Le séminaire XVII L'envers de la psychanalyse, le chapitre IV : Vérité, soeur de la jouissance
セミネール XVII 『精神分析の裏』 第 4 章 : 真理 – 悦の姉妹
真理と悦との関繋について,Lacan は簡潔に公式化しています (Séminaire XVII, p.76) :
la vérité comme en dehors du discours, c'est la soeur de la jouissance interdite.
[言説の外に位置づけられるものとしての真理は,禁止された悦の姉妹である.]
「言説の外に位置づけられるものとしての真理」と Lacan は言っていますが,この「外」は,単純な外ではありません.そうではなく,真理の座は localité ex-sistente [解脱実存的な在処]です.
上の存在論的トポロジーの図で言うと,Möbius strip の曲面が真理の座であり,そこに位置づけられるのが「禁止された悦」です.
Lacan は,オィディプス複合の概念にならって「禁止された悦」と言っていますが,「性関係は無い」の観点から言えば,それは「不可能な悦」です.
ところで,真理に関しては,その二重性に注意を払う必要があります.
Heidegger は,ギリシャ語で言う真理,ἀλήθεια とは Unverborgenheit [隠されていないこと,非秘匿性]のことである,とたびたび強調します.それは,Lichtung [朗場]の開かれた明るみそのものです.それは,Lacan の RSI の三位においては,穴としての徴在の位に相当します.
しかし,真理は非秘匿性にだけ還元されません.其こから真理が非秘匿性へと自身を示現するところの秘匿性 [ Verborgenheit ] をも,真理の本有として思考しなければなりません.
Heidegger によれば,Platon に始まる形而上学が Nihilismus へ行き着かざるを得なかったのは,この秘匿性を忘却してしまったからです.秘匿性における真理こそ,解脱実存的な Seyn としての存在の真理にほかならないからです.
あるいは,むしろ,秘匿性としての存在の真理から出発してこそ,真理の穴,すなわち Lichtung が,そのものとして見えてきます.
というのも,穴としての Lichtung は,Platon の ἰδέα により塞がれてしまったからです.
Platon が ἰδέα を ὄντως ὄν, das Seiendste des Seienden, 存在事象のうち最も存在事象的なものとして措定したとき,以後の形而上学の歴史において,存在の在処の解脱実存性がうがつ Lichtung の穴は完全に塞がれてしまいました.
Lichtung の穴は,ところが,哲学の領域とは直接関連の無い領域で再発見されます : Freud による無意識の発見とは,Lichtung の穴の再発見にほかなりません.
勿論,Freud 自身はそのことに気づかぬままでした.そして,もし仮に Lacan がそのことに気がつかなかったなら,誰も気づかないままとなっていたでしょう.
第 4 章の解説は別稿でさらに続けます.
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