2019年6月2日

Heidegger と「世界ユダヤ組織」妄想 III

1927年(Sein und Zeit が出版された年)の Heidegger

Freiburg 大学総長,Heidegger (1934) : Hitler と同様のヒゲをはやし,ワシと鈎十字から成る Nazi の徽章を襟に付けている.先週紹介した写真と同じときに撮影されたと思われる.


東京ラカン塾 精神分析セミネール 2018-2019年度 第三学期

フロィト,ハィデガー,ラカン & 一神教


6月07日は,先週に引き続き,Heidegger の Schwarze Hefte[黒ノート]における反ユダヤ主義的な記述を検証して行きましょう.先週は,Überlegungen VIII の一節 (GA 95, pp.96-97) を紹介しました.今回は,そのほかの部分を見て行きます.

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Überlegungen X (GA 95 : 1938-1939) 

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「文化」を権力手段としておのがものとすること,そして,それによって,自己主張し,優越を偽って申し立てること — それは,基本的に,ユダヤ人的 (jüdisch) なふるまいである.そこから,文化政策そのものにとって,何が結果するか? 


Überlegungen XII (GA 96: 1939-1941)

24

(...) ここで,次のことを知るべきである:「教養」と「文化事業」の領域内では,荒廃が,生活必需品のより大がかりな調達の領域においてよりも,既に,本質的に,より進行している.それに応じて,精神遺産の〈無効な〉番人たちにおいては,本質的な考察を放棄することにおけるより高度な巧みさが形成されてきた.一方では,根ざすことの領域すべての無力化 — 一貫した作謀の強力化に有利となるように —,そして,他方では,大衆的な人間どもの〈決断と尺度への〉要請すべての放棄:その無力化とその放棄とは,呼応しあうよう,いざなわれ,その呼応関係は強化されている.この拡大する呼応関係によって,ひとつの目立たない空虚が成立する — その秘匿された本有は,今もなお主導的な形而上学の基本的立場にもとづいては,概念把握され得ない;特に,その空虚は,自身とは逆のものの外観において,自身を提示するがゆえに.存在事象全体の作謀への人間の無条件的な組み込みとして[その空虚は成立する]— その組み込みは,しばしば,なおも,歴史的な支配形態を引き合いに出す形において[起こるが,]それらの歴史的な形態からは,既に,あらゆる基底は取り去られている.例えば,今日の軍人たちは,Preußentum[プロイセン性]を引き合いにだすことができると思っているが,それは,本有において,変化してしまっており,そのうえ,先の世界戦争[第一次世界大戦]の年月の間に戦った者たちとさえ,既に異なるものになっている — 以下のことは除いて:すなわち,人間の行動のこの領域[戦争]からは,それが固有のしかたで構造化された厳しさにおいて,死の前に[人間を]置くとしても,創造的な歴史的決断は決して生じ得ず,ただ,常に手段的な規律の形が[戦争という領域からは]生ずるだけである.その形を全体へ広げようとすることは,存在の本有 — および,存在の〈力と無力に対する〉彼岸性の本質 — に関する粗野な無知に等しい. 

だが,以上の理由により,あらゆる「平和主義」とあらゆる「リベラリズム」もまた,本質的な決断の領域へ突き進むことができない.なぜなら,それらは,そのことを,真正なる — および,真正ならざる — 戦士精神に対する対抗へ変えてしまうだけであるから. 

だが,ユダヤ組織の一時的な権力増大は,以下のことにその根拠を有している:すなわち,西洋の形而上学は — 特に,その近代的展開において — 空虚な合理性と計算能力がのさばるために端緒となる場所を提供したのだ.そして,その空虚な合理性と計算能力は,そのような道によって,「精神」のなかに居場所を入手した — 秘匿された決断領域を決してみづから把握し得ないままに.将来的な決断と問いがよりいっそう根源的になり,源初的になるにつれて,ますます,そのような決断と問いは,あの「人種」には,接近し得ないものであり続ける. 

