2019年6月24日

Lacan と 一神教 III

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata

神秘的な恍惚状態にある Maria Magdalena — この絵には,ある意味で,キリスト教の誕生の瞬間が描かれています.なぜなら,それは,彼女において,初めて,Jesus Christ が死から永遠の命へ復活した瞬間の場面を表しているからです.

Maria Magdalena は,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]と呼ばれています.なぜなら,福音書(特にヨハネ福音書)によれば,復活した Jesus は,まず最初に彼女に現れ,そして,彼女は,そのことを,使徒たちに伝えたからです.

Jesus は死から永遠の命へ復活した — それは,キリスト教信仰の中核を成すことですが,当然ながら,生物学的にはあり得ないことです.いったい,そのようなあり得ないことを,キリスト教徒は如何に信じているのか?

個々のキリスト教徒にそう問えば,答えはさまざまでしょうが,我々は「死から永遠の命への復活」を否定存在論的に捉えます.

復活した Jesus が Maria Magdalena に現れる — それは,ひとつの神話です.それが神話化しているのは,如何なる事態であるのか?それは,このことです:死から永遠の命へ復活した Jesus は,彼女において 自身を示現する.

普通は「彼女に対して 自身を示現する」と言うでしょうが,我々は,敢えて,「彼女において 自身を示現する」と言います.なぜなら,Jesus の復活は,彼女において 成起することだからです.

ただし,それは,彼女の「こころのなかで」起きる,ということではありません.そのような心理学的な考え方はやめましょう.

死から永遠の命へ復活した Jesus は,Maria Magdalena において自身を示現します.そして,そのことは,同時に,彼女が死から永遠の命へ復活する,ということでもあります.

つまり,そのとき,彼女は,現場存在 (Dasein) において 存在 (Seyn) を守護する者である,という本来的な実存様態に立ち戻り,そして,神の命である永遠の命は,存在 (Seyn) として,彼女において — 彼女の現場存在において — 保匿されます.

それが,神秘主義神学において θέωσις (theosis) と呼ばれる「神と人間との合一」の事態です.

神秘主義 (la mystique) は,キリスト教のなかのひとつの特殊な信仰様態ではありません.むしろ,キリスト教は本来的に神秘主義的です.

そして,Lacan が我々に教えている精神分析も,本来的に神秘主義的です.

今期の 東京ラカン塾 精神分析セミネール の最終回となる06月28日の講義では,神秘主義の本質を否定存在論的に捉え,如何にそれが精神分析と関連しているのかを,より詳しく見て行きましょう.

6月28日(金曜日),いつものように,開始時刻は 19:30, 場所は 文京区民センター 2 階 C 会議室です.

また,いつものとおり,参加費は無料です.事前の申込や登録も必要ありません.

問い合わせは,小笠原晋也 まで:
tel. 090-1650-2207
e-mail : ogswrs@gmail.com

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2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール は,本年10月ないし11月に開始する予定です.

本年09月23日が Freud 没後80周年の記念日であることを受けて,Freud について改めて問うてみたいと思います — 特に,Freud が陥った行き詰まりと,それを動機づける Freud の過誤と限界について,Lacan の教えにもとづいて,論じたいと思います.

また,如何に Lacan が精神分析を,存在 の真理の実践的現象学として,純粋に(非経験論的に,かつ,非形而上学的に)基礎づけようとしたかを,あらためて見て行きたいと思います.

日程の詳細は,後日発表します.

小笠原晋也

2019年6月17日

Lacan と 一神教 II (L'Estasi di santa Teresa d'Avila)

Gian Lorenzo Bernini (1598-1680), La Transverberazione di santa Teresa d'Avila (1647-1652), nella chiesa di Santa Maria della Vittoria, a Roma


Lacan と 神秘主義



1972-1973年の Séminaire XX Encore において Lacan が言及している santa Teresa de Ávila (1515-1582) は,自叙伝『命の書』(Libro de la vida, Le livre de la vie : 1566) の 第 29 章において,自身の経験を次のように証言しています:

