マタイ福音書 11,12 “ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν βιάζεται καὶ βιασταὶ ἁρπάζουσιν αὐτήν”[天の国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それを摑み取ろうとしている]は どう読まれ得るか
そして,イェスは 群衆に さらに言った:11 Amen, わたしは あなたたちに 言う:女から生まれた者たちのなかには 洗礼者ヨハネより偉大な者は 現れなかった;だが,天の王国のなかの最も小さき者すらも 彼より 偉大である.
12 ところで,洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 暴力を被っている;そして,暴力的な者たちが それ[天の王国]を 摑み取ろうとしている.
13 なぜなら このゆえに:預言者たちすべて および 律法[つまり 旧約聖書]は,ヨハネのことまでを 預言した.
14 そして,もし あなたたちが[このことを]受けいれたいと思うならば,彼こそが まさに来たらんとしている エリヤである.
15 耳を有する者は 聴け.
Σὺ εἶ ὁ ἐρχόμενος;
あなたは[世の終わりに]到来する者なのか?
αὐτός ἐστιν Ἠλίας ὁ μέλλων ἔρχεσθαι
彼[洗礼者ヨハネ]こそは,まさに到来しようとしている エリヤである.
そのとき,イェスは マラキ預言書 3,23 に 準拠している:
見よ,わたし (YHWH) は あなた[イスラエルの民]に 預言者エリヤを 遣わすだろう — あの 大いなる かつ 恐ろしい יוֹם יְהוָה[Yom YHWH : YHWH の 日,すなわち YHWH の終末論的到来の日]が 来るよりも まえに.
それゆえ,Mt 11,11-14 が位置づけられる文脈は,明瞭に終末論的なものである;そして,そこにおいては,二重の到来がかかわっている:ひとつは,最終的な YHWH の到来;もうひとつは,それに先だって遣わされる 預言者エリヤの到来.
そして,イェスは,洗礼者ヨハネを エリヤに重ね合わせている;ということは,そこにおいて明言されてはいないとしても,イェスは こう言っていることになる:わたしは YHWH である.
勿論,そう言うときも,彼は,言ってはならない YHWH の名を そのまま言うことはしないだろう;そうではなく,その代わりに אֶהְיֶה[Ehye : 我れは存在する,cf. Ex 3,14]と言うだろう.実際,その想い出を,我々は ヨハネ福音書において イェスが 七度 発する ἐγώ εἰμι [我れは存在する,わたしは …である]に見出すことができる.
そこで,そのような終末論的文脈に留意しつつ Mt 11,11-14 を 改めて読んでみよう.
まず「天の王国」ないし「天の国」について:そのギリシャ語表現は βασιλεία τῶν οὐρανῶν であり,それは マタイ福音書においてのみ用いられている〈βασιλεία τοῦ θεοῦ[神の王国]の〉婉曲表現である(「天」[ οὐρανοί ] が 複数形であるのは,ヘブライ語における「天」[ שָׁמַיִם ] が 必ず複数形で用いられる単語であることによる).旧約においては,イスラエルの民を支配する王は 本来的には YHWH 自身である と考えられている;それゆえ,神の息子イェスが王として支配する王国は,本来的な神の王国の再建であり,その回復である.
また,ギリシャ語の βασιλεία も ヘブライ語の מַלְכוּת (malkut) も,確かに ある空間的な領土を有する「王国」ではあるが,しかし,それだけでなく,むしろ「王であること」,「王として支配ないし君臨すること」を言う.したがって,「天の王国」は,通俗的な意味における「天国」ではなく,しかして「神の王権」,「神の[王としての]支配ないし君臨」を言う.たとえば,我々が「主の祈り」(Pater noster) において ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου (adveniat regnum tuum)[御国が来ますように]と祈るとき,我々は「あなた[父なる神]が王として君臨する終末論的状況が 到来しますように,成起しますように,顕現しますように」と祈っているのである.
ところで,イェスは,v.11 において「人間のなかでは 洗礼者ヨハネは 最も偉大だが,神の王国のなかの最も小さき者すらも 彼より偉大である」と述べている.そのことは,Mt 25,31 に描かれている この終末論的場面を 思い起こさせる:
Ben Adam[人の子]は 到来するだろう — 彼の栄光において —;そして,天使たちも すべて 彼とともに[到来するだろう]; ついで,彼は 彼の栄光の玉座に 座るだろう.
その文は Vulgata では “regnum caelorum vim patitur”[天の王国は 暴力を被っている]と訳されている;つまり,聖ヒエロニムスは βιάζεται を 受動態と解している;それにならって,既成の翻訳聖書では,どの言語においても,それは「暴力を被っている」という意味において 訳されている.
しかし,古代ギリシャ語の辞書によれば,動詞 βιάζω は 中動態で用いられることが 多い;そして,実際,ルカ福音書における〈Mt 11,12-13 の〉平行箇所 (16,16) — そこにおいては 動詞 βιάζω は 中動態で用いられている — においては,こう言われている:
Ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται μέχρι Ἰωάννου· ἀπὸ τότε ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ εὐαγγελίζεται καὶ πᾶς εἰς αὐτὴν βιάζεται.律法と預言者たちは ヨハネまで[旧約が有効であったのは 洗礼者ヨハネのときまでであった];それ以来,神の王国[イェスの教え,新たな契約]が[福音として,善き知らせとして]宣べ伝えられている;そして,あらゆる者が そのなかへ 暴力的に[力づくで,努力して]入ろうする.
