Papa Francesco の 書斎に 飾られている 絵:死んだユダを救済するイェス(制作者 不明)
我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari 神父の 1958年の聖木曜日のためのミサ説教
2024年02月28日に Vatican News の website に 公表された Papa Francesco の COPAJU(Comité Panamericano de Jueces y Juezas por los Derechos Sociales y la Doctrina Franciscana : 社会権とフランチェスコ会教義のための 裁判官たちの 汎アメリカ委員会)のメンバー宛ての ヴィデオメッセージ — そのテクストを Papa Francesco は 彼の執務室で 読みあげた — の動画のなかで,我々は,彼のデスクの背後の壁に「自殺したユダの遺体へかがみこむキリスト」を描いた絵を見ることができる.その絵は,2021年04月01日(聖木曜日)付の L’Osservatore Romano 紙の 記事(聖母の騎士修道女会の シスター 岡 立子による 邦訳)によると,Basilique Sainte-Marie-Madeleine de Vézelay の ある柱頭のレリーフ — そこには,首を吊ったユダを 善き羊飼いキリストが 救済する 姿が描かれており,それに Papa Francesco は 2017年の あるインタヴューのなかで 言及している — および 教皇のそのレリーフに関する省察に 感銘を受けた あるフランス人信徒が 描いて,教皇に寄贈したものである.2021年の聖木曜日の L’Osservatore Romano 紙には,また,1958年の聖木曜日(4月03日)に Primo Mazzolari 神父が 成した 有名なミサ説教「我らの兄弟 ユダ」の テクストが 再録されている.そこで,以下に,そのミサ説教のテクスト および Papa
Francesco の インタヴューの 当該の一節の 邦訳(別記事)を 提示する.なお,Primo
Mazzolari 神父の説教の邦訳は,L’Osservatore
Romano 紙の web 版に 掲載された イタリア語のテクストにもとづくが,Papa Francesco
の インタヴューの邦訳は,イタリア語原文の仏訳にもとづく(訳者の手元には 仏訳しかないので).
我らの兄弟 ユダ — Primo Mazzolari [1] 神父の 1958年の聖木曜日(4月3日)のためのミサ説教
わが兄弟たちよ,[今 朗読された福音書の一節は]まことに 死が近づいた 最後の晩餐の 場面である.外は暗く,雨が降っている.我々の教会 — それは 最後の晩餐の場となる — のなかでは,雨は降っていない;闇もない;だが,心の孤独がある;その重みを おそらく 主は 負ってくださるだろう.
わたしが〈主の最後の晩餐の記念として〉祝うミサの 祈りのなかで 幾度も繰り返される名が ある — 恐怖を覚えさせる名 — 裏切り者ユダの名.
[聖木曜日のミサのなかで行われる洗足式で]あなたたちの子どもたちのグループが 使徒を演ずる — 彼らは 12人 いる;彼らは 皆 罪がなく,皆 善良であり,まだ「裏切る」ということを知らない.そして,神が〈彼らだけでなく,我々の子どもたちすべてが主を裏切ることのないように〉してくださるように.主を裏切る者は,自分自身の魂を裏切り,兄弟を裏切り,自分自身の良心と義務を裏切り,そして 不幸になる.
わたしは[ユダに焦点を当てるために]しばし 主のことを忘れてみよう;あるいは,むしろ,主は〈あの裏切り — それは 主の心に 果てしない苦痛を与えたはずである — の苦痛の反映のなかに〉現在している.
哀れなユダ
! 彼の魂のなかで何が起きたのかを,わたしは 知らない.彼は,我々が主の受難[の物語]のなかに見出す人物たちのなかで,最も神秘的な者である.わたしは,彼のことをあなたたちに説明しようとさえ思わない.わたしは こうすることに甘んずる:わたしは,あなたたちに〈我々の哀れな兄弟ユダのために〉若干の憐れみを求めたい.
我々と彼とが兄弟であることを引き受けることに 恥を感じないように.わたしは そのことを恥ずかしいとは 思わない;なぜなら このゆえに:わたしは〈わたしが 幾度 主を裏切ったかを〉知っている.そして,わたしは こう思う:あなたたちのうち誰も 彼のことを恥じるべきではない.そして,彼を兄弟と呼ぶことによって,我々は 主のことばづかいのなかにいる.
主は,ゲッセマネで裏切りの接吻を受けた [2] とき,これらのことばによって ユダに答えた [3] — それらのことばを 我々は 忘れてはならない:
友よ [4],あなたは 接吻 [5] により 人の子を裏切るのだ!
「友よ」!