ほかの場合,恍惚はとても激しいので,苦しみを求めることも,ほかのなにもかも,不可能になってしまう.全身がぐったりとなり,足も手も動かすことはできない.立っているときにそうなれば,生命のない物体のように倒れてしまう.息をするのもやっとである.ただ若干のうめき声をもらすだけ — とても弱いうめき声を — なぜなら,力がはいらないから — しかし,感情の強度としてはとても激しいうめき声を.
そのような[恍惚の]状態において,次のような幻覚を幾度かわたしにお与えになることは,主の好むところであった.わたしは,すぐそばに,わたしの左側に,天使を身体的な形のもとに見る.天使をそのように見ることは,非常に希にしか起こらない — というのも,先ほども言ったように,天使は,わたしにしばしば現れるのだが,目に見えはしないからである.今語っている幻覚においては,天使が次のような形で自身を現すことを,主は欲した:天使は,大きくはなく,小さくて,とても美しい.その燃えるような顔は,彼れが最も高い階級 — 愛に燃える霊気たちの階級,ケルビムの階級 — に属していることを示しているように思われる (...). 
天使は,両手で黄金の長い槍を持っており,鉄でできたその切っ先には小さな炎が燃えている.幾たびか彼れは槍でわたしの心臓を刺し貫き,その槍はわたしのはらわたにまで突き通る.彼れが槍を引き抜くとき,鉄の切っ先によって,わたしのはらわたは彼れのところへ抜き取られてゆくかのようである.そして,わたしは,最も熱い神の愛に燃えるままとなる.痛みはとても強く,わたしは弱いうめき声をあげる.しかし,同時に,その曰く言い難い痛みが惹き起こす甘美な感覚はあまりに過剰なので,その終わりを求める気にはならない.そして,魂は,神自身以下のものであるような何ごとかによって満足することは決してできない.この苦痛は,身体的なものではなく,精神的なものである.しかしながら,身体がそこにいささか関与していないわけではない — おおいに関与してさえいる.されば,魂と神との間には,言い表せぬほど甘美な優しさの交流がある.わたしが作り話をしていると思う人がいるなら,そのような交流を主が善意を以てその人に味わわせてくださるよう,わたしは願う. 
そのような恍惚が続いている間ずっと,わたしは,茫然自失 [ embobada ] の状態にあった.わたしは,見ることも語ることももはや欲さず,しかして,わたしの苦痛 — それは,わたしにとって,被造界のあらゆる喜びを超えた至福であった — へ完全に引き渡されることを欲していた. 
わたしは,ときおり — 神が,あのすばらしい恍惚 [ arrobamiento ] をわたしに送る気になったとき — あの恵みに与った.あの恍惚に抗うことは,多数の人々の前でも,できなかった.それゆえ,たいへん遺憾にも,それは人々の知るところとなり始めた.(...) あの苦痛が感ぜられるやいなや,主は,わたしの魂を連れ去り,それを恍惚 [ éxtasis ] の状態に置く.さように,魂は,耐える間も苦しむ間もない:ほとんどすぐさま,魂は悦する [ gozar ] 状態へ入る.かくも大きな善意にかくもうまく応じ得ないひとりの被造物にあのような恵みを与えてくださる主が,とこしえにたたえられますように.

自身の恍惚について,santa Teresa de Ávila は以上のように証言しています.彼女の忘我の状態(気を失った状態)こそ,Lacan が le sujet en évanouissement と呼び,学素 $ を以て形式化したものです — évanouissement は「消失」でもあり「失神」でもあります.そして,その状態は,分離の構造としての分析家の言説の構造に位置づけられます:



Séminaire XX の1973年02月20日の講義において,Lacan は,神秘経験者たちの証言と彼自身の Ecrits は「同じ次元のもの」である,と述べています.つまり,Lacan は自身を神秘経験者の系譜のなかに数え入れているわけです.

6月21日の我々のセミネールにおいては,さらに,神秘経験者の一例として,Angelus Silesius を取り上げてみましょう.彼の Cherubinischer Wandersmann[ケルビム的に歩む者]から幾篇かを読んでみたいと思います.

2018-2019年度 第三学期 のセミネールの残りの日程は,以下のとおりです:

IX. 6月21日 : Lacan と一神教 (II)
X. 6月28日 : Lacan と一神教 (III)

各回とも,開始時刻は 19:30, 終了時刻は 21:00 の予定です.

場所は,各回とも,文京区民センター 内の 2 階 C 会議室です.

いつものとおり,参加費は無料です.事前の申込や登録も必要ありません.

問い合わせは,小笠原晋也 まで:
tel. 090-1650-2207
e-mail : ogswrs@gmail.com

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なお,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール は,本年10月ないし11月に開始する予定です.如何に Lacan が精神分析を,存在 の真理の実践的現象学として,純粋に(非経験論的に,かつ,非形而上学的に)基礎づけようとしたかを,あらためて見て行きたいと思います.

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Appendice : l'extrait du chapitre 29 du Livre de la vie

D’autres fois, la douleur se fait sentir à un tel excès, qu’on n’est plus capable ni de cette prière, ni de quoi que ce soit. Le corps en perd tout mouvement ; on ne peut remuer ni les pieds, ni les mains. Si l’on est debout, les genoux fléchissent, on tombe sur soi-même, et l’on peut à peine respirer. On laisse seulement échapper quelques soupirs, très faibles, parce que toute force extérieure manque, mais très vifs par l’intensité de la douleur. 

Tandis que j’étais dans cet état, voici une vision dont le Seigneur daigna me favoriser à diverses reprises. J’apercevais près de moi, du côté gauche, un ange sous une forme corporelle. Il est extrêmement rare que je les voie ainsi. Quoique j’aie très souvent le bonheur de jouir de la présence des anges, je ne les vois que par une vision intellectuelle, semblable à celle dont j’ai parlé précédemment. Dans celle-ci, le Seigneur voulut que l’ange se montrât sous cette forme : il n’était point grand, mais petit et très beau ; à son visage enflammé, on reconnaissait un de ces esprits d’une très haute hiérarchie, qui semblent n’être que flamme et amour. Il était apparemment de ceux qu’on nomme chérubins ; car ils ne me disent pas leurs noms. Mais je vois bien que dans le ciel il y a une si grande différence de certains anges à d’autres, et de ceux-ci à d’autres, que je ne saurais le dire. 

