『Freud の « Trieb » について,ならびに,精神分析家の欲望について』(Écrits, pp.851-854, 抄訳).
(訳者注記:あらかじめ読者に注意を促しておくと,この予備的な翻訳においては,訳者の解釈に基づき,原文に無い単語や学素がおおはばに補足されている.しかし,煩雑を避けるため訳者による挿入すべてをいちいち明示しない.
また,あらかじめ,Freud の言う“本能”と Lacan の言う“他 A の欲望 Ⱥ”とが論ぜられているこの書への導入のために,Lacan (Écrits,
p.634) による本能の学素の定義を引用しておくと,
( $ ◊
D ) : S en fading dans la
coupure de la demande, 請求の切れめにおける消失主体.
また,あわせて,幻想の学素の定義は,
( $ ◊ a ) : S en fading devant l’objet du désir, 欲望の客体の前における消失主体.)
精神分析における本能の概念は,無意識に関する精神分析的経験に基づいて Freud が構築した概念として,精神分析を心理学化する思念に対して,生物学的意味における本能の概念を援用することを禁止する.そも,精神分析を心理学化する思念は,生物学的意味における本能の概念によって,生物学的自然のなかにひとつの道徳を仮定することにより己れの無知を覆い隠しているのである.
精神分析における本能は – このことを心理学者の頑固な頭のなかに十分に想起させることは決してできないだろう,なぜなら,心理学者は全体として,かつ,そのものとして,科学技術の支配体制における搾取に奉仕するものであるから –,フロィト的な本能は,生物学的意味における本能とは何のかかわりも無い(両者の混同を許すような表現は Freud のなかには無い).
Libido は,生物学的意味における性本能ではない.(...).
Libido の性的な色は – それは Libido の性質の最も内奥に記入されていると Freud が erogene Zone [悦惹起部位]の概念を以てかくもきっぱりと主張しているように –,虚空の色である:ひとつの裂口の光のなかに宙吊られた虚空の色.
その裂口は,皮肉にも快原則と呼ばれるものが欲望に押しつける限界において欲望が出会う裂口である.皮肉にも快原則と呼ばれる,というのも,それはひとつの現実へ回送されるからである.そして,その現実は実践の場にほかならない,と言うことができる.[すなわち,現実原則は,現実的な行動により満足を実現するよう促す].
Freud の所説によると,まさにこの現実的実践の場から切断されている欲望があり,その欲望の原理は本質的に,不可能のなかに見出される.[cf. 『夢解釈』
VII章,E : 「無意識的な欲望の動き [ unbewußte Wunschregungen ] から成る我々の本有の核 [ der Kern unseres Wesens ] は,前意識にとって把握不可能 [ unfaßbar ] かつ制止不可能 [ unhemmbar ] である」;「小児的なものに由来し,破壊不可能 [ unzerstörbar ] かつ制止不可能な欲望の動き」.ここでは Freud の用語 Wunsch を敢えて「願望」ではなく「欲望」と訳してある].
(...) Freud は我々にこのことを啓かしている:すなわち,男が母の性的奉仕につなぎとめられたままでいないのは父の名のおかげであるが,父に対する攻撃は律法の原理に属しており,かつ,律法は,近親相姦の禁止により律法が制定する欲望に奉仕している.
(...) むしろ,母の去勢を引き受けることが,其れによって欲望が制定されるところの欠如を創り出す.欲望は,欲望の欲望であり,他 A の欲望 Ⱥ である,と我々は言った.つまり,欲望は律法に服従している :
(女に関しては,次のことは事実である:すなわち,女も同じ Dialektik に服さねばならない – 女をそう強いるものは何も無いように見えるのに:つまり,女は,持っていないもの [ phallus ] を失わねばならない.それは,我々に疑問を懐かせることである.かくして,我々はこう述べることができる:すなわち,負の大きさのファロス [ phallus par défaut : φ ] が徴在的負債の金額を成している:ファロスを持っているときは借方[父から借りたファロス:男],持っていないときは異論の余地ある債権[ペニス妬み:女].)[訳注:この段落の丸括弧は原文のもの.]
