Le séminaire XVII L'envers de la psychanalyse, chapitre II : Le maître et l'hystérique
セミネール XVII 『精神分析の裏』,第 II 章 「支配者と hysterica」
この第 II 章において,Lacan の問いは,改めて,Hegel とその Phänomenologie des Geistes をめぐって展開されています.
まずは,Slavoj Zizek の著作の表題にもなっている表現 : « Hegel, le plus sublime des hystériques » [ヘーゲル,ヒステリー者たちのうちで最も崇高な者] (p.38) について考えてみましょう.(なお,ページは,特に指示の無い限り,Seuil 版のページです.)
名詞 « hystérique » [ヒステリー者,ヒステリー患者] を Lacan は通常,女性名詞として扱います.ですから我々も,hysterica という女性名詞を使います – 「ヒステリー者」という表現はあまり好きになれないので.しかし,Hegel を hystérique と呼ぶ限りでは,Lacan もそれを男性名詞として扱っています.
ともあれ,前回指摘したように,知と真理との Dialektik として展開される『精神の現象学』は基本的に大学の言説として構造化されているにもかかわらず,なぜ Lacan は Hegel をヒステリー者と呼ぶのか?
勿論,単に聴衆の笑いを誘うためではありません.Staferla 版 (p.37) によると,確かに,そのとき聴衆は笑っていますが.
勿論,単に聴衆の笑いを誘うためではありません.Staferla 版 (p.37) によると,確かに,そのとき聴衆は笑っていますが.
hysterica の言説においては,不満足な欲望(ないし,欲望不満足)としての $ が,左上の能動者・代理者の座に位置しています.
すなわち,Lacan が Hegel をヒステリー者と呼ぶとすれば,それは,Hegel が自己意識を絶対否定 [ absolute Negation ], 純粋否定 [ reine Negation ], 絶対捨象 [ absolute Abstraktion ], 純粋捨象 [ reine Abstraktion ] としての欲望 [ Begierde ] と規定する限りにおいてです.
すなわち,Lacan が Hegel をヒステリー者と呼ぶとすれば,それは,Hegel が自己意識を絶対否定 [ absolute Negation ], 純粋否定 [ reine Negation ], 絶対捨象 [ absolute Abstraktion ], 純粋捨象 [ reine Abstraktion ] としての欲望 [ Begierde ] と規定する限りにおいてです.
Hegel が Selbstbewußtsein [自己意識]と呼ぶものは,確かに,まずは das Wissen von sich selbst [己れ自身についての知]ではありますが,単に「自分自身を意識の対象にしている」ことではありません.Hegel はこう言っています : « das einfache Wesen des Selbstbewußtsein ist die absolute Negativität, das reine Fürsichsein » [自己意識の単純な本有は,絶対否定性,純粋自態存在である] (Suhrkamp 版 p.153).
ここで Hegel の言う « für sich » は,自己意識にとっては自己自身が自身の causa finalis [目的因]である,ということを差し徴しています.自身は,究極的に達成されるべき目的因たる自身 – すなわち,精神の現象学の Dialektik の到達点としての絶対知 – にのみよっており,それ以外の存在事象には,如何なるものにも,よっていてはなりません.
したがって,自己意識は,究極目標たる絶対知としての自身以外の存在事象を,いかなるものも – 現在 an sich に存在するものとしての自身をも含めて –,否定し,如何なる差異をも無効にしようとします.
すなわち,自己意識は,純粋な否定性としての欲望 [ Begierde ](すなわち,manque-à-être [存在欠如])として,あらゆる他なる存在事象を破壊し,無化し,それによって満足 [ Befriedigung ](すなわち,悦 [ jouissance]) し,そのような満足において自己自身の確実さ [ Gewißheit ] – 確実なる自己自身 – に到達しようとします.
しかし,だとすると,自己意識は,欲望として,その満足を他なる存在事象に依拠することになってしまい,真の意味での für sich な自己意識ではなくなってしまいます.
かくして, « das Selbstbewußtsein erreicht seine Befriedigung nur in einem anderen Selbstbewußtsein » [自己意識は,もうひとつのほかの自己意識においてのみ,自身の満足を達成する](Suhrkamp 版 p.144).
つまり,純粋欲望は,存在事象によってではなく,純粋欲望としての他においてのみ,悦を達成する.ただし,その悦は,その真理においては,死にほかなりません – なぜなら,純粋欲望は,自身も他も,絶対的な否定なのですから.
Lacan はそこに,Freud の言う「死の本能」とその満足の真理を見て取ります.
ただし,欲望の Dialektik の本当の到達点は,自己意識の生物学的な死(自然死であれ,戦死であれ,自殺であれ)ではありません.
