2017年9月4日

Radiophonie 読解 (11) 四つの言説

四つの言説





最後の問い VII において質問者は,Freud が『終わる分析と終わらない分析』のなかで「分析する」を「教育する」と「統治する」とともに不可能な仕事に数え入れていることに言及しつつ,言説における不可能の問題について問うています.

先に,Séminaire XVII 1970610日の講義の一節を,Jacques-Alain Miller によるテクストはかなり不正確ですので,Staferla 版から,引用します :

... c’est à se trouver défini comme l’impossible à démontrer le vrai dans le registre d’une articulation symbolique, que le réel se place. (...) si ce réel se définit comme l’impossible, c’est bien là ce qui est de nature à nous faire toucher du doigt quoi ? [ ceci que ] gouverner, éduquer, analyser et faire désirer pour compléter d’une définition ce qu’il en serait du discours de l’hystérique , ce sont en effet des opérations qui sont, à très proprement parler, impossibles, et c’est pour ça qu’elles sont là. 
実在が[トポロジックに解脱実存として]位置づけられるのは,徴在の構造の次元において真と証明することの不可能として定義されることによってである.それは,我々に以下のことを触知させる性質のことである:すなわち,統治する,教育する,分析する,そして hysterica の言説が如何なるものかをもうひとつの定義によって補完するなら 欲望させる,それらは,実際,非常に本来的に言って,不可能な営為である,ということ.そして,それがゆえに,それらの営為は存在するのである.

hysterica の言説においてかかわっているのが「欲望させる」(faire désirer) である,ということは,Radiophonie のなかではそのままの形で述べられてはいませんが,その代わりに,Lacan はこう言っています (Autres écrits, p.438) :

[性器段階の成熟という神話は]其れについて hysterica の言説が支配者を詰問するところのものである:「おまえが男かどうか,見せろ!」しかし,Freud が言うように,そこにおいて,事物表象 [ Φ ] はもはやその事物の欠如 [ φ の表象にほかならない.[Urvater のような]全能は存在しない.であるがゆえにこそ,全能は思考される.

ですから,「欲望させる」は,勃起を惹起するために支配者 S1 のなかに欲望を起こさせる,ということです.しかし,Urvater は解脱実存していないのですから,その全能の phallus を出現させることも不可能です.そもそも,それは不可能な phallus φ です.


ところで,Radiophonie のテクストの最後のページに掲げられている四つの言説の図には,左上の座から右上の座へ向かう直線矢印の上に impossibilité[不可能性]と書かれ,右下の座から左下の座へ向かう曲線矢印の下に impuissance[不能]と書かれています.

不能について,Lacan はこう言っています (Autres écrits, p.445) :

各言説の構造は,その生産[の座]と真理[の座]との常に同じ離接 [ disjonction ] として差異化されることによって,悦の障壁によって規定される不能を必要とする.


Séminaire XVII 1970311日の講義では,Lacan は,支配者の言説を例にとり,悦の障壁は $ a との間にある,と述べ,そして,「悦の障壁」と言う際の「悦」は「根本的に禁止された悦」のことである,と説明しています.

また,翌週,318日の講義では,分析家の言説を例にとり,こう言っています:


悦は,我々が父へ帰そうと欲するだろうものとしての支配者徴示素を,真理としての知から分離する.(...) 悦が為す[「性関係は無い」の]「無い」は,ここに存する すなわち,支配者徴示素 S1 として生産されるものと,真理として措定されるものとしての知 S2 が占有する場との間に.去勢が真言的に如何なるものかを述べることを可能にするもの,それは,このことである:すなわち,子どもにとってさえ,人々がそれについてどう思おうと,父は真理について何も知らない者である,ということ.


トポロジックに見ると,真理の座(穴:黄色)と生産の座(解脱実存:赤色)との間に位置するものは,実際には,四つの言説における右上の座に相当する切れ目のエッジ(悦:緑色)であることが,わかります.そのエッジは,解脱実存の在処(右下の座,赤色) つまり,天国だか来世だか異界だか,誰も知らないどこか に位置しているかもしれないと期待される何かが他の欲望 Ⱥ の穴(左下の座,黄色)を満たすという事態の実現を妨げ,Ⱥ 穴を口の開いたままに保ちます.つまり,解脱実存の在処に位置すると思念される何かが他の欲望 Ⱥ の座に位置するものを満足させることは,起こらない それが「不能」です.

Lacan (Autres écrits, pp.444-445) は,hysterica の言説について知 S2 の不能,支配者の言説については剰余悦 a の不能,大学の言説については主体 $ の不能を列挙しています.分析家の言説については,上に引用された1970318日の講義において,支配者 S1 の不能は「父は真理について何も知らない」と表現されています.

不能を条件づけているのは,先ほども見たように,切れ目のエッジの座(右上の座,緑色)に位置するものです.その意味において,それは不可能性の座です.

問い V に対する答えのなかで,Lacan はこう述べています:

影在的な不能を不可能へ転換すること その不可能は,ただ論理においてのみ基礎づけられることによって,実在であることがわかる (Autres écrits, p.439).

不能を不可能へ転換すること それは,精神分析の経過において為されるべきことです.欲望の穴を満たすことは可能であるはずだが,何らかの理由(例えば禁止,能力不足,不適格,等々)によりそうなるようにすることができない,と思い込む場合,我々は不能の状態に陥ります.不能には,何らかの行きづまり感や有罪感が伴います.それに対して,欲望の穴を満たすことは「性関係は無い」がゆえに不可能であり,phallus を代理する何らかの客体 a が欲望の穴を満たすことも不可能だ,と分析の経験において結論されるなら,我々は,不能に伴う行きづまり感や有罪感から解放され得ます.

支配者に言説における統治することの不可能性については,Lacan (Autres écrits, p.445) はこう言っています:

統治することの不可能性がその実在において把握されるのは,次のようにしてのみである:すなわち,悦欠如 [ manque à jouir : $ ] をその出発点[右上の座]に必要とする展開[hysterica の言説]の厳密さを退行的[支配者の言説から hysterica の言説への移行:四つの座に対する四つの項の時計方向 90° 回転]に作り上げることによって [ただし]それ[hysterica の言説]が悦欠如を終着点において[も]維持するならば.


