2019年12月2日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (5)

René Magritte (1898-1967), La lunette d'approche (1963), the Menil Collection, Houston

« Le fantasme est la fenêtre sur le réel » (Lacan, Autres écrits, p.254)

 

2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (5)


日時 : 2019年12月06日(金)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室
参加費無料,事前申込不要

前回は,Irma の注射の夢 の再解釈について 若干の補足を行い,そして,夢に関する Freud の基本命題 :「夢は 願望成就である」について,ラカン的な観点から説明を行いました.

今回は,『夢解釈』第 IV 章で取り上げられている「機知に富んだ肉屋夫人」の「smoked salmon の夢」の ラカン的な再解釈を試みます.その際,Lacan が La direction de la cure et les principes de son pouvoir[治療の指針 と 治療の可能の原理]のなかで この夢について行っている再解釈 (Ecrits, pp.620-642) も紹介します.

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「夢は 願望成就である」とは 如何なることか?


『夢解釈』の第 II 章で Irma の注射の夢を解釈し終えた Freud は,「夢は 願望成就である」(der Traum ist eine Wunscherfüllung) という命題 — 精神分析の基本的な諸命題のうちで,おそらく最も有名な命題 — を措定します.ただし,第 IV 章の最後において,その命題を より正確な形において 提示します :「夢は,排斥された願望の 偽装された成就である」(der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches).

Freud は,Wunsch[願望]という語を用い,Begierde[欲望]という語は用いません — Hegel は,自己意識 [ das Selbstbewußtsein ] を定義するために,何のためらいも無く,Begierde[欲望]という語を用いていますが.

Wunsch[願望]と Begierde[欲望]との違いは,日本語の「願望」と「欲望」との違いと ほぼ重なり合います — Begierde[欲望]は 公然と表明することがためらわれる(羞恥を惹起するがゆえに)内容のものであるのに対して,Wunsch[願望]には そのような羞恥心は伴いません.

Freud が Begierde[欲望]という語を用いるのを控えたとすれば,それは,多分,Queen Victoria (1819-1901, 在位 1837-1901) の時代にヨーロッパ全体で支配的であった保守的な(しかして 偽善的な)道徳が 彼に染みついていたせいでしょう.Lacan は,そのような偽善性から自由でしたから,Wunsch に相当するような souhait や voeu は用いず,平然と désir[欲望]と言います.

また,Lacan は,désir[欲望]という語によって,単純に Freud の Wunsch を翻訳するだけでなく,Freud の言う Trieb[本能]を捉え直そうとします — Trieb[本能]という語は,Freud 自身,「Trieb は,心理学的なものと生物学的なものとの境界概念である」と言っているように,どうしても生物学的な意味合いを伴います.それは,勿論,Lacan にとっては望ましくないことです — Lacan は,精神分析を,心理学にも生物学にもよらずに,純粋に基礎づけようとしますから.

ついでながら,なぜ Hegel は自己意識 (das Selbstbewußtsein) を Begierde[欲望]と規定するのか?それは,精神の現象学の過程においては,自己意識は,知と真理との分裂 (die Trennung des Wissens und der Wahrheit) を包含しているからです.知と物との等合 (adaequatio rei et intellectus) はスコラ的な「真理」の定義ですが,自己意識においては,この adaequatio がまだ達成されておらず,分裂の裂け目が口を開いています.この裂け目(差異)こそ,Hegel が Begierde[欲望]と呼んだものです.この欲望は,裂け目を埋め塞ぎ得るだろう絶対知(真理と等合的となった知)を達成することを目標とする「精神の現象学」の弁証法的過程の 原動力となります.

そのような Hegel の téléologique[目的論的]な想定を,Lacan は退けます.知と真理との分裂の克服としての絶対知は 不可能である(書かれないことをやめない)— なぜなら,「性関係は無い」から;つまり,源初論的な裂け目を埋め塞ぐもの(それを 絶対知 と呼ぼうと phallus と呼ぼうと)は 不可能である(書かれないことをやめない)から.

それゆえ,「欲望の弁証法」(la dialectique du désir) は,téléologique[目的論的]な完成(欲望の満足)を以て終結するのではなく,而して,eschatologique[終末論的]な「欲望の穴の成起」に存する終結へ至ります — それが,欲望の昇華です.

夢は,排斥された願望の 偽装された成就である [ der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches ]. つまり,我々が夢で経験するイメージや光景は,何らかの〈排斥された〉欲望の「成就」を表しているが,ただし,それは,「偽装」された形においてである.

「偽装された」と訳されているドイツ語 verkleidet は,動詞 verkleiden[偽装する,扮装する,仮装する]の過去分詞です.どのように「偽装」するのか?このような場合,ドイツ語は とても雄弁です.verkleiden の語根 Kleid は「衣服,衣類」です.その動詞 kleiden は「服を着せる」です.つまり,裸体を布で覆う ことです.接頭辞 ver- は,この場合,「偽る,ごまかす」を表します.したがって,「偽装する」とは,本来的な「むき出し」の状態を 覆い(ヴェール,voile)で 覆い隠し (voiler), 偽ることです.しかし,覆い隠しつつも,何らかの痕跡によって表します — 隠しつつ表し,表しつつ隠しています.しかも,覆い隠された真理は,必ず,暴露 (dévoiler) されます —「隠されているものは,必ず,顕わになる」(Mt 10,26 ; Mc 4,22 ; Lc 8,17) と Jesus が言っているように.

他方,欲望の Erfüllung[成就]とは 如何なることか ? erfüllen という語は füllen[満たす]に由来しており,füllen は voll[英語の full に相当]と語源的に関連しています.erfüllen も「満たす,いっぱいにする」です.では,「欲望を erfüllen する」とは,欲望の穴ないし裂け目を埋め満たすことなのか?



確かに,欲望の弁証法は,hysterica の欲望不満足から出発して,欲望を満たす(満足させる)方向へ動いて行きます.しかし,大学の言説の構造において,欲望は「性関係は無い」を経験します — つまり,欲望の穴を phallus Φ で満たすことは不可能であることを,欲望は経験します.そして,そこから,欲望の Erfüllung の動きは,最終的に,分析家の言説の構造における「欲望の昇華」へ至ります.



その「欲望の昇華」は,欲望の穴を何らかの存在事象を以て埋め満たすことを放棄し,欲望の穴を 穴そのものとして 支え,そして,その穴の開口を前にして,無と死と罪の不安に耐え得るようになることに存します.

改めて Irma の注射の夢を振り返ってみるなら,そこにおいて,如何に,排斥された欲望の成就は 偽装された形において 描き出されているか?

排斥されていた欲望の穴は,無の穴,死の穴,罪の穴 としての 否定存在論的孔穴です.排斥されたものは,回帰してきます.否定存在論的孔穴は,大きく開かれた Irma の口 として回帰し,現れてきています.

如何に偽装されているか?源初論的な深淵そのものではなく,ひとりの人間の口という形に偽装されています.