むしろ,欲望は,死の悦への魅了から解放されねばなりません.死の悦のなかへ魅了されて,呑み込まれてしまうのではなく,そのような悦を断念せねばなりません.そして,死の不安を耐えとおすことにおいて死を引き受けます.言い換えれば,S(Ⱥ) の穴を,穴として定存させます.
そして,そのとき,Freud が昇華 [ sublimation ] と呼ぶ事態が成起します.
昇華においては,死の悦は,そのものとしては成就されません.死の悦は,そのものとしては断念されます.しかし,死の穴の前から逃げることなく,そこから目を逸らすこともなく,その不安に耐え続けるとき,死からの復活の悦び,永遠の命の悦びが成起してきます.
そのことを,Hegel 自身は,Phänomenologie des Geistes の末尾において,Schiller の詩句の引用によって,こう表現しています:
aus dem Kelche dieses Geisterreiches
schäumt ihm seine Unendlichkeit.
精神たちの国の杯[の底]から
その無限性は泡となって立ちのぼる.
Geist の複数形で Geister と呼ばれているのは,歴史の動きを形成してきた偉大な精神たちです.Reich は「国」です.「天の御国」[ Himmelreich ] が喚起されます.
Kelch は,ワイングラスのような杯です.ミサのときに用いられる聖杯も Kelch です.そして,伝説において,十字架上の Jesus の体から流れ出た血を受けた Graal も Kelch です.
Schiller の詩句では,二行目に泡が言及されています.杯を満たしている酒は,祝いの酒 champagne であり,この杯は祝杯です.無限なる絶対知へ到達したことを祝う祝杯です.
しかし,その悦びは,目くるめくようなものではありません.「泡」がそのことを象徴しています.
グラスの底から立ちのぼる小さな,はかない泡.我々の実存において達成され得る永遠の命の悦びは,その程度のものです.しかしそれは,champagne の祝杯で祝われる悦びであることにはかわりありません.
Hegel が『精神の現象学』において物語る欲望の Dialektik は,以上のようなものです.そのような欲望をその昇華の真理に至るまで描き出した Hegel は,最も崇高なヒステリー者と呼ばれます.
Lacan 自身,1976年12月14日の講義で「わたしは,完璧なヒステリー者だ – つまり,症状無しの – ときおり言い違いをする以外は」と言っています.
では,最も崇高でも完璧でもない hysterica は如何?
hysterica の欲望 $ は,欲望を不満足な欲望(ないし,欲望不満足)として維持することによって,死を引き受けずに回避します.
hysterica の言説においては,hysterica の欲望 $ は,満足不可能な欲望である他の欲望 Ⱥ を代理するものの座に,欲望不満足として,位置づけられています.欲望不満足なままにとどまることにより,死の悦の不安を引き受けることを回避しています.
さて,Séminaire XVII の第二章のテクストに戻ると,その冒頭において Lacan は支配者の言説に言及しています.そして,支配者が「絶対的な支配者」たる死の支配者であることが証明されるとすれば,それは,死からの復活によってのみであろう,と述べています.
このことは,やはり,支配者の言説が大学の言説を前提していることを示唆しています.そも,大学の言説においては,支配者徴示素 S1 は,左下の座 – 死の座である存在の真理の座 – に位置しています.
次いで Lacan は,大学の言説における知 S2 がひとつの全体性を装うことを指摘します.
ひとつの全体性としての知の支配 – 現代の諸国家において実現されている官僚支配は,そのような支配体制です. そして,実は,全体主義も,大学の言説の構造を有しています.さらには,男性中心の社会構造も,大学の言説の構造を有しています.大学の言説は,phallofascism の構造を表しています.
ここで Hegel の言う « für sich » は,自己意識にとっては自己自身が自身の causa finalis [目的因]である,ということを差し徴しています.自身は,究極的に達成されるべき目的因たる自身 – すなわち,精神の現象学の Dialektik の到達点としての絶対知 – にのみよっており,それ以外の存在事象には,如何なるものにも,よっていてはなりません.
したがって,自己意識は,究極目標たる絶対知としての自身以外の存在事象を,いかなるものも – 現在 an sich に存在するものとしての自身をも含めて –,否定し,如何なる差異をも無効にしようとします.
すなわち,自己意識は,純粋な否定性としての欲望 [ Begierde ](すなわち,manque-à-être [存在欠如])として,あらゆる他なる存在事象を破壊し,無化し,それによって満足 [ Befriedigung ](すなわち,悦 [ jouissance]) し,そのような満足において自己自身の確実さ [ Gewißheit ] – 確実なる自己自身 – に到達しようとします.
