『精神分析の四つの基礎概念』第三章:
確実性の主体について
記録には残されていませんが,1964年01月22日に行われた第二回の講義の質疑応答の際に,20歳になる直前の Jacques-Alain Miller は
Lacan に向かってこの問いを投げつけました:「あなたの存在論はいかなるものですか?」 既に Miller は,École normale supérieure における彼の指導教官
Louis Althusser の勧めで,暫く前から
Lacan の諸論文を読み始め,Lacan を研究していました.
Lacan は,精神分析家たちからついぞ発せられることのなかったこの鋭い問いに大喜びします.そして,時間が無くて Miller の質問にその場で十分に答えることはできなかったので,一週間後,この第三回の講義の冒頭で,存在欠如
manque à être の語を以て答えを示唆しています.
Lacan が structure d’une béance [裂口の構造], fonction
structurante d’un manque [欠如の構造化機能]と呼んでいる構造を,我々は,主体の存在の真理の現象学的構造の学素
を応用して,こう書くことができます:
「裂口においてかかわっているのは,存在論的関数である」と
Lacan が言うとき,Lacan はまさにこの構造を念頭に置いています.つまり,裂口にはひとつの存在論的相関者が対応しており,それは存在欠如です.言い換えると,裂口が存在欠如を代表ないし代理
[ représenter
] しています.
しかし,Lacan はここでは存在論という用語を使い続けることを避けています.それは,おそらく,聴衆の大部分が
Heidegger の存在論をほとんど知らなかったからでしょう.
Heidegger の存在論においてかかわっている存在は,二重化されています.一方に,存在事象そのもの全体としての存在 Sein があり,他方に,存在 Sein の真理としての Seyn, 抹消された存在,Sein, 存在があります.
両者の関連を簡潔に公式化するのが,これです : Es gibt Sein. これは単に「存在が有る」ということではありません.而して,何かが存在を与える.すなわち,Sein としての何かが,存在事象そのもの全体としての Sein を与える.この存在論的構造:
こそが,主体の存在の真理の現象学的構造の Heidegger 的基礎です.
そして,Heidegger の存在論においては抹消された存在
Sein がかかわっていますから,存在論
ontologie という語は,こう書かれるべきです:
Séminaire XI の第三回講義においては,Lacan は,存在論の代わりに,倫理という語を用いています:
le statut de l’inconscient est éthique, non point ontique.
無意識の身分は,存在的なものではなく,倫理的なものである.
端的に,無意識は倫理的なものである,と言ってもよいでしょう.「無意識は倫理的なものである」というのは,無意識においては欲望とその満足の問題がかかわっているからです.
Lacan が欲望
désir と言うとき,それは心理学的なものではまったくありません.而して,Lacan の言う欲望は,抹消された存在 être そのものです:
désir ≡ être
Lacan の公式:「欲望は,存在欠如の metonymia である」は,この等価性 désir ≡ être を公式化するものにほかなりません.
ですから,Lacan が「倫理的」と言うとき,我々はそれを「存在論的」と読みかえることができます:
éthique ≡ ontologique
さて,前回,ラカン的無意識はいかなるものかを示すために,『無意識の位置』における定義を先取りしました:
「主体,デカルト的主体は,無意識に先だって措定されるものである.他は,ことばが真理において肯われることにより要請される次元である.無意識は,両者の間で,両者の顕現態における切れめである」 (Écrits, p.839).
Lacan は,ここで学素 $ を以て差し徴される主体を「デカルト的主体」と呼んでいます.それはいったいいかなるものでしょうか? Lacan はこう言っています:デカルト的主体は「確実性の主体であり,かつ,あらゆる先行的知の拒絶」である (Séminaire XI, p.37). また,『無意識の位置』においてはこう言っています:「科学にとっては,cogito は,直観において条件づけられたあらゆる保証との断絶である」 (Écrits, p.831).
Lacan が Descartes の cogito ergo sum [我れは思考する,ゆえに我れは存在する]において注目するのは,ergo sum ではなく,而して,cogito です.dubito
[我れは懐疑する]としての cogito, dubitatio [懐疑]における cogito です.quod certum et inconcussum est [確実であり,かつ,揺るがし得ないなにものか]と Descartes が呼ぶのは,まずは,この懐疑における cogito です.この確実な前提に基づいて初めて,ergo sum [ゆえに我れは存在する]という確実な結論が得られます.ですから,Lacan が「確実性の主体」と呼ぶのは,「我れは存在する」ではなく,「我れは懐疑する」としてのデカルト的主体なのです.
「我れは懐疑する」としてのデカルト的主体は,直観的に,すなわち影象的に与えられるあらゆる保証を棄却します.我々は今,日常的には,むしろ,image [映像,影像]こそが真理を保証する,と思い込んでいますが,そのような思い込みは誤りのもとです.image は,言うまでもなく,錯覚を生ぜしめ得ます.image はむしろ,だますものです.
かつ,「我れは懐疑する」としてのデカルト的主体は,従来真なるものと思い込まれてきた知 S2 をすべて棄却します.そのような知は,まだ証明されていないものであり,今後証明され得るか否か不明のものであるからです.
そのときあらわになるのは,あらゆる image
もあらゆる signifiant も捨て去られた純粋な空き地です.Heidegger はそのような空き地を Lichtung [朗場]と呼びました.$ は,朗場のラカン的学素である,と言うことができます.
そして,Lacan が Télévision において述べた命題:「科学の言説と hysterica の言説とは,ほぼ同じ構造を有している」 (Autres écrits, p.523) がいかなることを指しているのかが明らかになってきます.
すなわち,hysterica の言説においては,満たされない欲望の穴としての $ が能動者の座に位置しています.
同様に,科学の言説においては,朗場としての $ が能動者の座に位置しています.そして,思い込みにすぎない知 S2 は,生産の座へ排斥されています.
hysterica の言説は満たされない欲望の穴をあらわにすることによって,そして,科学の言説は朗場という空き地をあらわにすることによって,両者はともに,精神分析の言説を準備しているのです.
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