後から気づいたことを補足すると,この「偽装」(Verkleidung) に関しては,我々は,Irma の注射の夢のもうひとつの場面に注目することができます — すなわち,若い同僚医師 Leopold が Irma の胸部を打診する場面です.その際,Leopold は,通常 そうするように Irma の衣服を脱がすことなく,彼女が着衣であるままで,打診します.そして,Freud は,打診によって感知されるはずの感覚(耳で感じ取られる反響音と,患者の身体に接触させている指に伝わってくる振動と)を「着衣にもかかわらず (trotz des Kleides), Leopold と同様に感じ取っている」ということになっています.ところが,この「着衣にもかかわらず」(trotz des Kleides) という要素に関して連想しようとするとき,Freud は,大きく開いた Irma の口の image に関してと同様に,強い抵抗を覚えます.つまり,entkleiden[衣服を脱がせる]も entdecken[覆いを取り去る]もしたくない 何か,verkleiden[偽装する]のままにしておきたい 何か が そこにおいてかかわっていることが,示唆されています.



夢は,排斥された欲望の 偽装された成就である [ der Traum ist die verkleidete Erfüllung eines verdrängten Wunsches ]. 排斥された欲望は,回帰してきます — 否定存在論的孔穴の開口 S(Ⱥ) として.しかし,夢においては — のみならず,幻想においても,症状においても — その裂口は,imaginaire なものというヴェールによって覆われることによって,偽装されます.その imaginaire なものは,夢や幻想におけるように,image としての事象性であることもあれば,hysterica の身体症状におけるように,身体的な事象性であることもあります.

Lacan は,幻想 ( $aは「実在性へ面する窓」[ la fenêtre sur le réel ] (Autres écrits, p.254) である,と言っています.現れ出てこようとする 主体 $ の穴(欲望の穴)が窓の開口であるとすれば,その窓には,いわば,カーテンがかかっています.薄いヴェールのようなカーテンです.室内にいる我々は,窓の外の光景(解脱実存性としての実在性)を,それがカーテンによって さえぎられ,偽装される限りにおいて,見ることができます.

幻想だけでなく,夢も 症状も,それらの構造は 学素 ( $ ◊ a ) によって形式化され得ます.その中心(臍)を成すのは,否定存在論的孔穴の開口 — 分析家の言説の構造において,否定存在論的孔穴のエッジとして現出してくる主体 $ — です.如何にその開口は,夢や幻想や症状においては,客体 a によって隠蔽され,偽装されているのか を,我々は分析して行くことになります.

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smoked salmon の夢(『夢解釈』第 IV 章 より)

神経症者を精神分析で治療するとき,夢は,かならず 話題になる.その際,わたし [ Freud ] は,患者に,心理学的な説明 — その助けによって,わたし自身が,患者の症状の理解へ至り得たところの説明 — をすべて与える.だが,そうすると,患者から 容赦のない批判を 浴びせられることになる — そのように辛辣な批判は,同じ専門領域の医師たちからは予期し得ないほどである.まったく例外なく,患者たちの反論は,「夢はすべて願望成就である」という命題に対して 向けられる.わたしに対して反証として提起された夢の材料の例を,いくつか,以下に示す.

あなたは「夢は,成就された願望である」といつも言いますが — と,ある 機知に富む 女性患者
[ eine witzige Patientin ] は切り出す — では,ひとつの夢のことをお話ししましょう.その夢の内容は,まったく逆に,わたしにとって ある願望が成就されない,という方向へ至ります.そのことを,あなたは,あなたの理論と どう一致させるのですか?その夢は,次のとおりです:
わたしは,晩餐会をしようと思うが,手元には 若干の smoked salmon 以外に 何もない.そこで,買い物に行こうと思うが,しかし,今は日曜日の午後 — 店はすべて閉まっている — であることを,思い出す.そこで,配達業者に電話しようと思うが,電話はつながらない.かくして,わたしは,晩餐会をする願望を 断念せねばならない.

自由連想 と 分析

患者の夫は,実直で有能な食肉卸売業者である.

数日前,夫は「太りすぎたから,体脂肪を落とす治療を始めようと思う」と わたし[患者]に 宣言しました.朝 早く起きて,運動をして,厳しいダイエットをして,そして,何よりも,晩餐会への招待をもう受けないでおこう,と言うのです.

彼女は,夫について,さらに,笑いながら 語る:

彼は,[酒場で]常連たちと飲んでいる席で,ひとりの画家と知りあいになりました.その人は,是非,彼の肖像を描きたい,なぜなら,これほど印象的な頭部は今まで見たことがないから,と言うのです.しかし,夫は,ぶしつけに こう答えたそうです:ありがたいことだが,しかし,絶対,あなたも,若くて美しい娘の尻の方が,わたしの顔なんかより,好きでしょう.

[彼女は,さらに語り続ける:]

わたしは,夫のことをとても愛しており,彼とふざけあいます.また,わたしは,彼に請います,わたしに caviar をくれないように,と.

それは,いったい,どういうことなのか?

わたしは,以前から,こう願っていました,毎朝,caviar を載せたパンを食べることができるようになりたい,と.しかし,caviar を載せたパンを与えられることを,自身に許しません.勿論,夫に請えば,わたしは,彼から,すぐに,caviar を得ることができるでしょう.しかし,わたしは,逆に,わたしに caviar をくれないよう,請うています — それによって,今後もずっと 彼をからかうことができるように.

この理由づけは本当のものではないだろう,と わたしには思えた.そのような不十分な回答の背後には,それと認められていない動機が隠れているものである.Hippolyte Bernheim のところで見た催眠術の被験者たちのことが思い出される — 彼れらは,催眠状態の最中に与えられたある課題を 催眠状態から醒めた後に 遂行するのだが,なぜそうしたのか と質問されると,「なぜそうしたのか,自分でもわかりません」とは答えず,しかして,かならず,明らかに不十分な理由づけをでっちあげる.わたしの患者の caviar に関しても,事態は同様だろう.彼女は,実生活において,成就されない願望を自身のために作り上げる必要があるのだ,と わたしは気づく.彼女の夢は,願望拒否
[ Wunschverweigerung ] を,実現されたものとして,彼女に示している.だが,いったい,何のために,彼女は 成就されない願望 を必要としているのか?

2019年11月25日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (4)

La gravure de Gustave Doré pour les vers 1-3 du Chant XXXI du Paradis de la Divine comédie de Dante (1861-1868) : « En forme donc de rose blanche m'apparaissait la sainte milice que le Christ épousa dans son sang ».
Dante Alighieri の『神曲』の『天国』の 第 31 歌 の 1-3 行のために Gustave Doré が制作した版画 (1861-1868) :「そのとき,白い薔薇の形を成して,聖なる軍団 — 彼れらを キリストは 彼の血において 彼の妻とした — が,わたし[と Beatrice]の眼前に,現れてきた」.



