで,「精神分析の内包」に関する御質問をいただきました.Lacan が言語の構造において signifiant と
signifié を問題にするとき,主体の存在論的構造 a / φ にあてはめれば,signifiant は a, signifié は φ です.
先ほど括弧つきで「意味」と呼んだのは,signifié の座に位置する φ のことです.つまり,主体の存在です.「内包における精神分析」においてかかわるのは,主体の存在そのものであり,その場合,内包とは φ そのものを指しています.
「性関係は無い」の学素である phallus barré φ は,Sein 「存在」と等価であり(『ハイデガーとラカン』を参照),それゆえ,φ は Lacan
が主体と呼ぶもの:「精神分析の主体」「無意識の主体」「欲望の主体」であり,また a / φ は症状の構造ですから,「症状の主体」とも呼ばれ得ます.
学素
a / φ は,Heidegger と Lacan の思考における最も基本的な構造である「存在のトポロジー」の形式化です.
a / φ は,そもそも,Lacan の「分析家の言説」の学素の左側の部分です.より厳密に言うと,φ は,四つの言説の構造における左下の真理の座を表す学素です.そこにおいて「真理」は,自己秘匿における「存在の真理」です.知 S2 は,四つの座のいずれかに置かれる項のひとつです.分析家の言説においては,知 S2 は,存在の真理 φ の座に仮定されます.この仮定は,Lacan が sujet supposé savoir 「知の仮定的主体」と呼んだものです.それは,転移が成立するための必要条件です.
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