2020年1月23日

小笠原 晋也 著:ハイデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての 否定存在論 と そのトポロジー(抜粋:緒言)

Heidegger は,1955年08月28日,château de Cerisy-la-Salle で,講演 « Was ist das — die Philosophie ? » [ Qu'est-ce que la philosophie ? ][哲学とは 何であるか?]を行った.Heidegger がみづからフランスを訪れたのは,そのときが初めてであった.Lacan は,その会合には参加しなかったが,講演を終えた Heidegger と 妻 Elfride を,Guitrancourt に所有する別荘に招いて,何日間かもてなした.この写真は,その際,別荘の中庭で撮影された一連の写真の一枚である.向かって左から : Martin Heidegger ; 共産主義者として迫害され,祖国ギリシャからフランスへ亡命していた哲学者 Kostas Axelos (1924-2010) ; Jacques Lacan ; 初めて Heidegger をフランスに体系的に紹介した哲学者 Jean Beaufret (1907-1982) ; Heidegger 夫人 Elfride (1893-1992) ; Lacan 夫人 Sylvia (1908-1993).


小笠原 晋也 著:ハイデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての 否定存在論 と そのトポロジー(抜粋:緒言)


緒言 

ラカン派精神分析家として,わたしは,『ハィデガーとラカン』と題した本書において,精神分析の純粋基礎としての否定存在論とその topologie とについて論ずる.そして,否定存在論にもとづいて,わたしは,精神分析をこう規定する:精神分析は,存在の真理の実践的な現象学である. 

今しがた用いたふたつの表現 —「精神分析の純粋基礎」と「否定存在論」— について,予備的に説明しておきたい.

まず,「精神分析の純粋基礎」について.Jacques Lacan (1901-1981) は,精神分析を「純粋」に — すなわち,生物学,医学,心理学,社会学などの経験科学によらずに,しかしてまた,形而上学にもよらずに — 基礎づけるために,30 歳代なかばから 80 歳で死去するときまで数十年にわたり努力し続けた(Kant の『純粋理性批判』におけるように,通常,「純粋な」は「非経験論的な,経験論的なものに先立つ」であるが,わたしはそこに「非形而上学的な」をも付加する).Lacan が歩んだ道のりは,まことに,前人未踏の道のりであった. 

彼が目指したのは精神分析の純粋な — 非経験論的であるのみならず,非形而上学的な — 基礎づけであることを,我々は,次のように時系列をさかのぼって振り返ってみることによって,確認し得る. 

第一に,1978 年 : 1969-1970 年の Séminaire XVII 以来,Panthéon 前の Sorbonne の大講堂で行われてきた Lacan の Séminaire の最後のものを 1978-1979 年の La topologie et le temps とするなら,最後からふたつめの Séminaire XXV Le moment de conclure の 1978 年 4 月 11 日の講義において,Lacan はこう言っている:「性関係は在らず — それが,精神分析の基礎 である」. 

そこに,我々は,彼の教えの最後の言葉ではないにしても,ひとつの最終的な結論を聴くことができる. 

この「性関係は在らず」(il n’y a pas de rapport sexuel) という Lacan の有名な命題が何を言わんとしているのかを予備的に説明しておくなら,それは,性器体制 (Genitalorganisation) — Freud がアリストテレス的な目的論の先入観のもとに想定したリビード発達の最終的な成熟段階 — は実際には不可能である,ということである.なぜなら,性器体制の可能性の条件である〈性関係を可能にするかもしれない〉ファロス (φαλλός, phallus) は,実際には不可能であるから(より詳しい説明は § 3.4.3.4「性関係は無い」を参照).また,不可能なファロスの欠如の穴は,後ほど言及する「否定存在論的孔穴」と同じものである. 