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (4)


日時 : 2019 年 11 月 29 日(金)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室
参加費無料,事前申込不要

今回は,まず,Freud が Irma の注射の夢 の分析から引き出した命題 :「夢は 願望成就である」(der Traum ist eine Wunscherfüllung) の意義を再検討します.次いで,『夢解釈』第 IV 章(ドイツ語原文,英訳,邦訳のテクストを link 先から download することができます)で論ぜられている「願望が成就されない夢」のひとつ — smoked salmon の夢 — を取り上げます.その夢に,Lacan は,『治療の指針 と その力の原理[ La direction de la cure et les principes de son pouvoir ] (Ecrits, pp.585-645) のなかで 注目しています — hysterica における欲望不満足 (le désir insatisfait de l'hystérique) について論ずるために.それゆえ,その夢は,ラカン派分析家たちの間では有名な夢の一例です.

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Irma の注射の夢の最後に出現してくる trimethylamine の化学式の意義について

Freud が『夢解釈』の本論 — 第 I 章は先行研究の紹介と検討に当てられていおり,本論は第 II 章から始まる — の冒頭において提示した Irma の注射の夢 は,ある意味で,精神分析の alpha かつ omega です.その夢の中心 — それを Freud は「夢の臍」[ der Nabel der Traums ] と呼んでいます — を成すのは,大きく開かれた口の穴のイメージです.

その穴は,神による「無からの創造」(creatio ex nihilo)ἀρχή[源初]を成す穴 — そこから出発して創造が始まるところの無の穴 — です.その「無の穴」は,聖書 (Gen 01,02) においては「深淵」(תְּהוֹם [ tehom ], ἄβυσσος) と呼ばれています.それは,また,源初的な χάος [ chaos ] でもあり
ます  « χάος » ,「混沌」だけではなく,「口を開いた深淵」でもあります.

以上の意味において,大きく開いた Irma の口の穴は,精神分析の alpha です.

我々は,ἀρχή[源初]という語から,archéologique[源初論的]という形容詞を作ることができます.« archéologie » は,辞書においては「考古学」ですが,我々にとっては,それは「源初論」です.そこから出発して創造が始まるところの「無の穴」— 否定存在論的孔穴 — は,源初論的孔穴 [ le trou archéologique ] でもあります.それは,存在事象が位置づけられる時空間に対して「外」であり,解脱実存的 (ex-sistent) です.

« archéologique »[源初論的]の反意語は,« eschatologique »[終末論的]です.否定存在論的孔穴は,終末論的孔穴でもあります.

源初論的孔穴 — それが Platon の言う ἰδέα によって塞がれることによって,Heidegger の「存在の歴史」における「形而上学の歴史」の相 [ phase ] が始まります  は,今や,終末論的孔穴(それは,死の穴です)として,まさに来たらんとしている:源初論的なものの 終末論的なものとしての 到来の切迫 — それが,Heidegger の時間論です.

Irma の注射の夢において,大きく開いた口の穴として描かれている否定存在論的孔穴 — それは,源初論的孔穴としては「無の穴」であり,終末論的孔穴としては「死の穴」です.さらに,否定存在論的孔穴は「罪の穴」でもあります.

そのことは,実は,Irma の口のなかに見出される鼻甲介状の造形 — それは,しかも,膿の痂皮によって覆われています — によって示唆されています.というのも,明らかに,この「鼻甲介」は,Freud の当時の「親友」である耳鼻科医 Wilhelm Fließ (1858-1928) による Emma Eckstein (1865-1924) に対する医療過誤を表しているからです.

Wilhelm Fließ は,Berlin 在住の耳鼻咽喉科医でした.鼻粘膜と性機能との間に関連性があるという学説(今から見れば,まったく空想的ないし妄想的な説)を発表し,鼻粘膜に局所的にコカインを塗布したり,外科的処置を施すことによって,ヒステリー症状を治療し得る,と主張していました

Freud は,1887年に初めて Fließ に出会い,彼の nasale Reflexneurose[鼻反射神経症]説を信じ込んでしまいます.そのことは,Freud にとって Fließ が一種の催眠術的効果を有したことを,示唆しています.


無意識の発見と精神分析の創始の道を歩みつつあった Freud は,孤独でした.Josef Breuer (1842-1925) という有力な先輩医師の庇護を得ることはでき,『ヒステリー研究』(1895) は 彼との共著として出版できましたが,Freud にとって Breuer だけでは 十分に安心できなかったようです.そのような状況において,Freud は,Fließ に大きな「心の支え」を見出します.

Fließ の「鼻反射神経症」説を無批判的に信じ込んだ Freud は,ときおり Fließ を Berlin から Wien に招き,Freud 自身や 彼の患者の 耳鼻科的な処置を,Fließ に任せます.

Freud が hysterica として精神分析治療していた Emma Eckstein に対しても,Freud は Fließ に耳鼻科的治療をしてもらいます.

Freud が Irma という仮名で呼んでいる患者(その伝記的な事実については 何もわかっていないようです)と Emma とは,比較的若いこと,身体症状を伴う hysterica であること,Freud と家族ぐるみの社交的関係を有していること,など,少なからぬ共通点を有しています.Irma と Emma は同一人物ではなかろうか?と疑いたくなります.しかし,「Irma の姓 と Ananas[パイナップル]という単語は,語音のうえで非常に良く似ている」と Freud は言っているので,残念ながら,Irma の姓が Eckstein であるとは,まず考えられません(Ananas と類似の語音を有する ユダヤ人の姓としては,Ananias, Anania, Hananiah, Hanani などが挙げられるでしょう;ただし,Emma の母親の旧姓[不明]が Ananas と類似の語である可能性は排除しきれません;また,Freud は, Irma は「若い未亡人」である 言っており,それに対して,Emma は結婚歴がありませんが,「若い未亡人」は camouflage である可能性も排除しきれません).

Emma Eckstein は,1892年から Freud のところで治療を受け始めています.そして,1895年 2 月(Freud が Irma の注射の夢を見る 5ヶ月ほど前),Fließ から,鼻甲介の一部の切除を含む鼻腔内の手術を受けます.

Fließ は,ほかの患者たちに対しては,鼻粘膜に対して局所的な処置を施すにとどまっていましたが,何を思ったのか,Emma に対しては,かなり大がかりな外科手術を行います.そして,Fließ は,Emma の鼻腔内ないし副鼻腔内に置いた止血用のガーゼを手術終了時に取り去ることを,忘れてしまいます.手術後 数週間たって,患部が化膿したため,Emma は Wien 在住の或る耳鼻科医の診察を受けます.その医師は,Emma の鼻からガーゼを除去しますが,その際,大出血が起こります(Freud は,Emma の大出血の現場を目撃しています).そのような大出血が起きたのは,Fließ が除去し忘れたガーゼのせいで Emma の鼻腔内には細菌感染が起こり,鼻中隔の一部が壊死していたためです.Emma は,出血性ショックによる死を かろうじて免れます.しかし,彼女の顔面には変形が残ってしまいます.医療過誤を犯したのは Fließ ですが,Fließ による手術を Emma に勧めたのは Freud ですから,Freud 自身,重大な責任を感じないではいられなかったはずです.

