2019年6月11日

das internationale Judentum に関する Heidegger の「黒ノート」の一節


Heidegger の黒ノート


das internationale Judentum という表現を Heidegger が用いている一節を,補足的に紹介しておきます.それは,Weltjudentum という表現と同様に,世界的ないし国際的な「ユダヤ組織」(Judentum) による「陰謀」(Machenschaft) に関する Heidegger の妄想的な懸念という文脈のなかに位置づけられます:



Überlegungen XIII (GA 96, pp.131-133 : 1939-1941)


101

いかにも「島々」はあるが,そこからそれら島々が突き出しているところの海を経験し得る者たちはいない.(存在[という海]から[突き出している]現場存在[という島]).「島々」とは,歴史的に規定された比類無き者たち — 彼らには,対立と争いの解和としての歴史の本有の基礎づけが課されている — のことである.その歴史とは,存在の歴史である.それへの帰属性は,貧しさ — その所有は,自有の財産として存有し続ける — へ貧しくなることにおいて与えられる.単に史学的であるにすぎない歴史(形而上学的な歴史)は,序幕にとどまっている.そこにおいて,「史学的」現実の国家分節は,役割分担 — その秘められた道は,ゆっくりと明らかになりつつある — への道を開いた:さまざまに変種した国家主義[国粋主義,民族主義]の役割は帝国主義の刺激であり,社会主義の役割は帝国主義を広げることであり,[帝国主義の]刺激は専制政治を駆り立てることへ向かう.

[帝国主義が]広がることは,下級のものへの例外無き平均化へ向かう.そのように誘出された帝国主義(専制的なプロレタリア主義という意味における帝国主義)は,それ自体,確固たる「理想」でも「目標」でもなく,しかして,それ自体,なおもひとつの運動形態 — その最終形態をまだ明らかにしていない運動形態 — である.だが,「帝国主義」のそのような権力獲得は,現代の人類を無条件的な作謀へ引き渡す;それ[作謀]は,ひとつの抵抗しがたい誘惑手段を用いる:作謀は,意識を,作謀の執行者 — 作謀(ここでは,「計画し,設備する計算」という前景的な意味における「作謀」)のそのような「帝国主義」において自身に仕えるという〈作謀の〉執行者 — としてのあり方へ引き渡すが,しかるに,まことには,すなわち,ここにおいて歴史としてはなおも秘匿されているものの本有においては,帝国主義の〈作謀への無条件的な隷属への〉引き渡しが既に決断されている.この〈存在の歴史の〉広大な,長く延びた控えの間[前段階]においては,何も成起しない[無が成起する].しかしながら,すべては,決断無き状態へ圧し出され,決断盲目性という荒れ地へまとめて押し込められているので,あの〈作謀の〉誘惑のゆえに,可能な限り多くの仕事が人間すべてを常に,残らず,働かせていなければならない.

この〈存在の歴史の〉控えの間[前段階]の内部で,我々は,西洋の革命へ近づく.この無条件的な形態における革命は,しかし,ほかなる源初という意味における新たなものへ通ずるのではなく,しかして,「終り」— そのかつての源初から引きちぎられた「終り」をもたらす.「究極的な最後」に関するバカ話すべてにおいて無自覚的に思念されているのは,その「終り」のことである.その[西洋の]革命は,だが,単に,Bolschewismus がドイツおよび西欧諸国へ「量的」に広がる,ということではなく,而して,終りとして,唯一的かつ固有な何かである.無条件的な作謀の完了;見かけ上なおも「個人的」な — かつ,人間の顔をした — 独裁政治が,誰でもない者の専制政治へ引き継がれることとしての〈無条件的な作謀の〉完了;誰でもない者の専制政治においては,無際限な計画と計算の過程が純粋に権力を獲得する;「現実的」なもの,「行為」,処置を誇示し,存在事象としての処置の遂行を誇示し,かつ,そのような本質の — 今や完全に忘却された存在としてのそのような本質の — 存在事象が権力を獲得すること;そのような「歴史」において,初めて,無の権力は,妨げられることなく,その極限へ達する(それゆえ,従来の意味におけるいわゆる「ニヒリズム」— ニーチェ的意味におけるニヒリズムも含めて — は,すべて,単に,一次的な,限られた序幕にすぎない).そのような「歴史」をとおして,歴史の本有は,ひとつの最初の決断 — 無と存在との間の決断 — のエッジへ来たる.帝国主義的-好戦的な思考様式と,人道的-平和主義的な思考様式とは,単に,相互に帰属しあう「考え方」にすぎず,毎次,口実として,毎次さまざまに持ち出されてくる「史学」的な —「歴史」をでっちあげる —「考え方」にすぎない.それらの「考え方」の領域においては,いかなる決断ももはや可能ではない — なぜなら,それらは,単に,「形而上学」の成れの果てを表しているにすぎないから.

それゆえ,das internationale Judentum は,両者[帝国主義的-好戦的な思考様式と,人道的-平和主義的な思考様式]をともに利用し,一方は他方のための手段であると宣言し,遂行し得る.この作謀的な「歴史」でっちあげは,すべての共演者を同様に彼らのネットへ絡め取る.作謀の周域には,「バカげた国々」があり,そしてまた,バカげた文化でっちあげがある.近づきつつある西洋の革命において,初めて,近代の最初の革命(イギリス,アメリカ,フランスにおける革命と,それらの余波)はそれらの本質へ連れ戻される.「西欧」は,ついに,かつ,決定的に,革命に見舞われる — いかにも,「西欧」はなおも革命との戦いに勝利すると思っているが.

誰がその戦いにおいて「世界支配」を主張し,勝ち取るかも,最もひどくすりつぶされる者たちの運命も,同じほどにどうでもよいことである.そも,誰がなおも立っているにせよ,誰が倒れるにせよ,それは,形而上学の平面においてであり,誰もが他者たちによって排除されたままである.

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