2016年10月28日

2016年10月21日,東京ラカン塾精神分析セミネール「言説の構造」 第1回

Le séminaire XVII L'envers de la psychanalysechapitre I : Production des quatres discours

セミネール XVII 『精神分析の裏』,第 I 章 「四つの言説の提示」


精神分析の裏.奇妙な表現です.精神分析の舞台裏.隠されたところ.すなわち,主体の存在の真理の在処.

「精神分析の裏」という表題に関連して,Lacan は,Ecrits の出版の際に1966年に書かれた文章のなかの「Freud の計画を裏側から捉え直すこと」(Ecrits, p.68) という表現に言及しています.

「Freud の計画」 [ le projet freudien ] は,彼の1895年の草稿 Entwurf einer Psychologie – 英訳では Project for a Scientific Psychology – のことでしょう.

そこにおいて Freud は,生命体の根本原則として,das Prinzip der Trägheit [惰性原則]を公式化しています.それは,このことに存します:神経細胞(単細胞生物であれば,一個体を構成する単一のの細胞それ自体)は,自身に課された興奮量を放出しようと努める.つまり,それを可能な限り低い水準に保とうとする.

この惰性原則は,1900年に出版される彼の著作 Traumdeutung [夢解釈]においては Lustprinzip [快原則]と呼ばれることになります.興奮量の増大は不快であり,興奮量が最も低く保たれた安静状態が快である,と Freud は定義するからです.

不快な興奮量増大は,本能の不満足によって惹起されます.適切な行動によって本能が満足されれば,鬱積していた興奮量は放出されて低下し,快が実現します.

一見もっともらしく見えるこの快原則を裏側から捉え直すこと.それが我々の計画である,と Lacan は述べています.

快原則の裏とは何か?生命体一般の生存維持にかかわる根本原則であるかに見える快原則の裏に隠されているものは何か?それは,後に Freud が Todestrieb [死の本能]と呼ぶことになるものです.興奮量が最も低い安静状態とは,永遠の安らぎである死にほかならないのですから.

もし仮に快原則に則って本能満足が直接的に実現されれば,それは定義上,快ですが,しかし,そのとき実現されるであろうものは,死の本能の満足としての死です.

Freud が死の本能を公式化するのは,1920年の論文:『快原則の彼方』においてですが,その「彼方」は,実は,快原則の裏に最初から隠れていたのです.

かくして,主体の存在の真理の在処を,解脱実存的な [ ex-sistent, ek-sistent ] な「死の在処」としても思考せねばなりません.

そして,死の在処に解脱実存 [ ex-sister, ek-sistieren ] する「死せる父」 – 源初の父殺しにおいて息子たちに殺された父 – の問題も.

ただし,死について思考するときは,死からの復活としての永遠の命の可能性を視野に入れねばなりません.

さて,今年度,2016-2017年度の東京ラカン塾精神分析セミネールの表題は「言説の構造」です.

La structure de discours. この表現は,Seuil 版 p.15, Staferla 版Patrick Valas の website から入手可能なもの ; Staferla の site に上げられている版は,文字が小さくて,読みづらいです;ただし,Patrick Valas のところにある版は漢字 – Lacan はときどき漢字を黒板に書いて見せました  が文字バケしており,そこに関してはもともとの Staferla 版を参照する必要があります) の p.13 に見出されます : 

l'expérience analytique est structure de discours [精神分析の経験は,言説の構造である].

ここで Lacan が discours [言説]と呼ぶところのものにおいてかかわっているのは,言語 [ langage ] において可能となる或る種の relations fondamentales [根本的な関繋]です.

それは,この公式において規定されます : un signifiant S1 représente le sujet $ pour un autre signifiant S2 [ひとつの徴示素 S1 は,もうひとつのほかの徴示素 S2 に対して,主体 $ を代表する].