それゆえ,Mt 11,12 においても βιάζεται を 中動態と解するならば,その節の前半は こう訳され得る:
洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 暴力的に現れ出てこようとしている.
その翻訳は,まさに 終末論的な〈神の支配の〉到来の文脈に 合致している.洗礼者ヨハネは,旧約の満了と新約の成起(神の支配の到来)を告げ知らせる預言者として 位置づけられている.そして,実際,神の支配の到来は 暴力的である — イェスが たとえば マタイ福音書 24 章において 語っているように.
では,v.12 の後半部分は 何を言おうとしているのか? 我々は,ここで,David Bivin (1939- ) が 彼の Understanding the Difficult Words of Jesus – New Insights from a Hebraic Perspective において 紹介している David Flusser (1917-2000) の 指摘に 準拠することができる.Flusser によれば,v.12 において イェスは ミカ預言書 2,13 を引用しつつ 語っている.そこで,その節 および それに先行する節を 読んでみよう:
12
אָסֹף אֶאֱסֹף יַעֲקֹב כֻּלָּךְ
קַבֵּץ אֲקַבֵּץ שְׁאֵרִית יִשְׂרָאֵל
יַחַד אֲשִׂימֶנּוּ כְּצֹאן בָּצְרָה
כְּעֵדֶר בְּתוֹךְ הַדָּֽבְרוֹ
תְּהִימֶנָה מֵאָדָֽם
13
עָלָה הַפֹּרֵץ לִפְנֵיהֶם
פָּֽרְצוּ
וַֽיַּעֲבֹרוּ שַׁעַר
וַיֵּצְאוּ בוֹ
וַיַּעֲבֹר מַלְכָּם לִפְנֵיהֶם
וַיהוָה בְּרֹאשָֽׁם
12 わたし (YHWH) は 必ず 集める [ אָסַף ] だろう,ヤコブよ,おまえの全体を;
わたしは 必ず 集める [ קָבַץ ] だろう,イスラエルの残りを;
わたしは 彼らを いっしょにするだろう — Botzrah[エドム地方の地名]の 羊のように,
彼らの牧草地の中心にいる[羊の]群のように;
彼らは 不穏になるだろう — 人間のゆえに.
13 突破口を開く者が 彼らの面前に やってきた;
彼らは 突破した;
そして,彼らは 門を通り抜けた;
そして,彼らは それによって 外へ出た;
そして,彼らの王が 彼らの前を 行く;
そして,YHWH が 彼らの先頭を[行く].
そして,ミカ預言書のその部分との関係における マタイ福音書 11,11-14 に関する Flusser の 説明を 読んでみよう:
イェスの観点においては,洗礼者ヨハネは 預言者 — 終末のときに 神の道を準備する 預言者,世に戻ってくるはずの エリヤ — であった.ヨハネとともに,終末のときは 始まる;それは,世界史のなかへの決定的な突発である.すべての預言者たちは,洗礼者ヨハネのときまでのことを 預言した;しかし,今からは「天の王国が 突破してくる;そして,突破してくる者たちが それ[天の王国]を所有することになる」(Mt 11,12). それらの謎めいた言葉は,預言者ミカが言っていること (2,13) と関連している:「突破口を開く者が,彼らの前に 進み出る.彼らは 突破する;そして,門を通過し,それによって外へ出る.彼らの王が,彼らの前を 行く;主が 彼らの先頭を[行く]」.
中世のラビ,聖書注釈者 David Kimhi (1160-1235) は,この節に関して 次のような解釈を 提供している:「突破口を開く者は エリヤであり,彼らの王は ダヴィデの子孫である」.この解釈 — その早期の形を イェスは 知っていたように 思われる — によれば,エリヤは 突破口を開くために 最初に来たるべき者である;そして,突破する者たちが〈彼らの王 メシアとともに〉彼[エリヤ]に続く.イェスによれば,エリヤである洗礼者ヨハネは 既に到来した.そして,今や,[突破を]決心する勇気を持つ者たちが 天の王国を所有することになる.
洗礼者ヨハネの到来とともに,天の王国は 突破しようとする.ヨハネは「女から生まれた者たち」のなかでは 最も偉大であるが,天の王国で最も小さい者すらも 彼より偉大である.洗礼者ヨハネは,突破口 — それを通って 神の王国は突破する — を開いたが,彼自身は 神の王国の一員ではない.言い換えれば:イェスは,洗礼を受けたとき,天の声によって メシアの王国の開始に関して 天啓を受ける;ヨハネは 神の王国の到来のための さきがけであり,突破口を開いた者であるが,彼自身は 神の王国に属してはいない.彼は,言うなれば,それ以前の世代の一員である.この〈イェスによる〉逆接的な洞察は,これら ふたつのもの — 洗礼者ヨハネとメシアの王国との間の区別 および イェスと洗礼者ヨハネとの間の歴史的な繋がり — を ともに 際立たせている.にもかかわらず,イェスが洗礼の際に経験したことは,彼に 新たな ほかの機能を 与える.イェスは 洗礼者ヨハネの弟子には成り得なかった.彼は,カリラや湖周辺の村々を巡って,天の王国を告げ知らせねばならなかった.
ところで,洗礼者ヨハネの日々以来 今に至るまで,天の王国は 突破してこようとしている;そして,突破してくる者たちが それ[天の王国]を 所有することになる.
そのように読むなら,その文において イェスが語っているのは まさに 終末論的な〈神の支配の到来の〉状況であり,推定される終末論的文脈によく合致する と言えるだろう.
0 件のコメント:
コメントを投稿