2020年1月27日

小笠原 晋也 著:ハイデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての 否定存在論 と そのトポロジー(抜粋:序)

小笠原晋也,Jacques Lacan の墓にて,2017年03月25日(彼の別荘があった Guitrancourt の墓地)


小笠原 晋也 著:ハイデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての 否定存在論 と そのトポロジー(抜粋:序)


序 

Internet で “Heidegger” と “Lacan” の二語をキーワードにして検索すると,すぐに一枚の写真が見つかるだろう.六人が横一列に並び,カメラへ視線を向けて微笑んでいる.


向かって左から : Martin Heidegger ; 共産主義者として迫害され,祖国ギリシャからフランスへ亡命していた哲学者 Kostas Axelos (1924-2010) ; Jacques Lacan ; 初めて Heidegger をフランスに体系的に紹介した哲学者 Jean Beaufret (1907-1982) ; Heidegger 夫人 Elfride (1893-1992) ; Lacan 夫人 Sylvia (1908-1993).

Heidegger は,1955年08月28日,château de Cerisy-la-Salle で,講演
« Was ist das — die Philosophie ? » [ Qu'est-ce que la philosophie ? ][哲学とは 何であるか?]を行った.Heidegger がみづからフランスを訪れたのは,そのときが初めてであった.Lacan は,その会合には参加しなかったが,講演を終えた Heidegger と 妻 Elfride を,Guitrancourt に所有する別荘に招いて,何日間かもてなした.この写真は,その際,別荘の中庭で撮影された一連の写真の一枚である.それらの写真のうち幾枚かは,Lacan の末娘 Judith Miller (1941-2017) により Lacan の没後 10 周年に出版された写真集 Album Jacques Lacan (1991) に収録されているが,あの六人が並んだ写真は,どういうわけか,そこに含まれていない. 

その写真撮影のときから 20 年後,1975年04月08日の講義 (Séminaire XXII, R.S.I.) で,Lacan は,数日前に Heidegger を訪ねてきたことについて語っている:「この復活祭休暇の間に,わたしは,Heidegger にちょっと会ってきた.我々がふたりともこの世からいなくなる前にちょっと挨拶をしてきたというわけだ.わたしは,彼のことが好きだ.彼は,まだとても元気だ」.

その訪問は,Lacan が Heidegger と会った最後の機会だった.その際に Lacan に同行していた Catherine Millot — 彼女は当時,Lacan の公然たる愛人であり,彼は誰はばかることなくどこでも(旅先でも,別荘でも,彼の弟子たちがほとんど皆参加する l’École freudienne de Paris の学会でも)彼女を連れ回っていた — は,彼女の 2016年の著書 La vie avec Lacan[ラカンとともに生きる](pp.87-90) のなかで,興味深い証言を残している.その一節を,若干長いが,Lacan と Heidegger との個人的な関係性を概観するためにも,引用しておこう.

******
その後しばらくして,わたしは,ラカンがハィデガーをフライブルクの彼の自宅に訪ねるのに同行した.ハィデガーが脳卒中にみまわれたのを知って,ラカンは,彼自身の表現によると,「ハィデガーが死ぬ前にもう一度会っておきたい」と思ったのだ. 

ラカンは,ハィデガーとは昔から知り合いだった.最初は,1950年代の始めに,ボフレとともに訪問している.ちなみに,ボフレはラカンに分析を受けていた.ラカンは,Logos と題されたハィデガーのテクストをフランス語に翻訳している.その翻訳は,1956年に La Psychanalyse[la Société française de psychanalyse の学会誌]に発表された.1955年,ハィデガーは,スリジ・ラ・サルで行われたある学会に,ボフレとガンディヤク (Maurice de Gandillac) とによって招かれた.その帰途,ハィデガー夫妻は,ギトランクールのラカンの別荘に立ち寄り,数日間滞在した.ラカンは,夫妻のために,その地域を車で案内して回った — いつものように,猛スピードで運転して.ハィデガー夫人が叫び声を上げるのを,彼は無視した. 