しかし,だとすると,自己意識は,欲望として,その満足を他なる存在事象に依拠することになってしまい,真の意味での für sich な自己意識ではなくなってしまいます.
かくして, « das Selbstbewußtsein erreicht seine Befriedigung nur in einem anderen Selbstbewußtsein » [自己意識は,もうひとつのほかの自己意識においてのみ,自身の満足を達成する](Suhrkamp 版 p.144).
つまり,純粋欲望は,存在事象によってではなく,純粋欲望としての他においてのみ,悦を達成する.ただし,その悦は,その真理においては,死にほかなりません – なぜなら,純粋欲望は,自身も他も,絶対的な否定なのですから.
Lacan はそこに,Freud の言う「死の本能」とその満足の真理を見て取ります.
ただし,欲望の Dialektik の本当の到達点は,自己意識の生物学的な死(自然死であれ,戦死であれ,自殺であれ)ではありません.
むしろ,欲望は,死の悦への魅了から解放されねばなりません.死の悦のなかへ魅了されて,呑み込まれてしまうのではなく,そのような悦を断念せねばなりません.そして,死の不安を耐えとおすことにおいて死を引き受けます.言い換えれば,S(Ⱥ) の穴を,穴として定存させます.
そして,そのとき,Freud が昇華 [ sublimation ] と呼ぶ事態が成起します.
昇華においては,死の悦は,そのものとしては成就されません.死の悦は,そのものとしては断念されます.しかし,死の穴の前から逃げることなく,そこから目を逸らすこともなく,その不安に耐え続けるとき,死からの復活の悦び,永遠の命の悦びが成起してきます.
そのことを,Hegel 自身は,Phänomenologie des Geistes の末尾において,Schiller の詩句の引用によって,こう表現しています:
aus dem Kelche dieses Geisterreiches
schäumt ihm seine Unendlichkeit.
精神たちの国の杯[の底]から
その無限性は泡となって立ちのぼる.
Geist の複数形で Geister と呼ばれているのは,歴史の動きを形成してきた偉大な精神たちです.Reich は「国」です.「天の御国」[ Himmelreich ] が喚起されます.
Kelch は,ワイングラスのような杯です.ミサのときに用いられる聖杯も Kelch です.そして,伝説において,十字架上の Jesus の体から流れ出た血を受けた Graal も Kelch です.
Schiller の詩句では,二行目に泡が言及されています.杯を満たしている酒は,祝いの酒 champagne であり,この杯は祝杯です.無限なる絶対知へ到達したことを祝う祝杯です.
しかし,その悦びは,目くるめくようなものではありません.「泡」がそのことを象徴しています.
グラスの底から立ちのぼる小さな,はかない泡.我々の実存において達成され得る永遠の命の悦びは,その程度のものです.しかしそれは,champagne の祝杯で祝われる悦びであることにはかわりありません.
Hegel が『精神の現象学』において物語る欲望の Dialektik は,以上のようなものです.そのような欲望をその昇華の真理に至るまで描き出した Hegel は,最も崇高なヒステリー者と呼ばれます.
Lacan 自身,1976年12月14日の講義で「わたしは,完璧なヒステリー者だ – つまり,症状無しの – ときおり言い違いをする以外は」と言っています.
では,最も崇高でも完璧でもない hysterica は如何?
hysterica の欲望 $ は,欲望を不満足な欲望(ないし,欲望不満足)として維持することによって,死を引き受けずに回避します.
hysterica の言説においては,hysterica の欲望 $ は,満足不可能な欲望である他の欲望 Ⱥ を代理するものの座に,欲望不満足として,位置づけられています.欲望不満足なままにとどまることにより,死の悦の不安を引き受けることを回避しています.
さて,Séminaire XVII の第二章のテクストに戻ると,その冒頭において Lacan は支配者の言説に言及しています.そして,支配者が「絶対的な支配者」たる死の支配者であることが証明されるとすれば,それは,死からの復活によってのみであろう,と述べています.
このことは,やはり,支配者の言説が大学の言説を前提していることを示唆しています.そも,大学の言説においては,支配者徴示素 S1 は,左下の座 – 死の座である存在の真理の座 – に位置しています.
次いで Lacan は,大学の言説における知 S2 がひとつの全体性を装うことを指摘します.
ひとつの全体性としての知の支配 – 現代の諸国家において実現されている官僚支配は,そのような支配体制です. そして,実は,全体主義も,大学の言説の構造を有しています.さらには,男性中心の社会構造も,大学の言説の構造を有しています.大学の言説は,phallofascism の構造を表しています.
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