2024年3月11日

我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日(4月3日)のためのミサ説教

Papa Francesco の 書斎に 飾られている 絵:死んだユダを救済するイェス(制作者 不明)

我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日のためのミサ説教


2024年02月28日に Vatican News の website に 公表された Papa Francesco の COPAJU(Comité Panamericano de Jueces y Juezas por los Derechos Sociales y la Doctrina Franciscana : 社会権とフランチェスコ会教義のための 裁判官たちの 汎アメリカ委員会)のメンバー宛ての ヴィデオメッセージ — そのテクストを Papa Francesco は 彼の執務室で 読みあげた — の動画のなかで,我々は,彼のデスクの背後の壁に「自殺したユダの遺体へかがみこむキリスト」を描いた絵を見ることができる.その絵は,2021年04月01日(聖木曜日)付の L’Osservatore Romano 紙の 記事(聖母の騎士修道女会の シスター 岡 立子による 邦訳)によると,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay の ある柱頭のレリーフ — そこには,首を吊ったユダを 善き羊飼いキリストが 救済する 姿が描かれており,それに Papa Francesco は 2017年の あるインタヴューのなかで 言及している — および 教皇のそのレリーフに関する省察に 感銘を受けた あるフランス人信徒が 描いて,教皇に寄贈したものである.2021年の聖木曜日の L’Osservatore Romano 紙には,また,1958年の聖木曜日(4月03日)に Primo Mazzolari 神父が 成した 有名なミサ説教「我らの兄弟 ユダ」の テクストが 再録されている.そこで,以下に,そのミサ説教のテクスト および Papa Francesco の インタヴューの 当該の一節の 邦訳(別記事)を 提示する.なお,Primo Mazzolari 神父の説教の邦訳は,L’Osservatore Romano 紙の web 版に 掲載された イタリア語のテクストにもとづくが,Papa Francesco の インタヴューの邦訳は,イタリア語原文の仏訳にもとづく(訳者の手元には 仏訳しかないので).


我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari [1] 神父の 1958年の聖木曜日(4月3日)のためのミサ説教

わが兄弟たちよ,[今 朗読された福音書の一節は]まことに 死が近づいた 最後の晩餐の 場面である.外は暗く,雨が降っている.我々の教会 — それは 最後の晩餐の場となる — のなかでは,雨は降っていない;闇もない;だが,心の孤独がある;その重みを おそらく 主は 負ってくださるだろう.

わたしが〈主の最後の晩餐の記念として〉祝うミサの 祈りのなかで 幾度も繰り返される名が ある — 恐怖を覚えさせる名 — 裏切り者ユダの名.

[聖木曜日のミサのなかで行われる洗足式で]あなたたちの子どもたちのグループが 使徒を演ずる — 彼らは 12人 いる;彼らは 皆 罪がなく,皆 善良であり,まだ「裏切る」ということを知らない.そして,神が〈彼らだけでなく,我々の子どもたちすべてが主を裏切ることのないように〉してくださるように.主を裏切る者は,自分自身の魂を裏切り,兄弟を裏切り,自分自身の良心と義務を裏切り,そして 不幸になる.

わたしは[ユダに焦点を当てるために]しばし 主のことを忘れてみよう;あるいは,むしろ,主は〈あの裏切り — それは 主の心に 果てしない苦痛を与えたはずである — の苦痛の反映のなかに〉現在している.

哀れなユダ ! 彼の魂のなかで何が起きたのかを,わたしは 知らない.彼は,我々が主の受難[の物語]のなかに見出す人物たちのなかで,最も神秘的な者である.わたしは,彼のことをあなたたちに説明しようとさえ思わない.わたしは こうすることに甘んずる:わたしは,あなたたちに〈我々の哀れな兄弟ユダのために〉若干の憐れみを求めたい.

我々と彼とが兄弟であることを引き受けることに 恥を感じないように.わたしは そのことを恥ずかしいとは 思わない;なぜなら このゆえに:わたしは〈わたしが 幾度 主を裏切ったかを〉知っている.そして,わたしは こう思う:あなたたちのうち誰も 彼のことを恥じるべきではない.そして,彼を兄弟と呼ぶことによって,我々は 主のことばづかいのなかにいる.

主は,ゲッセマネで裏切りの接吻を受けた [2] とき,これらのことばによって ユダに答えた [3] — それらのことばを 我々は 忘れてはならない:

友よ [4],あなたは 接吻 [5] により 人の子を裏切るのだ!

「友よ」! その語 — それは あなたたちに 主の愛の無限の優しさを 言っている — は あなたたちに〈なぜ わたしが ここで 彼を友と呼ぶのかを〉わからせもする.

主は,最後の晩餐の場で「わたしは あなたたちを しもべとは呼ばず,友と呼ぶ」[ οὐκέτι λέγω ὑμᾶς δούλους, (…) ὑμᾶς δὲ εἴρηκα φίλους ] (Jn 15,15) と言った.使徒たちは,主の友となった.彼らは,善良であろうとなかろうと,寛容であろうとなかろうと,忠実であろうとなかろうと,いつも 主の友のままである.

我々は,キリストの友愛を裏切るかもしれない;だが,キリストは 決して 我々を — 彼の友である我々を — 裏切らない.我々が友と呼ばれるに値しないときでも,我々が彼に対して背くときでも,我々が彼を否むときでも,彼の目と彼の心のまえで 我々は いつも 主の友である.

ユダは 主の友である — 彼が接吻を以て主に対する裏切りを遂行するときでも.

わたしは あなたたちに 問うた:なぜ 主の使徒が 最後に 裏切り者となったのか? わが親愛なる兄弟たちよ,あなたたちは 悪の神秘を識っているか? あなたたちは〈如何にして あなたたちが悪人になったかを〉言うことができるか?

このことを想起したまえ:あなたたちのうちに〈何らかの機会に[自省したときに]自身のなかに悪を見出さなかった者は〉誰もいない.我々は[我々のうちで]悪が成長するのを 見た;我々は 知りもしない — なぜ 我々は悪に耽るのか,なぜ 我々は 冒瀆者に – 否認者に – なったのか を;我々は 知りもしない — なぜ 我々は キリストと教会に対して 背を向けたのか を.

ほら,悪は,あるとき,出現した.それは どこから出現したのか? 誰が 我々に 悪を教えたのか? 誰が 我々を 腐敗させたのか? 誰が 我々から 無邪気さを 取り上げたのか? 誰が 我々から 信仰を 取り上げたのか? 誰が 我々から これらの能力を 取り上げたのか — 善を信じ,善を愛し,義務を引き受け,ひとつの使命としての人生に立ち向かう[能力を].