去勢は,Freud
が欲望のなかへ導入した全く新しい原動力であり,Socrates の Dialektik において〈『饗宴』の報告のなかに保存されてはいるものの〉謎めいたままである意味を,欲望という欠如に与える.
(...) 本能の概念は,本能を collage
surréalisteにおけるモンタージュ作品のようなものとして表している.[cf. Séminaire XI, p.154 : 「我々に想像することができる影像が示すのは,このようなしろものであろう:稼動中の発電機がガス栓へ接続されており,そこから孔雀の羽が出て,美女の腹をくすぐる – 彼女がそこに置かれているのは事態を美しくするためだ,といった具合である」].
本能は我々の神話である,と Freud
は言った.[cf. 『精神分析へ導入するための新たな一連の講義』,32章 : Die Trieblehre ist sozusagen
unsere Mythologie. Die Triebe sind mythische Wesen, großartig in ihrer
Unbestimmtheit. Wir können in unserer Arbeit keinen Augenblick von ihnen
absehen und sind dabei nie sicher, sie scharf zu sehen. 本能学説は,いわば,我々の神話学である.本能は,神話的な事物であり,みごとに不確定なしろものである.我々は,精神分析という我々の仕事において,ひとときたりとも本能を度外視することはできないが,その際,確かに本能を鮮明に見ているというわけではない].その言葉を,Freud は本能を非実在へ帰したのだと解してはならない.もろもろの神話において通例そうであるように,本能の概念は実在を神話化しているのである:すなわち,この場合,実在は欲望 Ⱥ を成す [ le réel fait le désir ] – そこにおいて,主体と喪失客体との関繋 ( $ ◊ a ) を再現しつつ
:
損益計算書に損失として計上された客体[つまり,失われたと見なされた客体]は次から次にたくさんあり,幻想 ( $ ◊ a ) における喪失客体 a の座を占めることになる.しかし,トカゲの自体切断 – トカゲが困ったときに,その身体から切り捨てられる尾 – が最も良く象徴するかもしれぬ役割を果たし得る客体は,数が限られている[すなわち,四つの客体 a : 乳房,糞便,まなざし,声].悦の垣根を越えるに越えられぬ欲望の災難 [ Mésaventure du désir aux haies de la
jouissance ]. そこに,Descartes の言う邪悪な神,騙す神 [ un dieu malin ] が待ち受けている.
この欲望のドラマは,一般に思われている偶然事態ではない.それは,本有的な事態である:そも,欲望は他 A に由来し,かつ,悦は物 [ la Chose : l’Achose, l’achose,
l’objet a ] の側に属する.
そのことによって主体は分割を被り,複数化する.この分割にこそ,Freud の第二 Topik は当てはまる.だが,またしても,そこにおいて目に飛び込んでくるべきであろうものは見えてこない.つまり,そこにおいて,同一化
は,本能を満足させぬままに,欲望によって決定されるのである.
その理由はこうである:本能 ( $ ◊ D ) は,裂けめとしての主体 $ と他 A の欲望 Ⱥ とを分裂させる :
そして,欲望 Ⱥ は,分裂の原因たる客体 a と裂けめ $ との失認された関係 ( $ ◊ a ) によってのみ支えられる :
以上が幻想の構造である.
しからば,分析家の欲望は如何なるものであり得るか?分析家が身を献げる治療は,如何なるものであり得るか?
(...) 精神療法の彼方の精神分析の終りは,如何なるものであり得るか?分析家を養成することがかかわるときには,精神分析と精神療法とを区別しないで済ますのは不可能である.
そも,転移の原動力の問題に立ち入らぬまま我々が言ったように,精神分析において究極的かつ最終的に作用するのは,分析家の欲望である.
(...)
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