Je voyais dans les mains de cet ange un long dard qui était d’or, et dont la pointe en fer avait à l’extrémité un peu de feu. De temps en temps il le plongeait, me semblait-il, au travers de mon cœur, et l’enfonçait jusqu’aux entrailles ; en le retirant, il paraissait me les emporter avec ce dard, et me laissait tout, embrasée d’amour de Dieu. La douleur de cette blessure était si vive, qu’elle m’arrachait ces gémissements dont je parlais tout à l’heure : mais si excessive était la suavité que me causait cette extrême douleur, que je ne pouvais ni en désirer la fin, ni trouver de bonheur hors de Dieu. Ce n’est pas une souffrance corporelle, mais toute spirituelle, quoique le corps ne laisse pas d’y participer un peu, et même à un haut degré. Il existe alors entre l’âme et Dieu un commerce d’amour ineffablement suave. Je supplie ce Dieu de bonté de le faire goûter à quiconque refuserait de croire à la vérité de mes paroles. 

Les jours où je me trouvais dans cet état, j’étais comme hors de moi ; j’aurais voulu ne rien voir, ne point parler, mais m’absorber délicieusement dans ma peine, que je considérais comme une gloire bien supérieure à toutes les gloires créées. 

Telle était la faveur que le divin Maître m’accordait de temps en temps, lorsqu’il lui plut de m’envoyer ces grands ravissements, contre lesquels, même en présence d’autres personnes, toutes mes résistances étaient vaines ; ainsi j’eus le regret de les voir bientôt connus du public. Depuis que j’ai ces ravissements, je sens moins cette peine qu’une autre dont j’ai parlé précédemment, je ne me souviens plus en quel chapitre. Cette dernière est différente sous plusieurs rapports et d’une plus haute excellence. Quant à celle dont je parle maintenant, elle dure peu : à peine commence-t-elle à se faire sentir que Notre-Seigneur s’empare de mon âme et la met en extase ; elle entre si promptement dans la jouissance, qu’elle n’a pas le temps de souffrir beaucoup. Béni soit à jamais Celui qui comble de ses grâces une âme qui répond si mal à de si grands bienfaits !

Viktor Frankl : 生の意味について問う

Martin Heidegger (1889-1976) と Viktor Frankl (1905-1997), 1950年代末,Wien のレストランにて.Heidegger は,Hitler 政権下で Freiburg 大学総長という公職に就いていた (1933-1934) ことの責任を,戦後,問われて,1951年まで,大学で教える資格を停止された(一種の公職追放).しかし,一般的には「Heidegger 自身は反ユダヤ主義的な思想の持ち主ではない」と思われてきた.もし仮に Frankl が如何に Heidegger は反ユダヤ主義的な文言を「黒ノート」に書きつけていたかを知っていたなら,彼は微笑みながら Heidegger と同席しようとはしなかっただろう.



Viktor Frankl の最も有名な著作 ...trotzdem Ja zum Leben sagen : Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager[...それでも,生に「いいとも」と言う:ひとりの心理学者が強制収容所を体験する](1946) のなかの Nach dem Sinn des Lebens fragen[生の意味について問う]と題された章の冒頭部分から:

Was hier not tut, ist eine Wendung in der ganzen Fragestellung nach dem Sinn des Lebens : Wir müssen lernen und die verzweifelnden Menschen lehren, daß es eigentlich nie und nimmer darauf ankommt, was wir vom Leben noch zu erwarten haben, vielmehr lediglich darauf : was das Leben von uns erwartet ! Zünftig philosophisch gesprochen könnte man sagen, daß es hier also um eine Art kopernikanische Wende geht, so zwar daß wir nicht mehr einfach nach dem Sinn des Lebens fragen, sondern daß wir uns selbst als die Befragten erleben, als diejenigen, an die das Leben täglich und stündlich Fragen stellt — Fragen, die wir zu beantworten haben, indem wir nicht durch ein Grübeln oder Reden, sondern nur durch ein Handeln, ein richtiges Verhalten, die rechte Antwort geben. Leben heißt letztlich eben nichts anderes als : Verantwortung tragen für die rechte Beantwortung der Lebensfragen, für die Erfüllung der Aufgaben, die jedem einzelnen das Leben stellt, für die Erfüllung der Forderung der Stunde. 
ここで必要なのは,生の意味に関する問題措定全体に転回をもたらすことである:我々は,このことを学ばねばならない,そして,絶望する者たちに教えねばならない — すなわち,本来的にかかわっているのは,決して,「我々は生からなおも何を期待すべきか」ではなく,而して,むしろ,ただ,このことである:生は我々から何を期待しているのか!専門的に哲学的に語るなら,我々はこう言い得るだろう — つまり,ここにおいては,このような一種のコペルニクス的転回がかかわっているのだ:我々は,もはや,単純に,生の意味について問うのではなく,而して,我々は,自身を,[生から]問いかけられている者として経験する.すなわち,生は,日々,刻々,我々に問いを措定している.それらの問いに,我々は答えねばならない — 考えこんだり,言葉を発したりすることによって答えるのではなく,而して,ただ,行為によって,正しい行動によって,正しい答えを返すことを以て.生とは,究極的に,まさにこのことにほかならない:生の問いに正しく答える責任を負うこと,生が各人に措定する使命をまっとうする責任を負うこと,[我々が生きている]時が要請してくることを果たす責任を負うこと.

6月14日の 東京ラカン塾 精神分析セミネール において,参加者のひとりが以上の一節について質問しました.

今,Viktor Frankl を読む人がどれほどいるのか知りませんが,彼のこの著作の邦訳は,『夜と霧』という〈原題からはかけ離れた〉書名のもとに,1956年に(わたしが生まれた年!)に出版され,わたしが学生のころは,学生向け推薦図書のひとつとして有名でした(わたしは,当時,その本は「心理学者」が書いた「心理学」関係の本だと思いこんでいた — 翻訳者が霜山徳爾という上智大学の心理学の教授であったせいで — ので,さして関心を持つこともなく,読まずじまいでしたが).