実際,支配者の言説から hysterica の言説へ「退行的」に移行することによって,S1 は,左上の支配者の座から右上の不可能性の座へ移ります.そこにおいて,支配者徴示素 S1 は,支配者の言説において S2 が縁どっていた穴を塞ぎ得るものではない,ということが判明します.

続けて Lacan は,Radiophonie の最後の2ページ (Autres écrits, pp.445-446) でこう言っています:

逆に,分析家の言説は,大学の言説に対して進歩していることによって,実在を包囲することを大学の言説に可能にし得るだろう 分析家の言説における不可能性 [ $ ] が,実在の代理を果たしている ,すなわち,分析家の言説が,主体 [ $ ] が[解脱実存的在処に位置する]支配者 [ S1 ] の徴示素[の座]へ移行したこと[分析家の言説の式の右側を成す $ / S1 : 主体 $ が支配者 S1 を代理する徴示素となっている構造]を,剰余悦 [ a ] それは,既に,その真理を知 [ S2 ] において有している から発せられる問い[存在に関する問い]へ付そうとすることによって.
それは,構造の知を仮定することである ‒ 知は,分析家の言説においては,真理の座を有している. 
それは,如何なる疑いを以て,分析家の言説は,真理の座に提示されるものすべてを支えねばならないか,ということである. 
(...) 不可能をその塹壕において追い詰めることによってのみ,不能は,受動者[右上の座に位置するもの]を能動者[左上の座に位置するもの]へ移す力を得る. 
さように,不能は,[四つの言説の]転回おのおの ‒ 其の一歩を,構造は為さねばならない ‒ のたびに,現動的 [ en acte ] となる ‒ 勿論,不能が[不可能へ]様態を変えるように. 
さように,言語は,言語が悦について啓かすものを更新し,言語が束の間実現する幻想を出現させる.言語が実在に接近するのは,所言をして言説の思惑のなかに穴を穿つようにさせる言説に応じてでしかない. 
そのような言説は,現時点においては,そうたくさんは無い[つまり,事実上,分析の言説のみ].

四つの言説のうち,大学の言説に関しては,それが我々と我々の世界の基本的な存在論的構造であることを既に見てきました.大学の言説は,絶対知を装う知 S2 と存在の真理 $ との分裂に存する aliénation[異状]の構造をより精密に形式化しています.



それに対して,分析家の言説は,大学の言説において右上の座(緑色)に位置する症状の徴示素 a 書かれることをやめない反復強迫の症状の徴示素 a が,左上の座(水色)に位置する分析家へ転移されることによって,成立します.それによって,症状の徴示素 a は,仮象として,書かれることをやめることができるようになります.

そして,大学の言説において左下の座(赤色) 解脱実存的在処 に隠れていた存在の真理 $ は,右上の座(緑色) 存在論的切れ目ないし裂け目のエッジの座 へ成起 (Ereignis) します.それは,昇華された欲望としての分析家の欲望でもあります.分析者(精神分析の患者)は,分析の終結において,みづから分析家の欲望であることを引き受けることになります.


支配者の言説は,言うなれば Urvater の言説です.欲望 $ を完全に満足させることができ,性関係の悦を独占する者として,彼は,息子たち S2 を奴隷として支配します.そこにおいて,前性器的ないし非性器的な剰余悦 a は,秘匿性の座(赤色)へ ausstoßen[排し除ける] Lacan の用語では forclore[閉め出す] されます.


しかし,hysterica の言説において,欲望 $ は満足不能であり,それを満足させる Urvater S1 は不可能であることが,明らかになります.hysterica の精神分析は,万能なる Urvater への固着 Freud Penisneid[ペニス妬み]と呼んだもの から hysterica を解放することを目指します.

hysterica の言説において右下の座(赤色)に位置づけられた知 S2 は,排斥された記憶です.Freud hysterica において無意識として発見したものが,それです.

精神分析は,無意識的な知を「意識化」することに存するのではありません.Lacan も強調しているように,認識論は精神分析には無関係です.

精神分析の終結は,存在の真理 $ そのものの成起 (Ereignis) に存します.そして,それをみづから引き受けた者は,今度は,みづから分析家と成り,ほかの者たちが精神分析を経験するのに分析家の欲望として寄り添うことになります.


Radiophonie 読解 (10) 男と女

男と女


今,人間の sexuality (sexualité, Sexualität) について考える者は,単純な男女性別二元論にとどまることはできません.SOGI (sexual orientation and gender identity) の多様性を考慮しないわけには行きません.Lacan Séminaire XVIII (1971) において初めて提示した有名な公式 « La Femme n’existe pas »[女は現存しない]は,男女性別二元論の彼方において SOGI の多様性の問題を考えるための基礎を提供してくれます.

sexual orientation の問題は,Freud の用語で言えば,Objektwahl[客体選択]の問題に帰せられます.つまり,Triebbefriedigung[本能満足] すなわち,jouissance[悦] と客体 a との連関の問題です.

gender identity と呼ばれているものは,実は,社会学的問題ではなく,存在論的問題です.なぜなら,そこにおいては「男である」ことや「女である」こと等々は本質的には如何に規定され得るのかが問われるからです.つまり,精神分析においてかかわる性別は,原則的に性染色体によって規定される biological sex[生物学的性別]でも,文化や伝統において規定される sociological gender[社会学的性別]でもなく,而して,ontological sexuation[存在論的性別]です.

存在論的性別について論ずるために Lacan formules de sexuation[性別の公式]を以下のような形で提示するのは,1971-1972年の Séminaire XIX ...ou pire においてです.


ですから,1970年のテクスト Radiophonie においては,それらはまだできあがっていません.ただ,1960年に書かれた Remarque sur le rapport de Daniel Lagache[ダニエル・ラガシュの発表に関する論評](Écrits, p.683) のなかで,男の欲望の学素と女の欲望の学素が次のような単純な形で提示されています:

M :  Φ(a)

F :  Ⱥ(φ)

つまり,男の側では,phallus Φ と客体 a との関繋が,女の側では,他のなかの欠如 Ⱥ phallus φ との関繋が,問われています.