我々は,まず飛行機でバーゼルへ行き,かの地のとても美しい美術館を訪れた.次いで,車を借りて,ハィデガー夫妻が我々を待つフライブルクへおもむいた. 

ハィデガー夫妻は,住宅街の比較的新しい家に住んでいた.それは,わたしが哲学者ハィデガーに結びつけていた森の山小屋のイメージには似ても似つかなかった.我々が中に入るや,ハィデガー夫人は,訪問者用のスリッパをはくよう我々に権威的に命令した.わたしは,ジュラ県の出身なので,雪の季節,山岳地方ではそのような室内履きがごく普通に用いられていることを知っていた.北欧諸国では家に入るとき靴を脱ぐことも,わたしは知っていた.しかし,そのときはもう 4 月だった.我々は外界の汚れを持ち込む者と見なされているのだ,とわたしは感じた.フロィトは,無意識にとっては「外」は「異」— すなわち,敵,および,一般的に言って,憎むべきもの — と同義である,と教えている.わたしは,一方では侵入者と見なされた不快感を感ずるとともに,他方では,スリッパと形而上学との思いがけぬコントラストが惹き起こした笑いをこらえていた. 

我々は,応接間に通された.ハィデガーは,長椅子に横たわっていた.ラカンは,ハィデガーのかたわらに座るや,セミネールで展開中のボロメオ結びを用いた最新の理論的前進を伝えようとした.話を図解するために,ラカンは,四つ折りの紙をポケットから取り出し,そこに一連のボロメオ結びを描いて,ハィデガーに見せた.後者は,その間ずっと一言も発さず,目を閉じたままだった.この態度は,関心の欠如の表現なのか,それとも,認知能力が弱っているせいにすべきなのだろうか,とわたしは自問した.あきらめることを知らないラカンは,頑固に説明し続けた.この事態が永遠に続くのかと思われたとき,幸運にも,ハィデガー夫人が現れて,「面会」を終わらせた.「夫を疲れさせないために」あらかじめ定められていた時間が過ぎたのだ.我々は,スリッパをはいた足で出口に向かった.そのまま厄介払いというわけではなく,後ほど近所のレストランで一緒に食事をするよう招かれた. 

スリッパのことがひどくしゃくにさわっていたわたしは,外に出るや,ラカンに質問した:ハィデガー夫人はナチスだったのか,と.「勿論さ」とラカンは答えた.当時は,ハィデガーとナチズムとの関係はさして問題にされていなかった.ファリアス (Victor Farias) の本 [ Heidegger et le nazisme (1987) ] は,まだ出ていなかった. 

食事の間,ハィデガーの口数はもう少し多かったが,会話はほとんどはずまなかった.ラカンは,ドイツ語を読めるものの,話すことはできず,ハィデガー夫妻もフランス語はできなかった.別れ際,ハィデガーは,葉書大の彼の写真をわたしにくれた.その裏面に彼はこう書いた:「フライブルク訪問の記念に,1975年 4 月 2 日」.わたしの名前は書かれなかった.頼まれてもいないのに彼がファンのためにサインすることに,わたしはちょっとびっくりした.しかし,わたしはその写真をうやうやしく取っておいた.わたしの面接室の本棚にその写真を見かけた[精神分析の]患者のひとりは,それはわたしの祖父なのか,と尋ねた.

****** 
以上の Catherine Millot の証言からもうかがえるように,Heidegger の Lacan に対する態度はそっけないものであるのに対して,Lacan の Heidegger に対する「友情」は熱烈である. 

Heidegger にとっては,精神分析は,生物学的な「性本能」を前提するひつとのいかがわしい心理学理論 — しかも,der Jude »Freud«[ユダヤ人『フロィト』](GA 96, p.218) によって作り出されたもの — にすぎなかった.それに対して,Lacan は,精神分析を形而上学にも生物学や心理学や社会学などの経験科学にもよらずに純粋に基礎づける — Lacan の教え全体はそのことに存している — ための本質的な手がかりを,Heidegger の教えのなかに見出していた.であれば,相手に対する熱の入れようが両者の間で大きく異なっているのも,当然である. 