その語 — それは あなたたちに 主の愛の無限の優しさを 言っている — は あなたたちに〈なぜ わたしが ここで 彼を友と呼ぶのかを〉わからせもする.
主は,最後の晩餐の場で「わたしは あなたたちを しもべとは呼ばず,友と呼ぶ」[ οὐκέτι λέγω ὑμᾶς δούλους, (…) ὑμᾶς
δὲ εἴρηκα φίλους ] (Jn 15,15) と言った.使徒たちは,主の友となった.彼らは,善良であろうとなかろうと,寛容であろうとなかろうと,忠実であろうとなかろうと,いつも 主の友のままである.
我々は,キリストの友愛を裏切るかもしれない;だが,キリストは 決して 我々を — 彼の友である我々を — 裏切らない.我々が友と呼ばれるに値しないときでも,我々が彼に対して背くときでも,我々が彼を否むときでも,彼の目と彼の心のまえで 我々は いつも 主の友である.
ユダは
主の友である — 彼が接吻を以て主に対する裏切りを遂行するときでも.
わたしは
あなたたちに 問うた:なぜ 主の使徒が 最後に 裏切り者となったのか? わが親愛なる兄弟たちよ,あなたたちは 悪の神秘を識っているか? あなたたちは〈如何にして あなたたちが悪人になったかを〉言うことができるか?
このことを想起したまえ:あなたたちのうちに〈何らかの機会に[自省したときに]自身のなかに悪を見出さなかった者は〉誰もいない.我々は[我々のうちで]悪が成長するのを 見た;我々は 知りもしない — なぜ 我々は悪に耽るのか,なぜ 我々は 冒瀆者に – 否認者に – なったのか を;我々は 知りもしない — なぜ 我々は キリストと教会に対して 背を向けたのか を.
ほら,悪は,あるとき,出現した.それは どこから出現したのか? 誰が 我々に 悪を教えたのか? 誰が 我々を 腐敗させたのか? 誰が 我々から 無邪気さを 取り上げたのか? 誰が 我々から 信仰を 取り上げたのか? 誰が 我々から これらの能力を 取り上げたのか — 善を信じ,善を愛し,義務を引き受け,ひとつの使命としての人生に立ち向かう[能力を].
我らの兄弟ユダを 見なさい!あの共通の惨めさとあの驚きにおける兄弟を!
だが,誰かが
ユダが裏切り者となることを 助けたはずである.福音書 (Jn 13,27) は こう言っている — そのことばは,ユダの悪の神秘を説明はしないが,それを 我々の面前に 印象的なしかたで 置く:
そのとき,彼のなかへ サタンが 入った.
サタンが
彼に 取り憑いた.誰かが サタンを 我々のなかへ 導入したはずである.
どれほどの人々が 悪魔の仕事をしていることか — 神が作りあげたものを破壊すること,良心を荒廃させること,疑念を広めること,不信感を忍びこませること,神への信頼を取り去ること,多くの人間 — 神の被造物 — の心から 神を消去すること.それが 悪のしわざである;サタンのしわざである.サタンは ユダのなかで 作用した;そして,我々のなかでも 作用し得る — もし我々が注意ぶかくなければ.
それがゆえに,主は 彼の使徒たちに オリーヴ園で こう言った — 彼が彼らを近くに呼びよせたときに (Mc 14:38) —:
目覚めていなさい,そして,祈りなさい — 試みに陥らないために.
そして,試みは 金[かね]とともに 始まった.金を数える手.
彼[ユダ]は
言った:「あなたたちは わたしに何を与えることを 欲するか — わたしが彼をあなたたちに引き渡すために?」そこで,彼ら[大祭司たち]は,彼に 銀貨 30 枚を 置いた[与えると約束した](Mt 26,15).
だが,彼らが彼に[銀貨30枚を]数えた[数えて 与えた]のは,キリストが既に逮捕されて,裁きの場へ連れて行かれたあとである.
見なさい,何たる取引か
! 友,師,彼[ユダ]を選び,使徒にした方,我々を神の息子にしてくださった方,我々に〈神の息子の尊厳と自由と偉大さを〉与えてくださった方.それは 何たる取引か ! 銀貨 30 枚 [6] ! わずかな利得 !
おお,わが親愛なる兄弟たちよ,良心は[それを売っても]わずかな価値しか有していない ! 銀貨 30 枚 ! そして,我々は,ときとして〈銀貨 30 枚よりも少ない値段で〉我々自身を 売る.