以上の事実は,Irma の注射の夢の解釈が展開されている『夢解釈』第 II 章では,まったく触れられていません.が,Freud と Fließ との文通(そのうち,Freud が書いたものは,廃棄や破壊を免れて,1954年に不完全な形で,次いで,1986年に完全な形で,出版されました)によって,事件の全容は周知のものとなっています.

Fließ による Emma に対する重大な医療過誤事件によって,Freud の Fließ に対する催眠術的な信頼は,即座に解消されたわけではありません(Fließ が「Freud は,わたしの学説を剽窃した者たちに加担した」と妄想的に確信して Freud を非難したことによって,両者の関係が最終的に破綻するのは,1906年のこと)が,大きく揺らいだことは確かです.

Irma の注射の夢に,その信頼の揺らぎは,大きく関与していたはずです.というのも,Irma の口が大きく開き,恐ろしい否定存在論的孔穴 — 無の穴,死の穴,罪の穴 — が Freud の眼前に出現した ということは,まさに,Fließ の〈支配者徴示素 S1 としての〉穴塞ぎの機能が不全に陥った ということを示唆しているからです.



S1 による穴塞ぎが無効になって,口を開いた否定存在論的孔穴を前にして 不安に襲われた Freud は,穴塞ぎとして機能し得るかもしれない者たち — 先輩医師 M (Josef Breuer) および 同僚医師 Otto と Leopold — を動員しますが,しかし,彼らは頼りになりません.

そして,最後に,忽然と,trimethylamine の化学式が,太字で印刷された形において,現出してきます.



はたして,その機能は何なのか? Gérard Haddad は,彼の著書 Lacan et le judaïsme (1981) において,ヘブライ語とヘブライ文字にもとづく独創的な解釈を提示しています.彼は,trimethylamine の化学式を こう表記します:



そのとき,ヘブライ文字を知っている者に見えてくるのは,ש です.



その文字は,ヘブライ語とユダヤ教の伝統のなかでは,HaShem[名,すなわち,神の名]や El Shaddai[全能の神]を表し得ます.

すなわち,夢の最後に,神の名が,否定存在論的孔穴を支えるエッジとして — 穴を塞ぐものとしてではなく ,現出してきます(冒頭に掲げた Gustave Doré の版画を参照).その支えのおかげで,Freud は,Irma の注射の夢を 悪夢のような不安夢として経験せずに 済んでいる,と 我々は推察することができます.しかも,Freud が Irma の注射の夢を 非常に重要な(「夢の神秘」を啓かしてくれた)夢と見なしているということは,Freud は この夢において 昇華の悦を得ることができた,ということを示唆しています.



つまり,神の名 ש がエッジとして否定存在論的孔穴の開口を支えてくれたことによって,異状から分離へ(大学の言説から分析家の言説へ)の 構造転換が生じ得たのです.そして,それによって,否定存在論的孔穴は,終末論的孔穴として,現出してきます.それゆえ,Irma の注射の夢は,精神分析の omega でもある,と言うことができます.

我々は,Freud 自身による解釈を超えて,Irma の注射の夢に,以上のように,否定存在論的孔穴の現象学を読み取ることができます.

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smoked salmon の夢(『夢解釈』第 IV 章 より)

神経症者を精神分析で治療するとき,夢は,かならず 話題になる.その際,わたし [ Freud ] は,患者に,心理学的な説明 — その助けによって,わたし自身が,患者の症状の理解へ至り得たところの説明 — をすべて与える.だが,そうすると,患者から 容赦のない批判を 浴びせられることになる — そのように辛辣な批判は,同じ専門領域の医師たちからは予期し得ないほどである.まったく例外なく,患者たちの反論は,「夢はすべて願望成就である」という命題に対して 向けられる.わたしに対して反証として提起された夢の材料の例を,いくつか,以下に示す.

あなたは「夢は,成就された願望である」といつも言いますが — と,ある機知に富む女性患者 [ eine witzige Patientin ] は切り出す — では,ひとつの夢のことをお話ししましょう.その夢の内容は,まったく逆に,わたしにとって ある願望が成就されない,という方向へ至ります.そのことを,あなたは,あなたの理論と どう一致させるのですか?その夢は,次のようです:

わたしは,晩餐会をしようと思うが,手元には 若干の smoked salmon 以外に 何もない.そこで,買い物に行こうと思うが,しかし,今は日曜日の午後 — 店はすべて閉まっている — であることを,思い出す.そこで,配達業者に電話しようと思うが,電話はつながらない.かくして,わたしは,晩餐会をする願望を 断念せねばならない.

[自由連想 と]分析

患者の夫は,実直で有能な食肉卸売業者である.

数日前,夫は「太りすぎたから,体脂肪を落とす治療を始めようと思う」と わたし[患者]に 宣言しました.朝 早く起きて,運動をして,厳しいダイエットをして,そして,何よりも,晩餐会への招待をもう受けないでおこう,と言うのです.

彼女は,夫について,さらに,笑いながら 語る:

彼は,[酒場で]常連たちと飲んでいる席で,ひとりの画家と知りあいになりました.その人は,是非,彼の肖像を描きたい,なぜなら,これほど印象的な頭部は今まで見たことがないから,と言うのです.しかし,夫は,ぶしつけに こう答えたそうです:ありがたいことだが,しかし,絶対,あなたも,若くて美しい娘の尻の方が,わたしの顔なんかより,好きでしょう.

[彼女は,さらに語り続ける:]

わたしは,夫のことをとても愛しており,彼とふざけあいます.また,わたしは,彼に請います,わたしに caviar をくれないように,と.

それは,いったい,どういうことなのか?

わたしは,以前から,こう願っていました,毎朝,caviar を載せたパンを食べることができるようになりたい,と.しかし,caviar を載せたパンを与えられることを,自身に許しません.勿論,夫に請えば,わたしは,彼から,すぐに,caviar を得ることができるでしょう.しかし,わたしは,逆に,わたしに caviar をくれないよう,請うています — それによって,今後もずっと 彼をからかうことができるように.

この理由づけは本当のものではないだろう,と わたしには思えた.そのような不十分な回答の背後には,それと認められていない動機が隠れているものである.Hippolyte Bernheim のところで見た催眠術の被験者たちのことが思い出される — 彼れらは,催眠状態の最中に与えられたある課題を 催眠状態から醒めた後に 遂行するのだが,なぜそうしたのか と質問されると,「なぜそうしたのか,自分でもわかりません」とは答えず,しかして,かならず,明らかに不十分な理由づけをでっちあげる.わたしの患者の caviar に関しても,事態は同様だろう.彼女は,実生活において,成就されない願望を自身のために作り上げる必要があるのだ,と わたしは気づく.彼女の夢は,願望拒否 [ Wunschverweigerung ] を,実現されたものとして,彼女に示している.だが,いったい,何のために,彼女は 成就されない願望 を必要としているのか?

