死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り
Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay
ユダを担ぐ善き羊飼いキリストの浮き彫り
イタリアでテレビ番組を通じて若者への福音宣教をおこない,また,Padova
の刑務所での司牧もおこなっている Marco Pozza 神父(Padova 司教区 司祭)による Papa Francesco の インタヴュー本 Quando pregate, dite Padre nostro[あなたたちは,祈るとき,こう言いなさい
: Pater noster](2017) のなかで,Papa Francesco は,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay のなかの ある柱頭に施されている「死んだユダを担ぐ善き羊飼いキリスト」の浮き彫りに 言及している.その部分をフランス語訳から邦訳する — 残念ながら イタリア語の原書は 今 手元にないので.
インタヴュアーの
Marco Pozza 神父が〈Papa
Francesco が 説教のなかで「我々が 自分の行いを恥ずかしいと感じたとき,その羞恥心は ひとつの恵みである」と述べていたことに〉言及したことを受けて,Papa
Francesco は こう言っている:
受難の物語は,羞恥心に関連するエピソードを 三つ 含んでいる.三人の人物が 羞恥を感じている.
ひとりめは ペトロである.ペトロは,雄鶏が鳴くのを聞く;そのとき,彼は 自身の内に 何ごとかを 感ずる;そして,そのとき,[囚われている]キリストが 彼の方へ 振り向き,彼を見つめる.彼の羞恥心は とても大きいので,彼は苦い涙を流す
(cf. Lc 22,54-62).
ふたりめは 善き盗賊である;彼は,彼の〈不運の〉仲間[ともに十字架にかけられた もうひとりの盗賊]に,言う:「我々にとっては[この処刑は]正義だ;我々は,我々の行為の代償を支払っている;だが,彼[イェス]は 悪いことを何もしていない」.彼は,自身を罪ぶかいと感じている;彼は羞恥を感ずる;そして,かくして — と 聖アウグスティヌスは 述べている — その羞恥心のおかげで,彼は天国を得たのである (cf. Lc
23,39-43).
最後の羞恥心 — ユダの羞恥心 — は,わたしを最も感動させる羞恥心である.ユダは,理解しがたい人物である;彼の人格の解釈は 非常に 数多い.だが,つまるところ,彼は,自分が何をしたかを理解したとき,「義人たち」— 大祭司たち — のところへ行って,こう言う:「わたしは,罪なき血を引き渡したことにおいて,罪を犯した」.だが,彼らは 言う:「それが 我々に対して 何だ? おまえは[自分で]わかるだろう」(cf.
Mt 27,03-10). そして,彼は その場から 去る — 彼の過ちの重みに 打ち砕かれて.もし 彼が おとめマリアと出会っていたならば,おそらく 事態は ほかの展開を取っていただろう;だが,哀れな男は その場から 去り,如何なる出口をも見出すことができず,首を吊る.
しかるに,わたしに〈ユダの話はそこで終わらない と〉考えさせることが ある.[わたしが そのようなことを 言うと]おそらく「この教皇は異端だ」と考える者が いるだろう.だが,そうではない!
フランスのブルゴーニュ地方にある Basilique de Vézelay の ある柱頭を 見にいってみなさい.中世の人々は,彫刻や絵の助けを借りて カテキズムを教えていた.その柱頭の一方の側には,首を吊ったユダを 見ることができる;だが,他方の側には,善き羊飼い[キリスト]— 彼は,ユダを 肩に担いで,連れてゆく — を 見ることができる.善き羊飼いの唇は,微笑み — 皮肉の微笑みではなく,共謀者の微笑み — を浮かべている.
わたしのデスクの上のほうに,その柱頭の写真 — 二分割の写真 — が掲げられている.それは,このことを考えさせる:羞恥を感ずるしかたは たくさん ある;それらのうちの ひとつは 絶望である;その場合,我々は 絶望した者を助けようと試みねばならない — その者が まことの〈羞恥心の〉道[回心の恵みを与えてくれる〈羞恥心の〉道]を見いだせるように — その者が ユダとともに[自殺に]終わる道を取らないように.
以上の〈受難の物語に登場する〉三人は,わたしにとって 大いに助けとなる.羞恥心は ひとつの恵みである.我々のところ — アルゼンチン — では,ふるまい方を知らず,人々に迷惑をかける者は,「恥知らず」である.
翻訳:ルカ 小笠原 晋也
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