だが,ラカン派精神分析家として,わたしは断言することができる : Heidegger の教師としての最大の功績は Lacan を生んだことである,と.今我々が受け継いでいる Lacan の遺産は Heidegger 無しにはおよそ考えられず,また,Heidegger の教えの成果を最も有意義に活用したのは Lacan である,とわたしは見積もっている. 

しかるに,Lacan が精神分析の基礎づけのための根本的なところを Heidegger から学び取ったという事実は,Lacan の書やセミネールにおける数多くの Heidegger への言及や準拠 — 明示的なものもあれば,暗示的なものもある — にもかかわらず,従来,ほとんど誰にも注目されてこなかった.フランスの哲学者 Alain Badiou (1937- ) は,おそらく,ほぼ唯一の例外であるかもしれない. 

その理由は,ハィデガー研究者とラカン派分析家との相互的な無関心である.前者にとっては,精神分析は自分たちの哲学的関心とは何のかかわりも無い「心理療法」としか思えず,他方,後者にとっては,Lacan のテクスト以上に不可解なジャルゴンに満ちた Heidegger のテクストは,精神分析の臨床とも理論とも無縁の「秘教」にしか見えない. 

特に,Lacan 亡きあとのラカン派の世界的な大黒柱である Jacques-Alain Miller (1944- ) は,彼より十数年から二十年ほど年長である Deleuze, Foucault, Derrida らとは異なり,Heidegger に対する積極的な関心をほとんど持ち合わせていない.カリスマ的な彼のそのような無関心は,そのまま lacanien 全体に共有されてしまう.また,近年出版され始めた Heidegger の「黒ノート」は,「ナチ党員ハィデガー」に対する拒絶反応をますます正当化している. 

かくして,ハィデガー研究者たちとラカン派精神分析家たちとの不幸な断絶状態は,いまだに世界中で続いている. 

Slavoj Žižek (1949- ) と彼の周辺が不十分なハィデガー理解と不十分なラカン理解にもとづいて何か言っているかもしれないが,わたしは Žižek の仕事については真摯な関心を持っていないので,ここでも特に取り上げない. 

わたし自身の場合,Lacan のテクストに初めて出会ったのは,1975年の名古屋大学入学後,教養部時代に所属していた「現代史研究会」においてだった.そのサークルは,かつて名古屋大学助教授だった廣松渉の弟子たちを中心に作られていた.なかには,いわゆるフランス現代思想に積極的に取り組むメンバーもいた.そこで行われていた読書会のひとつで取り上げられた Lacan の La signification du phallus[ファロスの意義]は,その極度の難解さのゆえに,ほとんど外傷的な経験をわたしにもたらした.そのことは,わたしにとって,Lacan の名が「書かれることをやめない」(必然的な)ものとなることを決定した — おそらく,真摯な lacanien となった者たちの多くが,若いころに同様の経験をしたことだろう. 

1986-88年にパリ第八大学精神分析学部に留学し,わたしは,Jacques-Alain Miller に教育分析を受け,彼の講義やセミネールから多くを学んだ.その後も長い間,ラカン読解に関しては彼の解釈に全面的に依拠していた.しかし,時がたつにつれて,それだけでは理解できないこと,説明のつかないことが,わたしのなかで次第に大きくなる疑問符を形成して行った.また,彼による Lacan のセミネールのテクスト編纂に少なからぬ誤りが — しかも,ときとして重大な過誤が — あること(§ 6 においてその若干を紹介する)を部分的にではあれみづから確認し得たことにより,ミレール的なラカン解釈に対する批判の必要性をより強く感ずるようになった. 