我らの兄弟ユダを 見なさい!あの共通の惨めさとあの驚きにおける兄弟を!

だが,誰かが ユダが裏切り者となることを 助けたはずである.福音書 (Jn 13,27) は こう言っている — そのことばは,ユダの悪の神秘を説明はしないが,それを 我々の面前に 印象的なしかたで 置く:

そのとき,彼のなかへ サタンが 入った.

サタンが 彼に 取り憑いた.誰かが サタンを 我々のなかへ 導入したはずである.

どれほどの人々が 悪魔の仕事をしていることか — 神が作りあげたものを破壊すること,良心を荒廃させること,疑念を広めること,不信感を忍びこませること,神への信頼を取り去ること,多くの人間 — 神の被造物 — の心から 神を消去すること.それが 悪のしわざである;サタンのしわざである.サタンは ユダのなかで 作用した;そして,我々のなかでも 作用し得る — もし我々が注意ぶかくなければ.

それがゆえに,主は 彼の使徒たちに オリーヴ園で こう言った — 彼が彼らを近くに呼びよせたときに (Mc 14:38) —:

目覚めていなさい,そして,祈りなさい — 試みに陥らないために.

そして,試みは 金[かね]とともに 始まった.金を数える手.

彼[ユダ]は 言った:「あなたたちは わたしに何を与えることを 欲するか — わたしが彼をあなたたちに引き渡すために?」そこで,彼ら[大祭司たち]は,彼に 銀貨 30 枚を 置いた[与えると約束した](Mt 26,15). 

だが,彼らが彼に[銀貨30枚を]数えた[数えて 与えた]のは,キリストが既に逮捕されて,裁きの場へ連れて行かれたあとである.

見なさい,何たる取引か ! 友,師,彼[ユダ]を選び,使徒にした方,我々を神の息子にしてくださった方,我々に〈神の息子の尊厳と自由と偉大さを〉与えてくださった方.それは 何たる取引か ! 銀貨 30 枚 [6] ! わずかな利得 !

おお,わが親愛なる兄弟たちよ,良心は[それを売っても]わずかな価値しか有していない ! 銀貨 30 枚 ! そして,我々は,ときとして〈銀貨 30 枚よりも少ない値段で〉我々自身を 売る.

それが 我々の利得である.以上によって,あなたたちは ユダを 最悪の商売人に 分類したい と感ずるだろう.このような誰かが いる — その者は〈キリストを売り,キリストを否み,敵側に付くことによって 商売をした〉と思っている;彼は[それによって]得たと思っている — 職を,若干の仕事を,何らかの評価を,何らかの敬意を — 幾人かの友だちのなかで;[しかるに]それらの者たち[彼が彼の友と思っている者たち]は〈彼らの仲間である誰かの魂のなかにある — 良心のなかにある — 最良のものを 持ち去り得ることを〉悦している.

さあ,あなたたちには 利得が 見えるか? 銀貨 30 枚 ! それらの銀貨 30 枚は 何に成るか?

あるときに — 明日[聖金曜日]キリストが死刑判決を受けようとするときに — あなたたちは ひとりの男 — ユダ — を 見るだろう.おそらく,彼は〈彼の裏切りが それほどの帰結に至るとは〉想像していなかっただろう.

彼[ユダ]が[キリストに対する]十字架刑[の判決]を聞いたとき,彼[ユダ]が〈彼[キリスト]が ピラトの中庭で 死に至るほどに鞭打たれているのを見たとき,裏切り者は ひとつの所作を — 大いなる所作を — 思いつく;彼は,あそこへ 行く;そこには,民の長たち[大祭司たち]— 彼らは 彼[キリスト]を買った;彼らによって 彼は買われた — が,まだ 集まっていた.彼[ユダ]は,財布を手に持ち,銀貨 30 枚を 取り,それらを 彼らに 投げつける:

あなたたちは それらを 取りなさい;それらは,義人の血の代価である.

信仰による啓示 — 彼は〈彼の悪行の重大性が如何ほどのものであるのかに〉気づいた.もはや それらの銀貨に 価値はない — 彼は それらの銀貨をとても当てにしていたのだが.金[かね].銀貨 30 枚.

良心は どれほど重要であるのか? クリスチャンであることは どれほど重要であるのか? あなたたちにとって 神は どれほど重要であるのか? 神は 見えない;神は 我々に 食べるものを 与えてくれるわけではない;神は 我々に 気晴らしをさせてくれるわけではない;神は,我々の生の理由を与えてくれるわけでもない.

銀貨 30枚 — そして,我々は〈それらを手のなかに持っている力を〉有していない.そこで,それらは[我々の手から]離れる.なぜなら このゆえに:良心が穏やかでないところでは,金[かね]さえも 苦悩になる.

ひとつの所作が — 人間の偉大さを示す所作が — 起こる:彼[ユダ]は それら[銀貨 30 枚]を そこに 投げ棄てる.あなたたちは〈そこにいた人々[大祭司たち]は何ごとかを理解すると〉思うか? 彼らは,それらを拾い集め,そして 言う (cf. Mt 27,06-07) :

それらには血がついているから,我々は それらを 別にしておこう.我々は[その金で]若干の土地を買おう;そして,それを墓地にしよう —〈過越の祭 および そのほかの《我らの民の》大きな祭の間に 死ぬ〉異邦人たちのための 墓地に [7].

そして,場面は切りかわる:そこは,明日[聖金曜日]の晩 — 十字架が見出されるとき —;そのとき,あなたたちは 見る — ふたつの死刑台があるのを:一方には キリストの十字架がある;他方には 裏切り者が首を吊る樹がある.

哀れなユダ.我らの哀れな兄弟.さまざまな罪のうちで最大のものは,キリストを売る罪ではなく,しかして,絶望する罪である.ペトロでさえ,主を否んだ;だが,次いで,彼は 主を見つめた;そして,泣き始めた;そして,主は彼を彼の職務に改めて就けた:[キリストの]代理人 (il vicario di Cristo : il papa). 使徒たちは すべて 主を見棄てたが,戻ってきた.そこで,キリストは 彼らを赦し,以前と同じ信頼を以て 彼らを改めて使徒にした.あなたたちは こう思うか ? : ユダのためにも[使徒]職は あったのではなかろうか ? — もし 彼が そう欲したならば;もし 彼が カルヴァリオの丘のふもとへおもむいていたならば;もし 彼が 彼[キリスト]を せめて〈十字架の道ゆきの通りの一角で あるいは 曲がり角で〉見ていたならば —[もしそうであったならば]彼のためにも 救いは到来していただろう.哀れなユダ.