ところで,Lacan は,S1 に関してこう述べています : l'extériorité du signifiant S1 au cercle marqué ici du sigle du A, c'est-à-dire le champ de l'Autre : la batterie des signifiants qui sont déjà là, désignée par le signe S2 [A と標された円に対する S1 の外在性.A, すなわち,他 Autre の場.それは,既に存在する徴示素のひとそろいであり,S2 と標されている] (p.11 dans la version du Seuil, pp.7-8 dans la version de la Staferla).



この extériorité du signifiant S1 au signifiant S2 en tant que lieu de l'Autre [他の場処としての徴示素 S2 に対する徴示素 S1 の外在性]という表現が示唆している構造は,如何なるものでしょうか?

先取りして言うなら,それは,四つの言説のうちで「大学の言説」と呼ばれることになる構造です:



存在の真理の現象学的構造としての投射平面の topologie において見るなら,


大学の言説においては,agent [能動者,代理者]の座に位置する知 S2 が穴あき球面の曲面に相当し,それに対して,真理の座に位置する支配者徴示素 S1 は,解脱実存的 [ ex-sistent, ek-sistent ] である Möbius strip のエッジを成しています.

Lacan が extériorité と呼んでいるのは,大学の言説に相当する topologique な構造における S1 の S2 に対する ex-sistence, Ek-sistenz [解脱実存]のことにほかなりません.

Séminaire XVII において初めて提示される四つの言説は,支配者の言説,大学の言説,hysterica の言説,分析家の言説の四つから成ります.


 

それらを導入する際に Lacan が大学の言説の構造を前提しているということは,何を示唆しているでしょうか?

それは,Lacan が常にこの問いを自問し続けている,ということです: 精神分析は,ひとつの科学であるか? [ la psychanalyse est-elle une science ? ] (cf. Séminaire XI, p.12 de la version du Seuil).

Séminaire XI の初回において Lacan はもうひとつ,宗教との関係における精神分析についても問いを措定しています.その問いのゆえにこそ,彼は「父の名」について問い続けます.その問題は,Séminaire XVII においては,Freud の最後の著書:『モーゼと一神教』の再検討をとおして問われることになります.

科学へ戻ると,Lacan が問題にする科学は,その名称のもとに我々が現在,日常的に理解しているような科学 – 科学技術と,その基礎を成す科学研究  には限られません.

Lacan が science [科学,学知]と言うとき,第一に,それは,其の可能性の条件を Descartes の cogito に有するところのものとしての science です.

cogito の確実性は,dubito [我れは疑う]によって得られます.そのような方法的懐疑は,「あらゆる既存の知の棄却」 [ le rejet de tout savoir antérieur ] (Séminaire XI, p.37 de la version du Seuil) をもたらします.

証明されていない臆見や先入見にすぎないような「知」の棄却:先取りして言うと,それは,hysterica の言説における知 S2 の「生産の座」への閉出に相当します:



ですから Lacan は,1973年の終わりころに執筆された Télévision のテクストにおいて,「科学の言説と hysterica の言説とは,ほとんど同じ構造を有している」 (Autres écrits, p.523) と言っています.(この presque [ほとんど]をイタリック体で強調することによって Lacan が何を言わんとしているのかについては,なおも問い続けねばなりません).

第二に,Lacan が science と言うときに問題にするのは,1965年12月01日に行われた Séminaire XIII の初回講義で読み上げられ,Ecrits のなかに最後のテクストとして収録されている書 La science et la vérité [科学と真理]において「絶対的」と呼ばれている science [科学,学知]です.

すなわち,Descartes の cogito によってその可能性において誕生した科学の言説の構造に,その後の現代史のなかで,或る決定的な変化 [ mutation décisive ] が起こります : « cette mutation décisive [...] par la voie de la physique a fondé La science au sens moderne, sens qui se pose comme absolu » [その決定的な変化は,物理学の道によって,現代的な意味  「絶対的」として措定される意味  における La science を基礎づける] (Ecrits, p.855). 