他方,Heidegger に関しては,精神科医である叔父がわたしに大学入学祝いとして松尾啓吉訳の『存在と時間』(勁草書房刊)をプレゼントしてくれたのが,Heidegger の著作そのもの — 翻訳書ではあれ — との最初の出会いの機会だった.叔父がそうしてくれたのは,高校時代に或る新書本(荻野恒一著,『現存在分析』,紀伊國屋新書)により「現存在分析」に興味を持ったわたしが当初から精神科医になるために医学部に入ったからだった.当時は「精神病理学を専攻する者は Heidegger を読まねばならない」という「古き良き」伝統が村上仁学派 — わたしの叔父もそこに属していた — のなかには残っていた.勿論,特に哲学の素養も無く,大学で哲学を本格的に学ぶ機会もないわたしには,当時,『存在と時間』は,Lacan の書と同様,まったく歯がたたないしろものだった. 

留学中に Jacques-Alain Miller のもとで Lacan を学ぶうちに,また,おりしも出版された Alain Badiou の L’être et l’événement[存在と成起](1988) を読むうちに,Heidegger ーの「存在」の概念と Lacan の jouissance[悦]の概念との間には密接な関連性があるだろう,ということには思い至ったが,そこから Heidegger と Lacan との関連性全体を見とおすことは,当時は不可能だった. 

そのような行き詰まりの状況において Heidegger ーの Zur Seinsfrage[存在の問いについて](GA 9, p.411) を読んでいたとき,わたしは,彼が Sein[存在]という単語をバツ印で抹消して表記しているのを見て,思わず εὕρηκα ! の歓声を上げた: 


そこでは,Heidegger は,存在を「ひとつの自立的な対象」(ein für sich stehendes Gegenüber) と見なす抜き去りがたい先入観を禁ずるために,その語を抹消するのだ,と説明している.しかし,単にそれだけのことではない(以下,バツ印の代わりに,単純な抹消線を以て,Sein または 存在 と表記する). 

表記において抹消されるしかないこの Sein という語は,「書かれないことをやめない」(qui ne cesse pas de ne pas s’écrire : Lacan による「不可能」の定義)なにものかが成すひとつの欠如を差し標している.それこそが,Heidegger が「思考の本事」(die Sache des Denkens) と呼ぶところのものである. 

Sein という表記を初めて見たとき,わたしは,Lacan は「存在欠如」(manque-à-être) としての「抹消された主体」(le sujet barré) の記号 $ — 彼により「学素」[ mathème ] と呼ばれることになる一連の記号のひとつ — をそこから作ったに違いない,と直観的に確信した. 

直接証拠は何もない.Lacan は,$Sein から作ったとはどこにも述べていない.しかし,Heidegger のテクストは 1955年に発表されており,Lacan が学素 $ を初めて提示したのは 1958年のことである.当時,Lacan は,Heidegger が新たに論文や本を出すたびに,その都度,丹念に目を通していたであろうから,少なくとも時系列的には両者の関連性は十分に可能なはずである. 

Heidegger における 抹消された Sein と Lacan における 抹消された主体 $ は,同じ根本的な欠如を形式化する学素であり,彼らの教え全体の中心を成している,という直観から出発するとき,「否定神学」(la théologie apophatique) に倣う「否定存在論」(l’ontologie apophatique) という名称が,彼らに共通の基礎を成すもの差し徴す語として,おのずと頭に浮かんでくる. 

否定存在論は,Lacan が精神分析の純粋基礎とするために Heidegger から学び取ってきたものである.それは,言うなれば,Lacan が Heidegger の教えから抽出してきたそのエッセンスである. 

ところで,先ほど引用した Catherine Millot の証言のなかでも示唆されているように,今日,Heidegger の名に言及するとき,彼の「反ユダヤ主義」(Antisemitismus) の問題を無視するわけには行かない.特に,Gesamtausgabe[ハィデガー全集]の 94 - 102 巻として 2014年から出版され始めた彼の Schwarze Hefte[黒ノート]のゆえに,「ナチ党員ハィデガー」に対する断罪の声はよりいっそう高まっている. 

しかし,本書の論によって明らかになるであろうように,Lacan が Heidegger から抽出してきたエッセンスとしての否定存在論とそのトポロジーには,Heidegger の「反ユダヤ主義的イデオロギー」は何のかかわりもない. 