2019年11月18日

母の欲望に関する Lacan の説明



Séminaire XVII「精神分析の裏」(1969-1970) の 1970年03月11日の講義における「母の欲望」(le désir de la mère) に関する Lacan の説明


母の役割 — それは,母の欲望* である.

それは,非常に重大なものだ.母の欲望* は,どうでもよいことであるかのように耐え得るようなものではないからだ.それは,常に災いをもたらす.

大きなワニ — その口のなかに,あなたはいる —,それが母だ.どんなことがワニを 突然 口を再び閉じる気にさせるのか,わからない.それが,母の欲望 [ le désir de la mère ] だ.

しかるに,安心させてくれる何かがある,ということを,わたしは[あるとき]説明しようと試みた.つまり,ここに骨がある,こんなふうに... わたしが言っているのは,簡単なことだ... 安心させてくれる何かがある... わたしは,若干,即興的に語っているのだが... こんなふうに太い棒がある — 結構 硬い棒だ,石でできているから.それは,ここに,ワニの口のところに,可能態において,ある.それは,ワニが口を閉めようとしても,それを抑え,動かなくする.それが phallus と呼ばれるものだ.それは,ワニの口が 突然 閉まろうとするとき,あなたをかばってくれる棒だ.

当時,わたしは,そんなふうに説明した.その当時,わたしは,気をつかわなくてはならない者たち  精神分析家たち — に向かって語っていたからだ.彼らが理解し得るためには,そのように おおざっぱなことを言わねばならなかった.とはいえ,彼らが皆,理解し得たわけではない.

当時,わたしは,「母の欲望」との関連において,「父のメタフォール」(la métaphore paternelle) について語った.わたしは,「父のメタフォール」という形においてしか,オィディプス複合について語ったことはない.


* を付した二箇所で,Lacan は,« le désir de la mère » ではなく,« le béguin de la mère » と言っている.« béguin » は,この場合,「気まぐれのような一過性の熱情」を表す俗語表現である.


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Lacan's explanation of "the mother's desire" in the session of the 11th March 1970 of his Seminar XVII The Other Side of Psychoanalysis

The role of the mother is the mother's desire. 

This is absolutely capital, because the mother's desire is not something that can be tolerated just like that — as if that were indifferent to you. It always causes damage. 

A huge crocodile between whose jaws you are — that is the mother. You never know what may suddenly come over her and make her shut her trap. That is the mother's desire. 

One time, I tried to explain that there was something reassuring. I am telling you simple things, I am improvising, I have to say. There is a cylinder (rouleau), a stone one of course, which is there, potentially, at the level of her trap, and it acts as a restraint, a wedge. It is what is called the phallus. The cylinder protects you, if, all of a sudden, it snaps shut. 

These are things that I have presented at one time, at a time when I was talking to people who had to be handled with kid gloves : I mean psychoanalysts. They had to be told things crudely, like that, so that they could understand them. What is more, they did not understand any better. 

I spoke therefore in relation to the mother's desire about the paternal metaphor. I have never spoken of the Oedipus complex except in that form.


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Remarques de Lacan sur « le désir de la mère » dans la séance du 11 mars 1970 de son Séminaire XVII L'envers de la psychanalyse

Le rôle de la mère, c’est le « béguin » de la mère. 

C’est absolument capital, parce que le « béguin » de la mère c’est pas quelque chose qu’on peut supporter comme ça, enfin, et que ça vous soit indifférent. Ça entraîne toujours des dégâts. 

Un grand crocodile comme ça, dans la bouche duquel vous êtes, c’est ça la mère. On sait pas ce qui peut lui prendre, tout d’un coup comme ça, de le refermer son clapet. C’est ça, le désir de la mère.

Alors, j’ai essayé d’expliquer que ce qu’il y avait rassurant, c’est qu’il y avait un os, comme ça... je vous dis des choses simples... il y avait quelque chose qui était rassurant... j’improvise un peu... un rouleau comme ça, bien dur, en pierre, qui est là en puissance, au niveau du clapet, ça retient, ça coince : c’est ce qu’on appelle le phallus, le rouleau qui vous met à l’abri, si tout d’un coup ça se referme.

Ça c’est des choses que j’ai exposées dans son temps, comme ça, parce que c’était un temps où je parlais à des gens qu’il fallait ménager : c’était des psychanalystes. Il fallait leur dire des choses grosses comme ça pour qu’ils les comprennent. D'ailleurs, ils ne comprenaient pas tous.

Alors j’ai parlé à ce niveau là de la métaphore paternelle. Je n’ai jamais parlé du complexe d’Œdipe que sous cette forme.

2019年11月10日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (3)

René Magritte (1898-1967), Le viol (1945), au Musée national d'art moderne à Paris 


2019-2020年度 東京ラカン塾 精神分析 セミネール



フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (3)


日時 : 2019年 11月 15日(金曜日)19:30 開始
場所:文京シビックセンター 5 階 D 会議室(普段 使用している 文京区民センター とは異なる建物です)

参加費無料,事前申込不要

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我々の否定存在論の観点から見るなら,Freud の Irma の注射の夢 の中心を成しているのは,大きく開く〈彼女の口の〉穴が「死の穴」(le trou thanatique) として 現れ出でてくる場面です:

by Mimi Choi (makeup artist)

Irma は,口を開く直前に,義歯 (Gebiss) を装着している女性のように,口を開くことに対して抵抗する,と Freud は述べています.その「抵抗」は,実際には,恐ろしい〈死と無の〉穴である「源初論的孔穴」(le trou archéologique) の開口に対する Freud 自身の抵抗です.

Gebiss という語は,「義歯」を表すだけでなく,本来は,人間や動物の口のなかにある「歯」(Zahn) 全体を表す集合名詞です.Gebiss の語源は,beißen[噛む]です.我々は,Hans 少年の恐怖症の対象である「馬の口に噛まれる」こと(今年度のセミネールのなかで取り上げます)を想起することもできますが,しかして また,vagina dentata を連想することもできます:


恐ろしい〈源初論的孔穴の〉開口を表す「次いで,Irma の口は 大きく開く」は,Irma の注射の夢の中心的な image なのですが,しかし,Freud は,それについて十分に解釈することができません.そして,脚注でこう付け加えています :「あらゆる夢は,解明され得ない (unergründlich) 箇所を,少なくともひとつ,有している.その箇所は,言うなれば,ひとつの臍[へそ]であり,そこをとおして,夢は,認識されざるもの (das Unerkannte) と 繋がっている」.

この unergründlich[解明され得ない]という語に,我々は,Jakob Böhme による神の名称 : Ungrund[無底]— 基礎づける (gründen) ことのできないもの — を見出し,さらに,Heidegger の言う Ab-grund[深淵のように口を開いた穴としての基礎,基礎になり得ない深淵の穴]を見出すことができます.そして,夢の臍をとおして繋がっている彼方の在所に位置づけられる das Unerkannte[認識されざるもの]は,書かれないことをやめない 存在 (l'être qui ne cesse pas de ne pas s'écrire) そのものです.