第二に,1964 年 : Séminaire XXV の14年前,1964 年 1 月 15 日,彼は,その後 6 年間使用することになる l’École normale supérieure の la salle Dussane で記念碑的な Séminaire XI『精神分析の四つの基礎概念』を始めるにあたり,単刀直入にこう宣言している:「わたしは,精神分析の基礎 について語る」. 

最後に,1953 年 : Lacan が我々に遺した Séminaire の最初のもの —『精神分析のテクニックに関するフロィトの書』と題された Séminaire I — の開始の約二ヶ月前,1953 年 9 月 26 日にローマで為された — これもやはり記念碑的な — 講演『精神分析におけることばと言語の機能と場』(通称「ローマ講演」)において,Lacan は,精神分析の心理学化や生物学化に甘んずる精神分析家たちを批判しつつ,こう述べている(強調は引用者による): 

精神分析は,現代において主体は如何に在るべきかの指針を示すために,ひとつの役割を果たしてきた.しかし,精神分析は,その役割を,科学においてそれを解明する動きのなかにそれを位置づけることなしに,担い続けることはできないだろう.つまり,[精神分析の]基礎づけ が問題となる — 我々の学が科学のなかで占め得る座を確かなものにするはずである 基礎づけ の問題.それは,形式化の問題であるが,まことには,まったくうまく行っていない (Écrits, p.284) ;  

精神分析は,その弁証法的構造にそぐわない理論化という誤った道へ入り込むことによって,より高度な水準のものになることができないできた.精神分析がその理論とテクニックを科学的に 基礎づけ 得るとするなら,それは,精神分析の経験の本質的な諸次元 — シンボルに関する歴史的な理論とともに,間主体的なロジック,および,主体の時間性 — を等合的に形式化することによってでしかないだろう.精神分析の基礎 としての ことばと言語へ 精神分析の経験を連れ戻すことは,精神分析のテクニックにもかかわることである (ibid., p.289). 

以上のように,1950 年代と 60 年代と 70 年代の Lacan からの引用を三つ見るだけでも,察せられるだろう:精神分析の純粋な基礎づけこそが,Lacan の教えの最も中心的なテーマを成すものである. 

実際,1953 年のローマ講演から上に引用した箇所において,既に,我々は,その後の彼の教えの展開の要点を見て取ることができる:すなわち,精神分析は, 

1) 科学との関係において(および,付言するなら,資本主義との関係において); 

2) その経験論的な次元の純粋な(非形而上学的かつ非経験論的な)形式化 — Lacan が「形式化」と言うとき,それは,形式論理学(別名,記号論理学:意味論的逆説を避けるために記号で表記され,形式化された論理学)においてかかわる形式化のことである — において; 

3) その「間主体的」な弁証法 — それは,主体の分裂の構造と,弁証法的過程の終結における主体の裂け目の現出とを包含する — において; 

4) そして,Heidegger の思考への準拠において, 

基礎づけられねばならない. 

第四の点に関して注を付しておくなら,引用箇所には Heidegger の名は見出されないものの,ローマ講演のなかでも,それ以前の書においても,Lacan は彼の名を幾度か明示的に挙げており,かつ,先ほど引用した Écrits, p.289 の「主体の時間性」(la temporalité du sujet) という表現に,Heidegger の『存在と時間』におけるキーワードのひとつ Zeitlichkeit[時間性]を我々は読み取ることができる. 

ところで,なぜ Lacan は精神分析を純粋に基礎づける必要があると考えたのか?それは,さもなくば精神分析はその本来性と可能性とを失ってしまうからである. 

実際,1981 年 9 月 9 日の Lacan の死去から数十年を経た今,精神分析の実践の盛衰の如何を見れば,それは明らかである.精神分析の純粋基礎づけの必要性に無自覚な分析家たち — 要するに,非ラカン派 — が主流であり続けてきた英語圏の国々,および,精神分析をもっぱら英語圏から輸入してきた国々(日本を含む)においては,精神医学的治療の手段がもっぱら薬物療法となった今,精神分析はほとんどかえりみられることはなくなり(日本では,精神分析が臨床的にかすかな広がりを見ることさえついぞ無いままに),若い世代に精神分析家になるために教育分析を受ける者はほとんど無く,生き残りの平均年齢がどんどん高齢化するなかで,精神分析家は,否みようもなく「絶滅危惧種」と見なされるに至っている.それに対して,精神分析家の大多数がラカン派である国々 — フランスおよびスペイン語圏 — では,若い世代が次々に育っており,精神分析の臨床はますます盛んである. 

