23 August 2014 : ひとくちに「生命」と言っても,ζωή と ψυχή とが識別される;「死を生きる」ことの一例としての神秘経験.
聖書においては,死からの復活としての永遠の命と,地上的な生とは,用語の上で厳密に区別されています.英独仏語においては,両者はともに life, Leben, vie というひとつの単語で差し徴されますが,ギリシャ語においては,地上的な生は ψυχή, 永遠の命は ζωή です.異なるふたつの単語が用いられています.日本語ではかろうじて「生」と「命」とを使い分けることができるかもしれませんが,「生命」という表現もあるので,「生」と「命」とを完全に区別することは困難です.
ψυχή は見慣れたアルファベットで書けば psyche です.つまり,心理学 psychologie や精神分析 psychanalyse などの語に含まれている psyche です.
ψυχή は,ラテン語では anima です.anima はフランス語の âme の語源です.âme
は「たましい」です.ところが,anima は animal の語源でもあります.つまり,動物的な生命です.ψυχή
と anima は,いわゆる animisme(この語も anima から来ています)的な世界観において,ある物事の生命的な原理です.ある物事が動的であり,変化するとき,その運動,変化の動因,原理が ψυχή, anima と呼ばれます.Platon においては,ψυχή は不滅であり,何回もの転生を生き続ける生命原理としての魂です.
今ではもっぱら「霊魂的なもの」「心的なもの」を表す ψυχή ですが,新約聖書においては,むしろ,動物的・地上的な生命です.それは,永遠の命としての ζωή, zoe に対して,たとえば「ヨハネ福音書」12,25 において,このように区別されています:「ψυχή を愛する者は,それを失う.この世において ψυχή に愛着しなくなった者は,それを永遠なる ζωή へと保つ.」
ψυχή は,存在事象の次元に捕らわれた生です.存在事象に執着した生を棄てることによって初めて,永遠の命へと復活することができます.
ψυχή と ζωή との連関は,存在の真理の現象学的構造 a / φ barré にならって,ψυχή / ζωή と形式化することができます.フランス語の vie を用いるなら,存在の真理の現象学的構造が être / être barré と書かれるように,vie / vie barrée と書くことになるでしょう.
存在事象の次元における生から見れば,抹消された生は死にほかなりません.しかし,その死は,単純に無であるのではなく,また,生理学的な死でもなく,而して,永遠の命への復活なのです.
「死を引き受ける」という表現がよく用いられます.しかし,生理学的な死ではないような「死の引き受け」とは,具体的にどのようなことでしょうか?「死を生きる」というようなことが可能なのでしょうか?
「死の引き受け」の一例(あくまで一例であって,すべてではありません)は,神秘経験,mystique です.
神秘経験の例として最も良く知られているのは,少なくとも Lacan に関心を持つ皆さんなら見たことがあるはずなのは,Séminaire XX Encore
の表紙を飾っているアヴィラの聖テレサでしょう.その彫刻は Bernini の作ですが,天使が矢で聖テレサの体を貫いています.彼女は恍惚としています.
そのような恍惚状態において,彼女は神を直接的に経験し,神的なものと交わり,合一しています.神的なもの,神性を直接的に経験することが,mystique を特徴づけます.
そのような神秘経験こそ,「死を生きる」ことの一例です.聖テレサは,神秘経験において,文字どおり死んだようになっています.意識は失われ,身動きひとつしません.つまり,この世,存在事象とのつながりを一切失っています.
神秘経験は,ζωή
の経験です.死と,死からの復活としての永遠の命の経験です.であればこそ,Lacan は mystique に注目したのです.Lacan が séparation 「分離」と呼ぶ契機は,mystique の死の経験です.
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