『夢解釈』において Freud が der Nabel des Traumes[夢の臍]と呼んでいるものは,我々にとっては,口を開いた源初論的孔穴 を指ししるしています.そして,Freud がそれを「臍」と呼んでいることは,まさに,Freud がそれを「口を開いた穴」として捉え得なかった,ということを示唆しています  臍は,母胎との〈開いていた〉繋がりの〈閉じてしまった〉痕跡にすぎませんから.

Irma の注射の夢の最後に,trimethylamine の化学式が,太字で印刷された形において,登場してきます:


開かれた Irma の口の image と同等に最も印象的な trimethylamine の化学式は,源初論的孔穴を縁取る文字です.その文字は,何を表しているでしょうか?15日のセミネールにおいて,Gérard Haddad の解釈を紹介しましょう.


2019年11月3日

フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (2)



2019-2020 年度 東京ラカン塾 精神分析セミネール


フロィトへの回帰 と オィディプスの彼方 (2)


日時 : 2019年11月08日(金曜日)19:30 - 21:00
場所:文京区民センター 2 階 C 会議室

参加費無料.事前登録不要.


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11月08日は,否定存在論的トポロジーと四つの言説に関する説明を補足した後,Freud が『夢解釈』の第 II 章で論じている「イルマの注射」の夢を再解釈して行きます.それは,Freud 自身が見た夢であり,『夢解釈』のなかで最初に詳細に分析されている夢です.そこから出発して,Freud は「夢は願望の成就である」[ der Traum ist eine Wunscherfüllung ] という公式を導き出します.

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イルマの注射の夢(『夢解釈』第 II 章 より)

予備的な情報

1895年の夏[つまり,Freud が『夢解釈』を書いている時点(1899年)の4年前]に,わたし [ Freud ] は,若い婦人 [ Irma ] を精神分析的に治療した.彼女は,わたしとわたしの家族にとって,とても近しい交友関係にある人だった.そのように医師患者関係と一般的な社交の関係が混ざり合った場合,その事態は,治療者 — 特に,精神療法家 — にとっては,多様な感情を惹起する元[もと]になり得る,ということは,誰にでも理解可能だろう.医師自身の治療的関心はより大きくなるが,彼の医師としての権威はより小さくなる.治療に失敗すれば,患者の家族や親族との長年にわたる親交を疎遠なものにしてしまうことになりかねない.精神分析治療は,部分的な成功を以て終わった.患者は,ヒステリー的な不安を感じなくはなったが,彼女の身体的な症状がすべてなくなったわけではなかった.当時,わたしは,ヒステリーの病歴に最終的に決着がついたということを表す指標に関して,まだあまり確信がなかったので,患者に,ある解決策 [ Lösung ] を取るよう,求めていた.しかし,それは,彼女にとっては,受け容れ難いと思われることだった.彼女がわたしの提案を受け容れないという不一致の状況において,我々は,夏のヴァカンスのゆえに,治療を中断した.ヴァカンスの滞在先で,ある日,年下の同僚 [ Otto ] — 彼は,わたしの親友でもある — が,わたしを訪ねてきた.彼は,わたしの患者 — Irma — と彼女の家族を,彼れらのヴァカンス滞在先に訪ねてきたところだった.わたしは彼に,彼女はどんな様子だったかを問い,この答えを得た:以前よりは良いが,完全に良いわけではない.友人 Otto の言葉 — ないし,それが述べられた調子 — に,わたしは怒りを覚えた,ということを,わたしは自覚している.つまり,わたしは,彼の言葉からひとつの非難が聴き取れる,と思った — たとえば,わたしは患者に[必ず治ると言って]多くを約束しすぎた,というような非難.そして,どうやらわたしのみかたになっていないらしい Otto の態度を,患者の家族 — 彼れらは,わたしの治療を好意的には見ていない,とわたしは推察していた — からの影響のせいにした — その推測が正しいか否かは不明であるが.ともあれ,そのとき,わたしは,わたしの苦痛な感覚を明確には感じ取ってはおらず,それをそのものとして表現することはなかった.その晩のうちに,わたしは,Irma の病歴報告を書きあげた — それを,いわばわたしを正当化する目的で,Dr M[Joseph Breuer :『ヒステリー研究』の共著者]— 彼は,Otto とわたしの共通の友人であり,当時,我々の仲間内で主導的な立場の人物だった — に提出するために.その夜(むしろ,翌日の朝方),わたしは,次の夢を見た.わたしは,それを,覚醒後すぐに書きとめた.

1895年07月23-24日に見た夢

広い広間.多くの客を,我々は迎えている.そのなかに,Irma がいる.わたしは,彼女を,すぐさま脇へ連れて行く — いわば,彼女の手紙に答えるために,つまり,彼女がわたしの「解決策」(Lösung) をまだ受け容れないことを非難するために.わたしは彼女に言う:「あなたがまだ疼痛を有しているなら,それは,まったく,ひたすら,あなた自身のせいだ[es ist wirklich nur deine Schuld : あなたの責任だ,あなたに罪がある]」.彼女は答える:「わたしが今,喉や胃[上腹部]や下腹部にどんな疼痛を有しているかを,知っていただけたら... それは,わたしを締めつけます」.わたしは驚いて,彼女を見やる.彼女は,青白く,むくんでいるように見える.わたしは考える:結局,わたしは,やはり,何か器質的なものを見逃していたのだ.わたしは,彼女を,窓のところへ連れて行き,咽頭を視診する.その際,彼女は,若干,抵抗のしぐさを見せる — 義歯を装着している婦人のように.そんな必要はないのに,とわたしは考える.次いで,口は大きく開く.右に,大きな白い斑が見える.ほかには,奇妙な〈皺のよった〉造形 — それは,明らかに,鼻甲介を模して形づくられている — のところに,灰白色の痂皮が広がっているのが,見える.わたしは,急いで,Dr M を呼び寄せる.彼は,改めて診察し,所見を確認する.Dr M は,普段とはまったく異なる外見をしている.彼は,青白く,跛行しており,顎にヒゲがない.今や,わたしの友人 Otto も,彼女のかたわらに立っている.友人 Leopold は,彼女[の胸部]を,胴着のうえから打診して,言う:彼女は,左下部に濁音を有している.そして,彼は,彼女の左肩の皮膚部分の浸潤を指さす(それを,わたしは,彼女が着衣のままであるにもかかわらず,彼と同じく,感じ取っている).M は言う:疑いなく感染症だが,何でもない;さらに赤痢が合併してきて,毒素は排出されるだろう.我々は,また,感染が何に起因しているのかを,直接に知っている.友人 Otto が,最近,彼女の気分が悪いときに,彼女に Propyl 製剤を注射したのだ — Propylen, Propionsäure[プロピオン酸],Trimethylamin(その化学式を,わたしは,太字で印刷された形において,眼前に見る).そのような注射は,そのように軽率にするものではない.おそらく,注射器も清潔ではなかったのだろう.
 