十字架と〈首を吊った者の〉樹 ;[イェスを十字架に打ちつけた]釘 と[ユダが首を吊った]縄 — それら ふたつの終りを 対置してみたまえ.あなたたちは わたしに こう言うかもしれない:「一方は死んだ;そして,他方も死んだ」.だが,わたしは あなたたちに 問いたい:あなたたちが選ぶ死は どちらか ? キリストのように 十字架のうえで死ぬ — キリストの希望のうちに — ことか,あるいは,首を吊って死ぬ — 絶望して,面前には何も無く — 者の死か?

もし 今宵 — それは[最後の晩餐の]親密さの晩であるはずであった — わたしが あなたたちに かくも苦悩に満ちた省察を もたらしたとすれば,わたしを赦したまえ.だが,わたしは ユダのためにも 善を欲する[ユダをも愛している];彼は わが兄弟ユダである.わたしは,今宵,彼のためにも 祈りたい — なぜなら このゆえに:わたしは裁かない;わたしは断罪しない.[もしそのようなことをすれば]わたしは わたし自身を裁かねばならないだろう;わたし自身を断罪せねばならないだろう.

わたしは,こう思わずにはいられない:ユダに対しても,神の憐れみ,あの愛の抱擁,あの「友よ」という語 — それを 主は〈彼[ユダ]が 彼[主]を裏切るために 彼に接吻している間に〉彼に 言った —…その[「友よ」という]語が 彼[ユダ]の 哀れな心のなかに 入りこまなかった と 考えることは,わたしにはできない.

そして,おそらく,最期の瞬間に,その[「友よ」という]語を思い出しつつ,そして,主が彼の接吻を受けいれたことを思い出しつつ,ユダも こう感じただろう:主は なおも 彼のために善を欲しており[彼を愛しており],そして,ほかのところにいる主の弟子たちのなかに彼を迎え入れてくれる.おそらく,彼は[イェスとともに十字架に架けられた]ふたりの盗賊とともに[天国へ]入った 最初の使徒であろう.その[ユダとふたりの盗賊から成る]行列は,たしかに,そう考える者もいるだろうように,神の息子を讃えるものには見えないかもしれないが,しかし,それは 彼の憐れみ偉大さである.

そして,今 — ミサを続けるまえに,わたしが,我々のうちで 主の使徒たちを演じている 我らの子どもたち[の足]を洗いつつ,そして,彼らの無邪気な足に接吻しつつ,最後の晩餐におけるキリストの所作を繰りかえす 今,わたしが つかのま ユダのことを思うことを 許したまえ — あのユダを わたしは わたし自身のうちに 有している;そして,おそらく あなたたちも あなたたちのうちに あのユダを有しているだろう.そして,わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ — 死の予感に苦悩するイェスに,我々を あるがままに 受けいれてくださる イェスに —;わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ:復活祭の恵みとして,わたしを友と呼びたまえ.復活祭は,あの[「友よ」という]ことばである — そのことばは,わたしとしての哀れなユダに向けて言われたものであり,あなたたちとしての哀れなユダに向けて言われたものである.

これこそが 喜びである:キリストは 我々を愛している;キリストは 我々を赦す;キリストは〈我々が絶望することを〉欲しない.たとえ 我々が 常に 彼に対して背を向けるときも,たとえ 我々が 彼を冒瀆するときも,たとえ 我々が 我らの生の最期のときに 司祭を拒むときでも,このことを思い起こそう:彼にとっては,我々は いつも 友である. 

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訳注:

[1] Primo Mazzolari (1890-1959) は,イタリアのカトリック司祭,文筆家,反ファシズム活動家.1912年に Lombardia 地方の Brescia 教区で 司祭に叙階された.第一次世界大戦には 志願兵 および 従軍司祭として 参加した.1932年,Bozzolo 小教区の司祭に任命され,死のときまで そこで司牧した.第二次世界大戦中は,ユダヤ人やレジスタンス活動家を匿った.彼自身 逮捕されたこともあった.戦後,Associazione Nazionale Partigiani d'Italia[イタリア パルティザン 協会]は,彼の功績のゆえに,彼をパルティザンと認めた.彼の反差別主義と平和主義の考えは,当初は 教会内で批判されていたが,彼の晩年には 肯定的に評価されるようになり,1957年に ミラノ大司教(のちの教皇パウロ 6 世)によって 説教するよう招かれ,また,1959年には 教皇ヨハネ 23 世により 個人接見に 迎えられた.彼は 第 2 ヴァチカン公会議の精神を先取りしていた と評価されている.

[2] 三つの共観福音書においては ユダは イェスに 接吻するが,ヨハネ福音書においては ユダはイェスに接吻しない.

[3] マルコ福音書 (14,45) においては,ユダは,イェスに「ラビ」と呼びかけ,そして,彼に接吻するが,イェスは何も答えない.マタイ福音書 (26,49-50a) においては:

49 καὶ εὐθέως προσελθὼν τῷ Ἰησοῦ εἶπεν, Χαῖρε, ῥαββί, καὶ κατεφίλησεν αὐτόν.
50a ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Ἑταῖρε, ἐφ᾽ ὃ πάρει.

49 そして,彼[ユダ]は まっすぐに イェスのところへ 来て,言った:「こんばんは,ラビ!」そして,彼に接吻した.
50a すると,イェスは 彼に 言った:「友よ,それがためにあなたがここにいるところのこと[それは,わたしを引き渡す[裏切る]ことだ]」.

そして,ルカ福音書 (22,47b-48) においては:

47b καὶ ἤγγισεν τῷ Ἰησοῦ φιλῆσαι αὐτόν.
48 Ἰησοῦς δὲ εἶπεν αὐτῷ, Ἰούδα, φιλήματι τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου παραδίδως;

47b そして,彼[ユダ]は イェスに近づいた — 彼に接吻するために.
48 すると,イェスは 彼に 言った:「ユダよ,あなたは 接吻を以て 人の子を 引き渡す[裏切る]のか?」

つまり,Don Primo は,Lc 48 の「ユダよ」のところに Mt 50a の「友よ」を代置している.

なお,無理やり「こんばんは」と訳した ユダのイェスへの挨拶のことば “Χαῖρε” は,直訳すれば「喜びたまえ」であり,受胎告知の際に大天使ガブリエルがマリアに呼びかける際に用いた挨拶の語と同じものである;実際,Vulgata では Mt 26,49 の挨拶は “Ave, Rabbi !” と訳されている.

[4]「友よ」という呼びかけの原語は “Ἑταῖρε” である.名詞 ἑταῖρος は「仲間,同志」であり,呼格で用いられるときは,親しみのこもった「友よ」となる.