精神分析がいかなるものであるかがほとんど知られていない日本社会では,精神分析はしばしば精神鑑定や心理テストと混同される.「あなたの心理や人格はこれこれしかじかである」と「客観的」に判定し,評価することが精神分析の目的だ,と勘違いしている人々は少なくない.しかし,精神分析はそのようなことに存するのではない. 

また,精神分析は,単なる理論ではない.精神分析は,ひとつの実践である.Freud や Lacan の著作のなかから彼らの概念や用語が心理学や社会学などの研究者によってときおり恣意的に引用されればそれで十分だと見なすことは,まったくできない.教育分析による新たな精神分析家の養成によって精神分析の臨床が次世代へ受け継がれて行くのでなければならない. 

精神分析は,純粋基礎づけを欠くとき,形而上学的先入観に捕らわれ,かつ,生物学化,心理学化,社会学化によって変質し,Freud が「無意識」として発見したものの本来的な意義は見失われてしまい,精神分析の可能性は閉ざされてしまう.それによって,精神分析の実践は臨床的な有効性を失い,精神分析の経験をとおして新たな精神分析家が生まれることもなくなってしまう.かくして,精神分析は生命を失い,Freud や Lacan のテクストが,砂に埋もれたヒェログリフの石板のように,誰にも解読されることもなく,書庫のかたすみに眠り続けるだけとなる. 

人間存在の真理の実践的な現象学としての精神分析の可能性 — とりわけ,精神分析が有するニヒリズム超克の可能性 — が日本社会においてこのまま失われていってしまうことを,勿論,わたしは欲しない.Lacan が「精神分析家の欲望」と呼んだものが,日本においても,フランスと同様に,根づくことを,わたしは欲している.そして,それが,ある種の社会的,政治的な効果を生むようになることを,わたしは望んでいる. 

Lacan とは何者なのか?多くの人々がその問いを発してきた.答えは,今や明瞭である : Lacan は,精神分析を基礎づけた者である. 

ただ,この命題をフランス語で « Lacan est celui qui a fondé la psychanalyse » と言うと,« c’est Freud qui est le fondateur de la psychanalyse » と言い返されるはずである.「基礎づける」に相当する動詞 fonder にもとづく「... する者」を表す名詞は fondateur であるが,フランス語ではそれは「創始者,創設者」である.精神分析の創始者 (le fondateur de la psychanalyse) は,Freud にほかならない.したがって,フランス語ではこう言うことになる : « Lacan est le refondateur de la psychanalyse »[Lacanは,精神分析を基礎づけなおした者である]. 

Freud は,無意識を発見し,精神分析を創始した.彼独自のしかたで,患者の語りに耳を傾け,症状が何を言わんとしているのかを聴き取り,解釈によって治療した.さらに,彼独自の用語や概念を以て,精神分析理論を構築した.しかし,Freud は,精神分析の純粋な基礎づけの必要性には思い至らなかった.彼は,生物学,医学,アリストテレス倫理学などのもろもろの先入観から自由ではなく,無意識と精神分析とその臨床において起きることがらとについて思考する際にも,それらを当然の前提と見なしていた. 

Lacan 以前,精神分析は,そのような先入観に条件づけられた枠組みのなかに閉じ込められたままであった.そのことは,第二次世界大戦後に英語圏,特にアメリカで,ヨーロッパから亡命してきた多数のユダヤ人精神分析家たちによって精神分析の臨床が一般社会に広められたとき,精神分析の理論と実践とを偏向させる — すなわち,無意識の発見の本来的な意義を覆い隠してしまうような方向へ向かわせる — ことになった. 