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今年度の日程については,東京ラカン塾の web site を参照してください.

小笠原 晋也

2019年10月6日

Heidegger の 反ユダヤ主義的発言の「検閲」された一例

Freiburg 大学総長 Heidegger (1934) : Hitler と同じようなヒゲをはやし,ワシと鈎十字から成る Nazi の徽章を襟に付けている.


Heidegger の Schwarze Hefte[黒ノート]における反ユダヤ主義的発言については,既に紹介した (Überlegungen VIII, Überlegungen X - Anmerkungen I). それ以外の彼のテクストにおける〈露骨に反ユダヤ主義的な表現の〉一例  しかも「検閲」されていた一例  を,補足的に紹介しておこう.

Peter Trawny は,「黒ノート」出版開始に際して発表した彼の著書 Heidegger und der Mythos der jüdischen Weltverschwörung[ハィデガー と ユダヤ人の世界的陰謀の神話](第 1 版 2014年,第 3 版 2015年)のなかで,彼自身がかかわった Gesamtausgabe 編集作業における Heidegger の反ユダヤ主義的言辞の「検閲」に関して,証言している(第 3 版 p.53 の脚注).

Peter Trawny によると,1998年に出版された Gesamtausgabe 69 に収録されている 1938-1940 年のテクスト Die Geschichte des Seyns[存在の歴史]の § 61 (pp.77-78) は,Heidegger の手稿においては,最後にこの一文を含んでいる:
Zu fragen wäre, worin die engentümliche Vorbestimmung der Judenschaft für das planetarische Verbrechertum begründet ist.
ユダヤ人たちは全地球的な犯罪を行うよう本来的に予定されているということは,どこに根拠づけられているのか,と問うべきであろう.

このあからさまに反ユダヤ主義的な内容の一文は,しかし,Fritz Heidegger(Martin の弟;彼は,読みづらい兄の手書き草稿をタイプライターで清書する作業を担当していた)が清書した原稿には見出されない.つまり,Fritz は,彼自身の検閲的判断により,それを削除したのだ.

Gesamtausgabe の編集者たち(Peter Trawny を含む)と,Heidegger の遺産管理者である Hermann Heidegger(Heidegger の次男)は,69 巻の編集の際,問題の一文を復元しないよう決断した.しかし,Peter Trawny は,2014年に「黒ノート」の出版が開始されたことにより状況は変化したので,削除されていた一文を公表することにした,と説明している.

Die Geschichte des Seyns の § 61 全体を,問題の一文も付加して,読んでみよう (GA 69, pp.77-78) :


61. Macht und Verbrechen
Wo die Macht als Wesen des Seins geschichtlich wird, ist alle Moralität und Rechtlichkeit verbannt und zwar unbedingt. Die Macht ist weder moralisch noch unmoralisch, sie machtet außerhalb von Sittlichkeit, Recht und Sitte. Alles, was in diesen Bereichen erbaut, bewahrt und festgehalten, was hier gefordert und als Maßstab gesetzt ist, wird durch die Macht selbst unbedingt zerbrochen und zwar so zerbrochen, daß nichts anderes an die Stelle des Zerbrochenen tritt außer der Macht selbst, die aber als Sein wie das ungreifliche Nichts sich gibt, weshalb die Zerbrechung alles Beständigen und Bestandvollen dieses Äußerste an Zerstörung zeigen muß. 
Daher gehören in das vom unbedingten Machtwesen bestimmte Zeitalter die großen Verbrecher. Sie lassen sich nicht nach sittlich-rechtlichen Maßstäben beurteilen. Man kann das tun, aber man erreicht so niemals ihr eigentliches Verbrechertum. Auch gibt es keine Strafe, die groß genug wäre, solche Verbrecher zu züchtigen. Jede Strafe bleibt wesentlich hinter ihrem Verbrecherwesen zurück. Auch die Hölle und dergleichen ist zu klein im Wesen gegen das, was die unbedingten Verbrecher zu Bruch bringen. 
Die planetarischen Hauptverbrecher sind sich ihrem Wesen nach zufolge ihrer unbedingten Knechtschaft gegenüber der unbedingten Ermächtigung der Macht völlig gleich. Historisch bedingte und als Vordergrund sich breitmachende Unterschiede dienen nur dazu, das Verbrechertum ins Harmlose zu verkleiden und gar noch sein Vollbringen als »moralisch« notwendig im »Interesse« der Menschheit darzutun.  
Die planetarischen Hauptverbrecher der neuesten Neuzeit, in der sie erst möglich und notwendig werden, lassen sich gerade an den Fingern einer Hand abzählen. Zu fragen wäre, worin die engentümliche Vorbestimmung der Judenschaft für das planetarische Verbrechertum begründet ist.

61. 力 と 犯罪
力が 存在の本有として 歴史的 [ geschichtlich ] となるところにおいては,あらゆる道徳性と合法性は 追放される — しかも,無条件に.力は,道徳的でも反道徳的でもない.力は,倫理と法と慣習の外において,力有 [ machten ] する.それらの領域[倫理と法と慣習の領域]において確立され,守護され,固持されてきたものすべて,そこにおいて要請され,基準として措定されていたものすべては,力そのものによって,無条件に破壊される — しかも,次のような様態において 破壊される:すなわち,破壊されたものの代りに歩み出て来るものは,力そのもの以外には,ほかに何も無い.しかるに,力は,とらえどころのない無と同様に,存在として 自身を与える.それゆえ,[力が]恒常的なもの および 存続性に満ちたもの を すべて破壊するとき,それは,破壊のなかでも最も極端なものを 提示することになるはずである.
それゆえ,重大犯罪者たちは,無条件な力の本有によって規定された時代に,属している.彼らは,倫理的-法的な 基準によっては 判断され得ない.我々は,そうすることもできるが,しかし,そうしたとしても,彼らの本来的な犯罪性に手が届くことは,決してない.また,彼らのような犯罪者をこらしめるに 十分なほどに重い罰は,無い.あらゆる罰は,本質的に言って,彼らの犯罪者としての本有に かなわない.地獄も,それに類するものも,無条件的な犯罪者たちが破壊するものに対しては,本質的に言って,小さすぎる. 
この全地球的な犯罪の主犯たちは,力の無条件的な強力化に対する無条件的な隷属のゆえに,彼らの本質において,まったく自己同一的である.歴史的 [ historisch ] に条件づけられ,かつ,目立つものとしてのさばる差異は,次のことに役立つだけである:すなわち,犯罪性を無害なものへ偽装すること,かつ,さらには,犯罪の実行を 人類の「利害」において「道徳的」に必要なものと 認識させること. 
直近の近現代における全地球的な犯罪の主犯たち — 彼らは,その時代において,初めて,可能となり,必然的となる — は,ほんの五指で数えあげられる.ユダヤ人たちは全地球的な犯罪を行うよう本来的に予定されているということは,どこに根拠づけられているのか,と問うべきであろう.