[5]「接吻する」と訳される動詞は φιλέω または καταφιλέω である;動詞 φιλέω は 形容詞および名詞 φίλος[友として(友のように)親しい,友]の派生語であり,その原義は「友愛という意味において愛する」であるが,「友愛の徴として接吻する」を派生的な意味として 有している.動詞 καταφιλέω は より強められた意味において「接吻する」である.また,動詞 φιλέω から派生した名詞 φίλημα が「接吻」の意味で Lc 22,48 において 用いられている.そのように,ギリシャ語では φίλημα[接吻]という語に φιλέω[愛する]を見てとることができる.したがって,Lc 22,48 の “φιλήματι παραδίδως;”[あなたは 接吻を以て(わたしを)引き渡す – 裏切る – のか?]というイェスの言葉は,「あなたは,わたしを,愛の徴を以て — 愛しているのに あるいは 愛しているがゆえに — 裏切るのか?」とも読むことができるだろう.

[6]「葡萄園の労働者」の譬え (Mt 20,01-16) におけるように,その銀貨が ローマ帝国のデナリオン銀貨であれば,銀貨 30 枚は 労働者の 30日分の賃金である;だが,おそらく 大祭司とユダとの間の取引は ユダヤ人たちのシェケル銀貨で成されたであろう;そうであれば,銀貨 30 枚は 奴隷ひとりの賠償金の額である (cf. Ex 21,32) :

もし 雄牛が ひとりの奴隷[男]または ひとりの女奴隷を 角[つの]で突いた[突いて 死なせてしまった]ならば,彼[雄牛の所有者]は 奴隷の主人に 銀貨 30 シェケルを 与えるべし;そして,その雄牛は 石打に処されるべし.

つまり,ユダは〈彼の友であり主であるイェスを売ったことによって〉奴隷ひとり分の代価 — それは 大した金額ではない — を受け取ったのである.

[7] Don Primo の自由な引用.より正確には (Mt 27,06-10) :

6 そこで,大祭司たちは,銀貨を取って,言った:

それらをコルバン[神殿の献金,それらを保管しておくための金庫]へ入れるのは 適法ではない — なぜなら,それらは 血の代価であるから.

7 そこで,彼らは,相談して,その銀貨で 陶工の土地を 買った — 異邦人たちの埋葬のために.
8 それがゆえに,その土地は「血の土地」と呼ばれた — 今日に至るまで.
9 かくして,預言者イェレミアによって言われたことが 成就した:

そして,彼らは 銀貨 30 枚を 取った — それらは,イスラエルの息子たちによって値ぶみされた者 – 彼らが値ぶみした者 – の 代価である —;
10 そして,彼らは,それらを 陶工の土地[を買う]ために 与えた[支払った]— 主がわたしに命じたとおりに.

翻訳および訳注:ルカ 小笠原 晋也

2024年2月27日

救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか

William Brassey Hole (1846-1917) : Jesus and Zacchaeus

救済に関する神の意志と必然性 そして 無償の救済に対して如何に感謝するか



2月23日 金曜日の「今日のイェスのことば」の説教で,Raniero Cantalamessa 枢機卿は,ルカ福音書で物語られている 徴税人の長 ザアカイの エピソード (19,01-10) から,v.05 の イェスのことばを取り上げ,それを イタリア語で こう表言していた:

Voglio venire a casa tua.

わたしは あなたの家に 来たい.

つまり,そこには イェスの意志が 表現されている.それは,Cantalamessa 枢機卿の 解釈 — のちほど見るように,まったく正当な 解釈 — である.

しかし,原文では,そこにおいて表現されているのは,イェスの意志ではなく,ひとつの必然性である:

Ζακχαῖε, σπεύσας κατάβηθι, σήμερον γὰρ ἐν τῷ οἴκῳ σου δεῖ με μεῖναι.

ザアカイよ,急いで降りてきなさい;なぜなら このゆえに:今日 わたしがあなたの家に滞在することは,必然的である.

その文におけるギリシャ語の δεῖ の意義は,フランス語の il faut[…でなければならない,…は 必要である,必然的である]の意義と ぴったり 重なりあう.

では,なぜ その日にイェスがザアカイの家に滞在することは 必然的であるのか? それは,父なる神がそう欲するからである;それが 神の意志 (θέλημα, voluntas) だからである.

そして,イェスの意志は 父の意志であるから,父の意志による必然性は イェスの意志による必然性でもある.その限りにおいて,イェスが「わたしがあなたの家に滞在することは 必然的である」と言うとき,それは「わたしは あなたの家に 滞在したい」にもとづいている.そして,それゆえ,Cantalamessa 枢機卿の解釈は まったく正当なものである.

ところで,既成の邦訳聖書では,そのイェスのことばは どう訳されているだろうか?

今日 わたしは あなたのところに泊まるつもりだ(フランシスコ会訳).

今日は,ぜひ あなたの家に泊まりたい(新共同訳).

今日は,あなたの家に泊まることにしている(聖書協会共同訳).

わたしは 今日 あなたの家に留まらねばならない(新約聖書翻訳委員会訳,岩波書店版).

残念ながら,その節に関して注を付してくれている邦訳聖書は 皆無である — 本当は,このような訳注が欲しいところであるが:

原文における必然性は 神の意志を表しており,そして,神の意志は イェスの意志である.

もし そのような訳注が付されていたならば,新共同訳の「是非 あなたの家に泊まりたい」は,Cantalamessa 枢機卿の解釈とも一致する たいへん よい訳だ と言えるだろう.

そして,もし イェスが 罪人であるザアカイに「わたしは 是非 あなたの家に 泊まりたい」と言ったのであれば,彼は 罪人である我々にも「わたしは 是非 あなたのうちに 入ってきたい」と 欲している — eucharistia のかたちにおいて.それゆえ,我々も,「喜んで彼を迎えた」ザアカイ (cf. Lc 19,06) のように,キリストのからだを喜んで受け取り,彼に 我々のうちに 入ってもらう.

ところで,何のために イェスは ザアカイの家に — そして 我々のうちに — 入りたい と 欲しているのだろうか? 神の意志は 根本的に言って 何に存するのか?

残念ながら,日本人クリスチャンたちの大多数は このことに気づき得ないだろう:我々が「主の祈り」において「みこころ[あるいは みむね]が 天に行われるとおり 地にも 行われますように」と 祈るとき,我々は 実は「神の意志の〈地上における〉実現」を願っているのである.そのことを日本語訳の「主の祈り」から読み取ることは ほぼ不可能であるが,原文のギリシャ語 (γενηθήτω τὸ θέλημά σου ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς) や ラテン語訳 (fiat voluntas tua sicut in caelo et in terra) や 英訳 (thy will be done on earth as it is in heaven) 等においては,そのことは まったく明瞭である:

あなたの意志 (θέλημά σου, voluntas tua, thy will) が 成起しますように — 天におけるごとく,地においても.

