2014年8月4日

phallus と去勢; 存在論的穴; 他 A の場処の topologie としての cross-cap ; 存在の請求.



幾つか御質問をいただきました.ありがとうございます.まず phallus についてですが,Lacan は精神分析において三つの phallus を区別するよう教えています.それは,徴象,影象,実在の三つの位に応じての区別です.

まず「去勢の影象的な関数」としての phallus : ( − φ ) があります.第二に「悦の徴示素」signifiant de la jouissance と規定される phallus : Φ があります.第三に,signifiant de l'Aufhebung, signifiant de la perte Lacan が呼ぶ phallus : φ があります.この第三の学素はわたしの工夫ですが,その概念はちゃんと Lacan のなかにあります.

以上の三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( − φ ) imaginaire, Φ symbolique, φ réel の位にそれぞれ位置づけられます.

他方,去勢とは何でしょうか?精神分析において去勢は,基本的に,去勢複合,すなわち,去勢不安として問題になります.そして,去勢不安という表現は冗語であって,精神分析においてかかわる不安はすべて去勢不安であり,去勢との連関における不安です.

不安は,a φ を代理する限りにおいて,a との出会いにおいて惹起されます.つまり,去勢とは φ そのものです.

かくして,phallus と去勢との関繋を整理すると,こうなります.まず,φ は,今しがた言ったように,去勢そのものです.( − φ ) φ の影象的な相関者であり,女の欠如せる phallus です.最後に Φ は,男の性別構造において φ の穴を塞ぐ仮象であり,質問者の御指摘どおり,男において特に強い精神分析への抵抗(男性的抗議)を惹起するものです.

ですから,le phallus est le signifiant de la castration とひとくちに Lacan が言ったことは無いのではないでしょうか?勿論,そう言ったこともあったかもしれませんし,それはそれで,上述の三つのうちのいずれを意義しているのか読解できるだろうと思います.しかし,先ほど Lacan のおもだったテクストを見た限りでは,le phallus est le signifiant de la castration ともろに言われている箇所は見つかりませんでした.

代わりに,わたしの引用した表現は,Lacan 自身のものです.« le phallus est le signifiant de l’Aufhebung » (Ecrits, p.692) は,La signification du phallus の非常に難解な部分に出てきます.その文の直前に « le signifiant ne peut jouer son rôle que voilé » Lacan は言っているので,この phallus φ だと思われます.したがって,« le phallus est élevé (aufgehoben) à la fonction de signifiant » は,「ファロスは,抹消された徴示素の機能へ aufheben されている」と読めます.ですから,aufheben élever (上げる,高める)と同時に abolir (廃する)でもあります.aufheben を「棄揚,止揚」と訳すとすれば,それはそのような意味において理解されます.

« le phallus est le signifiant de la perte » Ecrits, p.715 にあります.« le phallus est le signifiant de la perte que le sujet subit par le morcellement du signifiant »「ファロスは,徴示素による分断のせいで主体が被る喪失の徴示素である」.さらに続いて,客体による代償機能について Lacan は語っていますから,この一節の「喪失の徴示素であるファロス」は φ のことであると考えられます.

「他A」と「他Aのなかの欠如 Ⱥ」との関繋については,「存在論的穴について」という短い解説文を先日書きましたので,参考にしてみてください:


今日はちょっと視点を変えて,cross-cap topologie で説明してみましょう.




le lieu de l'Autre (他 A の場処,場所)を Lacan は投射平面,別名 cross-cap という閉じられた曲面として考えます.

A の場処はふたつの構成要素 a φ とから成っています.つまり,存在の真理の現象学的構造,症状の構造,主体の存在論的構造,実存構造などのわたしが呼んでいる a / φ は,他 A の場処の topologique な構造なのです.

cross-cap という閉曲面は,ひとつの円板のエッジとひとつのメビウスの帯のエッジとを同一化することによって得られます.a は円板に,φ はメビウスの帯に対応します.

そして,cross-cap の図を見るとわかるように,cross-cap は球の一部が鉗子でつままれて,つぶされたような姿をしているのですが,そのはさまれてつぶれた部分の成す直線上の諸点を取り除いてしまうと,残った部分は一枚の円板に還元されてしまいます.

この手の topologique なおもちゃを扱うときは,素材は無限にしなやかに曲げたり伸ばしたり縮めたりすることのできる理想的なゴムのようなものだと想像してください.

つまり,cross-cap の図においては,メビウスの帯の要素はそのものとしては隠れているのです.そのものとして図に描くことは不可能なのです.

Lacan cross-cap のそのような特質に注目して,自己秘匿における存在である φ をメビウスの帯として具象化しました.それは,仮象 a というディスクによって覆い隠されてしまっています.φ の成す穴は,円板 a により塞がれてしまっています.

Ⱥ とは,φ が他 A の場処(場所: Lacan の特殊用語であることを示すために,普通に「場所」と書かずに「場処」と書いています)にうがつ欠如ですから,Ⱥ φ とは要するに同じ欠如です.Lacan が「存在欠如」と呼ぶ欠如です.

請求は,Freud が「本能の請求」,Heidegger が「存在の請求」と呼ぶものです.その場合,「存在」は,Seyn, Sein, φ です.自己秘匿における存在 φ が,聴く者としての人間へ,実行不可能な請求を突きつけてきます:負債を支払え,と.

その請求の声は a であり,それは徴示素として他 A の場処に属しています.超自我(良心,道徳律)の声 a は,欠如(欲望) Ⱥ の請求を代理しています.その請求は,我々に,仮象 a を滅却し,涅槃へ,死へ至るよう求めています.死から復活するために.

負債・罪の贖いのためには,死の不安にもかかわらず,予覚において死を覚悟せねばなりません.その実存構造を達成すれば,覚者,聖人となります.



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