Radiophonie (Autres écrits, p.438) Lacan が男女について述べていることは,1960年の学素をそのまま踏まえていると思われます:

其れによっていわゆる性関係が支えられるところの悦は,ほかのあらゆる悦と同じく,剰余悦によって構造化されており,それゆえ,その関係においては,パートナーとは次のようにしか関われない : 1) vir[男]にとっては,パートナーを客体 a へ同一化することによって そのことは,しかるに,アダムの肋骨の神話 それが女性の同性愛の最も有名な書簡作家をかくも笑わせたのは,当然のことだ において明らかに示唆されている ; 2) virgo[女]にとっては,パートナーを phallus すなわち,その実なる機能とは逆に,腫脹の器官と想像された pénis 還元することによって. 
そこから,[Freud が精神分析の行き止まりを成すものとして提示した]ふたつの岩盤 : 1) 去勢という岩盤 そこにおいて徴示素「女」は privationphallus を奪われていること]として記入される ; 2) Penisneid[ペニス妬み]という岩盤 そこにおいて徴示素「男」は frustrationphallus を与えないこと]と感ぜられる.

男にとってはパートナーは客体 a へ同一化され,女にとってはパートナーは phallus へ還元される そのことは,Séminaire XX Encore 1973313日の講義において提示される図においても,同様に示されています:


存在論的性別についてより詳しく考えるために,性別の公式と否定存在論的トポロジーとを連関させてみましょう:


ただし,Lacan は,やや古い形式論理学の教科書における表記にしたがって,論理式の上に引かれる棒線を否定の記号としていますが,わたしは現在,形式論理学の教科書で標準的に用いられている否定の記号のひとつ Ø を使います.



図のように,大学の言説の構造のなかに男の性別の公式が配置され,hysterica の言説の構造のなかに女の性別の公式が配置されます.

Lacan が「父の関数」と規定する ØΦ(x) は,単なる Φ(x) の否定ではありません.論理式 ØΦ(x) を以て Lacan が思考しようとしているのは,不可能な性関係を実現するかもしれない不可能な phallus, 言い換えると phallus ex-sistent[解脱実存的なファロス],または,書かれないことをやめない phallus です.ØΦ(x) と書くことそのものが既に不可能であり,そう書くことは単なる反実仮定にすぎません.あるいは,reductio ad absurdum の過程の一部にすぎません.ØΦ(x) なる x は,Freud が『トーテムとタブー』のなかで提示する神話的な Urvater[源初の父]原始部族において,一族の女すべてを独占していたが,父の独裁に反抗した息子たちによって殺害された父 だけです.

また,普通の記号論理学においては « il existe »...が存在事象として現存する]を表す記号 は,性別の公式においては « il ex-siste »...が解脱実存的在処に解脱実存する]を表すものと解釈します.それは,性別の公式においては $x が付されるのは解脱実存的な phallus の式 ØΦ(x) にのみであることから,当然要請されることです.

既に指摘したように,ØΦ(x) なる x は神話的な Urvater だけです.そもそも,Urvater に関して ØΦ(x) と書くこと自体が不可能であり,そう書くことは反実仮定にすぎません.しかし,男たちにとっては,死せる Urvater は,抹消された存在 Sein の解脱実存的在処 [ la localité ex-sistente, die ek-sistente Ortschaft ] に解脱実存し続けています そう仮定することが,「男である」ことの規定性に属しています.いうなれば,男たちは,自分たちが殺した Urvater の亡霊にいつまでもつきまとわれ続けます.そして,その去勢の脅しに怯え続けます.

不可能な性関係を実現し得ていたのかもしれない Urvater の不可能な phallus ØΦ(x) に対して,その代理となるのが Φ(x) です.ØΦ が不可能な phallus  [ le phallus impossible et ex-sistent ] であるのに対して,それを代理する Φ は仮象的な phallus [ le semblant phallique ] である,と言えます.その仮象的な phallus は,父殺しの有罪感と去勢不安を覆い隠すのに役立ちます.それが,Freud Adler の表現を引用して männlicher Protest と呼ぶものです.

Φ(x) は,「男である」ことを規定する賓辞です.自我理想への同一化という観点において言うなら,それは,自我理想としての父(ないし,その徴示素としての phallus Φ)との同一化です.Freud 1921年の著作 Massenpsychologie und Ich-Analyse[大衆心理学と自我分析]の第 VII 章「同一化」のなかで論じている同一化の三類型のうちの第一のものです.

自我理想としての phallus Φ との同一化 形式的に言うなら,式 Φ(x) を満たすこと が「男である」を規定する:すなわち,それが,存在論的な「男である」です.

それは,生物学的な性別には左右されず,社会学的 gender のように社会生活のなかで獲得されるものでもありません.生物学的には女であっても,自我理想 Φ と同一化している者は,存在論的には男です.特に,lesbian たちの一部は存在論的には男であり,そして勿論,transgender men は,生物学的には女として生まれてきても,社会学的な gender の獲得以前に既に,存在論的には男です.

では,如何にして自我理想 Φ との同一化は起こり得るのか?つまり,如何にしてひとりの言語存在は存在論的に「男である」ことになるのか?この問いに答えるためには女の性別の公式を見ておく必要があるので,後ほど戻ってくることにしましょう.

自我理想 Φ との同一化として規定される賓辞 Φ(x) により,式 ("x) Φ(x) が措定され得ます.つまり,集合 M が定義され得ます :

M = { x | Φ(x) }

この M は,ひとつの集合として現存しています.存在論的な意味における「男」の集合です.

Φ(x) を満たすことが「男である」を規定する,ということを,我々は,集合 M の要素であることが「男である」を規定する,と言い換えることができます.

フランス語では,定冠詞を付された単数名詞は,特定の個体だけでなく,それと同種の諸個体すべてが成す集合をも表し得ます.ですから,「男の集合は現存する」を « l’homme existe » と言うことができます.「男」が集合的であることを強調するために,大文字で書いてもよいでしょう : « l’Homme existe ». 男の言説としての大学の言説の右上の座に位置するのは,正確に言えば,そのようなものとしての「男」,つまり,男の集合 M です.

« l’Homme existe » に対して,Lacan « La Femme n’existe pas » と言います.そのことにも,後ほど立ち戻りましょう.

男の言説としての大学の言説において,右上の座には客体 a が位置づけられています.それは,性的な文脈で言えば,男にとっての性的パートナーである女性の身体,ないしその部分(例えば乳房)です.