それが
我々の利得である.以上によって,あなたたちは ユダを 最悪の商売人に 分類したい と感ずるだろう.このような誰かが いる — その者は〈キリストを売り,キリストを否み,敵側に付くことによって 商売をした〉と思っている;彼は[それによって]得たと思っている — 職を,若干の仕事を,何らかの評価を,何らかの敬意を — 幾人かの友だちのなかで;[しかるに]それらの者たち[彼が彼の友と思っている者たち]は〈彼らの仲間である誰かの魂のなかにある — 良心のなかにある — 最良のものを 持ち去り得ることを〉悦している.
さあ,あなたたちには 利得が 見えるか? 銀貨 30 枚 ! それらの銀貨 30 枚は 何に成るか?
あるときに
— 明日[聖金曜日]キリストが死刑判決を受けようとするときに — あなたたちは ひとりの男 — ユダ — を 見るだろう.おそらく,彼は〈彼の裏切りが それほどの帰結に至るとは〉想像していなかっただろう.
彼[ユダ]が[キリストに対する]十字架刑[の判決]を聞いたとき,彼[ユダ]が〈彼[キリスト]が ピラトの中庭で 死に至るほどに鞭打たれているのを見たとき,裏切り者は ひとつの所作を — 大いなる所作を — 思いつく;彼は,あそこへ 行く;そこには,民の長たち[大祭司たち]— 彼らは 彼[キリスト]を買った;彼らによって 彼は買われた — が,まだ 集まっていた.彼[ユダ]は,財布を手に持ち,銀貨 30 枚を 取り,それらを 彼らに 投げつける:
あなたたちは それらを 取りなさい;それらは,義人の血の代価である.
信仰による啓示 —
彼は〈彼の悪行の重大性が如何ほどのものであるのかに〉気づいた.もはや それらの銀貨に 価値はない — 彼は それらの銀貨をとても当てにしていたのだが.金[かね].銀貨 30 枚.
良心は
どれほど重要であるのか? クリスチャンであることは どれほど重要であるのか? あなたたちにとって 神は どれほど重要であるのか? 神は 見えない;神は 我々に 食べるものを 与えてくれるわけではない;神は 我々に 気晴らしをさせてくれるわけではない;神は,我々の生の理由を与えてくれるわけでもない.
銀貨
30枚
— そして,我々は〈それらを手のなかに持っている力を〉有していない.そこで,それらは[我々の手から]離れる.なぜなら このゆえに:良心が穏やかでないところでは,金[かね]さえも 苦悩になる.
ひとつの所作が —
人間の偉大さを示す所作が — 起こる:彼[ユダ]は それら[銀貨 30 枚]を そこに 投げ棄てる.あなたたちは〈そこにいた人々[大祭司たち]は何ごとかを理解すると〉思うか? 彼らは,それらを拾い集め,そして 言う (cf. Mt 27,06-07) :
それらには血がついているから,我々は それらを 別にしておこう.我々は[その金で]若干の土地を買おう;そして,それを墓地にしよう —〈過越の祭 および そのほかの《我らの民の》大きな祭の間に 死ぬ〉異邦人たちのための 墓地に [7].
そして,場面は切りかわる:そこは,明日[聖金曜日]の晩 — 十字架が見出されるとき —;そのとき,あなたたちは 見る — ふたつの死刑台があるのを:一方には キリストの十字架がある;他方には 裏切り者が首を吊る樹がある.
哀れなユダ.我らの哀れな兄弟.さまざまな罪のうちで最大のものは,キリストを売る罪ではなく,しかして,絶望する罪である.ペトロでさえ,主を否んだ;だが,次いで,彼は 主を見つめた;そして,泣き始めた;そして,主は彼を彼の職務に改めて就けた:[キリストの]代理人 (il vicario di Cristo : il papa).
使徒たちは すべて 主を見棄てたが,戻ってきた.そこで,キリストは 彼らを赦し,以前と同じ信頼を以て 彼らを改めて使徒にした.あなたたちは こう思うか ? : ユダのためにも[使徒]職は あったのではなかろうか ? — もし 彼が そう欲したならば;もし 彼が カルヴァリオの丘のふもとへおもむいていたならば;もし 彼が 彼[キリスト]を せめて〈十字架の道ゆきの通りの一角で あるいは 曲がり角で〉見ていたならば —[もしそうであったならば]彼のためにも 救いは到来していただろう.哀れなユダ.
十字架と〈首を吊った者の〉樹 ;[イェスを十字架に打ちつけた]釘 と[ユダが首を吊った]縄 —
それら ふたつの終りを 対置してみたまえ.あなたたちは わたしに こう言うかもしれない:「一方は死んだ;そして,他方も死んだ」.だが,わたしは あなたたちに 問いたい:あなたたちが選ぶ死は どちらか ? キリストのように 十字架のうえで死ぬ — キリストの希望のうちに — ことか,あるいは,首を吊って死ぬ — 絶望して,面前には何も無く — 者の死か?