それゆえ,Husserl が〈思念を心理学的に説明したり歴史学的に差引勘定したりすることをやめて,現象学的に考察することへ〉歩を進めたことは,変わらぬ重要性を有している.しかし,それ[Husserl の現象学的考察]は,本質的な決断の領域へは決して到達せず,むしろ,哲学の歴史学的伝統を前提している.その必然的な帰結は,すぐさま,新カント派的な超越論的哲学への方向転換において示されている.そして,そのことは,結局,形式的な意味における Hegelianismus への進行を不可避なものにした.わたしの Husserl に対する「攻撃」は,彼にのみ向けられたものではなく,また,そもそも,非本質的なものである.攻撃の向かう先は,存在の問いの怠りであり,すなわち,形而上学そのものの本有である.形而上学を根拠にして,存在事象の作謀は,歴史を規定し得る.その攻撃は,存在事象の優位と存在の真理の基礎づけとの間の至高なる決断の歴史的な瞬間を基礎づける.


Überlegungen XII (GA 96: 1939-1941)

38

作謀の時代において人種が歴史の(あるいは,単に歴史学の)〈言明された,かつ,ことさらに定立された〉「原理」へ高められたということは,「教条主義者」たちの恣意的なでっち上げではなく,しかして,作謀 — それは,存在事象を,その諸領域すべてに応じて,計画的な計算へ強制的に服従させねばならない — の力の帰結である.人種思想によって,「生」は,一種の計算を表す〈育成可能性の〉形態へ還元される.ユダヤ人たちは,彼らのことさらに計算高い才能において,既に非常に長きにわたり,人種原理にしたがって「生きて」おり,それゆえ,彼らは,[人種原理の]無制限な適用に対しては,最も激しく自衛している.人種的育成の設定は,「生」そのものに由来するのではなく,しかして,作謀による生の超強力化に由来している.作謀がそのような計画化を以て行っていることは,諸民族を〈あらゆる存在事象を同じ大きさと同じ形へ調節する[作謀的な]やり方へ諸民族を引きずり込むことによって〉完全に脱人種化することである.脱人種化と機を一にして進むのが,諸民族の自己疎外[自己異状化]である.すなわち,歴史の喪失,すなわち,存在への決断の領域の喪失.そして,それとともに,[以下のことの]唯一的な可能性は,埋められてしまう:すなわち,[各々]源初的に固有の歴史力を持つ諸民族が,相互の対立において,相互的な一致へ至る可能性.例えば,知的な概念把握と,無気味なものの内密さと広がりを有する思考の情熱と — Deutschtum と Russentum と.その場合,Russentum は,Bolschewismus とは何の関係も無い.Bolschewismus は,「アジア的」なものではなく,而して,終わりつつあった19世紀の程度に見合った西洋近代思考の産物である.それは,作謀の無制限な力の最初の決定的な先取りであった. 

Bolschewismus を人種原理によって打ち負かそうとする(あたかも,両者は,根本的に異なる形態を取りながらも,同じ形而上学的根を有しているのではないかのごとくに)ことも,Russentum をファシズムによって救おうとする(あたかも,両者は,深淵によって隔てられているほどに相異なりながらも,本有における一致をまったく除外してはいないかのごとくに)ことも,同じように妄想じみている.しかし,そのようなことが,歴史学的-技術的に行われるということは,既に,歴史に対する作謀の最終的な勝利,あらゆる政治の形而上学に対する敗北を示している.そこにおいては,同時に,このことが告知されている:すなわち,如何に我々は,もはや歴史学的な前景において追い立てられているだけで,ますます,道 — そこにおいて,成起することの歴史的な根拠が知られるべきであるところの道 — を識り損ねているか,ということ. 