客体 a は,反復強迫の症状の徴示素であり,同時に,「もっと悦せよ!」という超自我の命令の声でもあります.そのような plus-de-jouir[剰余悦]としての客体 a こそが,Freud Sexualtrieb[性本能]と呼んだものの正体です.

« l’objet a est la cause matérielle du désir »[客体 a は欲望の質料因である]と Lacan が言うとき,それは,大学の言説の式の右側の部分 a / $ に関する公式である,と見なすことができます.


大学の言説の構造において,客体 a は,否定存在論的構造の要である存在論的切れ目のエッジの定存を成す質料的なものです.$ が位置する解脱実存的在処は,存在論的切れ目の効果です.その限りで,欲望である主体 $ は客体 a の効果である,逆に言えば,客体 a は主体 $ の原因である,と言うことができます.

また,存在論的切れ目のエッジである客体 a は,主体 $ が位置する抹消された存在 Sein の在処の解脱実存の質料的な支えである,と言うこともできます.

さて,hysterica の言説と,そこに配置される女の側の性別の公式を見てみましょう.


女の側の性別の公式においては,Ø($x) ØΦ(x), すなわち,Urvater の解脱実存的在処における解脱実存は否定されています.そもそも ØΦ(x) と書くことは不可能ですから,式 Ø($x) ØΦ(x) の措定はまったく正当です.

他方,Lacan は,「女である」ことを存在論的に論ずるために,apophatique[否定的]な命題 Ø("x) Φ(x) を持ち出します.「すべての者が Φ(x) であるわけではない」,つまり,「男の集合 M に属さない」こと.

なぜそのような否定命題を措定せざるを得ないのか?それは,「女である」ことを positif に規定し得る命題を書くことは不可能だからです.なぜそれは不可能か?なぜなら,「男である」が「自我理想 Φ との同一化」によって規定されるのに対して,女の側には男の側の Φ に対応する自我理想が無いからです.

「女である」を規定し得る命題を書くことは不可能ですから,女すべての集合も現存しません.その事態を Lacan « La Femme n’existe pas » と公式化します.この場合,La は,先ほども述べたように,同種のものの集合を表す定冠詞です.特に大文字の斜体で書かれるのは,否定されるのは femme[女]ではなく,その定冠詞であることを明示するためです.

初めて « La Femme n’existe pas » と公式化した Séminaire XVIII 1971217日の講義においては,Lacan は間接的なしかたでそれを導いています:

女すべてを悦する Urvater の神話が差し徴しているのは,「女すべて」は在らず,ということだ.女について「すべて」は無い.

もし仮に,女すべてを悦する Urvater phallus が不可能ではないならば,すなわち,もし仮に「性関係は無い」が否定されるならば,「Urvater x を悦する」または「x Urvater の全能なる phallus を悦する」ような x すべての集合を作ることができ,そして,その集合によって「女である」を規定することができます.しかし,実際には性関係は無いのであり,Urvater の全能なる phallus は不可能なのですから,「女である」ことを positif に規定することはできません.

以上のように,存在論的には,「女である」は「男である」の否定でしかあり得ません.ということは,「女である」の側には,「男にあらず」のあらゆる存在様態 つまり,存在論的「男である」以外のあらゆる SOGI の多様性 が位置づけられることになります.そこには「すべて」を形成し得る統一的な規定性が無いのですから,多様になって当然です.

hysterica の言説において左上の座に位置する主体 $ は,Urvater の全能なる phallus が不可能であること すなわち「性関係は無い」こと による不満足な欲望です.« La Femme n’existe pas » Urvater の不可能性とは,上に見たように,相互に関連しています.そして,前者は,後者を介して,欲望不満足と関連づけられます.

では,hysterica の言説において右上の座に位置する S1 は,どのようなものか? « La Femme n’existe pas » を初めて公式化した1971217日の講義において,Lacan は,Urvater を念頭に置きつつ,Don Juan についてこう言っています:

La Femme は現存する それは,女の夢である.そして,その夢に Don Juan は由来している.もし仮に,其の者にとって La Femme が現存するところの男が存在するとすれば,すばらしいことだろう.その欲望は,確かなものだろう.[しかし]それは女性による作り事だ.

さかのぼって,Séminaire X 1963327日の講義でも,Lacan はこう言っています:

Don Juan 幻想は,女性の幻想だ.(...) それは,女性における次のような願望である ‒ phallus を常に持っており,それを失い得ない男がひとりいる,という願望.幻想における Don Juan の立場がまさに包含していることは,彼から phallus を奪い得る女は誰もいない,ということである.

女性の幻想(女性が有する幻想,女性において見出される幻想)において不可能な Urvater を代理する Don Juan ‒ それが,hysterica の言説における S1 です.言い換えると,hysterica の言説における S1 は,不可能な phallus φ の代理としての phallus Φ です.すなわち,$ → S1 の関繋は,Freud の言う Penisneid[ペニス妬み]の形式化である,と解釈することができます.

さて,先ほど答えを保留していた問い 如何にして自我理想 Φ との同一化は起こり得るのか?如何にしてひとりの言語存在は存在論的に「男である」ことになるのか? について考えてみましょう.

Lacan も,その問いをそれとしてはっきり措定したことはない,と思われます.ただ,1958年の書 La signification du phallus の一節 (Écrits, p.693) に,答えのかすかな手がかりを読み取ることができるかもしれません:

母の欲望は phallus 在る [ le désir de la mère est le phallus ] なら,子は,その満足のために,phallus であろうと欲する.かくして,主体が,「[母の欲望が其れであるところの]phallus に対応し,主体が有し得る [ il peut avoir ] 実在的なもの」を他へ提示することによって満足することに,[欲望に内在的な]裂け目が既に反対することにおいて,欲望に内在的な裂け目が,他の欲望において経験されることによって,既に感ぜられる.そも,愛の求め 其れは,主体が phallus であることを欲するだろう にとっては,主体が有するものは,主体が有さぬものよりも価値があるわけではない.


hysterica の言説の式において,左側に母親,右側に子どもを位置づけることができます.生まれてきた子を母親が phallus Φ としての S1 の座に置くとき,子はそれを自我理想とし,それに同一化します.それによって,男の言説としての大学の言説の式の左側に身を置くことになります.つまり,存在論的に男になります.