もし
今宵 — それは[最後の晩餐の]親密さの晩であるはずであった — わたしが あなたたちに かくも苦悩に満ちた省察を もたらしたとすれば,わたしを赦したまえ.だが,わたしは ユダのためにも 善を欲する[ユダをも愛している];彼は わが兄弟ユダである.わたしは,今宵,彼のためにも 祈りたい — なぜなら このゆえに:わたしは裁かない;わたしは断罪しない.[もしそのようなことをすれば]わたしは わたし自身を裁かねばならないだろう;わたし自身を断罪せねばならないだろう.
わたしは,こう思わずにはいられない:ユダに対しても,神の憐れみ,あの愛の抱擁,あの「友よ」という語 — それを 主は〈彼[ユダ]が 彼[主]を裏切るために 彼に接吻している間に〉彼に 言った —…その[「友よ」という]語が 彼[ユダ]の 哀れな心のなかに 入りこまなかった と 考えることは,わたしにはできない.
そして,おそらく,最期の瞬間に,その[「友よ」という]語を思い出しつつ,そして,主が彼の接吻を受けいれたことを思い出しつつ,ユダも こう感じただろう:主は なおも 彼のために善を欲しており[彼を愛しており],そして,ほかのところにいる主の弟子たちのなかに彼を迎え入れてくれる.おそらく,彼は[イェスとともに十字架に架けられた]ふたりの盗賊とともに[天国へ]入った 最初の使徒であろう.その[ユダとふたりの盗賊から成る]行列は,たしかに,そう考える者もいるだろうように,神の息子を讃えるものには見えないかもしれないが,しかし,それは 彼の憐れみ偉大さである.
そして,今
— ミサを続けるまえに,わたしが,我々のうちで 主の使徒たちを演じている 我らの子どもたち[の足]を洗いつつ,そして,彼らの無邪気な足に接吻しつつ,最後の晩餐におけるキリストの所作を繰りかえす 今,わたしが つかのま ユダのことを思うことを 許したまえ — あのユダを わたしは わたし自身のうちに 有している;そして,おそらく あなたたちも あなたたちのうちに あのユダを有しているだろう.そして,わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ — 死の予感に苦悩するイェスに,我々を あるがままに 受けいれてくださる イェスに —;わたしが イェスに こう求めることを 許したまえ:復活祭の恵みとして,わたしを友と呼びたまえ.復活祭は,あの[「友よ」という]ことばである — そのことばは,わたしとしての哀れなユダに向けて言われたものであり,あなたたちとしての哀れなユダに向けて言われたものである.
これこそが
喜びである:キリストは 我々を愛している;キリストは 我々を赦す;キリストは〈我々が絶望することを〉欲しない.たとえ 我々が 常に 彼に対して背を向けるときも,たとえ 我々が 彼を冒瀆するときも,たとえ 我々が 我らの生の最期のときに 司祭を拒むときでも,このことを思い起こそう:彼にとっては,我々は いつも 友である.
******
訳注:
[1] Primo Mazzolari (1890-1959) は,イタリアのカトリック司祭,文筆家,反ファシズム活動家.1912年に Lombardia 地方の Brescia 教区で 司祭に叙階された.第一次世界大戦には 志願兵 および 従軍司祭として 参加した.1932年,Bozzolo 小教区の司祭に任命され,死のときまで そこで司牧した.第二次世界大戦中は,ユダヤ人やレジスタンス活動家を匿った.彼自身 逮捕されたこともあった.戦後,Associazione
Nazionale Partigiani d'Italia[イタリア パルティザン 協会]は,彼の功績のゆえに,彼をパルティザンと認めた.彼の反差別主義と平和主義の考えは,当初は 教会内で批判されていたが,彼の晩年には 肯定的に評価されるようになり,1957年に ミラノ大司教(のちの教皇パウロ 6 世)によって 説教するよう招かれ,また,1959年には 教皇ヨハネ 23 世により 個人接見に 迎えられた.彼は 第 2 ヴァチカン公会議の精神を先取りしていた と評価されている.
[2] 三つの共観福音書においては ユダは イェスに 接吻するが,ヨハネ福音書においては ユダはイェスに接吻しない.