戦後,物質的な繁栄を謳歌する American way of life のもとで,無意識の意義も,死の本能の無気味さも見失われ,精神分析における治療目標は「社会適応」に存する,と見なされるに至った.そして,アメリカの精神科医にとって,精神分析家という資格を取得することは,アカデミズムのなかで出世し得るための条件のひとつにすぎなくなった.そのような事態が行きついた先は,先ほど見たとおりである. 

1950 年代,そのような精神分析の変質を手厳しく批判し,精神分析にその本来性と可能性とを取り戻させるために,精神分析を純粋に基礎づけ直す企てに取り組み始めた精神分析家,それが,Lacan である. 

精神分析の本質にかかわるそのような Lacan の根本的な意図を把握し得ないままに,経験論的な観点から,あるいは,哲学,社会学,文学等の領域の研究のために「応用」する目的で,Lacan を読もうとしても,彼独特の晦渋な,あるいは衒学的な語り口と,哲学や文学から数学に至るまでの雑多な分野への一貫性の無い — 外見上 — 準拠や言及が,目につく(むしろ,鼻につく)だけであろう.従来,Lacan に関する入門書や解説書の類や,Lacan を批判する文章を書いてきた者たちは,そのようなレベルにとどまっている(世界中で). 

本書によって,日本人読者たちも,やっと,Lacan の教えの根本的な意義を垣間見ることができるだろう — わたしは,そう願っている. 

次に,「否定存在論」について.この「否定存在論」(l’ontologie apophatique) という名称を考案したのはわたしであるが,否定存在論そのものは,Heidegger の思考から Lacan が抽出してきたものである — 精神分析を「純粋に」(非経験論的のみならず,非形而上学的に)基礎づけるために. 

その限りにおいて,Lacan は非常に多くを Heidegger に負っている.そのことは,従来,ほとんど看過されてきた(Heidegger が「反ユダヤ主義的なナチ党員」であったことも,確実に,その理由のひとつである).わたしは,本書において,Heidegger を「形而上学の批判とニヒリズムの超克を目ざした否定存在論の哲人」として再評価する.実際,今,Heidegger を肯定的に評価するとすれば,彼のその側面に注目するしかないだろう.そして,Lacan が Heidegger に準拠することを躊躇しなかったのも,その限りにおいてのみであったはずである. 

「否定存在論」という名称は,Heidegger が形而上学的な意味における「存在」(Sein) という語をバツ印で抹消していることに由来する: 


我々としては,バツ印を用いるのではなく,技術的により簡便に,単に線を引いて抹消することにする : Sein, 存在. 

後ほども言及するように,このバツ印で抹消された Sein をもとにして,Lacan は,「抹消された主体」の学素 $ を考案したのだろう,と推測される.また,Lacan が「存在欠如」(le manque-à-être) と名づけたのも,この 存在 のことである. 

Heidegger が形而上学的な意味における「存在」を抹消するのは,『存在と時間』の始めにスローガンとして掲げられているように,「存在論の伝統の破壊」のためであり,そして,それによって,形而上学の行き詰まりとしてのニヒリズムを超克するためである. 

形而上学的な「存在」の抹消は,形而上学の歴史において Platon の「イデア」とその後継概念によって閉塞されてきた穴を,開放する — つまり,その穴は,Platon における形而上学の源初に先立つ「もうひとつのほかの源初」(der andere Anfang) である.その穴は,人間が言語に住まう存在である限りにおいて人間存在の根底に口を開いた穴である.その最も源初的な穴を,Heidegger は,ときおり « Ab-grund »[根本的な深淵]と呼ぶことがあり,また,Lacan は,その穴に関して,「中心的な穴」ないし「根本的な穴」という表現を用いることがある.わたしは,その穴に,「存在 の穴」(le trou de l’être) ないし「否定存在論的孔穴」(le trou apophatico-ontologique) という名称を与える. 