或る子に関して「男である」を決定するのは,その子の母の Penisneid である,と言うことができます.

当然ながら,母親が子を Penisneid がかかわる客体の座に位置づけるか否かにとって,その子が生物学的に男であるか否かは,それなりに重要な因子です.しかし,絶対的に決定的であるわけではありません.生物学的には女の子であっても,その子が母親によって Penisneid の客体とされれば,存在論的には男の子になり得ます.

逆に,母親が子を Penisneid の客体にしなければ,その子は自我理想 Φ との同一化を免れることになります.つまり,存在論的に「男である」のではない者になります.その子が heterosexual cis-gender girl に成ることに影響し得るのは,その子にとって理想自我 [ das Ich-Ideal とは区別される das ideale Ich ] すなわち,Lacan が学素 i(a) で形式化するもの として機能するものですが,それは,男の子にとっての自我理想 Φ との同一化ほどには決定的ではないでしょう.

社会学的な gender の理論が基本的に妥当し得るのは,ですから,存在論的に「男である」のではない側に位置する者たちに対してです.存在論的な「男である」は,社会学的な gender よりもより根深い規定性であり,いくら gender studies によって「男である」を批判しても,それだけでは無効です.

男の自我理想 Φ との同一化に本当に揺さぶりをかけるためには,精神分析による必要があります.

Radiophonie 読解 (9) 異状の構造における科学と資本主義

異状の構造における科学と資本主義


問い V に対する答えのなかで,Lacan は科学と資本主義について語っています.基本的に言って,両者は,Lacan が問い VI に対する答えのなかで論じている「知と真理との間の主体分裂」の構造,すなわち,主体の分裂としての aliénation[異状,疎外]の構造のなかに 言い換えれば,Hegel の『精神の現象学』のなかに 位置づけられます.

既に指摘したように,異状の構造は,四つの言説において大学の言説と呼ばれることになる構造に相当します.


ただし,Lacan が問い VI への答えのなかで « la topologie qui met frontière entre vérité et savoir »真理と知との間に境界を置くトポロジー](Autres écrits, p.441) と言っているように,「主体の分裂は,知と真理との間の分裂である」という公式における「真理」は,四つの言説における「真理の座」(黄色の穴)のことではなく,而して,主体の 存在 の解脱実存的な在処(赤いメビウス曲面)のことを指します.大学の言説においては右下の座(生産の座)に位置する主体 $ が,それです.知は,大学の言説において左上の座(代理者の座)に位置する S2 です.そして,「真理と知との間の境界」は,穴のエッジ(緑色の線;大学の言説では右上の座の客体 a)に相当します.それは « joint au réel »[実在へのジョイント,継ぎ目](ibid., p.443) とも呼ばれています.

ついでながら,Lacan 1971年の書 Lituraterre において用いる語 « littoral »[海と陸とが接する地帯,海岸地域,沿岸海域]は,この « frontière »[境界]の言い換えです.そして,« littoral » と一文字違いの « littéral » を介して,Lacan は, lettre[文字]は「知と真理との間」の境界を成すものであると言い,さらに言い換えて,「知と悦との境界」を成すものである,とも言っています.

大学の言説において右上の座に位置する客体 a は,反復強迫の症状の徴示素として「書かれることをやめない」文字です.その徴示素連鎖に対して,« la lettre en souffrance »[宛先が不明であったり,宛先に宛名人が居住していないなどの理由により配達することのできない手紙](Écrits, p.29) は,métonymie の効果において言い落とされている文字,すなわち,不可能な徴示素 phallus φ です.

また,Lacan « joint au réel » と言うとき,この「ジョイント,継ぎ目」という語に,四つ輪のボロメオ結びにおいて実在と徴在と影在の輪三つをボロメオ的に結ぶ第四の輪 「父の名」ないし「症状」の輪 へ至る Lacan の論理をうかがい見ることができます.


さて,近現代は,科学の時代であり,資本主義の時代です.科学と資本主義が極度に支配的である現代の危機的な存在論的状況を,Heidegger Ge-Stell[総召集体制]と呼んでいます.それは,形而上学の歴史の終着点として,ニヒリズムの究極的な形態です.そこにおいては,科学によって現にないし潜在的に分析可能であり,かつ,資本の増殖のために現にないし潜在的に利用可能であるもののみが,存在事象である,と見なされています.人間も自然も,あらゆる存在事象は存在論的尊厳を完全に失っています.

Lacan « la science est une idéologie de la suppression du sujet »[科学は,主体の抑圧のイデオロギーである](Autres écrits, p.437) と指摘しています.それは,大学の言説としての科学の言説において,主体が右下の解脱実存的在処へ「抑圧」されていることを指しています:


左上の支配者の座に位置する知 S2 は,Hegel das absolute Wissen[絶対知]と呼ぶものです.それは,神学において神の omniscientia[全知]と呼ばれてきたものに相当します.科学にとっては,ひとつの理想にすぎません.実際に科学と呼ばれているものは,経験的ないし理論的に集積されて,多かれ少なかれ体系化された知の総体にすぎません.

Lacan « l’idéal d’univers »[宇宙の理想,ひとつのすべてとしての宇宙という理想](Autres écrits, p.431) と言っていますが,それは,其こにおいて絶対知が存在事象そのもの全体を余すところ無く begreifen[把握する,概念化する]し得たところの宇宙です.同じページで Lacan « l’impossible, c’est le réel »[不可能在こそが実在である]と言っていますが,それは,そのような宇宙はあり得ない,不可能だ,という文脈において言われています.

しかし,諸科学の諸対象を総合して行けば,究極的には,絶対知が完全に概念化し得た宇宙を科学は手に入れ得るはずだ,という思念から,科学はいまだに自由ではないようです.

大学の言説における右上の座(緑色)の客体 a は,科学が扱う諸対象です.科学は,対象の存在そのものの存在論的「意味」について問うことは決してありません.つまり,主体 $ が位置する解脱実存的な 存在 の在処(赤色)そのものにはまったく気づきません.