Viktor Frankl (1905-1997) は,Wien で生れ育った精神科医で,Rothschild 財団が設立した神経科病院に勤務し,そこにおいて,もっぱら,自殺の危険性のある(自殺未遂をした,あるいは,希死念慮のある)患者の治療を担当していました.精神分析にも関心を向けてはいましたが,教育分析を受けることはなく,精神分析家として臨床を行うこともなかったようです.1941年に USA へ行く visa を得る機会がありましたが,年老いた両親を Wien に置いておくことはできないと考え,亡命することを断念しました.彼と彼の家族(彼の妻と彼の両親)は,1942年09月に強制収容所に収容され,彼の家族は皆,殺されました.しかし,彼だけは,1945年04月にアメリカ軍によって強制収容所から解放されました.

「生の意味について問う」ことから「生からの問いかけに答える」ことへの「コペルニクス的転回」は,まさに,Frankl が,死の穴に直面したことによって,異状の構造としての大学の言説の構造から,分離の構造としての分析家の言説の構造へ,跳び移ったことを証しています:



「生の意味(ないし,意義)について問う」— 我々がそうするのは,大学の言説の構造において,「真理の座」(黄色の領域)に措定された le signifiant maître[支配者徴示素]S1 が確固たる外見を失ったときです.

S1 は,たとえば,形而上学における真善美のイデアであり,あらかじめ与えられた「人生の目標」であり,「なぜ生きるのか」の問いに ready-made な答えを与える意義(支配者意義,la signifiance maîtresse, Herrenbedeutung)です.社会構造や価値観がまったく安定している場合,我々は,所与の S1 に頼り切りきったまま(あるいは,支配されたまま),何の疑問も持ちません.「生の意味について問う」必要は,全然ありません.

しかし,我々が生きている時代(19世紀以降)は,我々を,それとはまったく逆の状況に投げ入れます.所与の支配者意義 S1 は揺らぎ,失墜してしまいます.従来は最も価値があり,最も意義があるものと信ぜられてきたもの — たとえば,プラトン的な「真,善,美」のイデア,神が与える律法と秩序,神が約束する天国,意識的で理性的な自我の自由意志と自律性,等々 — は,もはやただの神話にすぎず,まったく無意味なものとなってしまいます.そうなると,何のために生きているのか,生の意義は何に存するのかは,我々にとって,自明なものではなくなります.それが,ニヒリズム — 後で言及する「能動的なニヒリズム」との対比において「受動的なニヒリズム」と呼ばれます — の状況です.

ニヒリズムの状況において「生の意味を問い,生の意義を探し求める」こと — 日本では「自分さがし」という表現もよく用いられました —,それは,所詮,大学の言説の構造における「真理の座」に改めて措定し得る新たな支配者徴示素 S1 を探し求めたり,新たにでっちあげようとすることにすぎません.そのような試みは,「受動的なニヒリズム」に対して,「能動的なニヒリズム」と呼ばれます.その最も代表的な例は,Nietzsche の「力への意志」と「超人」です.

また,新たな S1 を探し求める者は,「わたしこそ,新たな価値(つまり,新たな支配者徴示素,新たな支配者意義)を提供し得る者です」とうそぶく者たち — Lacan は,そのような者たちを「ゲス」(下司,下衆:フランス語では canaille)と呼び,倫理的にもっとも下劣なものと見なします — による催眠術の罠にかかり,そのような者たちよって食いものにされる危険性もあります.新興宗教の教祖や,ある種の政治家や,自己啓発セミナーの主催者などを,そのような「ゲス」の例として挙げることができるでしょう.

Frankl が置かれた強制収容所の状況においては,受動的なニヒリズムは最も極端な形を取り,能動的なニヒリズムが入り込む余地はありません:明日にでも家畜のように殺されることが確実であり,生きている「意味」は何も無い.そこにおいては,如何なる支配者意義 S1 ももはや可能ではなく,支配者徴示素 S1 は「真理の座」から完全に閉出されてしまっています.

S1 の閉出によって真理の座が空座となったとき,Frankl に何が起きたか?異状の構造としての大学の言説から分離の構造としての分析家の言説への構造転換 (Wendung) です.

そこにおいて成立する $ / S1 の構造は,「生」からの問いかけ — つまり,存在 [ Seyn ] からの問いかけ,神からの問いかけ — に答える〈その本来性における〉実存の様態を形式化するものです.

S1 は,大学の言説の構造における「真理の座」から閉出 (forclusion) されて,分析家の言説の構造において「生産の座」へ位置づけられますが,そこにおいて,S1 は,書かれないことをやめない不可能な signifiant[徴示素]となります.

大学の言説の構造において「真理の座」に措定されていることによって否定存在論的孔穴を塞ぐものと信ぜられている S1 は,その閉出が精神病発症を条件づけるところの「父の名」(le Nom-du-Père) であり,また,性本能の成熟段階としての「性器体制」(Genitalorganisation) において性関係を可能にすると想定されている「家父長ファロス」(le phallus patriarchal) Φ でもあります.

それに対して,分析家の言説における $ / S1 の構造は,不可能な「神の名」を代理するキリスト者の主体 $ の形式化であると同時に,性関係の不可能性(家父長ファロスの不可能性)を代理する昇華された欲望 $ の形式化でもあります.