Freud について,彼は「無意識を発見した」と言われるが,それは,Freud は彼なりに否定存在論的孔穴を「発見」した,ということである.精神分析においては,「無意識」を認識論的ないし心理学的なものと見なしてはならない.「無意識」は,否定存在論的孔穴へ還元される.精神分析の純粋基礎としての否定存在論は,存在 の穴 の topologie として展開される. 

Heidegger と Lacan は,ともに,20 世紀の最も偉大な哲人のなかに数え入れられると同時に,最も難解な著者としても知られている.しかし,否定存在論の観点から彼らを改めて読むとき,彼らの思考の基礎を成しているものは,きわめて単純に,ひとつの穴 — 否定存在論的孔穴 — であることが見えてくる.彼らの思考は,存在 の穴のエッジを止むことなく歩み,その穴の周りを回り続けている — 存在 について問うために. 

彼らの思考は,次の三つの問いをめぐって展開されている,と言うことができるだろう:存在の歴史において,否定存在論的孔穴は,いかに閉塞され,あるいは隠蔽されてきたか?だが,今や,いかにそのようなごまかしは不可能となってきているか?では,そのとき,我々はいかに生きることができるか?さらに,Lacan と ラカン派精神分析家にとっては,第四の問い — 実践的な問い — が措定される:そのような現代の状況において,「精神分析家である」とはいかなることであり得,精神分析家は精神分析をいかなるものとして実践し得るか? 

それらの問いを,我々も,本書において問うて行くことになる. 

ところで,周知のように,Heidegger は,『存在と時間』において,「存在論は,現象学としてのみ可能である」と公式化している.そこにおいて,彼は,現象学をこう定義している : ἀποφαίνεσθαι τὰ φαινόμενα, すなわち,「自身を示現する (sich zeigen) ものを,それがみずから自身を示現するがままに,それ自身の方から見させること」(GA 2, p.46) — しかも,言語の構造 (ἀπόφανσις) において. 

そこにおいて Heidegger は「存在論」としか言っていないが,その「存在論」は,当然ながら,形而上学的な存在論ではなく,否定存在論のことである.そして,「存在論は現象学である」ということは,否定存在論は,単純に静的な 存在 の穴の topologie であるのではなく,しかして,存在 の穴の「現象学」である,ということである.つまり,日常態においては閉塞と隠蔽によって秘匿されていた 存在 の穴は,ひとつの弁証法的過程を経て,その終結において,非秘匿性へと現れ出でてくる. 

その現出は,ἀποκάλυψις (apokalypsis) と呼ばれるにふさわしい — その語は,新約聖書を締めくくる書の表題のなかでは「黙示」と訳されているが,その原義においては,「秘匿されていたものが非秘匿性へ現れ出でてくる」ことである.そして,存在 の穴の現出が「黙示録的」(apocalyptique) であるなら,否定存在論的な現象学は「終末論的」(eschatologique) な現象学である — Hegel の形而上学的な現象学が「目的論的」(téléologique) であるのに対して. 

存在 の穴の終末論的な現象学は,このことを包含している:すなわち,Freud が無意識を「発見」したのではない — 地中深くに埋もれていた遺跡を考古学者が自発的な努力によって発掘する場合のように.そうではなく,存在 の穴の方が,我々に対して,自身を示現してくるのである. 

我々としては,秘匿性 (Verborgenheit) から非秘匿性 (Unverborgenheit) へ自身を示現してくる 存在 の穴を前にして,いかなる抵抗も無しに,つまり,それを閉塞したり隠蔽しようとしたりせずに,それが現れ出でてくるがままに,その自己示現に我々自身をゆだねればよい.そのとき,その現象学的過程の終結ないし終末において,Heidegger が「自有」(Ereignis) と名づけた事態が成起するだろう. 

