2015年1月28日

2015年01月23日,東京ラカン塾精神分析セミネール2014-15年度第12回の要旨

『精神分析の四つの基礎概念』 第二章: フロィト的無意識とラカン的無意識

第二章のフランス語の表題は L’inconscient freudien et le nôtre : 「フロィトが言うところの無意識と我々が言うところの無意識」ですが,「我々」は Lacan のことを指しているので,簡潔に「フロィト的無意識とラカン的無意識」と言っておきましょう.

我々は普段,「Freud は無意識を発見した.無意識は,他 A の言説であり,ひとつの言語として構造化されている」と言いつつ,Freud から即座に Lacan へ移ってしまうので,Lacan が「無意識という用語のもとに把握しているのは,歴史的に Freud によって導入された概念ではない」と言うとき,若干とまどいを覚えます.しかし,両者はどう異なるのか?

Freud は,無意識の中核を成すのは「本能の表象代理」であると述べ,彼の Metapsychologie のなかに生物学的なもの,エネルギー論的なものを許容しています.それらの要素は,ラカン的ではありません.

また,Lacan がこのセミネール XI の冒頭から繰り返し問うている「精神分析と科学とのかかわり」の問いの視野において考えるなら,Freud は精神分析を科学の一分野を成すものと見なしていました.それに従って,後の精神分析家たちは,精神分析を精神医学の一分野あるいは心理学の一分野へ還元しようとしました.それもラカン的ではありません.

では,ラカン的無意識とは如何なるものか?

第二章の冒頭で Lacan Louis Aragon の詩 Contre-chant [かえし歌]を紹介しています:

虚しい  きみのイマージュは会いにきても
ぼくの在るところに入れない  ぼくは反射するだけ
きみがぼくの方を向いても  見つかるのは
まなざしの壁に映るきみの夢影だけ

鏡のようにぼくは不幸だ
映すだけで見ることはできない
鏡のように虚ろなぼくの目が宿すのは
きみの不在  だから何も見えない

そして,それに続いて,「客体 a の様々な形は,中心的かつ徴象的な関数 ( φ ) と対応している」と述べています.

( φ ) Lacan 1960年には「去勢の影象的な関数」と定義していました.ところがここでは「徴象的な関数」です.つまり,かかわっているのは,負化されたイマージュではなく,実は,抹消された徴示素としてのファロス φ である,ということです.

かくして,主体の存在の真理の現象学的構造 structure phénoménologique de la vérité de l’être du sujet と我々が呼ぶところのものの学素が措定されます:



そして,Aragon が絶望的に詩っているのは,仮象 a 存在 φ との分裂であることが読み取れます

ラカン的無意識の定義は,セミネール XI と同時期に書かれた書:『無意識の位置』のなかに見出されます:「主体,デカルト的主体は,無意識に先だって措定されるものである.他は,ことばが真理において肯われることにより要請される次元である.無意識は,両者の間で,両者の顕現態における切れめである」 (Écrits, p.839).




精神分析においてかかわる時間性を成すそれらのゆらぎにおける異状 [ aliénation ] と分離 [ séparation ] とを,とりあえず「切れめ」 [ coupure ] という語を明白にするために提示しておきましょう.

ラカン的無意識は,主体 $ と他 Ⱥ との間に位置する切れめである,と定義されます.その切れめには,異状の構造においては a が,分離の構造解体においては φ が位置づけられています.分離とは,主体の存在の真理の現象学的構造の解体における a φ からの分離です.

この「切れめ」 [ coupure ] を,Lacan は『精神分析の四つの基礎概念』 第二章においては,もっぱら「裂口」 [ béance ] と呼んでいます.ほかにも,trou [穴],fente [裂けめ],discontinuité [不連続],rupture [断裂],syncope [切れめ]などの等価的表現が用いられていることに我々は気づくことができます.

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