精神分析の経験においてその構造に耐えることができるようになること  分析の終結は,そのことに存します.

小笠原 晋也

2019年6月11日

das internationale Judentum に関する Heidegger の「黒ノート」の一節


Heidegger の黒ノート


das internationale Judentum という表現を Heidegger が用いている一節を,補足的に紹介しておきます.それは,Weltjudentum という表現と同様に,世界的ないし国際的な「ユダヤ組織」(Judentum) による「陰謀」(Machenschaft) に関する Heidegger の妄想的な懸念という文脈のなかに位置づけられます:



Überlegungen XIII (GA 96, pp.131-133 : 1939-1941)


101

いかにも「島々」はあるが,そこからそれら島々が突き出しているところの海を経験し得る者たちはいない.(存在[という海]から[突き出している]現場存在[という島]).「島々」とは,歴史的に規定された比類無き者たち — 彼らには,対立と争いの解和としての歴史の本有の基礎づけが課されている — のことである.その歴史とは,存在の歴史である.それへの帰属性は,貧しさ — その所有は,自有の財産として存有し続ける — へ貧しくなることにおいて与えられる.単に史学的であるにすぎない歴史(形而上学的な歴史)は,序幕にとどまっている.そこにおいて,「史学的」現実の国家分節は,役割分担 — その秘められた道は,ゆっくりと明らかになりつつある — への道を開いた:さまざまに変種した国家主義[国粋主義,民族主義]の役割は帝国主義の刺激であり,社会主義の役割は帝国主義を広げることであり,[帝国主義の]刺激は専制政治を駆り立てることへ向かう.

[帝国主義が]広がることは,下級のものへの例外無き平均化へ向かう.そのように誘出された帝国主義(専制的なプロレタリア主義という意味における帝国主義)は,それ自体,確固たる「理想」でも「目標」でもなく,しかして,それ自体,なおもひとつの運動形態 — その最終形態をまだ明らかにしていない運動形態 — である.だが,「帝国主義」のそのような権力獲得は,現代の人類を無条件的な作謀へ引き渡す;それ[作謀]は,ひとつの抵抗しがたい誘惑手段を用いる:作謀は,意識を,作謀の執行者 — 作謀(ここでは,「計画し,設備する計算」という前景的な意味における「作謀」)のそのような「帝国主義」において自身に仕えるという〈作謀の〉執行者 — としてのあり方へ引き渡すが,しかるに,まことには,すなわち,ここにおいて歴史としてはなおも秘匿されているものの本有においては,帝国主義の〈作謀への無条件的な隷属への〉引き渡しが既に決断されている.この〈存在の歴史の〉広大な,長く延びた控えの間[前段階]においては,何も成起しない[無が成起する].しかしながら,すべては,決断無き状態へ圧し出され,決断盲目性という荒れ地へまとめて押し込められているので,あの〈作謀の〉誘惑のゆえに,可能な限り多くの仕事が人間すべてを常に,残らず,働かせていなければならない.

この〈存在の歴史の〉控えの間[前段階]の内部で,我々は,西洋の革命へ近づく.この無条件的な形態における革命は,しかし,ほかなる源初という意味における新たなものへ通ずるのではなく,しかして,「終り」— そのかつての源初から引きちぎられた「終り」をもたらす.「究極的な最後」に関するバカ話すべてにおいて無自覚的に思念されているのは,その「終り」のことである.その[西洋の]革命は,だが,単に,Bolschewismus がドイツおよび西欧諸国へ「量的」に広がる,ということではなく,而して,終りとして,唯一的かつ固有な何かである.無条件的な作謀の完了;見かけ上なおも「個人的」な — かつ,人間の顔をした — 独裁政治が,誰でもない者の専制政治へ引き継がれることとしての〈無条件的な作謀の〉完了;誰でもない者の専制政治においては,無際限な計画と計算の過程が純粋に権力を獲得する;「現実的」なもの,「行為」,処置を誇示し,存在事象としての処置の遂行を誇示し,かつ,そのような本質の — 今や完全に忘却された存在としてのそのような本質の — 存在事象が権力を獲得すること;そのような「歴史」において,初めて,無の権力は,妨げられることなく,その極限へ達する(それゆえ,従来の意味におけるいわゆる「ニヒリズム」— ニーチェ的意味におけるニヒリズムも含めて — は,すべて,単に,一次的な,限られた序幕にすぎない).そのような「歴史」をとおして,歴史の本有は,ひとつの最初の決断 — 無と存在との間の決断 — のエッジへ来たる.帝国主義的-好戦的な思考様式と,人道的-平和主義的な思考様式とは,単に,相互に帰属しあう「考え方」にすぎず,毎次,口実として,毎次さまざまに持ち出されてくる「史学」的な —「歴史」をでっちあげる —「考え方」にすぎない.それらの「考え方」の領域においては,いかなる決断ももはや可能ではない — なぜなら,それらは,単に,「形而上学」の成れの果てを表しているにすぎないから.