では,そのとき かかわっている 神の意志は 如何なるものか?

その答えは『カトリック教会のカテキズム』の「主の祈り」の説明 (#2822) に 明確に 提示されている:

我らの父の意志は これである:「すべての人間たちが 救われること;そして,真理を識るに至ること」(1 Tm 2,03-04).

そして,実際,イェスの「わたしは あなたの家に 来たい」という意志によって,ザアカイにおいて,彼自身がまったく予期していなかったことが 成起する:すなわち,彼は,不意に 回心し (cf. v.08), 救済される — イェスがこう宣言しているように (v.09) :

今日,救済が この家に 成起した — なぜなら,彼[ザアカイ]も また アブラハムの息子であるから.

主の意志にしたがって キリストを我々のうちに迎え入れることによって,我々は,回心し,そして 救済される — それは まさに eucharistia の 秘跡の 意義の ひとつである.

そして,その前提条件は,キリストの 十字架上での死と 死者たちのなかからの復活である.神の意志 — それは すべての人間たちの救済に 存する — は,十字架上で 成就されている.実際,ヨハネ福音書 (19,28-30) において こう述べられている:

[十字架上で]イェスは〈書 (Tanakh) が成就されるために すべてが既に成し遂げられた (ἤδη πάντα τετέλεσται) ということを〉知って […], こう言った:成し遂げられた (τετέλεσται).

そして,『カテキズム』(#2824) は,こう述べている:

キリストにおいて,そして,彼の人間的意志によって,父の意志は 完璧に かつ 決定的に[取り消し不可能な様態において]成就された.

つまり,そこに父の意志が存するところの〈すべての人間たちの〉救済は,イェスの受難と復活によって 既に 実現している(それゆえ,我々は その善き知らせ — 福音 — を 宣べ伝えたい と思う).

しかし,如何にして そのようなことが 実現し得たのか ? このことによって:救済は,新約においては,旧約におけるように 我々が律法を完璧に実行することによって 得られるのではなく,しかして,神が 無償で(たとえ 人間が何もしなくても)すべての人間を — 我々すべてを — 救済してくれたのだ — 神が 神自身の息子を 神自身に いけにえとして 献げたことにより.それが,イェスがもたらした 救済論の革命である.

神に献げるいけにえを神自身が用意する — そのことは〈アブラハムが 神の命令に応じて 彼のひとり息子イサクを いけにえとして 神に献げようとする 創世記 22 章において〉予告されている — そこにおいて,アブラハムは そうと知らずに こう預言する (cf. v.08) :

神は,彼自身のために,焼尽のための羊を 用意するだろう.

そして,実際,神は,アブラハムが彼の息子イサクを屠るのを 中止させつつ,一頭の雄羊を 彼に 提供する — それを焼尽として献げさせるために (cf. v.13).

神が みづから 彼のひとり息子 イェスを いけにえとして 彼自身に 献げた;そして,それによって 我々は 皆 無償で 救済された — そのことを知ったとき,我々は どうするか? 勿論,神に感謝しないではいられない.では,どのように感謝するか? 彼にいけにえを献げるか? それは もはや無用である.しかも,神は こう言っている (Hs 6,06 ; Mt 913 ; 12,07) :

わたしは 愛 [ חֶסֶד , ἔλεος, caritas, misericordia ] を 欲する — いけにえではなく.

それゆえ,我々は 愛を以て 神に感謝する — それが 感謝の祭儀である.そして,それだけでなく,隣人愛によっても 神に感謝する;なぜなら,我々は,隣人に対して愛のおこないを成すとき,実は 神に対して愛のおこないを成しているのだから:

Amen, わたしは あなたたちに言う:あなたたちは,わが最も小さき兄弟たちのひとりに[隣人愛のおこないを]成したとき,そのつど,わたしにそれを成したのだ (Mt 25,40).

2023年12月28日

主の御降誕 おめでとうございます

El Greco (1541-1614) : Adoración de los pastores

主の御降誕 おめでとうございます



皆さま,主の御降誕 おめでとうございます!

この一年をふりかえってみると,2023年は 何といっても Synod on Synodality の 第一回総会の年でした.そこに参加した 菊地 功 東京大司教さまが「参加報告」において 今回の総会において重要な方法論となった Spiritual conversation[皆が ともに 聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けることによって 進行してゆく 会話,対話]について,とてもだいじなことを おっしゃっています:

丸テーブルでの Spiritual conversation に何度も参加して 気がついたのは,繰り返すうちに,想像もしなかった結論が その小グループから発表されていったことである.事前にはまったく想像もつかない内容が,小グループのコンセンサスとして発表されていくので,最終文書のドラフトは,最後の週が始まるまで 完成しなかった.

Spiritual conversation には,ほとんどすべての参加者が 実際に その場で 参加し,実際に[他者のことばと 聖なる息吹のことばに]耳を傾ける〈忍耐のうちに過ごした〉時間であった.さらには,その Spiritual conversation は,教会の一部の声[高位聖職者たちの声]だけではなく,[しかして]まだ十分ではないものの あらゆる人を[女性も 若者も 一般信徒も ヒラの司祭も]平等に招き入れた 小共同体で なされた.

シノドス的教会とは,どこに進むのか あらかじめ計画を定めることが難しい 教会である.

シノドス的教会とは,忍耐を必要とし,じっくりと時間をかける手間を惜しまない 教会である.

シノドス的教会とは,それを構成するすべての人が平等に発言し 識別に参加する〈ひとつのキリストの体としての〉教会である.

その意味で,今回のシノドスは,何かを決める会議ではなく,聖霊[聖なる息吹]による導きを共同識別する術[すべ]を身につける シノドスであった.何かが決まったり決まらなかったりすることに一喜一憂せず,このプロセスを具体的に生きることの重要性を 理解したい.


聖なる息吹のことばを聴き取るために 他者のことばに耳を傾けること — それが 今後のカトリック教会にとって ひとつの決定的な方法論です.たとえば,聖書の一節が 誰かを — たとえば gay の人々を — 傷つけるとしましょう.聖書が神のことばを伝えているならば,そのようなことが — 神が 誰かを救うのではなく,傷つけるというようなことが — あってよいでしょうか? もし そのようなことが起こるとするなら,それは,わたしたちが 聖書の読み方において 誤っている — または 不十分にしか 神のことばを聴き取れていない — ということです.そのようなときには,聖なる息吹のことばを改めて聴くために 聖なる息吹に祈りつつ かつ 他者(この場合は,聖書によって傷つけられた gay の人々をも含めて)のことばに耳を傾けつつ,聖書の文面を 読み直してみましょう.聖書の字面は絶対的なものではないのです.決定的なのは 聖なる息吹が我々に語りかけてくることです(勿論,それは「幻聴」ではありません;何らかの inspiration として わたしたちに与えられる ことばです).

