Le séminaire XVII L'envers de la psychanalyse, chapitre III : Savoir, moyen de jouissance
セミネール XVII 『精神分析の裏』,第 III 章 「知 – 悦の手段」
1970年01月14日,新年の最初の講義の冒頭で,Lacan は,Anika Lemaire の Louvain 大学での博士論文に基づく著作 Jacques Lacan のための序文を前年のクリスマスに書いたことを受けて,1960年に Henri Ey の主催により Bonneval で行われた学会での Jean Laplanche と Serge Leclaire の発表について批判的な論評をしています.
特に,Laplanche が「無意識は言語の条件である」という命題を提示したのに対し,Lacan は訂正して,「言語は無意識の条件である」と述べます.
Freud が Trieb [本能]に生物学的なものを見ていたことを理由にして,Laplanche は,無意識を生物学的に根拠づけられたものと想定しています.そして,無意識は,言語の生物学的な条件を成すものと関連している,と考えています.
それに対して Lacan は,生物学的な先入観を排し,言語の構造こそが第一次的なものであることを強調します.
ただし,我々は,Lacan の言う「言語の構造」を,単に Saussure の言う言語学的な signifiant / signifié の構造とは見なさず,而して,実在,徴在,影在の三位構造 (la triade du réel, du symbolique et de l'imaginaire) としての存在論的なトポロジー構造と考えます:
Lacan が position [位置]という語を用いるとき,それは単に「立場」とか「態勢」ではなく,而して,position という語を以て存在論的トポロジーにおける topos [場所,場処,在処]について思考することがかかわっています.
そして Lacan は,position du psychanalyste [精神分析家の位置]に関する問いを,精神分析家の言説の構造に関する問いとして展開します.
分析家の言説において,「分析家の位置は,客体 a により実体的に成されている」:
ただし,「この客体 a は,まさに,言説の諸効果のうち,最も不透明なもの,本質的でありながらもとても長い間失認されてきたものとして提示されるものを差し徴している.かかわっているのは,棄却効果であるところの[支配者の]言説の効果である」.
そも,客体 a が棄却効果として位置づけられるのは,支配者の言説においてです:
Lacan が effet de rejet [棄却効果]と呼ぶのは,Freud が Verdrängung [排斥]と呼んだものです.
支配者の言説は,排斥の言説です.排斥されるもの a は,右下の生産の座へ位置づけられます.
排斥には,悦の喪失が伴います.そも,排斥とは,禁止された悦を排し除けることです.
ここで,喪失の問題を,Lacan は,熱力学における entropy の概念と,経済学における剰余価値の概念との関連において,思考します.
entropy は,物理学的な意味における work [仕事]に伴うエネルギーの喪失を表します.Lacan はこの例を挙げています : 80 kg の質料を高さ 500 m のところから担ぎ下ろし,次いで,再び出発点へ担ぎ上げたとする.物理学的な意味においては,為された仕事はゼロです.しかし,そこには当然,エネルギーの喪失があります.そのような喪失を定量化するのが entropy です.
剰余価値は,資本主義体制において,商品としての労働力の売買に伴う喪失です.そこにおいて労働者 S2 が失った剰余価値 a は,資本家の欲望 $ の方でもそれを悦することはなく,而して,資本の自己増殖のために,徴示素の宝庫(左上の座)としての市場に対して解脱実存的 [ ex-sistent ] である生産の座(右下の座)に蓄積されて行きます.
蓄積された資本は,次いで再投資され,労働者 S2 によって商品 a が形成されます.この事態は,分析家の言説の構造において成起します:
この過程は,Hegel の Phänomenologie des Geistes の「自己意識の独立性と非独立性;支配者と奴隷」の節において詳しく分析されています.
労働する知 [ le savoir travaillant ] としての奴隷または労働者 S2 は,絶対的な支配者としての死の座(左下の座)に位置しており,そこにおいて死の恐怖に耐えつつ,労働し,存在事象としての剰余悦 a を形成します.資本主義的市場経済においては,それは商品です.
労働,仕事,作業 [ Arbeit, travail, work ] – そのような経済学的な概念が,なぜ精神分析においてかかわるのか?
なぜなら,Freud が Libido の経済論を論じているからです.
そして,そもそも,無意識においては Arbeit が行われています.
Freud は,Traumdeutung [夢解釈]の第 VI 章において,Traumarbeit [夢を形成する作業,労働]を「無意識的な考えを夢の顕在内容へ変える作業」と定義し,そしてこう言っています:
die Traumarbeit denkt, rechnet, urteilt überhaupt nicht, sondern sie beschränkt sich darauf umzuformen.