それゆえ,das internationale Judentum は,両者[帝国主義的-好戦的な思考様式と,人道的-平和主義的な思考様式]をともに利用し,一方は他方のための手段であると宣言し,遂行し得る.この作謀的な「歴史」でっちあげは,すべての共演者を同様に彼らのネットへ絡め取る.作謀の周域には,「バカげた国々」があり,そしてまた,バカげた文化でっちあげがある.近づきつつある西洋の革命において,初めて,近代の最初の革命(イギリス,アメリカ,フランスにおける革命と,それらの余波)はそれらの本質へ連れ戻される.「西欧」は,ついに,かつ,決定的に,革命に見舞われる — いかにも,「西欧」はなおも革命との戦いに勝利すると思っているが.

誰がその戦いにおいて「世界支配」を主張し,勝ち取るかも,最もひどくすりつぶされる者たちの運命も,同じほどにどうでもよいことである.そも,誰がなおも立っているにせよ,誰が倒れるにせよ,それは,形而上学の平面においてであり,誰もが他者たちによって排除されたままである.

2019年6月10日

Lacan と一神教 I

三位一体 (Trinitas) を表すボロメオ結び


Lacan と一神教 I


Lacan の母 Émilie (1876-1948) は,敬虔なカトリック信者でした.Lacan の弟 Marc-François Lacan (1908-1994) は,ベネディクト会に入り,司祭となっています(彼の名は,わたしが愛用しているフランス語訳聖書 la Traduction oecuménique de la Bible に,翻訳者のひとりとして挙げられています).

Lacan 自身も,初等教育と中等教育の12年間を,カトリックの教育機関 le Collège Stanislas で受けました(わたしは,それがイェズス会の運営する学校だと思っていたのですが,確認したところ,そうではないとわかりました).

Lacan がいつごろからミサに行く習慣をなくしたのかは不明ですが,ともあれ,彼は,神について問うことをやめませんでした.

Séminaire XXIII Le sinthome の1976年03月16日の講義においても,Lacan はこう言っています:


人類がたいそう必要としているのは「他の他はある」ということであり,一般的に「神」と呼ばれているのは,その「他の他」である.しかし,「神」について,精神分析が明らかにしたのは,このことだ :「神」とは,まったく単純に,「女」(La femme) のことである.  
「女」を La... と指し徴すのを許す唯一のことは — というのも,わたしがあなたたちに言ったように,La femme n'ex-siste pas[女は解脱実存しない]からだが;そして,ますますそう思う理由がある;とくに,あの映画[阿部定をヒロインとした大島渚の L'empire des sens : 邦題は「愛のコリーダ」]を見たあとでは... La femme を仮定するのを許す唯一のことは,女は,神[が創造するの]と同様,[新たな生命体を]生む者である,ということだ. 
ただし — それは,精神分析が我々を進歩させたということだが — その進歩とは,我々はこのことに気づく,ということだ:すなわち,神話は,あらゆる女を,唯一の母,すなわち Eva から発せさせているとはいえ,[唯一の神のように,唯一の女がいるのではなく]生む女は,個々,複数いるだけである.  
そして,それがゆえに,わたしは,Séminaire Encore において,このことを想い起こさせたのだと思われる:あの複雑な文字 — すなわち,「他の他は無い」ことの徴示素 S(Ⱥ) — は何を言わんとしているのか.

我々は,今回,6月14日,Heidegger の Antisemitismus の問題について若干の考察を補足した後,Lacan が神について如何に問い続けているかについて,そして,特に Lacan が神秘主義 (le mysticisme) について如何に問うているかについて,見て行きたいと思います.

今期のセミネールの残りの日程は,以下のとおりです:

VIII. 6月14日 : Lacan と一神教 (I)
IX. 6月21日 : Lacan と一神教 (II)
X. 6月28日 : Lacan と一神教 (III)


ただし,必要に応じて内容を変更する可能性もあります.

各回とも,開始時刻は 19:30, 終了時刻は 21:00 の予定です.

場所は,各回とも,文京区民センター 内の 2 階 C 会議室です.

いつものとおり,参加費は無料です.事前の申込や登録も必要ありません.

問い合わせは,小笠原晋也 まで:
tel. 090-1650-2207
e-mail : ogswrs@gmail.com

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なお,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール は,本年10月ないし11月に開始する予定です.如何に Lacan が精神分析を,存在 の真理の実践的現象学として,純粋に(非経験論的に,かつ,非形而上学的に)基礎づけようとしたかを,あらためて見て行きたいと思います.

小笠原晋也

2019年6月2日

Heidegger と「世界ユダヤ組織」妄想 III

1927年(Sein und Zeit が出版された年)の Heidegger

Freiburg 大学総長,Heidegger (1934) : Hitler と同様のヒゲをはやし,ワシと鈎十字から成る Nazi の徽章を襟に付けている.先週紹介した写真と同じときに撮影されたと思われる.


東京ラカン塾 精神分析セミネール 2018-2019年度 第三学期

フロィト,ハィデガー,ラカン & 一神教


6月07日は,先週に引き続き,Heidegger の Schwarze Hefte[黒ノート]における反ユダヤ主義的な記述を検証して行きましょう.先週は,Überlegungen VIII の一節 (GA 95, pp.96-97) を紹介しました.今回は,そのほかの部分を見て行きます.

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Überlegungen X (GA 95 : 1938-1939) 

48

「文化」を権力手段としておのがものとすること,そして,それによって,自己主張し,優越を偽って申し立てること — それは,基本的に,ユダヤ人的 (jüdisch) なふるまいである.そこから,文化政策そのものにとって,何が結果するか? 