聖書やカテキズムの字面が絶対的なものではなく,しかして,決定的なのは 聖なる息吹のことばである — それは,わたしたちの信仰生活にとって 根本的に重要なことです.

また,今年 最も心に残った言葉のひとつを 分かち合いたいと思います.12月17日の LGBTQ みんなのミサを司式してくださった Padre Vicente Bonet(イェズス会社会司牧センター)は,説教のなかで,2013年03月に教皇に着座してから まだ 5ヶ月ほどしかたっていない Papa Francesco に対して インタヴューをおこなった Civiltà Cattolica 誌の 編集長 Padre Antonio Spadaro SJ(当時)の 不意の問い « Chi è Jorge Mario Bergoglio ? »[Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?]に対して こう答えました:「わたしは,主から〈慈しみを以て〉まなざされた 罪人である」.そのインタヴューのその一節を読んでみましょう:

わたし (Antonio Spadaro) は,質問を用意してあったが,あらかじめ定めてあったインタヴュー案に則らないことにした;そして,若干 藪から棒に 彼に こう問う:「Jorge Mario Bergoglio とは 誰か?」Papa は,沈黙のうちに わたしを見つめた.わたしは 彼に「それは あなたに問うてもよい問いですか?」と問う.彼は その問いを受けつけたことを示すために うなづき,わたしに こう言う:「何が最も適切な定義であるのか わたしは知らない… わたしは ひとりの罪人である.それが 最も適切な定義である.それは,文学のジャンルに属するような[比喩的な]言い回しではない.[文字どおりに]わたしは ひとりの罪人である」.Papa は 省察し続ける — 没頭して — そのような問いを予期していなかったのように,さらなる省察へ強制されたかのように.「いかにも,わたしは 多分 こう言うことができるだろう:わたしは 若干 ずる賢い;わたしは 行動することができる;しかし,わたしは また 若干 素朴でもある ということも 真である.いかにも.だが,最良の総合 — 最も内奥から浮かんでくる総合,最も真であると感ぜられる総合 — は,まさに これである:わたしは,主にまなざされた 罪人である」.そして,彼は 繰り返す:「わたしは 主にまなざされた者である.わたしの紋章の銘 « Miserando atque eligendo »[憐れみ,そして 選んだ]を わたしは いつも わたしにとって とても真なるものと 感じている」.

Papa Francesco の 紋章の銘は 聖 Beda Venerabilis (ca 673 – 735) の 説教から 取られている;彼は,マタイの召命に関する福音書のエピソード (Mt 9,09) をコメントしつつ,こう書いている : « Vidit ergo Jesus publicanum et quia miserando atque eligendo vidit, ait illi Sequere me »[かくして,イェスは,徴税人を 見た;そして,慈しみつつ[憐れみつつ]かつ 選びつつ 彼を見たので,彼に言った:『わたしに 付き従いなさい』」.そして,彼 (Papa Francesco) は 付け足す:「わたしには,ラテン語の gerundium « miserando » は イタリア語でも スペイン語でも 翻訳不可能であるように 思われる.わたしは それを もうひとつのほかの gerundium — ただし それは実際には存在しない — を以て 翻訳したくなる : misericordiando」.

Papa Francesco は,彼の省察を 続ける;そして わたしに 飛躍したことを 言う — その飛躍の意味は わたしには すぐには わらかない —:「わたしは ローマを よく識らない;わずかなことしか 識らない;わたしが識っているもののうちには Santa Maria Maggiore[大聖堂]が ある;わたしは いつも そこへ行っていた」.わたしは 笑って,彼に言う:「わたしたちは 皆 とてもよく わかります,Santo Padre !」「そうとも — と Papa は 続ける —,わたしは Santa Maria Maggiore を識っており,San Pietro[大聖堂]を識っている.だが[以前]わたしは,ローマに来ると,いつも via della Scrofa に宿をとっていた.そこから,わたしは しばしば San Luigi dei Francesi 教会を 訪れた;そして,そこにある Caravaggio の「聖マタイの召命」の絵を 見に行ったものだ」.何を Papa は わたしに言いたいのかを,わたしは わかり始める.

「イェスの指は こんなふうに向けられている — マタイへ.わたしも あのようである;わたしは 自分を あのように 感ずる — あのマタイのように」.そして,そのとき,Papa の口調は 決然となる — あたかも〈探し求めていた自己像を〉捕らえたかのように:「わたしを感動させるのは,あのマタイの所作である.彼は,彼の金[かね]を摑む — こう言うかのように:『いいえ,わたしではありません[わたしを選ばないでください;わたしを指ささないでください]! いいえ,この金[現世の利益と快楽]は わたしのものです!』それが わたしだ:主が彼のまなざしを向けたところの 罪人.そして,これが〈わたしが わたしの《教皇への》選出を 受けいれるかどうかを 問われたときに〉わたしが言ったことだ — そして 彼は こう つぶやく — : Peccator sum, sed super misericordia et infinita patientia Domini nostri Jesu Christi confisus et in spiritu penitentiae accepto[わたしは 罪人である;だが〈我らの主 イェス キリストの 慈しみ[憐れみ]と 無限の忍耐に 信頼して〉かつ〈悔悛の精神において〉わたしは 受けいれる]」.

主から〈慈しみ[憐れみ]を以て〉まなざされた 罪人 — とても感動的な表現ですね! そして,それは,Papa Francesco だけのことではなく,しかして,わたしたちは 誰もが そのような存在なのです.わたしたちは 誰もが 罪人ですが,しかし,そのような罪人として,イェスから 呼ばれたのです — 慈しみ[憐れみ]を以て まなざされ,そして,各人の召命のために 選ばれて.そのことを思い起こさせてくださった Papa Francesco と Padre Vicente Bonet に 感謝します.

では,主の御降誕のよろこびとともに,皆さま,幸多き新年を お迎えください.

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Nb 6,24-26 :

主が あなたを 祝福し,護ってくださるように.

主が 彼の顔を あなたへ向けて 輝かせ[主が あなたに 微笑み],あなたのために恵みぶかくありますように.

主が 彼の顔を あなたへ向けて 上げ[主が あなたに対して好意的であり],あなたのうえに平和を置いてくださるように[あなたに平和をもたらしてくださるように].

2023年12月14日

マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか

Gustave Doré (1832-1883) : Le Triomphe du Christianisme sur le Paganisme

マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか



本稿では,マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか を 問う.