ところが,実際にはなかなかそうは行かない.なぜなら,存在 の穴の現出は,我々を非常に不安にさせるから.というのも,存在 の穴は,無の穴,ないし,死の穴として,我々に現れてくるからである.精神分析の臨床においてかかわる不安は,否定存在論的孔穴の開口を前にしての死と無の不安にほかならない. 

その耐え難い不安に対する防御のために,穴は,まずたいがい,閉塞され,隠蔽される.精神分析が臨床的に扱う病理は,そのような閉塞と隠蔽に存する.たとえば,存在 の穴をイデア的なものによって閉塞してきた形而上学も,そのような防御の一形態である — その防御は,Socrates 以来,約 2,500 年間にわたって持続してきているが,実は,既に 19 世紀に,その無効性はニヒリズムという形のもとに露呈している.また,Freud が考案した精神分析理論のなかにも,我々は,いかに Freud が否定存在論的孔穴の開口に対して反応したのか,を読み取ることができる.Freud は,現出してくる 存在 の穴に可能な限りで応じたが,かといって,彼の「オィディプス複合」の概念が示しているように,彼は形而上学的な閉塞からまったく自由であったわけではない. 

ともあれ,精神分析の経験は,不安に耐えながら,否定存在論的孔穴の閉塞と隠蔽の構造(Heidegger が「頽落」(Verfallen) と呼び,Lacan が「異状」(aliénation) と呼ぶ日常態の構造)を解体してゆく作業に存する — それによって,自身を示現してくる 存在 の穴が,みずから自身を示現するがままに,それ自身の方から現れ出でてくることができるように.その過程の終結は,Heidegger が「自有」と呼んだものの成起に存し,そして,精神分析においては「昇華」と呼ばれてきたものの成立に存する.そのような精神分析を,わたしは,次のように規定する:精神分析は,存在の真理の実践的な現象学である. 

以上のことがらに関してより詳細に論ずるために,本書においては,序に続いて,第 1 章において,否定存在論的トポロジーを,Lacan が用いた cross-cap, Venn 図,および ボロメオ結びの topologie に準拠しつつ,導入する.次いで,第 2 章において,Heidegger の思考を否定存在論の観点から読解することを試みる.また,Heidegger の「反ユダヤ主義」に関しても,精神分析的な観点から考察する.第 3 章においては,Lacan が「異状」(aliénation) と呼ぶ構造を詳細に論ずる — その構造は,我々の日常態の構造であるので.第 4 章においては,異状から昇華への過程と,精神分析の終結について論ずる.さらに,第 5 章においては,従来から非常に注目を集めながらも,難解さのヴェールに包まれてきた Lacan の「女性論」を解説し,また,第 6 章は,Jacques-Alain Miller のラカン読解とセミネール編纂の誤りを批判する. 

周知のように,J.-A. Miller は,Lacan 没後のラカン派のリーダーとして活躍し,彼が提示する「ラカンの教え」は世界中でスタンダードなラカン理解として受け入れられてきた.しかし,否定存在論的な観点から改めて検討するなら,彼のラカン読解の過ちに我々は気づかざるを得ない.また,従来から指摘されているように,彼による Lacan の Séminaire の編纂も多くの問題点をはらんでいる.ラカン派精神分析の将来的な発展のために,J.-A. Miller の過誤を批判しておくことは必要不可欠である,とわたしは考える.

小笠原 晋也 著 :『ハイデガーとラカン — 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー』は,2020 年 1 月 25 日,青土社 より刊行.

目次:

緒言

§ 1. 否定存在論的トポロジーの導入
§ 2. ハィデガーの思考 と 否定存在論的トポロジー
§ 3. 異状の否定存在論的構造
§ 4. 異状から昇華へ — 精神分析の倫理
§ 5. 女性性について
§ 6. ジャックアラン・ミレールを批判する — 彼のラカン読解とセミネール編纂の誤りについて

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