Überlegungen XII (GA 96: 1939-1941)

24

(...) ここで,次のことを知るべきである:「教養」と「文化事業」の領域内では,荒廃が,生活必需品のより大がかりな調達の領域においてよりも,既に,本質的に,より進行している.それに応じて,精神遺産の〈無効な〉番人たちにおいては,本質的な考察を放棄することにおけるより高度な巧みさが形成されてきた.一方では,根ざすことの領域すべての無力化 — 一貫した作謀の強力化に有利となるように —,そして,他方では,大衆的な人間どもの〈決断と尺度への〉要請すべての放棄:その無力化とその放棄とは,呼応しあうよう,いざなわれ,その呼応関係は強化されている.この拡大する呼応関係によって,ひとつの目立たない空虚が成立する — その秘匿された本有は,今もなお主導的な形而上学の基本的立場にもとづいては,概念把握され得ない;特に,その空虚は,自身とは逆のものの外観において,自身を提示するがゆえに.存在事象全体の作謀への人間の無条件的な組み込みとして[その空虚は成立する]— その組み込みは,しばしば,なおも,歴史的な支配形態を引き合いに出す形において[起こるが,]それらの歴史的な形態からは,既に,あらゆる基底は取り去られている.例えば,今日の軍人たちは,Preußentum[プロイセン性]を引き合いにだすことができると思っているが,それは,本有において,変化してしまっており,そのうえ,先の世界戦争[第一次世界大戦]の年月の間に戦った者たちとさえ,既に異なるものになっている — 以下のことは除いて:すなわち,人間の行動のこの領域[戦争]からは,それが固有のしかたで構造化された厳しさにおいて,死の前に[人間を]置くとしても,創造的な歴史的決断は決して生じ得ず,ただ,常に手段的な規律の形が[戦争という領域からは]生ずるだけである.その形を全体へ広げようとすることは,存在の本有 — および,存在の〈力と無力に対する〉彼岸性の本質 — に関する粗野な無知に等しい. 

だが,以上の理由により,あらゆる「平和主義」とあらゆる「リベラリズム」もまた,本質的な決断の領域へ突き進むことができない.なぜなら,それらは,そのことを,真正なる — および,真正ならざる — 戦士精神に対する対抗へ変えてしまうだけであるから. 

だが,ユダヤ組織の一時的な権力増大は,以下のことにその根拠を有している:すなわち,西洋の形而上学は — 特に,その近代的展開において — 空虚な合理性と計算能力がのさばるために端緒となる場所を提供したのだ.そして,その空虚な合理性と計算能力は,そのような道によって,「精神」のなかに居場所を入手した — 秘匿された決断領域を決してみづから把握し得ないままに.将来的な決断と問いがよりいっそう根源的になり,源初的になるにつれて,ますます,そのような決断と問いは,あの「人種」には,接近し得ないものであり続ける. 

それゆえ,Husserl が〈思念を心理学的に説明したり歴史学的に差引勘定したりすることをやめて,現象学的に考察することへ〉歩を進めたことは,変わらぬ重要性を有している.しかし,それ[Husserl の現象学的考察]は,本質的な決断の領域へは決して到達せず,むしろ,哲学の歴史学的伝統を前提している.その必然的な帰結は,すぐさま,新カント派的な超越論的哲学への方向転換において示されている.そして,そのことは,結局,形式的な意味における Hegelianismus への進行を不可避なものにした.わたしの Husserl に対する「攻撃」は,彼にのみ向けられたものではなく,また,そもそも,非本質的なものである.攻撃の向かう先は,存在の問いの怠りであり,すなわち,形而上学そのものの本有である.形而上学を根拠にして,存在事象の作謀は,歴史を規定し得る.その攻撃は,存在事象の優位と存在の真理の基礎づけとの間の至高なる決断の歴史的な瞬間を基礎づける.


Überlegungen XII (GA 96: 1939-1941)

38

作謀の時代において人種が歴史の(あるいは,単に歴史学の)〈言明された,かつ,ことさらに定立された〉「原理」へ高められたということは,「教条主義者」たちの恣意的なでっち上げではなく,しかして,作謀 — それは,存在事象を,その諸領域すべてに応じて,計画的な計算へ強制的に服従させねばならない — の力の帰結である.人種思想によって,「生」は,一種の計算を表す〈育成可能性の〉形態へ還元される.ユダヤ人たちは,彼らのことさらに計算高い才能において,既に非常に長きにわたり,人種原理にしたがって「生きて」おり,それゆえ,彼らは,[人種原理の]無制限な適用に対しては,最も激しく自衛している.人種的育成の設定は,「生」そのものに由来するのではなく,しかして,作謀による生の超強力化に由来している.作謀がそのような計画化を以て行っていることは,諸民族を〈あらゆる存在事象を同じ大きさと同じ形へ調節する[作謀的な]やり方へ諸民族を引きずり込むことによって〉完全に脱人種化することである.脱人種化と機を一にして進むのが,諸民族の自己疎外[自己異状化]である.すなわち,歴史の喪失,すなわち,存在への決断の領域の喪失.そして,それとともに,[以下のことの]唯一的な可能性は,埋められてしまう:すなわち,[各々]源初的に固有の歴史力を持つ諸民族が,相互の対立において,相互的な一致へ至る可能性.例えば,知的な概念把握と,無気味なものの内密さと広がりを有する思考の情熱と — Deutschtum と Russentum と.その場合,Russentum は,Bolschewismus とは何の関係も無い.Bolschewismus は,「アジア的」なものではなく,而して,終わりつつあった19世紀の程度に見合った西洋近代思考の産物である.それは,作謀の無制限な力の最初の決定的な先取りであった. 