ここで論ぜられている Macht[力]は,当然ながら,Nietzsche の言う Wille zur Macht[力への意志,権力への意志]における「力」である.実際,Heidegger は,『存在の歴史』のテクストのなかで 幾度か Nietzsche の名を挙げ,「力への意志」にも言及している.

Heidegger は,Nietzsche を,存在の歴史において,「形而上学の満了」(Vollendung der Metaphysik) の哲人として位置づける.つまり,Nietzsche において,形而上学は,完成を見ると同時に,形而上学の根本的な構造が露呈されることによって,終焉を迎える — Nietzsche の言う「古典的なニヒリズム」として(Nietzsche が「古典的」と言うとき,そこには,このことが含意されている:すなわち,Nietzsche は,自身を,Wagner の軟弱な Romantizismus に対して,古代ギリシャの Sophokles の悲劇の高みに位置づけている).その「古典的なニヒリズム」を特徴づけるのが,「力への意志」である.

Heidegger の「存在の歴史」は,本質的に,形而上学の批判である.その要を成すのは,否定存在論的孔穴の源初性である.つまり,「源初に,穴が開いていた」ということである.その源初的な否定存在論的孔穴を,Platon は τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]としての ἰδέα によって塞いでしまう.そこに,形而上学は始まる.すなわち,形而上学は,否定存在論的孔穴の源初性の否認に存する.そして,その否認そのものも,形而上学においては,気がつかれないままとなる.

ところが,科学と資本主義が支配的となった 19 世紀以降,ἰδέα の類の形而上学的な諸形象 — οὐσία[存在],ἐνέργεια[エネルゲイア],substantia[実体],veritas[真理],« le Dieu des philosophes et des savants »[哲学者たちと神学者たちの神],monade[モナド],純粋理性,etc. — による穴塞ぎは,無効となる.なぜなら,科学の言説と資本主義の言説においては,原理的に言って,科学的に分析可能であり,かつ,資本増価のために利用可能であるもののみが「存在する」ものであるのに対して,科学的分析に耐え得ず,資本増価のために利用可能でもない形而上学的諸形象はτὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]ではなく,むしろ,τὸ μὴ ὄν[存在するはずのないもの,存在すべからざるもの]である,ということが暴露されるからである.

本当に存在するものであり,最も価値あるものである,と見なされてきた ἰδέα の類の形而上学的な諸形象が,単なるまがいものであることが明らかとなり,それによって,価値を失うこと — それが,ニヒリズムである.否定存在論的に言えば,ニヒリズムは,このことに存する:形而上学的な穴塞ぎが無効となることによって,否定存在論的孔穴が,恐ろしい死と無の穴として,口を開いてくること.

否定存在論的孔穴の開口を前にして,単に,絶対的な価値の喪失に悲しみ,不安と無力感に打ちひしがれているのは,受動的なニヒリズムである.それに対して,新たな価値を作り上げるなり,どこかほかのところから輸入してくるなりして,それによって再び穴を塞ごうとするのが,能動的なニヒリズムである.

Nietzsche は,能動的なニヒリズムをその極端な形態へ強力化する.それが,「古典的なニヒリズム」である.古典的なニヒリズムは,従来の ἰδέα のような「恒常的」ないし「静的」なものによって否定存在論的孔穴が塞がれ得ると信ずることをやめ,而して,際限無く常にもっと強力化して行く力への意志のみが穴を塞ぎ得る,と考える.そのような力への意志を体現するのが,「超人」(Übermensch) である.

ということは,Heidegger が「全地球的な犯罪の主犯」と呼んでいるものと,Nietzsche の超人とは,実は同じものでしかない.両者は,ともに,従来のあらゆる「価値」(道徳的な価値,法的な価値,慣習的な価値)を破壊する — なぜなら,それらはもはや無効であり,そのようなものに執着し続けることはできないから.そして,その代わりに,際限無く常にもっと強力化して行く力を措定する.

Heidegger にとって,ユダヤ人と超人の相違は,前者は力に隷属するのに対して,後者は力の体現者そのものである,ということに存するだろう.しかし,我々は,むしろ,こう言うことができる : Heidegger は,ユダヤ人という形象に,Nietzsche の超人の実現を見てとっている — 妄想的に.あるいは,こう言ってもよいだろう : Nietzsche の「超人」妄想は,Heidegger において「世界的ユダヤ組織 (Weltjudentum) の陰謀」の妄想へ受け継がれた.

我々は,Heidegger の反ユダヤ主義を,彼のニヒリズム分析の進展のなかに位置づけることができるだろう.

科学の言説と資本主義の言説によって条件づけられるニヒリズムの本質を,当初,Heidegger は,Machenschaft と名づけていた.その語は,このことを示唆している:すなわち,今や,「存在する」は 資本主義的に「生産され得る」に還元される.が,同時に,Machenschaft は「世界的ユダヤ組織の陰謀」をも含意している.

敗戦後,Heidegger は,Machenschaft という用語を捨て,代わりに Ge-Stell という用語によって,ニヒリズムの本質を捉えようとする.その語は,戦争中の徴兵のための Gestellungsbefehl[兵役のために出頭させる命令,召集令状]という表現に由来しており,かつ,国家総力戦のための totale Mobilmachung[総動員]の概念を包含している.つまり,Ge-Stell は,このことを示唆している:資本主義は,資本増価のために利用可能なあらゆる存在事象を生産のために動員し,資本主義体制においては,そのために利用可能であることが「存在する」を規定している.

Heidegger は,敗戦によって,Machenschaft に含意される「世界的ユダヤ組織の陰謀」の妄想が打ち砕かれたとき,初めて,ニヒリズムの本質をより的確に捉える Ge-Stell を着想することができたのではないだろうか.

ともあれ,ニヒリズムの超克は,形而上学的な諸形象の何らかの代用品で再び否定存在論的孔穴を塞ぐことによっては可能ではない — たとえ,無際限な力への意志を以てしても.そもそも,Nietzsche の「超人」は Freud の「超自我」と同じものであり,精神分析は,我々を有罪性へ追い込む超自我からの解放を目ざしている.

ニヒリズムの超克は,否定存在論的孔穴の源初性の否認 — それが形而上学を規定している — をやめることによって,初めて可能となる.穴は源初において開いていたのであり,かつ,穴を塞ぐことは不可能である  そう認める必要がある.そして,勿論,穴を隠す試みも放棄すべきである.それらのことを試みる方途のひとつが,精神分析である.

形而上学は,源初において穴は開いていなかったが,何かが欠けることによって,穴が開いてしまった,と考える.否定存在論は,源初に穴が開いていた,と認める.穴が開いていなかった形而上学的な源初を,Heidegger は,der erste Anfang[最初の源初]と呼び,穴が開いていた否定存在論的な源初を der andere Anfang[他なる源初]と呼んでいる.最初の源初から他なる源初へ向かう途上で,Heidegger は,「世界的ユダヤ組織の陰謀」の妄想に取り憑かれた.彼にとっても,その移行は容易なものではなかったのだ.

小笠原 晋也
Luke S. Ogasawara