ただし,Heidegger のユダヤ教とのかかわりには,何かしら複雑な問題がからんでいることが察せられる.それは,この欠落に端的に現れている:すなわち,存在に関して根源的に問う哲人が,神の「我れ在り」についていっさい論じていない,という欠落 — それに対して,Lacan は,この「我れ在り」に幾度か言及している.

旧約聖書の出エジプト記 3 章 14 節において,神の名をたずねるモーゼに対して,神 YHWH はこう答える: 


この文のヘブライ語の読み方のカタカナ表記は「エイェ・アシェル・エイェ」となるだろう. 

この命題は,伝統的には,七十人訳では ἐγώ εἰμι ὁ ὤν[我れは,存在する者である]と訳され,ラテン語では ego sum qui sum[我れは,存在する者である]と訳されてきた. 

しかし,実は,我々は,それを四とおりに読むことができる — אֲשֶׁר という語の文法的機能の多様性のゆえに.それら四種類の読み方は,英語翻訳において最も簡潔明瞭に表現され得る : 1) I am who am[我れは,存在する者である]; 2) I am who I am[我れは,我れがそれであるところの者である]; 3) I am what I am[我れは,我れがそれであるところのものである]; 4) I am that I am[我れは『我れ在り』である]. 

さらに,セム語族の言語のひとつであるヘブライ語では,動詞は完了または未完了の相 (aspect) を表し,インド・ヨーロッパ語族の言語におけるように時制 (tense) は表さないので,未完了相の動詞 אֶהְיֶה を現在における「存在する」と読むか,未来における「存在するだろう」と読むかのふたつの可能な読み方がある — 特に,ふたつめの אֶהְיֶה に関して.それを将来的な「我れは存在する」と読むなら,その意義は,神の終末論的な自己啓示である.キリスト教的な読み方においては,それは,Jesus Christus のことである. 

ともあれ,YHWH がモーゼに対して発した命題


全体,または אֶהְיֶה[我れ在り]は,このうえなく神聖であるがゆえにみだりに口に出して言ってはならないと伝統的に定められてきたがゆえに,いつのころからかもはや発音することが不可能になってしまった神の名 YHWH の代わりとして用いられる神の名のひとつと見なされている. 

古代ギリシャの前ソクラテス期の哲人たちの言葉に勝るとも劣らず源初的であり,この上なく存在論的であるこの命題について,Heidegger が — 根源的存在論について思考する者が — 生涯,黙したままであったとは! 

しかも,敬虔なカトリック信徒である両親のもとに生まれた Heidegger は,司祭になることを期待されていた.彼は,中等教育を小神学校で受けていたので,中等教育終了前に,聖書は,旧約も新約も,すべて読んでいただろう.当然,出エジプト記のこの非常に有名な一節を,彼が知らなかったり,単純に忘れていたりしたはずはない. 

この事態は,Heidegger における「神の名の閉出」(la forclusion du Nom-de-Dieu) を示唆していないだろうか?そして,彼においては,神の名の閉出こそが,「世界ユダヤ組織」(Weltjudentum) の陰謀の妄想を条件づけていたのではなかろうか?さらに,ユダヤ人に関する Hitler の「最終解決」を彼が容認していたとすれば,その意義は,むしろ,彼自身を含む西洋世界の自己処罰に存しているのではなかろうか?以上のような問いについて,本書においても,若干の考察を試みる. 

いずれにせよ,わたしは,Heidegger の「反ユダヤ主義的イデオロギー」と彼の哲人としての思考との間に強引に「本質的」な関連性を見出し,それによって彼の思考遺産のかけがえのない価値をまで蔑もうとする者たちの意見に賛同するものではない.


小笠原 晋也 著 :『ハイデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー』は,2020 年 1 月 25 日,青土社 より刊行.

目次:

緒言

§ 1. 否定存在論的トポロジーの導入
§ 2. ハィデガーの思考 と 否定存在論的トポロジー
§ 3. 異状の否定存在論的構造
§ 4. 異状から昇華へ — 精神分析の倫理
§ 5. 女性性について
§ 6. ジャックアラン・ミレールを批判する — 彼のラカン読解とセミネール編纂の誤りについて

0 件のコメント:

コメントを投稿