Bolschewismus を人種原理によって打ち負かそうとする(あたかも,両者は,根本的に異なる形態を取りながらも,同じ形而上学的根を有しているのではないかのごとくに)ことも,Russentum をファシズムによって救おうとする(あたかも,両者は,深淵によって隔てられているほどに相異なりながらも,本有における一致をまったく除外してはいないかのごとくに)ことも,同じように妄想じみている.しかし,そのようなことが,歴史学的-技術的に行われるということは,既に,歴史に対する作謀の最終的な勝利,あらゆる政治の形而上学に対する敗北を示している.そこにおいては,同時に,このことが告知されている:すなわち,如何に我々は,もはや歴史学的な前景において追い立てられているだけで,ますます,道 — そこにおいて,成起することの歴史的な根拠が知られるべきであるところの道 — を識り損ねているか,ということ. 


Überlegungen XIV (GA 96: 1939-1941)

もし,ある者が,およそ,あらゆることがらについて,「すべては,生の表現として[捉えられ],かつ,本能と本能減退とへ帰せられる」と考える以外のしかたでは考え得ないならば,かつ,その限りにおいて,その者は,ユダヤ人 Freud の精神分析について,声高に憤慨すべきではないかもしれない.[しかし]そのような考え方は,あらかじめ,如何なる「存在」も許容してはおらず,純粋なニヒリズムである.(GA 96, p.218) 


Überlegungen XIV (GA 96: 1939-1941)

英国は,まことには,西洋的な態勢なしに存在しており,かつ,存在し得る — なぜ我々は,そこのとを認識するのがかくも遅くなったのか?なぜなら,我々は,将来において初めて,次のことを概念把握するであろうから:すなわち,英国は,近代世界を作り始めた国であるが,近代は,その本有において,地球全体の作謀の脱抑制へ方向づけられている,ということ.また,帝国主義の「特権」の分かち合いという意味において英国とわかり合おうとする考えは,歴史的な過程 — 英国が,今,Americanismus および Bolschewismus および,すなわち,また,同時に,Weltjudentum[世界ユダヤ組織]のなかで,終りまで演じている過程 — の本質には的中していない.世界ユダヤ組織の役割に関する問いは,人種的な問いではなく,而して,形而上学的な問い — まったく何にも結びつけられていないままに,存在事象すべてを存在から根こそぎにすることを世界史的な「使命」として引き受けることのできる類の人間性に関する形而上学的な問い — である.(GA 96, p.243)


Überlegungen XV (GA 96: 1939-1941)

世界ユダヤ組織は,ドイツから出ていった移民たちによってそそのかされており,いたるところで捉えどころがなく,あらゆる権力展開において,どこにおいても戦争行為に参加する必要がない.それに対して,我々は,我々自身の民族の最良の者たちの最良の血を捧げるしかない.(GA 96, p.262) 


Anmerkungen I (1942-1946) (GA 97 : 1942-1948)

Anti-christ[反キリスト者]は,あらゆる Anti- と同様に,それに対してそれが anti- であるところのもの — すなわち,キリスト者 — と同じ本有根拠に由来する.キリスト者は,Judenschaft[ユダヤ性]に由来する.ユダヤ性は,キリスト教的西洋の時代においては,すなわち,形而上学の時代においては,破壊の原理である.形而上学の満了のくつがえし — すなわち,Hegel の形而上学の Marx によるくつがえし — における破壊的なもの.精神と文化は,「生」の — すなわち,経済の,すなわち,組織の,すなわち,生物学的なものの,すなわち,「民族」の — 上部構造となる.

形而上学的な意味において本質的に「ユダヤ的」なものがユダヤ的なものに対して戦うとき,自己殲滅の頂点が歴史において到達される — ユダヤ的なものがいたるところで支配を完全に自身へ引き寄せているならば — 「ユダヤ的なもの」の征服が — とりわけ,それが —,また,「ユダヤ的なもの」への服従へ行き着くように. 

そこから出発して,このことが測知されるべきである:すなわち,西洋の歴史の秘匿された源初的な本有へ思考することにとって,Griechentum — それは,Judentum および,すなわち,Christentum の外にとどまる — における最初の源初へ思考を馳せることは,何を意義するか.(GA 97, p.20) 

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今期のセミネールの残りの日程は,以下のとおりです:

VII. 6月07日 : Heidegger の反ユダヤ主義について (III)
VIII. 6月14日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (I)
IX. 6月21日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (II)
X. 6月28日 : Lacan と精神分析とキリスト教について (III)

ただし,必要に応じて内容を変更する可能性もあります.

各回とも,開始時刻は 19:30, 終了時刻は 21:00 の予定です.

場所は,各回とも,文京区民センター 内の 2 階 C 会議室です.

いつものとおり,参加費は無料です.事前の申込や登録も必要ありません.

問い合わせは,小笠原晋也 まで:
tel. 090-1650-2207
e-mail : ogswrs@gmail.com


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なお,2019-2020年度の 東京ラカン塾 精神分析セミネール は,本年10月ないし11月に開始する予定です.如何に Lacan が精神分析を,存在 の真理の実践的現象学として,純粋に(非経験論的に,かつ,非形而上学的に)基礎づけようとしたかを,あらためて見て行きたいと思います.

小笠原晋也