Überlegungen XIV (GA 96: 1939-1941)

もし,ある者が,およそ,あらゆることがらについて,「すべては,生の表現として[捉えられ],かつ,本能と本能減退とへ帰せられる」と考える以外のしかたでは考え得ないならば,かつ,その限りにおいて,その者は,ユダヤ人 Freud の精神分析について,声高に憤慨すべきではないかもしれない.[しかし]そのような考え方は,あらかじめ,如何なる「存在」も許容してはおらず,純粋なニヒリズムである.(GA 96, p.218) 


Überlegungen XIV (GA 96: 1939-1941)

英国は,まことには,西洋的な態勢なしに存在しており,かつ,存在し得る — なぜ我々は,そこのとを認識するのがかくも遅くなったのか?なぜなら,我々は,将来において初めて,次のことを概念把握するであろうから:すなわち,英国は,近代世界を作り始めた国であるが,近代は,その本有において,地球全体の作謀の脱抑制へ方向づけられている,ということ.また,帝国主義の「特権」の分かち合いという意味において英国とわかり合おうとする考えは,歴史的な過程 — 英国が,今,Americanismus および Bolschewismus および,すなわち,また,同時に,Weltjudentum[世界ユダヤ組織]のなかで,終りまで演じている過程 — の本質には的中していない.世界ユダヤ組織の役割に関する問いは,人種的な問いではなく,而して,形而上学的な問い — まったく何にも結びつけられていないままに,存在事象すべてを存在から根こそぎにすることを世界史的な「使命」として引き受けることのできる類の人間性に関する形而上学的な問い — である.(GA 96, p.243)


Überlegungen XV (GA 96: 1939-1941)

世界ユダヤ組織は,ドイツから出ていった移民たちによってそそのかされており,いたるところで捉えどころがなく,あらゆる権力展開において,どこにおいても戦争行為に参加する必要がない.それに対して,我々は,我々自身の民族の最良の者たちの最良の血を捧げるしかない.(GA 96, p.262) 


Anmerkungen I (1942-1946) (GA 97 : 1942-1948)

Anti-christ[反キリスト者]は,あらゆる Anti- と同様に,それに対してそれが anti- であるところのもの — すなわち,キリスト者 — と同じ本有根拠に由来する.キリスト者は,Judenschaft[ユダヤ性]に由来する.ユダヤ性は,キリスト教的西洋の時代においては,すなわち,形而上学の時代においては,破壊の原理である.形而上学の満了のくつがえし — すなわち,Hegel の形而上学の Marx によるくつがえし — における破壊的なもの.精神と文化は,「生」の — すなわち,経済の,すなわち,組織の,すなわち,生物学的なものの,すなわち,「民族」の — 上部構造となる.

形而上学的な意味において本質的に「ユダヤ的」なものがユダヤ的なものに対して戦うとき,自己殲滅の頂点が歴史において到達される — ユダヤ的なものがいたるところで支配を完全に自身へ引き寄せているならば — 「ユダヤ的なもの」の征服が — とりわけ,それが —,また,「ユダヤ的なもの」への服従へ行き着くように. 

そこから出発して,このことが測知されるべきである:すなわち,西洋の歴史の秘匿された源初的な本有へ思考することにとって,Griechentum — それは,Judentum および,すなわち,Christentum の外にとどまる — における最初の源初へ思考を馳せることは,何を意義するか.(GA 97, p.20) 

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今期のセミネールの残りの日程は,以下のとおりです:

VII. 6月07日 : Heidegger の反ユダヤ主義について (III)
VIII. 6月14日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (I)
IX. 6月21日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (II)
X. 6月28日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (III)

ただし,必要に応じて内容を変更する可能性もあります.

各回とも,開始時刻は 19:30, 終了時刻は 21:00 の予定です.

場所は,各回とも,文京区民センター 内の 2 階 C 会議室です.

いつものとおり,参加費は無料です.事前の申込や登録も必要ありません.

問い合わせは,小笠原晋也 まで:
tel. 090-1650-2207
e-mail : ogswrs@gmail.com


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なお,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール は,本年10月ないし11月に開始する予定です.如何に Lacan が精神分析を,存在 の真理の実践的現象学として,純粋に(非経験論的に,かつ,非形而上学的に)基礎づけようとしたかを,あらためて見て行きたいと思います.

小笠原晋也

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