夢形成作業は,およそ思考せず,計算せず,判断もせず,而して,変形することだけをしている.
それを踏まえて Lacan は,Télévision (Autres écrits, p.518) において,こう言っています:
on l'évalue comme savoir qui ne pense pas, ni ne calcule, ni ne juge, ce qui ne l'empêche pas de travailler (dans le rêve par exemple). Disons que c'est le travailleur idéal.
無意識は,知として評価されている – 思考せず,計算せず,判断もしない知.そのことは,その知が労働することを妨げない(例えば,夢において).言うなれば,それは理想的な労働者である.
支配者の言説の構造において右下の生産の座へ排斥されていた剰余悦 a を,分析家の言説の構造において左上の代理者の座へ無意識の造形 [ les formations de l'inconscient ] の形に加工して措定する作業(労働)を行う労働者としての知 S2 は,失われていた悦の取り戻しを可能にする,と思念されます.
その限りにおいて,Lacan は,Séminaire XVII の第 III 章の表題に言われているように,「知は,悦の手段である」と公式化します.
しかし,剰余悦 a は,本来的な十全たる悦を可能にするものではありません.いくら商品を消費しても,欲望が本当に満足することは不可能です.反復は,止むことがありません.欲望の代理者である超自我は,容赦なく「悦せよ!」と命じ続けます.
そもそも,剰余悦の満足に依存する者は,もはや,自態存在としての自己意識の真理を見失っています.
純粋否定性としての自己意識は,商品として形成された剰余悦 a を,悦するのではなく,逆に,拒絶し,破壊します.すなわち:
Nun aber zerstört es dies fremde Negative, setzt sich als ein solches in das Element des Bleibens und wird hierdurch für sich selbst ein Fürsichseiendes.
しかし今や,奉仕する意識[奴隷,労働者]は,この他なる否定的なもの[客体 a]を破壊し,自身を,否定的なもの[純粋欲望]として,存続の座へ措定し,そして,それによって,己れ自身にとって,ひとつの自態的存在事象と成る.
この過程は,精神分析の経験においては,症状の徴示素である剰余悦 a の分離と棄却により,純粋欲望 Ⱥ の穴 S(Ⱥ) がそのものとして成起することに相当します.
この第 III 章の最後に,Lacan は,真理について問うています.Heidegger が Verborgenheit [秘匿性]と規定するような真理です.それは,存在欠如であり,存在忘却であり,破壊不可能な欲望である,と Lacan は示唆しています.そして,Freud が「去勢」と呼んだものは,秘匿性としての「存在の真理」にほかならない,とも.
真理との関連において,Lacan は,精神分析家の機能をこう規定します:真理の座において知を機能させること.ただし,あくまで,仮定されたにすぎない知として.
主体の存在の真理の座に知が仮定されていること – それが,Lacan が sujet supposé savoir [知っていると仮定された主体,知の仮定的主体]と呼んでいるところのものです.
そして,それは,分析家の言説の構造が表していることにほかなりません:
左上の agent [能動者,代理者,代表者]の座に位置する a は,無意識の造形(夢,症状,等々)の徴示素です.それは,存在の真理の座に仮定された知 S2 – 夢に関連して Freud が「夢思考」と呼んだもの – を代表しています.それが,精神分析においてかかわる症状の構造です.
そして,転移において分析家は転移神経症の症状を体現する限りにおいて,症状の構造 a / S2 は,知の仮定的主体として機能する分析家の存在構造でもあります.
分析家の言説において,知は,あくまで,存在の真理の座に仮定されたものにほかなりません.そのような知が実際に既に書かれたものとして現存しているわけではありません.
ですから,Télévision の冒頭において Lacan が強調しているように,真理をすべて言うことは不可能です.真理は半ばしか言われ得ない (la vérité ne peut que se mi-dire) とも Lacan は表現しています.
真理がその半言において自身を示現するようにすること – 精神分析においてかかわる解釈は,それに存します.
Freud の格言 « Wo Es war, soll Ich werden »[何かの在りしところ,我れ成るべし]における「我れ」は,Lacan が一人称において « moi, la vérité, je parle »[我れ – 真理 – は語る]と語らせた真理のことです.
« là où c'était le plus-de-jouir – le jouir de l'autre –, moi, en tant que je profère l'acte psychanalytique, je dois venir ».
剰余悦としての a の在ったところに,精神分析的行為を表言する者としての我れ Ⱥ が成り来るべし.
そのためには,分析家の言説において代理者の座に位置している a が,解釈の作用によって分離され,棄却されて,Lichtung [朗場]としての穴 S(Ⱥ) がそのものとして顕わにならねばなりません.
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