ところで,近現代的な意味における科学の出発点を画したのは Galilei であると見なされていますが,Lacan は,むしろ,科学の出発点を Descartes cogito に見出します.ただし,認識論において超越論的自我の「我れは存在する」を基礎づけるものとしての cogito ではなく,方法的懐疑 dubito としての cogito です.

方法的懐疑は,従来「真なり」と思い込まれていた知を臆見として拒否することに存します.その構造は,大学の言説の「裏」を成す hysterica の言説の構造です:


そこにおいては,知 S2 は臆見として右下の解脱実存の座へ棄却され,飽くなき真理の欲望としての主体 $ が左上の支配者の座へ出てきます.

hysterica の言説が科学の出発点としての方法的懐疑の言説である限りにおいて,「科学はその躍動を hysterica の言説から得る」(Autres écrits, p.436) Lacan は言っています.

それに対して,大学の言説は教条主義の言説 [ discours du dogmatisme ] である,と言うことができるでしょう.そこにおいては,言うなれば,あらゆる対象を既成の知の枠組みのなかにねじ伏せることだけが,かかわっています.さもなければ,知は,客体 a の裂け目を前にして,不安に襲われてしまうからです.

したがって,本当の意味で「科学的な」と呼べる精神や態度は,絶対知の仮象 S2 が支配する大学の言説にではなく,むしろ,その支配を拒む hysterica の言説に宿ります.その限りで,Lacan も,「科学は,hysterica の言説の次元へ記入される」(Autres écrits, p.431) と言っています.

資本主義に関しては,Marx による資本の分析 資本の本質を剰余価値に見出した彼の分析 は,今もその的確さを失っていません.むしろ,其こに「経済成長」が存するところの資本の増殖を命じ続ける der absolute Bereicherungstrieb[絶対的な富裕化本能](Marx が『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変化」において用いている表現 すなわち,超自我の「もっと悦せよ!」という命令)が惹起するもろもろの害がますます明白になってきた今こそ,資本という病理学的症状から自由になることが全人類の喫緊の課題です.

元来 Hegelianer である Marx の思考は,『精神の現象学』の構造のなかで展開されます.そのことは,例えば彼の『資本論』第一巻第四章「貨幣の資本への変化」における議論において,示唆されています:

G-W-G[貨幣-商品-貨幣]循環[流通]においては,両者 商品と貨幣 は,価値そのものの相異なる現存様態 貨幣は価値の普遍的な現存様態,商品は価値の特殊な,いわば単に変装した現存様態 としてのみ機能する.価値は,一方の形態から他方の形態へ恒常的に移行する その運動において失われることなく.そのように,価値は,ひとつの自動的な主体 [ ein automatisches Subjekt ] へ変化する.もし我々が,有効利用される価値がその生の循環において交互に身にまとう特殊な現象形態を固定化するなら,我々は,「資本は貨幣である」,「資本は商品である」という説明を得る.しかし,実際には,価値は,そこにおいて,ひとつの過程の主体と成っている 其の過程においては,価値は,恒常的な形態交替 貨幣から商品へ,商品から貨幣へ のもとで,自身の大きさをみづから変え,当初の価値としての自分自身から剰余価値として身を引き離し,自身をみづから有効利用する.そも,其こにおいて価値が剰余価値を付加する運動は,価値自身の運動であり,価値の有効活用であり,つまり,価値の自己有効活用である.価値は,価値であるがゆえに価値を措定するというオカルト的な質を得たのだ.価値は,生きているヒヨコを生み出す または,少なくとも,金のタマゴを生むのだ.(...) そこにおいて,価値は,ひとつの進行する,みづから動く実体 [ eine prozessierende, sich selbst bewegende Substanz ] 其れにとっては,商品と貨幣はふたつの単なる形態である として,突然,自身を現す.(...) かくして,価値は,進行する価値,進行する貨幣,資本そのものに成る.価値は,流通[循環]から来たり,再び流通[循環]のなかへ入り,そこにおいて自身を維持し,自身を複写し,大きくなってそこから戻って来て,そして,同じ循環を常に改めて再開する.G-G’, 貨幣を生む貨幣 money which begets money , 資本は,その最初の通訳者である重商主義者たちの口において,そのように記述されている.(...) 実際,G-W-G’ は,資本の普遍的な公式である.

自己増殖する価値としての資本を,自動的な主体ないし実体として捉える Marx の思考は,まさに,『精神の現象学』における Hegel の主体 すなわち,自己意識 の思想と同じです.上に引用した一節ではまだ労働のことは論じられていませんが,剰余価値が措定される労働についての論考も,Hegel の「支配者と奴隷の Dialektik」に欠けてはいません.

資本は主体である,と言うと,あまりピンと来ないかもしれません.「主体」の代わりに「存在」と言いましょう ただし,抹消された存在 Sein としての存在ではなく,存在事象そのもの全体としての存在です.近現代の形而上学において,存在は価値として思考されます.

近現代の形而上学において存在事象そのもの全体としての存在は如何なるものとして思考されているかを,Nietzsche の『力への意志』を分析する Heidegger のテクスト Nietzsches Wort » Gott ist tot «[ニーチェの言葉「神は死んだ」]に準拠して,見てみましょう.

Heidegger によれば,Platon に始まる形而上学は,存在を Sein として思考することはできず,而して,存在事象そのもの全体として思考します.形而上学の完了の時代の哲人である Nietzsche は,存在を,生命,生成,意志,力,価値として思想します (cf. Heidegger, GA 5, p.230). Nietzsche の言う Wille zur Macht[力への意志]は,より強くなろう,より成長しようとする意志です (ibid., p.234). そして,意志とは自分自身への命令です (ibid.). すなわち,力への意志は der Befehl zu Mehr-Macht[より大きな力への命令](ibid., p.236) です.

Mehr-Macht という表記は Heidegger のものであると思われます.Nietzsche 自身は « mehr Macht » と書いています.« Nicht Zufriedenheit, sondern mehr Macht ; nicht Frieden überhaupt, sondern Krieg ; nicht Tugend, sondern Tüchtigkeit »[満足ではなく,而してより大きな力;そもそも平和ではなく,而して戦争;有徳ではなく,而して有能]という断片のなかに見出されます.Marx Mehrwert[剰余価値]との類似は,明白です.両者は,勿論,Lacan plus-de-jouir[剰余悦]と関連しています.