[3] マルコ福音書 (14,45) においては,ユダは,イェスに「ラビ」と呼びかけ,そして,彼に接吻するが,イェスは何も答えない.マタイ福音書 (26,49-50a) においては:
49 καὶ εὐθέως προσελθὼν τῷ Ἰησοῦ εἶπεν, Χαῖρε, ῥαββί, καὶ κατεφίλησεν αὐτόν.50a ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Ἑταῖρε, ἐφ᾽ ὃ πάρει.49 そして,彼[ユダ]は まっすぐに イェスのところへ 来て,言った:「こんばんは,ラビ!」そして,彼に接吻した.50a すると,イェスは 彼に 言った:「友よ,それがためにあなたがここにいるところのこと[それは,わたしを引き渡す[裏切る]ことだ]」.
そして,ルカ福音書 (22,47b-48) においては:
47b καὶ ἤγγισεν τῷ Ἰησοῦ φιλῆσαι αὐτόν.48 Ἰησοῦς δὲ εἶπεν αὐτῷ, Ἰούδα, φιλήματι τὸν υἱὸν τοῦ ἀνθρώπου παραδίδως;47b そして,彼[ユダ]は イェスに近づいた — 彼に接吻するために.48 すると,イェスは 彼に 言った:「ユダよ,あなたは 接吻を以て 人の子を 引き渡す[裏切る]のか?」
つまり,Don Primo は,Lc 48 の「ユダよ」のところに Mt
50a の「友よ」を代置している.
なお,無理やり「こんばんは」と訳した ユダのイェスへの挨拶のことば “Χαῖρε” は,直訳すれば「喜びたまえ」であり,受胎告知の際に大天使ガブリエルがマリアに呼びかける際に用いた挨拶の語と同じものである;実際,Vulgata
では Mt 26,49 の挨拶は “Ave, Rabbi !” と訳されている.
[4]「友よ」という呼びかけの原語は “Ἑταῖρε” である.名詞 ἑταῖρος は「仲間,同志」であり,呼格で用いられるときは,親しみのこもった「友よ」となる.
[5]「接吻する」と訳される動詞は φιλέω または καταφιλέω である;動詞 φιλέω は 形容詞および名詞
φίλος[友として(友のように)親しい,友]の派生語であり,その原義は「友愛という意味において愛する」であるが,「友愛の徴として接吻する」を派生的な意味として
有している.動詞 καταφιλέω
は より強められた意味において「接吻する」である.また,動詞 φιλέω から派生した名詞 φίλημα が「接吻」の意味で Lc 22,48 において 用いられている.そのように,ギリシャ語では
φίλημα[接吻]という語に φιλέω[愛する]を見てとることができる.したがって,Lc 22,48 の “φιλήματι παραδίδως;”[あなたは 接吻を以て(わたしを)引き渡す
–
裏切る – のか?]というイェスの言葉は,「あなたは,わたしを,愛の徴を以て — 愛しているのに あるいは
愛しているがゆえに — 裏切るのか?」とも読むことができるだろう.
[6]「葡萄園の労働者」の譬え (Mt 20,01-16) におけるように,その銀貨が ローマ帝国のデナリオン銀貨であれば,銀貨 30 枚は 労働者の 30日分の賃金である;だが,おそらく 大祭司とユダとの間の取引は ユダヤ人たちのシェケル銀貨で成されたであろう;そうであれば,銀貨 30 枚は 奴隷ひとりの賠償金の額である (cf. Ex 21,32) :
もし 雄牛が ひとりの奴隷[男]または ひとりの女奴隷を 角[つの]で突いた[突いて 死なせてしまった]ならば,彼[雄牛の所有者]は 奴隷の主人に 銀貨 30 シェケルを 与えるべし;そして,その雄牛は 石打に処されるべし.
つまり,ユダは〈彼の友であり主であるイェスを売ったことによって〉奴隷ひとり分の代価 —
それは 大した金額ではない — を受け取ったのである.
[7] Don Primo の自由な引用.より正確には (Mt 27,06-10)
:
6 そこで,大祭司たちは,銀貨を取って,言った:
それらをコルバン[神殿の献金,それらを保管しておくための金庫]へ入れるのは 適法ではない — なぜなら,それらは 血の代価であるから.
7 そこで,彼らは,相談して,その銀貨で 陶工の土地を 買った — 異邦人たちの埋葬のために.8 それがゆえに,その土地は「血の土地」と呼ばれた — 今日に至るまで.9 かくして,預言者イェレミアによって言われたことが 成就した:
そして,彼らは 銀貨 30 枚を 取った — それらは,イスラエルの息子たちによって値ぶみされた者 – 彼らが値ぶみした者 – の 代価である —;10 そして,彼らは,それらを 陶工の土地[を買う]ために 与えた[支払った]— 主がわたしに命じたとおりに.
翻訳および訳注:ルカ 小笠原 晋也
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