待降節 第 2 木曜日の ミサでは,毎年,イザヤ預言書 41,13-20 とともに,マタイ福音書 11,11-15 が 朗読される:

そして,イェスは 群衆に さらに言った:

11 Amen, わたしは あなたたちに 言う:女から生まれた者たちのなかには 洗礼者ヨハネより偉大な者は 現れなかった;だが,天の王国のなかの最も小さき者すらも 彼より 偉大である.

12 ところで,洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それ[天の王国]を 摑み取ろうとしている.

13 なぜなら このゆえに:預言者たちすべて および 律法[つまり 旧約聖書]は,ヨハネのことまでを 預言した.

14 そして,もし あなたたちが[このことを]受けいれたいと思うならば,彼こそが まさに来たらんとしている エリヤである.

15 耳を有する者は 聴け.


問題は v.12 である;その節について,Ignatius Catholic Study Bible は 注釈で “notoriously obscure”[わかりにくいことで有名である]と述べている.つまり,我々は,上に提示された翻訳を読んで,わかったつもりになっていることは 実は できないのであり,その節の文が何を言わんとしているのかを より詳しく検討してみる必要がある.

vv.11-15 に先立つ vv.02-10 においては,まず,投獄されている洗礼者ヨハネが イェスに関する噂を 聞く;そして,彼は 彼の弟子たちを イェスのところへ遣わす — こう問うために:

Σὺ εἶ ὁ ἐρχόμενος;

あなたは[世の終わりに]到来する者なのか?

その問いに対して,イェスは,明確に「然り」または「否」と答えることはせず,しかして,イザヤ預言書の言葉を引用しつつ,終末論的な救済が イェスによって 実現されようとしていることを 暗示する.そして,ヨハネの使者たちが立ち去ったあとで,聴衆に向かって 彼は その答えを 間接的なしかたで 言う:すなわち,彼は,まず v.10 において マラキ預言書 3,01 を引用しつつ,洗礼者ヨハネについて「彼は[聖書に]こう書かれてあるところの者である:見よ,わたし (YHWH) は おまえの面前に わが使者を 遣わす;彼は おまえのまえに おまえの道を整えるだろう」と言ったあと,v.14 において こう言う:

αὐτός ἐστιν Ἠλίας ὁ μέλλων ἔρχεσθαι

彼[洗礼者ヨハネ]こそは,まさに到来しようとしている エリヤである.

そのとき,イェスは マラキ預言書 3,23 に 準拠している:

見よ,わたし (YHWH) は あなた[イスラエルの民]に 預言者エリヤを 遣わすだろう — あの 大いなる かつ 恐ろしい יוֹם יְהוָה[Yom YHWH : YHWH の 日,すなわち YHWH の終末論的到来の日]が 来るよりも まえに.

それゆえ,Mt 11,11-14 が位置づけられる文脈は,明瞭に終末論的なものである;そして,そこにおいては,二重の到来がかかわっている:ひとつは,最終的な YHWH の到来;もうひとつは,それに先だって遣わされる 預言者エリヤの到来.

そして,イェスは,洗礼者ヨハネを エリヤに重ね合わせている;ということは,そこにおいて明言されてはいないとしても,イェスは こう言っていることになる:わたしは YHWH である.

勿論,そう言うときも,彼は,言ってはならない YHWH の名を そのまま言うことはしないだろう;そうではなく,その代わりに אֶהְיֶה[Ehye : 我れは存在する,cf. Ex 3,14]と言うだろう.実際,その想い出を,我々は ヨハネ福音書において イェスが 七度 発する ἐγώ εἰμι [我れは存在する,わたしは …である]に見出すことができる.

そこで,そのような終末論的文脈に留意しつつ Mt 11,11-14 を 改めて読んでみよう.

まず「天の王国」ないし「天の国」について:そのギリシャ語表現は βασιλεία τῶν οὐρανῶν であり,それは マタイ福音書においてのみ用いられている〈βασιλεία τοῦ θεοῦ[神の王国]の〉婉曲表現である(「天」[ οὐρανοί ] が 複数形であるのは,ヘブライ語における「天」[ שָׁמַיִם ] が 必ず複数形で用いられる単語であることによる).旧約においては,イスラエルの民を支配する王は 本来的には YHWH 自身である と考えられている;それゆえ,神の息子イェスが王として支配する王国は,本来的な神の王国の再建であり,その回復である.

また,ギリシャ語の βασιλεία も ヘブライ語の מַלְכוּת (malkut) も,確かに ある空間的な領土を有する「王国」ではあるが,しかし,それだけでなく,むしろ「王であること」,「王として支配ないし君臨すること」を言う.したがって,「天の王国」は,通俗的な意味における「天国」ではなく,しかして「神の王権」,「神の[王としての]支配ないし君臨」を言う.たとえば,我々が「主の祈り」(Pater noster) において ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου (adveniat regnum tuum)[御国が来ますように]と祈るとき,我々は「あなた[父なる神]が王として君臨する終末論的状況が 到来しますように,成起しますように,顕現しますように」と祈っているのである.

ところで,イェスは,v.11 において「人間のなかでは 洗礼者ヨハネは 最も偉大だが,神の王国のなかの最も小さき者すらも 彼より偉大である」と述べている.そのことは,Mt 25,31 に描かれている この終末論的場面を 思い起こさせる:

Ben Adam[人の子]は 到来するだろう — 彼の栄光において —;そして,天使たちも すべて 彼とともに[到来するだろう]; ついで,彼は 彼の栄光の玉座に 座るだろう.

つまり,この場合,神の王国を構成するのは 天使たちである;あるいは,神の王国を構成するのは,このような者たちである —「彼らは,死者たちのなかから復活するとき,もはや[人間のように]めとることも めとられることもなく,しかして,天にいる天使たちのようである」(Mc 12:25).

次いで v.12 : 先ほども言ったように,その節について Ignatius Catholic Study Bible は 注釈で “notoriously obscure”[わかりにくいことで有名である]と述べている.その「わかりにくさ」の要因のひとつは〈“ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται” の 動詞 βιάζεται の voice[態]— それは 受動態でも中動態でもあり得る — に〉存する.

その文は Vulgata では “regnum caelorum vim patitur”[天の王国は 暴力を被っている]と訳されている;つまり,聖ヒエロニムスは βιάζεται を 受動態と解している;それにならって,既成の翻訳聖書では,どの言語においても,それは「暴力を被っている」という意味において 訳されている.

しかし,古代ギリシャ語の辞書によれば,動詞 βιάζω は 中動態で用いられることが 多い;そして,実際,ルカ福音書における〈Mt 11,12-13 の〉平行箇所 (16,16) — そこにおいては 動詞 βιάζω は 中動態で用いられている — においては,こう言われている:

Ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται μέχρι Ἰωάννου· ἀπὸ τότε ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ εὐαγγελίζεται καὶ πᾶς εἰς αὐτὴν βιάζεται.