Mehwert Mehr-Macht plus-de-jouir とにおいてかかわっているのは,超自我の悦の命令です:満足にとどまっていてはならない.おまえは,得られた満足に甘んずるのか?見ろ,それはどんどん衰えて行く.なぜなら,それは究極的な本当の満足ではないからだ.だから,もっと悦せよ!Jouis encore plus !

超自我の悦の命令は,症状の反復強迫を動機づけるものにほかなりません.大学の言説において右上の座に位置する客体 a は,超自我の命令の声であると同時に,反復強迫の症状の徴示素でもあります.経済学においては,それは,際限無く自己増殖しようとする価値としての資本であり,Nietzsche の形而上学においては,自身を超えてさらにより大きな力へ成長しようとする力への意志です.


力への意志と存在との関連については:「力への意志は,『存在の最も内奥の本質』である」(Heidegger, GA 5, p.236). さらに (pp.237-238) :

意志は,己れ自身に力において優らんと欲する限りにおいて,生の如何なる領域においても安心しない.意志が力強いのは,彼方の自分自身の意志へ到達することにおいてである.かくして,意志は,同じ意志として,同じものとしての己れ自身へ常に回帰する.存在事象全体 その essentia は力への意志である が現存する様態 すなわち,その existentia は,「同じものの永遠なる回帰」である.ニーチェの形而上学のふたつの根本用語 「力への意志」と「同じものの永遠なる回帰」 は,古来形而上学にとって主導的であり続けている視点によって,存在事象をその存在において規定している : essentia existentia という意味における ens qua ens[存在事象としての存在事象].

Nietzsche が「同じものの永遠なる回帰」と呼ぶものは,精神分析の観点から言えば,反復強迫の症状にほかなりません.それに対して,力への意志は,その反復強迫を動機づける「もっと悦せよ」の命令です.

つまり,aliénation の構造としての大学の言説において,客体 a(緑色の座に位置する)は,存在事象の場処(水色の座に位置する)を限定するエッジとして,存在事象そのもの全体をひとつの集合として規定します.


その意味において,客体 a は,存在事象そのもの全体としての存在です.そして,それは,その essentia においては,力への意志として,超自我の悦の命令であり,その existentia においては,同じものの永遠なる回帰として,反復強迫の症状である,と言うことができます.

さらに,Nietzsche Übermensch[超人]と呼ぶものは,「其の本有が,力への意志から欲されたものであるところの人間」(Heidegger, GA 5, p.251) です.つまり,超人は,従来の人間たち [ die bisherigen Menschen ] に対して,彼らの超自我を体現して,「もっと悦せよ」と命令する者です.

資本主義の文脈においては,客体 a は,essentia においては,無際限な自己増殖を命ずるものとしての資本ないし剰余価値であり,existentia においては,際限無く再生産され続け,永遠に回帰し続ける商品である,と言うことができます.

超人も永遠回帰も,資本も剰余価値も,右上の奴隷の座に位置する客体 a こそが,実は,左上の支配者の座に位置する S2 に対して命令します,「もっと悦せよ」と.精神分析においてかかわる症状は,そのような剰余悦としての客体 a です.

分析家の言説においては,客体 a は,右上の座から左上の座へ転移されます:


すなわち,「書かれることをやめない」ものとしての実在の座から,仮象の座へ,転移されます.それによって,症状の徴示素 a は,書かれることをやめることができます.

書かれることをやめないものとしての実在の座には,昇華された欲望としての分析家の欲望 $ が位置します.分析の終結は,分析者(精神分析の患者)自身が分析家の欲望を引き受け得ることに存します.


Radiophonie 読解 (8) 論理における「急くこと」の機能と精神分析的行為

論理における「急くこと」の機能と精神分析的行為


問い IV に対する答えと問い V に対する答えのなかで,Lacan は,終戦直後の1946年に書かれた Le temps logique et l’assertion de certitude anticipée[論理の時間と,先取りされた確実さの断定]に言及しています.その書を,彼は,晩年に至るまで,折に触れて取り上げ直します.

そこにおいて Lacan は,彼自身が sophisme と呼ぶひとつの問題とその解答について論じています.sophisme と言うのも,通常の論理学では扱い得ない議論だからです.なぜ通常の論理学では扱い得ないかというと,それは,精神分析の経験そのものにかかわっているからです.「論理の時間」というとき,その「論理」は,精神分析がその終結に至る過程のことです.

Lacan が取り上げている問題は,次のようなものです:

刑務所の所長が,囚人三人を選び出し,彼らに問題を言い渡す:「ここに,黒い円盤がふたつ,白い円盤が三つある.わたしは,君たち各々の背中にそのうちの一枚を貼り,君たち三人すべてを鏡の無い一部屋へ入れる.君たちは,自身の背中の円板を見ることはできないが,ほかのふたりのものは見ることができる.しかし,如何なる会話も交信もしてはならない.ただ論理的な推論のみによって,自身の背中の円板が何色かを結論したまえ.部屋の外で待つわたしに最初に正答を告げに来れた者ひとりだけを,わたしは釈放する」.そう言って,刑務所長は,彼ら三人の背中いづれにも白い円板を貼る.さて,如何に彼らは正しい結論に達し得るか,得ないか?

当然ながら,Lacan はこの問題を単なる「頭の体操」として提示しているのではありません.それは,主体自身には隠された自身の真理に関して問い,かつ,その真理へ到達すること 精神分析の経験は,まさにそのことに存します のひとつの allégorie です.

そこにおいては,自身の真理へ何としてでも到達したいという強い欲望がかかわっています.それが,「急くこと」を動機づけます.

この囚人たちの問題は,永遠の命への復活としての救済の allégorie と解釈することもできます.刑務所長は神であり,囚人たちは地上的な生を生きている我々自身です.白い円盤は「救済される」を表し,黒い円盤は「救済されない」を表します.ところで,三人の囚人のために白い円盤は三つ用意されています.つまり,神は始めから三人とも救済するつもりなのです(人間たちはそのことを知りませんが).しかし,神は,単純に救済するのではなく,人間たちに「救済されたい」という強い欲望を喚起したい,と思います.さらに,人間たちが「わたしは既に救済されている」という真理にみづから気づくことを,神は欲します.

