1月25日晩から26日未明にかけての Facebook での藤田博史氏の発言:
投稿者 B :
治療行為やそれが基づく理論がどういう思想の枠組みでなされているのかを検討の遡上に載せること,もっといえば,「目の前の苦しむ人を助ける」という倫理がどのような内実であるのかを検討の遡上に載せる思索も必要ではないでしょうか? たとえば,そういうことを Foucault がしましたね.
藤田博史 :
B さん,残念ながら,理屈は不意に訪れる危機的状況に対して無力です.例えば,駅のプラットフォームから誰かが線路上に落ちたのを見て,咄嗟に飛び降りて助ける.あるいは,船から落水した人を瞬時に飛び込んで救出する.これがわたしのいう倫理です.さらにいうなら,救出と引き換えに自らの命を失うこともあります.これも理屈が介在しない究極の倫理,つまり献身です.
ついでに言っておくと,わたしは Foucault をまったく評価しません.単なるキモいオヤジ(オネエ?)です(笑).
(…)
近いうちにフジタゼミで初期から晩年に至るまでのラカン思想の変遷と内容について総括的なお話をしましょう.タイトルは「予備知識がなくても二時間でラカンのすべてがわかる」です(笑).ラカンって所詮その程度です(笑).眉間にシワを寄せて難しいことを論ずる必要はまったくありません.
(…)
「二時間」は一時間にしようと思ったのですが,少し詳細に説明しようと考えて二時間にしました.ラカンの思想内容は実はラカン固有の思考法を知ると「なあんだ」という種明かし的な筋道がわかると言うことです.
(...)
いずれにせよ,ラカンを過大評価しないことが大切です.
それから以前も言いましたが,第七回セミネール『精神分析の倫理』全体をラカン自身は否定していますよね.あまりレフェランスとして出さない方が良いですよ.
(…)
『アンコール』の翻訳は既に一通り終わっています.訳者の感想を述べておくと「ラカン・マジック」とでもいうべき知的催眠の罠が,ある時は形式,ある時は内容として,随所に蒔かれており,それに読者は酔ってしまうのだろうと思います.
(…)
わたしが提唱している「ホログラフィック精神分析」の革新性が理解される頃にはわたしはこの世にいないのかもしれない...(苦笑).
(…)
[分析家が]いわゆる教育分析を受けているかいないかという古くて新しい問題は,その分析家が分析家としての機能を保持しているかどうかのメルクマールにはなりません.
わたし自身も教育分析をまったく受けたことがないわけではありませんが,教育分析をする人がお粗末な場合が殆どです.サンブラン [ semblant : 仮象 ] だとばれてしまうのです(苦笑).
それよりも,以前からわたしが主張している「大自然こそが偉大な分析家」というテーゼの意味を理解していただけることを願っています.
一つ重要なことを付け加えておきます.それは,ラカンの精神分析を忠実に実行すると,クライエントの自殺を誘発する可能性があるということです.
長期にわたって精神分析を受けている著名な方を何人か知っていますが,わたしには「精神分析の罠に引っかかって人生を無駄にしている」ようにしか見えません.
むしろ精神分析はクライエントをダメにしているようにすら見えます.
これをひと言でいうと「精神分析はクライエントを別の仕方で去勢する」となるでしょう.
その証拠として,長期にわたって分析を受けている人の殆どが男性です.男性に偏っているのです.
ここに,精神分析が仕掛けている罠の秘密が隠されています.精神分析に入れ込んでしまう心理は,一神教的なファナティズムと無縁ではありません.知らないうちに連綿と続いているヤハウェの亡霊に支配されているのです.
そうではなく,人生はもっと朗らか,多世界的,多神教的なものだと知るべきでしょう.何よりもまず,大自然がそれを教えてくれています.
(…)
自分の分析家が誰だったか言いたがる人はそれだけでダメです.恋愛の暴露自慢話に似ています.
わたしは30代の頃にとある人に教育分析を数回受けましたが,誰だったかは口が裂けても絶対に言いません(笑).
(…)
わたしの場合,早々と分析家に失望してしまったので...
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