2015年7月26日

実在,徴在,影在の重ね合わせにおける a について

Lacan の教えをその全体において読み直そうとするとき,我々はこのことに気づく:すなわち,彼は,学素 a を以て形式化するものを,彼の教えの最初の時期から既に,同時に R [実在の位]のものであり S [徴在の位]のものであり I [影在の位]のものであるものとして,一挙に問題にしている.

実在 [ le réel ] の位のものである a : Écrits の最初の書 Le séminaire sur « La Lettre volée » において Lacan (Écrits, p.25) James Joyce の警句 « a letter, a litter »[文字,ゴミ]を引用しているように,ゴミとしての文字.すなわち,ゴミ,屑,塵,カス,残渣,等々.要するに,捨てられ [ rejeter ] (cf. Variante de la cure type, in Écrits, p.360), 切り捨てられ [ retrancher ] (cf. Réponse au commentaire de Jean Hyppolite, in Écrits, p.388), 排除され [ Ausstoßen ] (ibid.), 閉出され [ Verwerfen, forclore ] (cf. D’une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose, in Écrits, pp.531-583), 失われて [ perdre ], ex-sistence[解脱実存](Écrits, p.11) を成すもの.

徴在 [ le symbolique ] の位のものである a : 源初的に失われた客体 [ l’objet foncièrement perdu ] (Écrits, p.45) によりうがたれた穴,「徴示素の或る種のカス [ caput mortuum ] が定立する穴」(Écrits, p.50).

影在 [ l’imaginaire ] の位のものである a : 自身の身体影像 [ l’image du corps propre ] (La chose freudienne, in Écrits, p.427) の定存 [ consistance ].

このように,Lacan の教えにおいては,1974-75年の Séminaire XXII R.S.I. において提示された a を中心とするボロメオ結びの図を待つまでもなく,1950年代から既に,同時に,解脱実存としての実在,穴としての徴在,定存としての影在の位のものであるような何ものかが問題とされており,そして Lacan はそれを学素 a で形式化することになるのである.



それに対して Jacques-Alain Miller は,Lacan の教えの時間的経過のなかに paradigm shifts を想定する.すなわち,a の規定性は,最初は影在,次の時期には徴在,さらに実在,最後には仮象,というように時間的に順序を追って変化している,と Jacques-Alain Miller は主張する.しかし,そう見なすのは誤りである.Lacan による a の規定は,同時的に多様である.それは,彼の Séminaire XI 『精神分析の四つの基礎概念』においても読み取れることである.

では,a が同時に実在の位のものであり,かつ,徴在の位のものであり,かつ,影在の位のものである,ということを我々は如何に思想し得るか?

ひとつの可能性は,量子力学における重ね合わせの概念を援用することであろう.周知のように,量子力学においては素粒子は,相異なる量子状態の重ね合わせの状態を持ち得る.有名な Schrödinger のネコの思考実験において空想されるように,ひとつの放射性原子の量子状態の重ね合わせの関数として,ネコは同時に生きた状態と死んだ状態の重ね合わせの状態を持ち得る.そのような量子力学的比喩として,我々は,a が実在と徴在と影在との重ね合わせの状態を有している,と考えることができるだろう.

a と素粒子とを比較したついでに言うなら,素粒子が物理学において究極的な実在性を成すものであるように,a は精神分析において唯一の実在性を成す.さらに string theory を思い浮かべるなら,こう言ってもよかろう:ボロメオ結びは,a string theory である.ボロメオ結びは,Lacan string theory において考察された a そのものである.

しかし,より素朴に,我々は a をイェス・キリストに見ることができるだろう.十字架上で処刑され,そして死者のうちから復活したイェス・キリストである.キリストの身体(影在)は,釘を打たれ,槍で貫かれたことによって開けられた穴(徴在)を定存させ,その穴をとおして,実在としての父の名は解脱実存する.そのようなものとしてのイェス・キリストは,我々自身の現場存在 [ Dasein ] そのものである.つまり,学素 a が形式化しているものは,我々自身の現場存在である.そして,それこそが,精神分析においてかかわっているものである.

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