さて,論理学的推論の過程は,Lacan の表現 (Écrits, p.202) で言えば「空間化」され得ます.例えば,三段論法:「人間は皆,いつかは死ぬものである.ところで,Socrates は人間である.ゆえに,Socrates はいつかは死ぬものである」は,「いつかは死ぬもの」の集合を M, 人間の集合を H とすれば,次のような Venn 図として空間化され得ます:


そこにおいては,推論の過程は不連続も飛躍も含んでいません.

それに対して,Lacan sophistique と形容するこの囚人の問題においては,そのような空間化は不可能であり,而して,推論の時間的経過のなかで生じてくる論理の切れ目(Lacan scansion と呼ぶもの)と,その不連続を飛び越える行為とが,結論し得るために決定的となります.

不連続を飛び越える際に,その結果がどうであるかに関しては絶対的な保証はありません.しかし,飛び越えることを躊躇しては,結論へ達することはでません.

そのような飛躍を含む推論にとっては,「釈放(救済)されるために,どうしても真理に到達したい」という強固な欲望と,遅れないように「急く(せく)こと」とが決定的です.

三人の囚人を A, B, C と呼びましょう.そして,わたし自身は C である,としましょう.

まず最初は「まなざす瞬間」[ l’instant du regard ] です.わたしは,他者ふたりはともに白であることを見ます.そして,誰も動きません.まなざす瞬間から直ちに結論へ達し得る者は誰もいないからです.

もし仮にそこで「以上の所与からは結論することはできない」とあきらめれば,釈放(救済)の可能性をみづから放棄することになります.しかし,わたしはどうしても解放(釈放,救済)されたい.

そこで,この第一の「動きの宙吊り」から成る論理の切れめにおいて,わたし C はこう推論します(その推論の時間を,Lacan は「了解するための時間」[ le temps pour comprendre ] と呼んでいます):

他者ふたりがともに白であるということは,黒がふたつ,白がひとつという状況を除外する.そもそも,その状況においては,他者ふたりがともに黒であることを見た者は,即座に自身が白であることを結論し,躊躇無く出口へ向かうことになる.
他者ふたりが白であるということは,三人は皆,白である(救済される)か,あるいは,わたし C だけが黒である(救済されない),ということである. 
神はわたしだけを救済しないという可能性!何という不安!しかし,「わたしは白である(救済される)」という信念に根拠無しに執着している限り,わたしは行き詰まってしまう. 
そこで,わたし C は黒である(救済されない)という状況を,神の愛への信頼において不安に耐えつつ,引き受けてみよう.そこにおいては,A B はそれぞれこう推論することになる(以下,B の推論を述べるが,そこにおいて B A とを入れ換えれば,それは A の推論でもある):「もし仮にわたし B は黒であるとすれば,B C がともに黒であることを見る A は,即座に自身の白であることを結論し,躊躇無く出口へ向かうことになる.しかし,彼は動かない.したがって,わたし B は白である」.そう結論し得る A B は,ともに,わたし C に先んじて出口へ向かうことになる.しかし,彼らは動かない.したがって,わたし C は,黒ではなく,白である.

A B も,それぞれ,C と同じ結論に達します.かくして,三人は,ともに,出口へ向かう一歩を同時に踏み出して,第一の「動きの宙吊り」の切れ目を飛び越えようとします.

しかし,そのとき,A B がともに出口へ向かおうとするのを見て,わたし C は,結論の確実さに動揺を感じます:「おや,彼らふたりはともに出口へ向かおうとしている.ということは,わたしは,やはり,白ではなく,黒なのか?」そして,歩みを踏み出すことを躊躇します.

しかし,その動揺と躊躇は,A においても B においても同じです.かくして,第二の「動きの宙吊り」の切れ目が生じます.

そのとき,わたし C はこう推論します:

再び,わたし C は黒である(救済されない)という状況を,神の愛への信頼において不安に耐えつつ,引き受けてみよう.そこにおいては,A B は,ともに,先ほどの推論にもとづいて,躊躇無く出口へ向かうことになる.しかし,彼らは動かない.したがって,わたし C は,やはり,黒ではなく,白である.

A B も,それぞれ,C と同じ結論を得ます.かくして,三人は皆,第二の「動きの宙吊り」の切れ目を踏み越え,結論する瞬間 [ le moment de conclure ] に到達し得る... でしょうか?

実は,形式的には,第二の切れ目は,際限無い躊躇のせいで踏み越え不能な深淵となり得ます.

各人は,他者ふたりが共に出口へ向かおうとするので,「わたしは白ではなく,黒なのか」と疑い,躊躇する.他者も同じく躊躇する.そのことによって,各人は再び「わたしは白である」と結論する.そして皆,出口へ向かおうとする.しかし,そのとき,各人は他者ふたりが共に出口へ向かおうとするのを見て...

以上の悪循環は,形式的には際限無く続き得ます.その悪循環から脱出するためには,神の愛への信頼において救済の確実さを先取りし,「わたしは白である:神はわたしを救済する」と結論する瞬間へ飛躍する必要があります.

Lacan 自身は「神の愛への信頼」という表現は用いていません.そうではなく,la fonction de la hâte en logique[論理における「急くこと」の機能]と言っています.

そのように急くことができるためには,解放されたいという強固な欲望が必要です.もし囚人が一般社会で生きて行くよりは刑務所暮らしの方が気楽だと思うなら,解放の欲望を支えることはできません.救済の譬えで言うなら,この世の生に執着する者は,永遠の命を欲することはできません.

急くことを動機づける解放の強固な欲望を,Lacan は「分析家の欲望」と名づけることになります.それは,何らかの存在事象による満足を一切退けた欲望です.そして,そのことにおいて,「昇華」と呼ばれる悦に達した欲望です.つまり,分析家の欲望は,昇華された欲望です.そして,欲望の昇華は愛です.ですから,分析家の欲望は,愛です.キリスト教は,それを「神の愛」と呼びます.

昇華された欲望としての分析家の欲望に支えられてこそ,主体は,分析の経験において,急くことができ,分析の終結において,みづから分析家の欲望を引き受ける「結論する瞬間」へ飛躍することができます.

その飛躍こそ,Lacan l’acte psychanalytique[精神分析的行為,精神分析の行為]と呼ぶところのものです.