律法と預言者たちは ヨハネまで[旧約が有効であったのは 洗礼者ヨハネのときまでであった];それ以来,神の王国[イェスの教え,新たな契約]が[福音として,善き知らせとして]宣べ伝えられている;そして,あらゆる者が そのなかへ 暴力的に[力づくで,努力して]入ろうする.

それゆえ,Mt 11,12 においても βιάζεται を 中動態と解するならば,その節の前半は こう訳され得る:

洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 暴力的に現れ出てこようとしている.

その翻訳は,まさに 終末論的な〈神の支配の〉到来の文脈に 合致している.洗礼者ヨハネは,旧約の満了と新約の成起(神の支配の到来)を告げ知らせる預言者として 位置づけられている.そして,実際,神の支配の到来は 暴力的である — イェスが たとえば マタイ福音書 24 章において 語っているように.

では,v.12 の後半部分は 何を言おうとしているのか? 我々は,ここで,David Bivin (1939- ) が 彼の Understanding the Difficult Words of Jesus – New Insights from a Hebraic Perspective において 紹介している David Flusser (1917-2000) の 指摘に 準拠することができる.Flusser によれば,v.12 において イェスは ミカ預言書 2,13 を引用しつつ 語っている.そこで,その節 および それに先行する節を 読んでみよう:

12

אָסֹף אֶאֱסֹף יַעֲקֹב כֻּלָּךְ

קַבֵּץ אֲקַבֵּץ שְׁאֵרִית יִשְׂרָאֵל

יַחַד אֲשִׂימֶנּוּ כְּצֹאן בָּצְרָה

כְּעֵדֶר בְּתוֹךְ הַדָּֽבְרוֹ

תְּהִימֶנָה מֵאָדָֽם

13

עָלָה הַפֹּרֵץ לִפְנֵיהֶם

פָּֽרְצוּ

וַֽיַּעֲבֹרוּ שַׁעַר

וַיֵּצְאוּ בוֹ

וַיַּעֲבֹר מַלְכָּם לִפְנֵיהֶם

וַיהוָה בְּרֹאשָֽׁם


12 わたし (YHWH) は 必ず 集める [ אָסַף ] だろう,ヤコブよ,おまえの全体を; 
わたしは 必ず 集める [ קָבַץ ] だろう,イスラエルの残りを; 
わたしは 彼らを いっしょにするだろう — Botzrah[エドム地方の地名]の 羊のように, 
彼らの牧草地の中心にいる[羊の]群のように; 
彼らは 不穏になるだろう — 人間のゆえに.
 
13 突破口を開く者が 彼らの面前に やってきた; 
彼らは 突破した; 
そして,彼らは 門を通り抜けた;
そして,彼らは それによって 外へ出た; 
そして,彼らの王が 彼らの前を 行く; 
そして,YHWH が 彼らの先頭を[行く].

そして,ミカ預言書のその部分との関係における マタイ福音書 11,11-14 に関する Flusser の 説明を 読んでみよう:

イェスの観点においては,洗礼者ヨハネは 預言者 — 終末のときに 神の道を準備する 預言者,世に戻ってくるはずの エリヤ — であった.ヨハネとともに,終末のときは 始まる;それは,世界史のなかへの決定的な突発である.すべての預言者たちは,洗礼者ヨハネのときまでのことを 預言した;しかし,今からは「天の王国が 突破してくる;そして,突破してくる者たちが それ[天の王国]を所有することになる」(Mt 11,12). それらの謎めいた言葉は,預言者ミカが言っていること (2,13) と関連している:「突破口を開く者が,彼らの前に 進み出る.彼らは 突破する;そして,門を通過し,それによって外へ出る.彼らの王が,彼らの前を 行く;主が 彼らの先頭を[行く]」.

中世のラビ,聖書注釈者 David Kimhi (1160-1235) は,この節に関して 次のような解釈を 提供している:「突破口を開く者は エリヤであり,彼らの王は ダヴィデの子孫である」.この解釈 — その早期の形を イェスは 知っていたように 思われる — によれば,エリヤは 突破口を開くために 最初に来たるべき者である;そして,突破する者たちが〈彼らの王 メシアとともに〉彼[エリヤ]に続く.イェスによれば,エリヤである洗礼者ヨハネは 既に到来した.そして,今や,[突破を]決心する勇気を持つ者たちが 天の王国を所有することになる.

洗礼者ヨハネの到来とともに,天の王国は 突破しようとする.ヨハネは「女から生まれた者たち」のなかでは 最も偉大であるが,天の王国で最も小さい者すらも 彼より偉大である.洗礼者ヨハネは,突破口 — それを通って 神の王国は突破する — を開いたが,彼自身は 神の王国の一員ではない.言い換えれば:イェスは,洗礼を受けたとき,天の声によって メシアの王国の開始に関して 天啓を受ける;ヨハネは 神の王国の到来のための さきがけであり,突破口を開いた者であるが,彼自身は 神の王国に属してはいない.彼は,言うなれば,それ以前の世代の一員である.この〈イェスによる〉逆接的な洞察は,これら ふたつのもの — 洗礼者ヨハネとメシアの王国との間の区別 および イェスと洗礼者ヨハネとの間の歴史的な繋がり — を ともに 際立たせている.にもかかわらず,イェスが洗礼の際に経験したことは,彼に 新たな ほかの機能を 与える.イェスは 洗礼者ヨハネの弟子には成り得なかった.彼は,カリラや湖周辺の村々を巡って,天の王国を告げ知らせねばならなかった.
 
かくして,Mt 11,12 は こう訳され得る:

ところで,洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 突破してこようとしている;そして,突破してくる者たちが それ[天の王国]を 所有することになる.

そのように読むなら,その文において イェスが語っているのは まさに 終末論的な〈神の支配の到来の〉状況であり,推定される終末論的文脈によく合致する と言えるだろう.

最後に補足しておくと,ミカ預言書 2,13 において「突破する」と訳される動詞は פָּרַץ (paratz) である.その語は「突破する,突発する,突入する,突然 現れる,突然 成起する」などの意味に加えて,「暴力を行使する」という意味をも有している.それゆえ,福音書のギリシャ語テクストにおける 中動態の βιάζεται[暴力を行使する]は そのヘブライ語動詞 פָּרַץ の訳語として用いられたのであろう と推測され得る — βιάζω も βιάζομαι も Septuaginta のなかでは用いられていないので,Septuaginta における ヘブライ語とギリシャ語との対応に基づいて推定することはできないが.ちなみに,ミカ預言書 2,13 の פָּרַץ は,Septuaginta では διακόπτω[突破する]と訳されている.