Lacan がそこで science に付す定冠詞を大文字とイタリック体で二重に強調しているのは,現代的な意味における science が絶対的なものであることを示唆するためです.

La science absolue. この表現は,Hegel の Phänomenologie des Geistes の完成としての das absolute Wissen [絶対知]に準拠しています.周知のように,Hegel はその著作を System der Wissenschaft [学知の体系]の第一部として構想しました.

現代において絶対的なものと見なされる科学.それは,存在の真理の保証として機能しています.すなわち,科学的に分析され総合され得るものだけが真なる存在事象である.勿論,現実には科学的に未解明の存在事象も少なからずありますが,それは技術的な事情による制限のせいにすぎません.或るものが真なる存在事象であるのは,原理的に言って,それが科学的に分析され総合され得る限りにおいてです.

現代において絶対知としてふるまう科学.その構造を形式化するのが,大学の言説です.Hegel の Phänomenologie des Geistes は,まさに大学の言説の構造において展開されます.

そも,『科学と真理』において Lacan は,主体の分裂 [ la division du sujet ] を「知と真理との間の分裂」 [ la division entre le savoir et la vérité ] (Ecrits, p.856) と規定しますが,この「知と真理との間の分裂」は,明らかに,Phänomenologie des Geistes の Vorrede [序文]の一節において Hegel が用いている Trennung des Wissens und der Wahrheit [知と真理との分裂]という表現に準拠しています.

そこにおいて Hegel はこう言っています:「無媒介性という抽象的な要素と,知と真理との分裂は,超克される.それを以て精神の現象学は終結する」 [ das abstrakte Element der Unmittelbarkeit und der Trennung des Wissens und der Wahrheit ist überwunden. (...) Hiermit beschließt sich die Phänomenologie des Geistes ].

Lacan は,Séminaire XIII の第二回目と第三回目の講義において,この図を提示しています:




この図は,Séminaire XI で提示された aliénation [異状]の図の variation です.左の領域 V は vérité [真理], 右の領域 Sc. は science [科学,学知]ないし savoir [知], 中央の intersection の領域は,客体 a の領域です.


そして Lacan は,中央の intersection の領域について,こう言っています:「客体 a の欠如の穴」[ le trou du manque de l’objet a ].

そのような構造を存在の真理の topologie において見るなら,


客体 a の穴は S(Ⱥ) の穴であり,それは,四つの言説においては右上の「他者の座」に相当します.大学の言説においては,確かに,a が他者の座に位置しています:


四つの言説については誰もがこう思念しているでしょう:四つの言説の構造は,1960年の『主体のくつがえし』において提示されている命題:「ひとつの徴示素 S1 が,もうひとつのほかの徴示素 S2 に対して,主体 $ を代表する」から,支配者の言説が直接的に導かれることによって,着想されたに違いない.


ところが,以上に見たように,そうではありません.四つの言説は,むしろ,精神分析を科学との関係において問うことにおいて明らかとなってきた大学の言説の構造  学知としての科学が支配者の座に位置する大学の言説の構造  を経由して,公式化されるに至ったのです.

ところで,現代において支配的であるのは,科学だけではありません.資本主義が全世界に君臨しています.

現代社会の支配構造を成す科学の言説と資本の言説の複合体を,Heidegger は Ge-Stell [総召集体制]と名づけます.Ge-Stell は,このように規定される存在構造です:すなわち,そこにおいては,科学によって分析され総合され得,かつ,資本の増殖のために召集され得るもののみが,存在事象である.

Lacan は,Séminaire XVI において,Marx の剰余価値の概念にもとづいて,客体 a を plus-de-jouir [剰余悦]と規定し直します.そして,それによって,資本主義の本質について思考しようとします.

四つの言説によって,Lacan は,現代社会における科学の言説と資本の言説の支配を批判しつつ,精神分析の言説による Ge-Stell と nihilisme の超克の可能性を問うて行くことになります.

0 件のコメント:

コメントを投稿